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幻水その他

 ビュッデヒュッケ城の劇場支配人・ナディールは深く悩んでいた。
 この城には性別・年齢・人種の垣根を超えた人々が多く集っている。彼らは実にユニークだ。ひとつの勢力を打倒すべく集まった者たちではあるものの、その個性は舞台に上がってもなお、色褪せることはない。彼らによって繰り広げられる劇を舞台袖で見守りつつ、ナディールは日々、その刺激に心を震わせていた。
 繰り返しになるが、この城には金の卵がごろごろと転がっている。一流役者顔負けの演技力を持つ者、台本に囚われないアドリブ力を持つ者。そして、舞台に上がるだけで人の目を惹きつける者――。
 彼――バーツもまた、舞台映えする数少ない人間のひとりだ。
「えーと……あなたの目には眠りが訪れ胸は平和に安らぎますよう」
 目の覚めるような美顔、畑仕事で程よく焼けた肌、耳元に心地良く芯の通った低音の声。人――特に女性の心を鷲づかみにする彼のルックスは、舞台の上でこそ本領を発揮する。美青年である必要性がまったくない畑の管理者という職にしておくには、あまりに惜しい逸材だ。
「その眠りにも平和にもなりあなたの傍らにいることが出来たなら……。で、いいんだよな」
 ――しかし。
 明日の本番に向けてのリハーサルを行う彼はその魅力が陰ってしまうほど、気が抜けていた。まったく気持ちの入っていない棒読みのセリフが人の心を動かすことはない。最前列中央の席でリハーサルを眺めていたナディールは、立ち上がってバーツに声をかける。
「バーツさん、セリフを覚えてきてくださったのはありがたいんですが、もう少し心を込めて言ってみて頂けませんか」
「心~?」
 舞台下のナディールを見下ろしながら、バーツは困惑の表情を浮かべる。
「心を込めるって、どうやって?」
「ロミオになりきるのです。いえ、広義的にはロミオでなくとも構いません。……そう、例えば、ジュリエットを自分の愛しい人と置き換えてみてください。様々な障壁を超えて、愛しい人と密やかな逢瀬を重ねる……。そのように想像してみると、気持ちが入りませんか?」
「いや、ぜんっぜん」
 間髪入れずに返ってきた答えに、ナディールは閉口する。
「俺、別に好きな人もいねえし、そういうのに興味もないんだよなあ」
 溜息交じりにこぼれたつぶやきは、これでもかというほどの美青年の口から出たものとは思えない。畑以外のものに興味を示さないと噂には聞いていたが、まさかこれほどまでとは。
 支配人は腕を組んで俯き、必死に思考を回転させる。
 ――彼は間違いなく逸材だ。しかし、このままでは彼の役者としての芽は水も陽光も浴びることなく死滅してしまう。どうにかして天性の素質を引き出すことはできないか。
 ナディールは考える。考えて考えて――そして、ひとつの答えを見出した。
「わかりました、バーツさん」
 ナディールは仮面で覆った顔を上げて、静かに舞台上へと上がる。そして、至って真摯な口調のまま、向き合うバーツに助言を与えた。
「ジュリエットをあなたが大切に育てたトマトに置き換えてみてください」
「!?」
 バーツの表情が一変する。端整な顔には緊張感が迸り、散漫だった彼の意識はナディールに向けて一気に集まってゆく。
「あなたが朝から晩まで片時も目を離さず、丹精込めて育て上げた美しいトマト……。私もいただいたことがありますが、本当に瑞々しくて美味でした」
「だろー!? あんた、話が分かるな。あんな美人はそうそういないぜ」
「ええ、稀に見る美しいトマトだと思います。……では、その麗しいトマトたちがある日すべてもぎ取られてしまったとしたら?」
「なに!?」
「悪しき畑荒らしによってさらわれたトマトたち……。あなたは彼女たちを探して城内を彷徨います」
 ナディールの芝居がかった口調にすっかり取り込まれ、バーツは固唾を飲んで聞き入っている。
「すると、もぎ取られたトマトたちの入った籠が、届きそうで届かない壇上に置かれているではありませんか」
「なんだってそんなところに!」
「大切なトマトたちをそのままにはしておけませんよね?」
「当たり前だ! あいつらの食べ頃は今なんだ! 早く取り戻さないと腐っちまう!」
「その意気です。意を決したあなたは、トマトに向かってぐっと手を伸ばします」
「待ってろ、今すぐそこから助けてやるからな……!」
 乗せられて、完全に世界に入り込んでしまったバーツは、ハリボテのセット上にたたずむジュリエット役に向かってぐっと手を伸ばした。それを見計らい、ナディールは片手にしていた台本を彼の目の前で広げ、すっとその中の一点を指差す。
「では、その愛しいトマトへの想いを込めたまま、この台詞を言ってみてください」
「ああ、ジュリエット! 俺の魂よ!!」
 激情を絞り出すような一声が響き渡る。その後には、熱を孕んだ静寂が広がった。
 この瞬間こそ、至高の時――。
 やはり、彼は本物だ。
 余韻に打ち震えながら、ナディールは歓喜の溜息を漏らした。
「嗚呼、素晴らしい……! 完璧です……! これこそ、私の求めていたあなたの本当の姿!」
「はぁ……はぁ……俺の、トマト……」
 現実と想像が混ざってしまっているのか、バーツは疲れ切った面持ちで呼吸を荒げている。
「これならば、明日は過去最大の舞台となるでしょう! どうか、明日もこの調子でお願いしますね」
「……舞台? あ、あぁ……」
 脱力しきった返事だが、ご満悦のナディールは気に掛けることもない。ただその気持ちを誰かと共有したい一心で、彼はセット上のジュリエット役に訴えかけた。
「リリィ嬢、いかがです。ジュリエット目線から見ても思わずときめいてしまう演技でしたでしょう?」
 同意を求められたティント大統領令嬢は、ピクリと眉を顰め、激怒した。
「ときめくわけないでしょ! 自分がトマトなんかに置き換えられてるって考えたら不愉快でしかないわよ!」
「トマト“なんか”!? おい、トマトをバカにすんじゃねえぞ!」
 ロミオ役とジュリエット役の激しい口論が始まり、支配人は世界に浸って戻って来ないまま、その日のリハーサルは幕を閉じた。
 当然ながら、翌日の本番も散々なものだった。――が、不思議なことに、人入りと収入はそれなりに良好だったという。城内では乳母役のミオ狙いの客のおかげではないかともっぱらの噂だが、真相は定かではない。
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