幻水その他
湖の城の武術指南所。
そこでいつものようにごろりと横になっていた道場主ジョアンの元に、ひとりの少年が現れた。
褐色の肌と色素の薄い金髪。毛先の部分だけが黒く染まっているのが特徴的な少年だ。
「ジョアンさん、少し場所を借りてもいいかな」
「なんだ、またヒューゴか。飽きもせず毎日よく来るなあ。せっかく昼寝でもしようと思ってたところなのに」
「昼寝“でも”って……。ジョアンさん、基本的に朝からずっと寝てるじゃないか」
「朝寝と昼寝は別なんだよ。大違いだ」
「ははは……全然わからないや。ああ、でも今日は寝てても大丈夫だよ。ちょっと俺とジンバで手合せするだけだからさ」
言いながら、ヒューゴは自分の背後に立つ人物を指差した。
「ジンバ……?」
寝転がった体勢のまま、ジョアンは下からヒューゴの指差す人物を見上げた。
その男はヒューゴと同じくカラヤ族の衣服を着た逞しい体つきの青年で、見るからに“戦士”といった風貌だった。
必然的に目が合うと、男は目を細めて笑んで見せる。
その表情には、どこか余裕めいた雰囲気があった。血気盛んな人間が目立つカラヤ族の中では、珍しく落ち着いた印象を感じさせる。
それが、ジョアンが抱いた最初の感想だった。
「初めて見る顔だな」
「ああ、ちょっと前にここに合流したんだ。俺の兄貴分みたいな人さ」
「ふーん……。ま、いいや。好きに使いな」
大きなあくびをひとつしながら指南所の使用を認めると、ヒューゴは快活な口調で礼を述べて準備運動を始めた。
それから間もなくして、剣の打ち合う激しい音が響き始めた。
――つい数週間ほど前までは犬の寝息すら聞き取れるほど静かだったこの城も、さまざまな事情で今ではグラスランド・ゼクセンの連合軍である『炎の運び手』の本拠地だ。
人の往来はこれまでの数百倍に膨れ上がり、必然的に騒がしくなった。
宝くじ屋のマーサや占い師のピッコロあたりはカモ……否、客が増えたことを大いに喜んでいるが、こっちとしては騒音で貴重な睡眠を妨げられるのだからたまらない。
「寝てても大丈夫って言ったってな……」
吐き出したぼやきも、剣同士がぶつかり合う金属音によってかき消されてしまう。
眠りのプロである以上、決してこの騒音の中でも眠ることができないわけではないが、通常よりも努力が必要なのは確かだ。
「寝る努力をするってのもまた面倒くさいんだよなあ」
ジョアンはうんざりとした面持ちで咥えたハーブの茎を噛みながら、致し方なく眼前で繰り広げられている手合せを眺めることにした。
ヒューゴとジンバの手合せは、模擬刀ではなく互いの得物を使った本格的なものだった。
色々あって『炎の運び手』のリーダーになったらしいヒューゴは、リーダーとしての責任感からなのか、こうして毎日のように指南所にやって来ては訓練を行っている。
その技はまだ発展途上な部分が多く、ジョアンが何かしらのアドバイスをすることも少なくはない。しかし元の筋が良いのも確かで、ちょっとしたアドバイスを与えるだけで一足飛びに成長していく。変わり映えしていく様は傍目に見ていて清々しいものがあった。
ヒューゴの動きはとにかく軽快で、それでいて手数が多い。身軽なカラヤ族ならではの身のこなしで、重い鎧を纏うゼクセン騎士にはまずできない動きだ。
対して、ジンバも負けない速さでヒューゴの剣を受けている。兄貴分だけあってその技はヒューゴのひと回り――いや、ふた回りは上で、加減を考えながら『手ほどきをしてやっている』といった様子だ。
「――ん?」
ふと、ジンバのある動きに奇妙な感覚を憶える。
それはにわかに信じがたい一種の違和感というもので、一瞬、ジョアンは自分が寝ぼけでもしているのかと錯覚するほどだった。
ジョアンは寝転がっていた体をむくりと起こし、今一度、じっくりと神経を研ぎ澄ましてジンバの動きを見定める。
足の踏み込み、剣の返し、身の翻し方――。その一挙一動を目を凝らして追いかけた。
初めは自分の違和感が幻だったと思い込ませるための行為だった。
――しかし、ジョアンの師範としての眼は、彼のいくつかの動きにある可能性を見出してしまう。
口にするのもばかげている、ありえない可能性を――。
「なあ、あんた――」
ほとんど無意識に呼びかけていた。それに気づいたふたりは手を止めて、ジョアンの方へと目を配る。
「ジョアンさん、どうしたの? ジンバがどうかした?」
「あんたのその戦い方……」
