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幻水その他

 ――帰る場所は、要らないと思っていた。老いを止めるこの紋章を宿した自分は、ほかの者たちと同じ年を重ねることはできない。それが存外きついものだと感じたのは、紋章を宿して二十年ほど経った頃だっただろうか。苛烈な戦いを切り抜けてきた戦友たちがひとり、またひとりと老いや病に倒れてこの世を去り「置いていかれる」という感覚を知った。戦場で斃れて別れるのとはまた違う喪失感は、ことのほか重く体に残り、内側から己を蝕む。参る墓も増え続け、剣よりも供える花を持つ方が多いような錯覚すら覚え始めていた。
 ――このままでは、いずれ心が耐えられなくなる。そう危機感を覚えて仲間たちの元を去り、放浪の旅に出た。誰とも関わらず、ひとりで生きてゆけばすり減らすこともなくなる。もともと自由奔放な性分だ。生きるに困ることはないだろう。
 そもそも群れるきっかけとなったあの戦いだって、あの男の熱に焚きつけられた勢いに任せて関わったのが始まりで、この呪いを手にしたのも後先を考えない衝動的な選択に過ぎなかった。そうして気付けばかけがいのない仲間は増え続け、共に生きる喜びも失う苦しみも数えきれないほど味わい続けた。そんなのは、もううんざりだ。だから、あいつらに出会う前の元来の自分に戻れば良い。紋章以外の荷をすべて下ろして、自由になれば良い――。

「おとうさま!」
 家の門を開けて庭先に足を踏み入れると同時に、家の扉が開き、幼子の快活な声が響いた。
 ほぼ反射的にその場にしゃがんで両手を広げると、たたたっと小刻みに駆けてきた少女は迷うことなく一目散に飛び込んできた。
「おかえりなさい!」
「ああ、ただいま。いい子にしてたか?」
「うんっ!今日はね、おかあさまに本を読んでもらったの!」
 ぎゅっと抱きしめると、愛しいぬくもりが広がった。
 ――すべてを捨ててひとりで生きれば良い。思っても、自分は「帰る場所」を作ってしまった。「誰かと生きること」の喜びを知ってしまった己には、いつ終わるとも知れない生をひとりで過ごすことなど、到底無理だった。失う苦しみよりもひとりで生きる寂しさが勝ってしまった。最初から自覚があったわけではないが、そう実感してしまったのは――
「おかえりなさい、ワイアット」
 我が子を抱き上げて立ち上がると、開け放たれたドアからもうひとり人影が現れる。
 白銀の長い髪と瑠璃色の瞳を持つ愛しき人は、慈愛の笑みを他の誰でもない自分に向けて浮かべてくれている。家に帰り、妻と娘に迎えられる。それはもう何度とも繰り返していることなのに、筆舌にしがたい喜びをその都度、与えてくれた。
 ――ふたりともきっといつか先にいなくなってしまう。そう思っていても、とても手放す気になどなれないほどの幸福が、今ここにある。今は、それでいい。
「ただいま、アンナ」
 愛する人の名を呼ぶ喜びを嚙みしめながら、ワイアットは万感の想いを込めた笑みを妻と子に向け、家の中へと消えて行った。
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