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幻水その他

 ふと、誰かに名前を呼ばれた気がして、まどろみの中にあった意識がかすかに舞い戻る。反射的に開きかけたまぶたはひどく重く、なんとか力を込めて薄目を開くと、刺すような光が一面に広がった。あまりのまぶしさに、もう一度まぶたを閉じる。――いや、まぶしさだけではない。まぶたを開くだけの力が、もうこの体には残っていなかった。
 全身は重く、それを起こしたり、動かしたりするだけの力は寸分もない。もはや、この体は自分のものでありながら、そうではなくなりかけているといっても過言ではない。
 真なる火の紋章を自らの手で手放してから、はや五年。不老から解放されたその体は、力の反動からか急速に老化し、同年代のことをあっという間に追い抜いて衰えて行った。実年齢で数えるならばまだ中年に足を突っ込んだ程度だというのに、見てくれはすっかりよぼよぼの爺さんだ。
 そこに至るまでの五年が長かったのか、短かったのかはわからない。なにせ、真なる紋章を身に着け、自ら封印した人間の前例などどの記録にも残っておらず、比較することができないのだ。この歴史の中で「その選択」をした人間は初めてではないのかもしれないが、少なくとも、歴史の上には存在していない。それは少しばかり爽快な事実だった。
 自らの意志で手にしたものを、自らで手放す。それは、自分の生き方を物語るすべてと断言できる行為だ。
 ありのまま、願うまま、己の意志が命じるままに、俺は生きた。その人生に、悔いはない。人から言わせれば「わがままの自分勝手」だろうが、そのわがままに付き合ってくれた連中が大勢いた。ともに笑い、泣き、怒り、肩を並べ、時に背を預けて戦った。いとしいものを守るために、ただまっすぐに生きて、戦い、守り――喪って、俺はここにいる。
 じくり、ともう感覚のないはずの右手の甲に、熱が走ったような気がした。血が通う熱とはまるで違う、焼けつくような痛み。もう手放してずいぶん経つというのに、そいつはわずかな残り香としてこの手に残った。俺がそれを宿し、人を統べるシンボルとして掲げていたことを忘れさせまいとするかのように、その熱は手の甲で燻り続けた。こうして、もう永い眠りにつこうとする今際の際ですら、この調子だ。執念深いというべきか、人の心など知ることもないほどに無機質というべきか。きっと、それは後者なのだろう。紋章に心を求めることがお門違いだ。
 焼けつく痛みが、やがてその身から消えていく。――いや、実際は消えているわけではない。俺の感覚が、もうなくなっているのだ。そうやけに冷静な分析をしながらも、再び意識は溶けていく。――ああ、眠い。そろそろ、もう、いいだろうか――。
「……ト」
 再び、うっすらと名前を呼ぶ声。遠く、遠くに響くような声だった。しかし、もはやまぶたを開く力すら残っていない。それが本当に誰かが俺を呼ぶ声なのか、眠りの中に漂う幻聴なのか。それすらも――もう、どちらでも良かった。ただ、もう眠くてしかたない。
「スルト」
「――」
 淵に落ちかけた意識を、はっきりとした声が拾い上げる。凛とした、女の声。芯のよく通ったその声は耳慣れた、そして自分が最も愛おしいと想う者の声だった。
 あたたかい手が、右手を包む。まだ熱を持っているかもしれないその手の炎ごと包む指先は細くもしなやかで、強い。自分の好きな、彼女の一部だ。
「……サ、ナ」
 もう残っていない力の一滴を振り絞り、名を呼ぶ。残念ながら、もうまぶたを開く力までは残っていなかったが、声を出せるならば上出来だ。
「なあ、サナ」
「……なに?」
 返す言葉は柔らかく、しかし、少し震えている。――ああ、俺のために泣いてくれているのか。思うと、申し訳ない気持ちよりも、喜びが勝った。
 残された時間はあとわずか。そのなかでどうにか言葉を選び――発した。
「先に、いってる。――ありがとな」
 なんとか思いの丈を口にして、今度こそ――炎の英雄・スルトは静かに息を引き取った。
 左胸に耳を押し当て、最後の鼓動を聞き届けたサナはあふれる涙を拭うこともせず、彼の右手を握る。紋章を手放してもなお、焼けつく熱を宿していたその手はひんやりと冷たい。その感触に安堵するような、やりきれないような思いを抱きながら、サナは安らかに眠るスルトを見下ろした。
 そして、震える声で、告げる。
「ええ……またね。……おやすみなさい、スルト」
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