その先を口にしかけたところで、ジンバは至って涼しい顔のまま、首を傾げた。
「何か変なクセでもあったかい? 俺にもまだ伸び代があるんだったら、ぜひご教授願いたいね」
言いながら、ジンバはゆるやかに微笑う。
しかし、そんな表情とは裏腹に、男の薄い空色の瞳はジョアンにその先の言葉を紡がせない。
男との距離はそれなりにあるはずなのに、そっと掌で口をふさがれてしまったような気さえした。
口にしたい言葉が、出てこない――。
「どうしたんだい、師範さん」
ジンバの声は念押しのようでもあった。
得体の知れない圧迫感に押さえつけられて、結局、ジョアンは疑問を投げかけることができなかった。
「……いや。なんでもねえ」
「そうかい?」
「ああ。……すまないな、止めたりして」
「いいや、気にするな。それじゃあヒューゴ、仕切り直しといこか」
「あ、ああ。うん」
まったく理解ができていないヒューゴは、きょとんとしながらもジンバの言葉を受けて、改めて剣を振るい始めた。
――再び騒がしい戦いの音が指南所に響く。
ジョアンは剣戟の音を聞きながら、その場であぐらをかき、ひとり思案する。
――ジンバ。ヒューゴの慕う兄貴分。あの仲の良い様子を見るに、その関係に偽りはないのだろう。
だが、やはり、あの男の戦い方は普通のカラヤの戦士とは違う。
あれは――ゼクセン騎士の剣術の型だ。
正確には、カラヤ式の剣術とゼクセン式の剣術をうまく織り交ぜているという方が正しいかもしれない。
しかも、その比率はどちらかと言えばゼクセン式の方が色濃い。
傍目には気づかないだろうが、こうして近距離で見ているとよくわかる。
カラヤの戦士が、ゼクセンの戦い方をごく自然に取り込んでいる――。
「――あのオッサン、何者だ?」
その疑問は、純粋な武術をたしなむ者としての好奇心だった。
種族や民族の垣根だとか、そんなものはどうだっていい。
ただ単純に、あの男がこの戦い方に至ったいきさつが気にかかる。
そして、その先にある戦法の広がりや可能性にも。
「チッ……。面倒くせえが、後で直接聞いてみるかね……」
ぼそりと呟き、ジョアンは再びその場に寝転がった。
――その日、ジョアンは珍しく昼寝をすることなく、夕刻過ぎまで続いたふたりの手合せを眺めていたという。
そこでいつものようにごろりと横になっていた道場主ジョアンの元に、ひとりの少年が現れた。
褐色の肌と色素の薄い金髪。毛先の部分だけが黒く染まっているのが特徴的な少年だ。
「ジョアンさん、少し場所を借りてもいいかな」
「なんだ、またヒューゴか。飽きもせず毎日よく来るなあ。せっかく昼寝でもしようと思ってたところなのに」
「昼寝“でも”って……。ジョアンさん、基本的に朝からずっと寝てるじゃないか」
「朝寝と昼寝は別なんだよ。大違いだ」
「ははは……全然わからないや。ああ、でも今日は寝てても大丈夫だよ。ちょっと俺とジンバで手合せするだけだからさ」
言いながら、ヒューゴは自分の背後に立つ人物を指差した。
「ジンバ……?」
寝転がった体勢のまま、ジョアンは下からヒューゴの指差す人物を見上げた。
その男はヒューゴと同じくカラヤ族の衣服を着た逞しい体つきの青年で、見るからに“戦士”といった風貌だった。
必然的に目が合うと、男は目を細めて笑んで見せる。
その表情には、どこか余裕めいた雰囲気があった。血気盛んな人間が目立つカラヤ族の中では、珍しく落ち着いた印象を感じさせる。
それが、ジョアンが抱いた最初の感想だった。
「初めて見る顔だな」
「ああ、ちょっと前にここに合流したんだ。俺の兄貴分みたいな人さ」
「ふーん……。ま、いいや。好きに使いな」
大きなあくびをひとつしながら指南所の使用を認めると、ヒューゴは快活な口調で礼を述べて準備運動を始めた。
それから間もなくして、剣の打ち合う激しい音が響き始めた。
――つい数週間ほど前までは犬の寝息すら聞き取れるほど静かだったこの城も、さまざまな事情で今ではグラスランド・ゼクセンの連合軍である『炎の運び手』の本拠地だ。
人の往来はこれまでの数百倍に膨れ上がり、必然的に騒がしくなった。
宝くじ屋のマーサや占い師のピッコロあたりはカモ……否、客が増えたことを大いに喜んでいるが、こっちとしては騒音で貴重な睡眠を妨げられるのだからたまらない。
「寝てても大丈夫って言ったってな……」
吐き出したぼやきも、剣同士がぶつかり合う金属音によってかき消されてしまう。
