幻水その他
塔の最上階の一室から、やけに明るい夜空を眺めた。
開け放った質素なつくりの窓からは、宵闇の空と月を拝むことができた。
見事な満月だった。ぽっかりとたたずむ巨大な円は白色の光を放ち、暗色の空をまばゆく照らし出す。既に夜も更けきっているというのに、周辺は昼のように明るい。
あたたかく世界を包む陽光とは異なり、月は濁りのない静謐な白で世界を照らす。
椅子に腰かけ、テーブルに肩肘を突いてその光を見据えた。
月光は神秘的でありながらも、自分の内側に不愉快なざわめきを与えてくる。
神聖で、それゆえにどこか無機質な白。
それは、ここのところ連日に観る白昼夢に大層よく似ていた。
「ルック様、きれいな月ですね」
窓の枠に小さな手をちょこんと添え、身を乗り出して月を眺めていた少女――セラは、控えめながらも声に乗せて弾ませて振り向いた。
「……あぁ、そうだね」
この少女をハルモニアから魔術師の塔へと連れ出して既にはや半年。当初は表情ひとつ変えることのなかったセラは、少しずつだが感情を形にして表すようになった。背も、半年前より少し伸びて、確実な成長を見せている。
当り前に成長し、変化していく少女は、己が見る無機質な白と宵闇の黒の中で、どこか違う存在に色づいて見えた。
――こうして世界を色で切り分けて見るようになったのは、いつからだろう。
思い出すのも億劫なほど、それは自分の癖のようになっている。
モノクロの中で色づいて映るモノ。焦がれて見つめ続けていても、いつかはそれすら色褪せて落胆する。
そんな日々を、送り続けてきた。
「……バカらしい」
嫌悪感たっぷりに言葉を吐き出して、ルックはゆっくりと椅子から腰を上げた。
「セラ、そろそろ寝る時間だ」
「え……でも」
「寝坊をしてレックナート様に叱られてもしらないよ」
「……はい。わかりました」
セラはしょんぼりとうつむき、こくりと頷く。
その仕草にチクリとした痛みを訴えるのは、良心というやつなのか。そんなものが自分にあるとも思えないが、居心地の悪い感覚を律し、窓を閉ざそうと扉に手を伸ばす。
「……ん?」
扉を閉じかけたそのとき、夜空に月とは別の何かが浮かんでいるのが目に止まる。
月を背に象られたシルエットは、人の形を成している。
しかし、それは人間に近くも、どこか違う気配を放っていた。
銀の髪に寒色の衣を纏う少女。
その瞳は、血のように赤い。
「久しぶりよのう、ルック」
ゆっくりと宙を漂いながら窓際まで迫ってきた少女は、落ち着き払ったトーンの声で笑む。
「……何か用かい、シエラ」
「その生意気な言い草は変わらぬな、小僧よ」
シエラ・ミケーネ。吸血鬼一族の始祖であり、この目障りな光を放つ月の力を手に宿す者。
一年前の戦で縁を持ったが、さほど深い話をしたわけでもない。
彼女が真なる紋章の宿主であることは当時から聞き及んでいたし、気配でも察知できた。
それでも、関わりを持つことは避けた。知っていたからこそ、触れたくなかったという節もある。
「……で、本当に何か用なわけ?」
「なに、たまたま近くを通りかかったものだから、顔を出してみたまで」
「ふうん……。でも、こんな夜更けに空から来るなんて、ずいぶん無礼なんじゃない?」
「あいにく、昼はわらわの時間ではないのでな。それに、今宵は月の日。今このときこそ、わらわの力も満ちて安定し、快い」
「相変わらず自己中心的だね」
「おんしに言われるのは心外じゃな」
シエラは赤い目を細め、くすくすと微笑む。それは一見すると可憐な少女の微笑ましい仕草に映るが、口元から覗く小さな牙が、彼女の人ならざる存在感を物語っている。
突然の来訪とその存在感に呑まれてか、セラはぽかんと口を開けて彼女に魅入っていた。
「その幼子は、おんしの妹弟子かえ?」
「……まあ、そんなところ」
「ふうん……。相当な力を持っているようじゃな」
艶めいた瞳に見つめられ、セラは小さな体を緊張させる。
しかし、敵意がないことは理解しているのか、シエラから視線を外そうとはしない。
