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幻水その他

 その日も、湖畔の城はいつもと変わらずのどかで穏やかな空気に包まれていた。
 多種多様な部族がひとつの目的のために集った「炎の運び手」が解散してからはや一年。ビュッデヒュッケ城はその際に根を下ろした住人や商人たちが現在も住まい、商業の自由地として発展し続けている。
 人の出入りは以前に比べて大幅に増加し、賑わい活気づいているが、それでも全体に漂う空気はいたってのどかだ。
 そんな城の入り口には、いつも一人の少女が立っている。
 少女が纏うには厳つい甲冑と兜を身に着け、朝から晩まで城に出入りする人間を出迎え、見送る少女は、この城のトレードマークと言ってもいい。
 城の住人である武術指南所師範のジョアンは、そんないつもの少女の背を眺め、ふと声をかけた。
「おい、セシル」
「あ、ジョアンさん!」
 振り向いた少女――ビュッデヒュッケ守備隊長のセシルは、声をかけたジョアンにニコリと笑い返す。しかし、それを受けるジョアンの表情はすぐれない。
「? ジョアンさん、どうかしたんですか?」
 いぶかし気なジョアンの表情に、セシルは首を傾げる。
「……お前、どこか怪我でもしてるのか?」
「えっ!!」
 ぎょっと目を見開いて、セシルは身を引いた。その分かりやすい反応に、ジョアンは得意になるでもなく息を落とした。
「やっぱり当たりか」
「ど、ど、どうしてわかったんですか!?」
「なんか、いつもと立ち姿が違って見えたんだよ」
 それは、普通の人間なら気づくことのない、ちょっとした変化だ。城の入り口に立つセシルを毎日見ているからこそわかる、些細な違和感だった。
「脚か?」
「そ、そうなんです!」
「なんだ、捻りでもしたか」
「捻ってはいません! でも、三日前くらいから膝のあたりがビキビキっとして痛くって……」
 今も少し痛むのか、セシルはしょんぼりとしつつ?き出しの膝をさする。ジョアンはそれをじっと眺め、ふむ、とうなずきながら、くわえているハーブの茎をやんわりと噛んだ。
「医務室には行ったのか?」
「行ってません……」
「なんでだよ、悪い怪我だったらどうすんだ」
「だ、だって……」
 問い詰められて、セシルはうう、と眉根を寄せて唸りながら俯いた。まるで親に怒られている子供だな――そんなことをぼんやり考えながら、ジョアンはセシルが口を開くのを待った。
「だって、もし怪我だったら、トーマス様にお城の前に立っちゃダメだって言われちゃうから……」
 ――やっぱりな。予想通りの回答に、ジョアンはやれやれと頭をかく。
「あのな、セシル。トーマスはお前が無理して門番やる方が怒ると思うぜ」
「そ、そうなのかな……」
「当たり前だろ。無理して立って、いざ悪い奴が来たときに戦えなかったらどうしようもないだろ」
「あ、確かに……」
「だろ? だから、ちゃんと診てもらって早いうちに治すんだな」
「は、はい……! お昼になったら他の人に門番をお願いして医務室に行きます!」
 面を上げたセシルの瞳はしょんぼりとしていた先ほどとは違い、輝きに満ちている。その顔を見合わせて、ジョアンはふと首を傾げた。
「ん? お前、」
「な、なんですか!? もう隠してることなんてないですよ!」
「いや、そうじゃなくて――背、伸びた?」
 それも、些細な変化だったが、ジョアンは見逃さなかった。見合わせたセシルの目線が、なんだか以前よりも高い位置にある。首を下げる角度も、前とかなり違う。ほとんど毎日顔を合わせる中では気づかなかったが、こうして改めて並んでみると、わかる。セシルは確実に背が伸びている。
 ――だとしたら。
「もしかすると、お前の膝、成長痛かも」
「せいちょうつう、ですか?」
「そ。そのくらいの年で背が伸びるくらいの時期に体の節々がビキビキって痛くなることがあるんだよ。理由とかはちゃんと調べたことがないからわかんないけどな」
 それは、ジョアンの背が急激に伸びた時期にも生じていた痛みだった。なんとも形容しがたい痛みが体の節に走り、せっかくの安眠を妨げる。なんとも憎い相手だ。
「そっかぁ……! 私まだ大きくなれるんだぁ……! だったらずっと痛くてもいいかも!」
「いや、違うかもしれないからちゃんと診て貰えよ?」
「わかってますよぉ! でも、もっともっと大きくなりたいな! クリス様やルシアさんみたいに!」
 かつてこの城に集った憧れの女傑たちの名を上げて、セシルはすっかり上機嫌だ。右手に持つ槍を小刻みに掲げ、ニコニコ微笑んでいる。
「よーっし、そうと決まったらさっそく医務室に行ってきます! 成長痛だったら入り口に立ってても大丈夫ですよね! 成長してるだけなんですから!」
「ん? あぁ、そうだな……」
「良かったぁ! じゃあ行ってきまーす!」
 言うが早いか、セシルはあっという間にその場を離れ、医務室に向かって一目散に走って行った。重い甲冑も兜もなんのその、気づけばセシルの姿は見えなくなっていた。
 その場に残されたジョアンは、ぽつんとひとり立ち尽くす。ほとんど家族みたいな少女の確かな成長に目を細めつつ――
「……身長を抜かされたら、トーマスが嘆くだろうなあ」
 ぽつりとひとつ、呟いた。
 ビュッデヒュッケ城は本日も穏やかな晴天。いつものごとく、穏やかな一日だった。
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