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幻水その他

 日没の迫る刻限。その日の仕事を片づけたフリックは、足早に新同盟軍本拠地の通路を歩いていた。目指すは酒場。人使いの荒い軍師に酷使された憂さを晴らすには、冷たい麦酒の一杯をなくしては始まらない。執拗に自分を追いかける少女から逃げまわった疲労だって溜まっている。
 酒。酒が欲しい。腐れ縁の熊ほどの酒豪ではないが、今日は狂おしいほどに体がアルコールを欲しているのがよくわかった。
 ――とにかく、一杯だ。
 渇きを潤すのどごしの爽快さを想像して、歩くスピードは更に加速する。
 ――しかし、その直後。
「――!?」
 殺気に満ちた鋭い気配が、フリックの足を止めさせた。
 背後に立つ、何者かの殺気。全身に緊張が走る。歴戦を潜り抜けてきた戦士の勘か、右手は自然とオデッサの柄にかかっていた。
 気配の主が何者なのか。考える間もない内に、背後でカチャリと金属音のような物音が響いた。
 その音には、聞き覚えがある。物音から連想される物体を脳内に思い描き、更なる緊張と疑問が交錯した。
 ――なぜ、こんなところで、ガンの音が?
 ごくりと息をひと飲みして、間を保つ。相手もこちらの出方を伺っているのか、身動きを取る様子はない。
 しかし、いつまでもこのままという訳にもいかない。幼い子供がのこのこやって来て巻き込まれでもしたら大変だ。フリックは剣をいつでも引き抜ける状態を保ちつつ、意を決して口を開いた。
「……誰だ」
 低い声で問いながら、ゆっくりと視線を背後へと向ける。じりじりと、しかし確実に、視界をずらしていく。時間をかけながら背後に立つ人間の姿を目にした瞬間、フリックは驚きに目を見開いた。
「……クライブ!?」
 名を呼ぶことで、一気に緊張が解ける。クライブはハルモニア神聖国が擁する「ほえ猛る声の組合」に所属するガンナーであり、現在はこの同盟軍に身を置く人間だ。まさか、殺気を感じた相手が相手が同じ軍に所属する仲間だったとは。疲れで自分の直感もいよいよ錆びついたか。
 ――そう呆れかけたのも束の間。
 かちあったクライブの双眸の鋭さに防衛本能が働き、緊張は即座に舞い戻る。
「……な、何の用だ。そんな目を血走らせて」
「……」
 漆黒のコートで全身を覆い、フードを目深に被った男は黙して語らない。代わりに、細長い金属の特殊武器――ガンの銃口をこちらに突きつけて、背筋も凍るような瞳で凝視してきている。
 一向に表情も態度も変えない男に、若干の苛立ちを覚える。自分の首を狙う理由を持つような人間ならまだしも、同軍の仲間に銃口を向けられる筋合いはない。この男とは特別に親しい仲という訳でもないが、個人的な恨みを持たれるような間柄でもないはずだ。
「おい、なんで俺にガンを向けるんだ。下ろせ。物騒だ」
「……」
「なあ、聞いてるのか? 早くガンを――」
 何も語らない相手にいよいよ腹が立ち、声に怒気を乗せて振り返る。その瞬間、クライブは眼光を尖らせたまま、グイと一歩、こちらに迫ってきた。
 ふたりの距離は狭まる。銃口はフリックの目と鼻の先。殺気は今も途切れることはなく、いつでも引き金を引けるとでも言いたさげな眼差しだ。
 フリックは言葉を飲み込み、押し黙った。
 その様子を顔色ひとつ変えることなく鋭く見据えるクライブは、ガンを向けたまま、ようやく静かに口を開いた。
「――誰にも喋っていないだろうな」
「……は? 何をだよ」
「今はまだ喋ってはいないようだな。……が、どうせこの後ビクトールにでも話すつもりだったんだろう」
「だから何をだよ!」
 話の内容がまったく理解できない。こいつに口止めされるようなことなど何ひとつない。まったくもって意味不明だ。
 混乱を隠すことなく表情に浮かべると、クライブはようやくガンを引っ込め、ふうと静かな溜息をついた。
「昨日の件だ」
「……昨日? 昨日……」
 言わんとしていることを探るべく、記憶を巻き戻す。昨日、クライブと接点を持ったできごと――。
 そこまでの考えを巡らせたところで、フリックはカッと目を見開いた。
「昨日って、まさか――!」
 信じられず、フリックは思わず口走った。
「まさか、お前がコボルトダンスを見て笑ってたって話を、俺がみんなに言いふらすと思――」
 言い終わらない内に、ドンッと低いの破裂音が通路内に響き渡る。
 眼前には、引っ込めたはずのガンを再びこちらに向けて睨みつけるクライブ。その銃口からは一筋の煙が立っている。
 振り向くと、固いレンガ造りの壁の一点が黒く染まり、シュウシュウと煙を上げているのが見えた。
「誰かに話したときには――わかっているな」
 素早くガンを下ろして足音もなく歩き出したクライブが、すれ違い際にそう念を押す。
 極めて低い声に、フリックは声を発することなく、大きく二度、頷いた。
 遠ざかるクライブの背を眺めながら、フリックは目眩を覚える。
 ずぼらで手のかかる腐れ縁。人使いの荒い軍師。執拗に自分を追いかけてくる少女。――そして、とんでもない理由で自分に銃口を向けてくるガンナー。
「……勘弁してくれよ」
 疲れ切った声と深いため息は誰の耳に届くこともなくに消え入る。
 ――こうしてまたひとつ、フリックの受難が増えたのだった。
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