「……ねえ、ちょっと聞きたいんだけど」
「なんじゃ?」
「あなたは、この目障りな光を毎日見ているの」
尋ねられたシエラの顔から、笑みが消えた。
白い光を背負う彼女は、表情を無にし、わずかに目を細める。
「まあ、月こそがこの紋章の源じゃからの」
「嫌にはならないの」
「しばらく離れていたとはいえ、長い付き合いではあるからな」
はぐらかされている。と思った。
彼女はこちらが聞きたいことを理解しながら、気づかないふりをしている。
しかし、あいにくだがそれに乗せられるほど、自分は子供でもなければ、大人でもない。
だから、まっすぐに尋ねた。
「あなたにも見えるんだろう。この光みたいな白と、無音の闇の黒しかない世界の未来が」
シエラは表情ひとつ変えず、こちらを見据えている。
二度、三度と瞬きする赤い瞳が、静かに揺れた。
「……そうさな、好きか嫌いかと問われたら、答えには困る。だが、あれはひとつの可能性に過ぎぬ」
「そう言える証拠はあるの」
そう訊いたところで、シエラは口元をゆっくりカーブさせて笑んだ。
「未来のことはわらわにもわからぬ。だがな、八百年も生きると気長に世を見てみようという気にもなるものじゃ」
「……答えになってないよ」
「では、言い替えるとしよう。――ルック、世界は変幻自在じゃ。生き続けていれば、見えるものもあろう」
その言葉と共に、シエラは微笑と呼ぶにはあまりに薄い笑みを浮かべた。
次の瞬間、彼女は夜空の中を泳ぐようにくるりと身を翻らせ、そのまま夜の闇に溶けた。
「どうか早まるでないぞ、若人よ」
夜空から降ってきた声は、彼女の声にしては少しばかり柔らかい。
そう感じたのとほぼ同時に、無機質な白の光が、寂しげな青白い色に変わった。
それは、恐らく彼女の心。
八百年の中で育った、彼女の心の色そのものなのだろう。
「……好きになれない光だ」
つぶやいたルックは、それでも、しばらく青い光を放つ月から目を離せずにいた。
胸の中でちりちりとした痛みが、広がった。
開け放った質素なつくりの窓からは、宵闇の空と月を拝むことができた。
見事な満月だった。ぽっかりとたたずむ巨大な円は白色の光を放ち、暗色の空をまばゆく照らし出す。既に夜も更けきっているというのに、周辺は昼のように明るい。
あたたかく世界を包む陽光とは異なり、月は濁りのない静謐な白で世界を照らす。
椅子に腰かけ、テーブルに肩肘を突いてその光を見据えた。
月光は神秘的でありながらも、自分の内側に不愉快なざわめきを与えてくる。
神聖で、それゆえにどこか無機質な白。
それは、ここのところ連日に観る白昼夢に大層よく似ていた。
「ルック様、きれいな月ですね」
窓の枠に小さな手をちょこんと添え、身を乗り出して月を眺めていた少女――セラは、控えめながらも声に乗せて弾ませて振り向いた。
「……あぁ、そうだね」
この少女をハルモニアから魔術師の塔へと連れ出して既にはや半年。当初は表情ひとつ変えることのなかったセラは、少しずつだが感情を形にして表すようになった。背も、半年前より少し伸びて、確実な成長を見せている。
当り前に成長し、変化していく少女は、己が見る無機質な白と宵闇の黒の中で、どこか違う存在に色づいて見えた。
――こうして世界を色で切り分けて見るようになったのは、いつからだろう。
思い出すのも億劫なほど、それは自分の癖のようになっている。
モノクロの中で色づいて映るモノ。焦がれて見つめ続けていても、いつかはそれすら色褪せて落胆する。
そんな日々を、送り続けてきた。
「……バカらしい」
嫌悪感たっぷりに言葉を吐き出して、ルックはゆっくりと椅子から腰を上げた。
「セラ、そろそろ寝る時間だ」
「え……でも」
「寝坊をしてレックナート様に叱られてもしらないよ」
「……はい。わかりました」
セラはしょんぼりとうつむき、こくりと頷く。
その仕草にチクリとした痛みを訴えるのは、良心というやつなのか。そんなものが自分にあるとも思えないが、居心地の悪い感覚を律し、窓を閉ざそうと扉に手を伸ばす。
