幻水その他
「よいしょっ……と」
小さなひと声と共に、抱えていた大きな木箱を地面に下ろす。
箱を見下ろすと甘酸っぱくもさわやかな香りが鼻をくすぐる。箱にあふれんばかりに詰め込まれているのは、獲れたてのオレンジ。この時期のグラスランドでは見かけない果実だ。
「ひぃ……ひぃ……うぅ……」
ほとんど消えてしまいそうなうめき声を背に受け、フッチは視線をオレンジから背後へと転じた。
振り向いた先には、自分が抱えていたものより半分ほど小さいサイズの木箱を抱えた少年。おぼつかない足取りでよろよろと歩く姿は頼りなげで、フッチは苦笑しつつ少年の向かいに立ち、その箱を引き受けた。
「あ、ご、ごめんなさいフッチさん……」
「構わないよ」と微笑んで、受けた木箱を先ほど自分が置いた木箱の横に並べ置く。眼前にはビュッデヒュッケ城が誇る湖畔のレストラン。カウンターの向こうで仕込みに励んでいた若いコックの少女と数人の店員たちは、荷物の到着に気付くと足早に表れ、軽く礼を述べて木箱を運んで行った。本日のレストランには、多種多様なオレンジを使った料理やデザートがメニューに名を連ねることだろう。
「ふぅ……ありがとうございます。助かりました」
上がる息をなんとか整えながら、少年――ビュッデヒュッケ城城主のトーマスがぺこりと頭を下げて礼を述べる。
「気にすることはないよ。この城で世話になっている身なんだ。このくらいの手伝いはさせて欲しいくらいさ」
「でも、フッチさんは大事な戦力ですし、戦いの前にこんな力仕事させてしまうなんて……」
「ははは、大丈夫。重い荷物を運ぶのもトレーニングになるからね」
「そ、そうですか……」
「フッチさんはすごいなあ」と感服した様子で、トーマスは息を吐く。その体躯は同世代の少年の中ではほっそりとしているが、彼の主戦場がどこであるかを思えば、標準的なものと思える。
「ところで、どうしてあんなにたくさんのオレンジを?」
尋ねると、トーマスは「はは」と短い苦笑を浮かべた。
――フッチが彼を目撃したのはほんの五分ほど前。ブライトの食料調達のためにレストランへ向かおうとしていたところ、ビュッデヒュッケ城の前で大量のオレンジの木箱を前に肩を落とす城主が目に留まり。致し方ない、といった様子で彼が箱を運ぼうとしたところで、声をかけた次第だ。
「オレンジは炎の運び手のことを聞きつけた行商人さんが差し入れでオレンジを持ってきてくれたらしいんです」
「らしい?」
「えーっと、対応したのはたまたま城の前を歩いていたダッククランの方で。僕が声をかけたら、そのまま荷物も引き受けることになったんです」
「つまりは、押し付けられたってことかい?」
「はは、そうとも言うかもしれませんね……」
頭をかきながら力なく笑う城主に、フッチは何とも言えない笑みを浮かべる。
「トーマス君は本当にお人好しだね」
「え、そうでしょうか?」
「うん。城を束ねる人間が、住民に頼まれごとをされるなんてあまり聞いたことがないよ」
「うーん。そうかも、しれませんね。――でも」
「でも?」
「僕がこの城に来た頃は、人もほとんどいなくて、自分の部屋は自分で掃除するのがルールで――あ、これは今もですけど。そんな風に、城主や住人なんて関係なく一緒に暮らしてお城を守ってきたんです。だから――」
「だから?」
フッチが続きを促すように返すと、トーマスは額に滲む汗を袖で拭いながら、面を上げた。
「――重いものを運ぶのが大変なダッククランの人じゃなく、僕が荷物を運ぶのも当然だなと思うんです。そうやって、自分の周りの小さな誰かの困りごとを一緒に解決していくことが、大事なことだと思うから」
真っ直ぐな瞳でそう述べるトーマスは、先ほどまでの頼りなげな少年とは明らかに違った。その瞳に、フッチは息を呑む。光の宿る双眸が、記憶の深いところをくすぐる。懐かしむほどの昔に、同じような言葉を放った「友」。彼もまた、同じ瞳を宿していた。
それで、フッチは深く安堵し、ゆったりと頷いた。
「――ああ、君ならきっと大丈夫だ」
彼も、この城も、この戦いを終えた後も強く、地に足を着けて反映していくだろう。理屈では言い表せない確信があった。「友」のもとにたびたび現れた魔術師の言いそうな言葉で表現するなら「彼がその星のめぐりのもとにいるから」とでも言えようか。
トーマスならば、きっとどんな困難があったとしても、乗り越えていける。強く立ち続けている「彼」のように――。
「トーマス君。飲み物でもごちそうさせてくれないかな」
「え? どうしてですか? それなら僕がお礼でごちそうするところなのに」
「いいんだよ。君みたいな人と何度も出会えるなんて、僕も運が良いと思ってさ」
「え、どういうことですか?」
「ははは、いいんだよ。気にしないで。そうだ、さっそくさっきのオレンジでジュースを作って貰おう。ブライトもオレンジなら食べるかな」
「わ、ちょっと待ってくださいよ、フッチさん!」
軽い足取りでレストランに向かうフッチの心内をまったく読み解けぬまま、トーマスは慌てて後を追う。
周辺には、彼らが運んだオレンジの抜けるような香りが、秋の少し冷えた空気に溶けて心地良く漂っていた。