眠りのプロである以上、決してこの騒音の中でも眠ることができないわけではないが、通常よりも努力が必要なのは確かだ。
「寝る努力をするってのもまた面倒くさいんだよなあ」
ジョアンはうんざりとした面持ちで咥えたハーブの茎を噛みながら、致し方なく眼前で繰り広げられている手合せを眺めることにした。
ヒューゴとジンバの手合せは、模擬刀ではなく互いの得物を使った本格的なものだった。
色々あって『炎の運び手』のリーダーになったらしいヒューゴは、リーダーとしての責任感からなのか、こうして毎日のように指南所にやって来ては訓練を行っている。
その技はまだ発展途上な部分が多く、ジョアンが何かしらのアドバイスをすることも少なくはない。しかし元の筋が良いのも確かで、ちょっとしたアドバイスを与えるだけで一足飛びに成長していく。変わり映えしていく様は傍目に見ていて清々しいものがあった。
ヒューゴの動きはとにかく軽快で、それでいて手数が多い。身軽なカラヤ族ならではの身のこなしで、重い鎧を纏うゼクセン騎士にはまずできない動きだ。
対して、ジンバも負けない速さでヒューゴの剣を受けている。兄貴分だけあってその技はヒューゴのひと回り――いや、ふた回りは上で、加減を考えながら『手ほどきをしてやっている』といった様子だ。
「――ん?」
ふと、ジンバのある動きに奇妙な感覚を憶える。
それはにわかに信じがたい一種の違和感というもので、一瞬、ジョアンは自分が寝ぼけでもしているのかと錯覚するほどだった。
ジョアンは寝転がっていた体をむくりと起こし、今一度、じっくりと神経を研ぎ澄ましてジンバの動きを見定める。
足の踏み込み、剣の返し、身の翻し方――。その一挙一動を目を凝らして追いかけた。
初めは自分の違和感が幻だったと思い込ませるための行為だった。
――しかし、ジョアンの師範としての眼は、彼のいくつかの動きにある可能性を見出してしまう。
口にするのもばかげている、ありえない可能性を――。
「なあ、あんた――」
ほとんど無意識に呼びかけていた。それに気づいたふたりは手を止めて、ジョアンの方へと目を配る。
「ジョアンさん、どうしたの? ジンバがどうかした?」
「あんたのその戦い方……」
その先を口にしかけたところで、ジンバは至って涼しい顔のまま、首を傾げた。
「何か変なクセでもあったかい? 俺にもまだ伸び代があるんだったら、ぜひご教授願いたいね」
言いながら、ジンバはゆるやかに微笑う。
しかし、そんな表情とは裏腹に、男の薄い空色の瞳はジョアンにその先の言葉を紡がせない。
男との距離はそれなりにあるはずなのに、そっと掌で口をふさがれてしまったような気さえした。
口にしたい言葉が、出てこない――。
「どうしたんだい、師範さん」
ジンバの声は念押しのようでもあった。
得体の知れない圧迫感に押さえつけられて、結局、ジョアンは疑問を投げかけることができなかった。
「……いや。なんでもねえ」
「そうかい?」
「ああ。……すまないな、止めたりして」
「いいや、気にするな。それじゃあヒューゴ、仕切り直しといこか」
「あ、ああ。うん」
まったく理解ができていないヒューゴは、きょとんとしながらもジンバの言葉を受けて、改めて剣を振るい始めた。
――再び騒がしい戦いの音が指南所に響く。
ジョアンは剣戟の音を聞きながら、その場であぐらをかき、ひとり思案する。
――ジンバ。ヒューゴの慕う兄貴分。あの仲の良い様子を見るに、その関係に偽りはないのだろう。
だが、やはり、あの男の戦い方は普通のカラヤの戦士とは違う。
あれは――ゼクセン騎士の剣術の型だ。
正確には、カラヤ式の剣術とゼクセン式の剣術をうまく織り交ぜているという方が正しいかもしれない。
しかも、その比率はどちらかと言えばゼクセン式の方が色濃い。
傍目には気づかないだろうが、こうして近距離で見ているとよくわかる。
カラヤの戦士が、ゼクセンの戦い方をごく自然に取り込んでいる――。
「――あのオッサン、何者だ?」
その疑問は、純粋な武術をたしなむ者としての好奇心だった。
種族や民族の垣根だとか、そんなものはどうだっていい。
ただ単純に、あの男がこの戦い方に至ったいきさつが気にかかる。
そして、その先にある戦法の広がりや可能性にも。
「チッ……。面倒くせえが、後で直接聞いてみるかね……」
ぼそりと呟き、ジョアンは再びその場に寝転がった。
――その日、ジョアンは珍しく昼寝をすることなく、夕刻過ぎまで続いたふたりの手合せを眺めていたという。