「……ん?」
扉を閉じかけたそのとき、夜空に月とは別の何かが浮かんでいるのが目に止まる。
月を背に象られたシルエットは、人の形を成している。
しかし、それは人間に近くも、どこか違う気配を放っていた。
銀の髪に寒色の衣を纏う少女。
その瞳は、血のように赤い。
「久しぶりよのう、ルック」
ゆっくりと宙を漂いながら窓際まで迫ってきた少女は、落ち着き払ったトーンの声で笑む。
「……何か用かい、シエラ」
「その生意気な言い草は変わらぬな、小僧よ」
シエラ・ミケーネ。吸血鬼一族の始祖であり、この目障りな光を放つ月の力を手に宿す者。
一年前の戦で縁を持ったが、さほど深い話をしたわけでもない。
彼女が真なる紋章の宿主であることは当時から聞き及んでいたし、気配でも察知できた。
それでも、関わりを持つことは避けた。知っていたからこそ、触れたくなかったという節もある。
「……で、本当に何か用なわけ?」
「なに、たまたま近くを通りかかったものだから、顔を出してみたまで」
「ふうん……。でも、こんな夜更けに空から来るなんて、ずいぶん無礼なんじゃない?」
「あいにく、昼はわらわの時間ではないのでな。それに、今宵は月の日。今このときこそ、わらわの力も満ちて安定し、快い」
「相変わらず自己中心的だね」
「おんしに言われるのは心外じゃな」
シエラは赤い目を細め、くすくすと微笑む。それは一見すると可憐な少女の微笑ましい仕草に映るが、口元から覗く小さな牙が、彼女の人ならざる存在感を物語っている。
突然の来訪とその存在感に呑まれてか、セラはぽかんと口を開けて彼女に魅入っていた。
「その幼子は、おんしの妹弟子かえ?」
「……まあ、そんなところ」
「ふうん……。相当な力を持っているようじゃな」
艶めいた瞳に見つめられ、セラは小さな体を緊張させる。
しかし、敵意がないことは理解しているのか、シエラから視線を外そうとはしない。
「……ねえ、ちょっと聞きたいんだけど」
「なんじゃ?」
「あなたは、この目障りな光を毎日見ているの」
尋ねられたシエラの顔から、笑みが消えた。
白い光を背負う彼女は、表情を無にし、わずかに目を細める。
「まあ、月こそがこの紋章の源じゃからの」
「嫌にはならないの」
「しばらく離れていたとはいえ、長い付き合いではあるからな」
はぐらかされている。と思った。
彼女はこちらが聞きたいことを理解しながら、気づかないふりをしている。
しかし、あいにくだがそれに乗せられるほど、自分は子供でもなければ、大人でもない。
だから、まっすぐに尋ねた。
「あなたにも見えるんだろう。この光みたいな白と、無音の闇の黒しかない世界の未来が」
シエラは表情ひとつ変えず、こちらを見据えている。
二度、三度と瞬きする赤い瞳が、静かに揺れた。
「……そうさな、好きか嫌いかと問われたら、答えには困る。だが、あれはひとつの可能性に過ぎぬ」
「そう言える証拠はあるの」
そう訊いたところで、シエラは口元をゆっくりカーブさせて笑んだ。
「未来のことはわらわにもわからぬ。だがな、八百年も生きると気長に世を見てみようという気にもなるものじゃ」
「……答えになってないよ」
「では、言い替えるとしよう。――ルック、世界は変幻自在じゃ。生き続けていれば、見えるものもあろう」
その言葉と共に、シエラは微笑と呼ぶにはあまりに薄い笑みを浮かべた。
次の瞬間、彼女は夜空の中を泳ぐようにくるりと身を翻らせ、そのまま夜の闇に溶けた。
「どうか早まるでないぞ、若人よ」
夜空から降ってきた声は、彼女の声にしては少しばかり柔らかい。
そう感じたのとほぼ同時に、無機質な白の光が、寂しげな青白い色に変わった。
それは、恐らく彼女の心。
八百年の中で育った、彼女の心の色そのものなのだろう。
「……好きになれない光だ」
つぶやいたルックは、それでも、しばらく青い光を放つ月から目を離せずにいた。
胸の中でちりちりとした痛みが、広がった。