小さなひと声と共に、抱えていた大きな木箱を地面に下ろす。
箱を見下ろすと甘酸っぱくもさわやかな香りが鼻をくすぐる。箱にあふれんばかりに詰め込まれているのは、獲れたてのオレンジ。この時期のグラスランドでは見かけない果実だ。
「ひぃ……ひぃ……うぅ……」
ほとんど消えてしまいそうなうめき声を背に受け、フッチは視線をオレンジから背後へと転じた。
振り向いた先には、自分が抱えていたものより半分ほど小さいサイズの木箱を抱えた少年。おぼつかない足取りでよろよろと歩く姿は頼りなげで、フッチは苦笑しつつ少年の向かいに立ち、その箱を引き受けた。
「あ、ご、ごめんなさいフッチさん……」
「構わないよ」と微笑んで、受けた木箱を先ほど自分が置いた木箱の横に並べ置く。眼前にはビュッデヒュッケ城が誇る湖畔のレストラン。カウンターの向こうで仕込みに励んでいた若いコックの少女と数人の店員たちは、荷物の到着に気付くと足早に表れ、軽く礼を述べて木箱を運んで行った。本日のレストランには、多種多様なオレンジを使った料理やデザートがメニューに名を連ねることだろう。
「ふぅ……ありがとうございます。助かりました」
上がる息をなんとか整えながら、少年――ビュッデヒュッケ城城主のトーマスがぺこりと頭を下げて礼を述べる。
「気にすることはないよ。この城で世話になっている身なんだ。このくらいの手伝いはさせて欲しいくらいさ」
「でも、フッチさんは大事な戦力ですし、戦いの前にこんな力仕事させてしまうなんて……」
「ははは、大丈夫。重い荷物を運ぶのもトレーニングになるからね」
「そ、そうですか……」
「フッチさんはすごいなあ」と感服した様子で、トーマスは息を吐く。その体躯は同世代の少年の中ではほっそりとしているが、彼の主戦場がどこであるかを思えば、標準的なものと思える。
「ところで、どうしてあんなにたくさんのオレンジを?」
尋ねると、トーマスは「はは」と短い苦笑を浮かべた。
――フッチが彼を目撃したのはほんの五分ほど前。ブライトの食料調達のためにレストランへ向かおうとしていたところ、ビュッデヒュッケ城の前で大量のオレンジの木箱を前に肩を落とす城主が目に留まり。致し方ない、といった様子で彼が箱を運ぼうとしたところで、声をかけた次第だ。
「オレンジは炎の運び手のことを聞きつけた行商人さんが差し入れでオレンジを持ってきてくれたらしいんです」
「らしい?」
「えーっと、対応したのはたまたま城の前を歩いていたダッククランの方で。僕が声をかけたら、そのまま荷物も引き受けることになったんです」
「つまりは、押し付けられたってことかい?」
「はは、そうとも言うかもしれませんね……」
頭をかきながら力なく笑う城主に、フッチは何とも言えない笑みを浮かべる。
「トーマス君は本当にお人好しだね」
「え、そうでしょうか?」
「うん。城を束ねる人間が、住民に頼まれごとをされるなんてあまり聞いたことがないよ」
「うーん。そうかも、しれませんね。――でも」
「でも?」
「僕がこの城に来た頃は、人もほとんどいなくて、自分の部屋は自分で掃除するのがルールで――あ、これは今もですけど。そんな風に、城主や住人なんて関係なく一緒に暮らしてお城を守ってきたんです。だから――」
「だから?」
フッチが続きを促すように返すと、トーマスは額に滲む汗を袖で拭いながら、面を上げた。
「――重いものを運ぶのが大変なダッククランの人じゃなく、僕が荷物を運ぶのも当然だなと思うんです。そうやって、自分の周りの小さな誰かの困りごとを一緒に解決していくことが、大事なことだと思うから」
真っ直ぐな瞳でそう述べるトーマスは、先ほどまでの頼りなげな少年とは明らかに違った。その瞳に、フッチは息を呑む。光の宿る双眸が、記憶の深いところをくすぐる。懐かしむほどの昔に、同じような言葉を放った「友」。彼もまた、同じ瞳を宿していた。
それで、フッチは深く安堵し、ゆったりと頷いた。
「――ああ、君ならきっと大丈夫だ」
彼も、この城も、この戦いを終えた後も強く、地に足を着けて反映していくだろう。理屈では言い表せない確信があった。「友」のもとにたびたび現れた魔術師の言いそうな言葉で表現するなら「彼がその星のめぐりのもとにいるから」とでも言えようか。
トーマスならば、きっとどんな困難があったとしても、乗り越えていける。強く立ち続けている「彼」のように――。
「トーマス君。飲み物でもごちそうさせてくれないかな」
「え? どうしてですか? それなら僕がお礼でごちそうするところなのに」
「いいんだよ。君みたいな人と何度も出会えるなんて、僕も運が良いと思ってさ」
「え、どういうことですか?」
「ははは、いいんだよ。気にしないで。そうだ、さっそくさっきのオレンジでジュースを作って貰おう。ブライトもオレンジなら食べるかな」
「わ、ちょっと待ってくださいよ、フッチさん!」
軽い足取りでレストランに向かうフッチの心内をまったく読み解けぬまま、トーマスは慌てて後を追う。
周辺には、彼らが運んだオレンジの抜けるような香りが、秋の少し冷えた空気に溶けて心地良く漂っていた。