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幻水その他

 盲目の魔女が住まう塔の頂上には、いつも静かな風が吹いている。
 風を生み出しているのは、魔女の弟子であるひとりの少年。顔立ちの整った美しい少年は、常人ならざる魔力をその身に秘め、この世界の根源とされる「二十七の真なる紋章」のうちのひとつ、「真なる風の紋章」を宿している。ひねくれた性格は玉にきずだが、瞳に宿る光は透明で、無垢なものだった。
 私は、その少年のために魔女が創造したロッド。少年を主とし、共に過ごしてきた一本のロッドである。
 創られたその日から、私は常に少年と共に在った。厳しい修行の日々の中でも、大きな戦いに身を投じたそのときも、片時も離れることなく、少年の膨大な魔力を風の刃に変えてきた。――そして、その刃で多くの命を切り裂いた。
 この世界では戦の火種が各地で燻っている。火種はときに激しく燃え上がり、戦乱の渦が巻き起こった。領地の侵略、破壊と混沌の渇望、真なる紋章の争奪――。理由はさまざまだが、人と人の争いは絶えずどこかで続いている。
 戦のあとに残るのは、いつも夥しい亡骸の山と焼け野原。その中には少年と私が切り裂いたものも、数多い。
 少年の抜きん出た魔力は属する軍の中でいつも重宝され、軍の主戦力として戦況を優位に導いた。風を巻き起こし、唸らせ、切り裂く。命も、草木も、大地でさえも、進軍を阻むものは容赦なく、悉く切り刻んだ。

 そうして戦いを重ねていくにつれて、少年の瞳は濁っていった。勝利を手にし、仲間たちが勝鬨を上げて喜ぶ中でも、彼は荒れ果てた戦場の中で虚ろに立ち尽くしていた。
 最初は違った。ソウルイーターを宿す少年を将とした戦いのときは、日頃は抑え込んでいる魔力を解放できる喜びが何よりも勝っていた。少年の無邪気な歓喜が、魔力と共に私に流れ込んできたことを今でもよく覚えている。同時に、私自身にも高揚が迸り、刃の鋭さもより切れ味を増していたように思う。変わってしまったのは、二回目の戦いからだ。
 盾の紋章を宿す少年が軍を率いる戦いの中で、彼の魔力の中には微量のノイズが混じるようになった。風の威力にこそ影響は及ばなかったが、そのノイズはごく小さな粒子として私の中に貼りついた。ノイズの数は戦いを重ねる度に増していき、敵の本拠に乗り込む頃には重みなど感じないはずの私のどこかが、小さく錆びついて鈍くなったような感覚に襲われた。
 少年が夜に魘されるようになったのも、この頃からだ。何か、酷く辛い夢を見ているらしく、汗だくで目覚めた彼が夜な夜な嘔吐することも、一度や二度ではなかった。
 少年はそんな変化を誰に相談することもなく、本拠地の石板の前で佇み続けた。初めの戦いのときから、己が使命として立ち続ける少年の美しい顔は憂いに染まり、どこか遠くを見据えるようになった。そんな少年の変化を察知する者もいたが、彼が真実を口にすることはなかった。
 少しずつ少年が変わりゆく中、私は変わらず彼の武器であり続けた。少年の憂いと嘆きをその身に積もらせながら、ひたすらに魔力を刃に換え、名も知らない命を刻んだ。言葉で語りかける力を持たない私にとって、それが、彼のためにできるただひとつのことだった。誰かを刻むのは、少年の魔力であり、この私でもあるのだと、ぼんやりと考えるようになっていた。
 ――そう、十五年ほど前までは。

 戦から遠ざかって久しいある日、彼は唐突に私を手に取ったかと思うと、塔の奥にある物置に立てかけた。創られてこの方、こんな場所に置かれたことなどない。立てかけた私を見下ろす彼は、紋章の呪いにより齢三十を過ぎても美しい少年のままだったが、瞳はすっかり昏く染まってしまっている。
 指先で、静かに触れられる。伝導する魔力はいつもと変わらず膨大だが、入り混じるノイズはこれまでとは比べものにならないほどの濃さだった。
 しばし私に触れていた少年は、やがて踵を返し、倉庫を後にした。言葉もなく、何を想っていたのかもわからない。私の中に残ったのは、重苦しい少年のノイズだけだった。
 以来、待てど暮らせど彼は帰ってこない。私もなしに、どこへ行ったのやら。戦うことをやめたのか。――いや、それはないか。どうせ、私以外の武器を携えて戦っているのだろう。恐らくは、彼の人生の中で最も過酷で、最も辛い戦いなのだと推測する。
 そんな戦いに私を置いていくとは、いかにも彼らしい。長らくどんな扱いにも応えてきた私を置き去りにするなど、愚の骨頂だ。
 そんな悪態を吐きながらも、私はひたすらに待ち続けた。待ち続けるほかなかった。塔にはまだ彼が生んだ風が吹き続けている。それは、彼の心の一片がまだこの塔に残っている証。その風を頼りに、私はいつか彼が帰ってくることを信じ、この埃くさい物置で待ち続けた。そうしていなければ、正気を保てそうになかった。

 月日は流れて、半年ほど経ったある日。ようやく物置の扉が開かれた。暗い室内に、灯りの光がうっすらと差し込む。その先に佇んでいたのは少年――ではなく、塔の主である魔女だった。
 魔女は私の元まで歩み寄り、そっと私に触れた。指先からは微かに流れ込む魔力と、言いようのないノイズが含まれていた。
 魔女は閉ざした瞳で私をしばし見つめていたが、やがて私を撫でながら、消え入りそうな声で呟いた。
「……ごめんなさい」
 ひとこと。そのたったひとことだけを告げて、魔女は私から指先を離し、物置を後にした。
 私は悟る。――彼が、死んだ。魔女の指先から流れ込む感情の雑音が、すべてを物語っていた。
 理解した瞬間に、無機質な私の全身から洪水のような想いがあふれ出る。それは、魔力とも呼べない何か。恐らく、誰にも察知することのできない、名もなきエネルギーだ。あの膨大な魔力を持つ魔女でさえも、この濁流のような想いに気付いて戻ってくることはないだろう。
 なんと、なんと愚かな少年だろう。勝手に悩んで、勝手に決意して、勝手に置いて行った。どうして、最後まで共に居させてくれなかったのか。これでも、武器なりに相棒と想うくらいには、君を慕っているつもりなのに。君が何を思い、次は何を切り裂くつもりだったのかはわからない。だけど、もし君が世界の大半を敵に回すようなことをしでかそうとしていたとしても、私は構わなかったんだ。君が望むなら、かつて仲間だった者を切り裂くことだって造作もない。だって、私は君の武器だから。君が戦うと決めた敵が、私の敵なんだ。それだけの簡単な話だったのに。
 本当に、君はばかだよ。こんなたかがロッドなんかに、どんな情を持ってしまったっていうんだい。ねえ、なんとか言いなよ――ルック。こんなに私がばかにしているのだから、反論のひとつもしに来てみればいいじゃないか。「君なんて使えない棒っきれだから置いて行っただけだよ」なんて、憎まれ口を叩けばいいだろう。――ねえ、ルック――。

 薄暗い物置で、ウィンドロッドは音もなく嘆く。持ち主と、その主人が流し込んだノイズを抱えながら、いつまでも、いつまでも主の名を呼び続けた。

 不意に、天高くそびえる塔に絡みつくように流れていた風が、ひゅうっと寂しげな音を立てて止まる。
 それが、ウィンドロッドの聞いた最後の風だった。あとに残るのは、静寂の星々のみ。
 ふと、その中のひとつが、きらりと小さく明滅する。それは、何かに別れと懺悔を告げるような、淡く、柔らかな薄緑の光だった。
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