一章
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幼いころに母が家を出ていった。
何も言わずに母は夜、どこかへ行った。
「あの男と駆け落ちしたんだ、そうに違いない」
父が恨みのこもった地を這うような声で言っていた。
あの男、に私は心当たりがあった。
きっとそれは父より金を持っていたあの男だろう。
可哀そうに、父は母に捨てられたのだ。
「畜生、なんだって俺が……クソ、クソ…ッ」
その日から父は徐々に酒に溺れていった。
一杯が二杯に、一本が二本に
いつの日かそんな父が醜い化け物に見えた。
そんな父が嫌だったと同時に、己の父が化け物に見えてしまった自分が嫌になった。
何度も何度も逃げ出したかったけど、大好きな自分の父親だ。
私は甲斐甲斐しく世話をした。酒を買った。
人は父を最低だと罵った。小間使いのように扱われる私を可哀そうだと同情した。
私はそれを見ないふりして、聞こえないふりをした。
「お父さん」
「なんだ」
「……ごめん、なんでもない」
『 お酒は体に良くないよ。いつか体を壊すよ 』
『 このままじゃお父さん、死んじゃうよ 』
その言葉は喉元まで出かかったのに、私は飲み込んでしまった。
お父さんに嫌われたくなかった。こんな父でも私の父なのだから。
「お父さん、ただいま」
やけに家が静かだった。
全身の血の気が引いていった。
大丈夫。きっと寝ているだけだから。お父さんはいつも酒を飲んだらすぐに眠るから。
慌てて靴を脱ぎ、買ってきたばかりの酒を放り投げて部屋の戸を開ける。
転がった酒瓶、ひっくり返ったつまみの入った皿
零れた酒が畳に広がって大きな染みになっていく。
「お父さん」
父を呼ぶ。父の体を揺さぶる。父の顔に耳を近づける。
返事はなかった。反応はなかった。寝息は、聞こえなかった。
「お父さん、お父さん」
何度呼んだってもう答えない冷たい父の体。
どうしたらいい?どうしたら父は起きる?
「ああ、お父さん……酷い、酷いよ……」
膝から崩れ落ちた私は泣いた。
私の泣き声が外まで聞こえたのか、家に近所の人間が入ってくる。
「名前ちゃん…?」
「あ……あぁ……お父さんが、お父さんが」
震える声でおばさんの方を見て、そして再度父を見る。
それだけで察したのだろう。おばさんは一瞬目を逸らしてこちらにやってくる。
「名前ちゃん。悲しいのはわかるけれど、お父さんをこのままにしておくのは可哀そうよ。だから…」
「わかっています……わかっています」
程なくして父の葬式等は行われた。
どうしてこうなったんだろうか。私は、誰を憎めばいいのだろうか。
母を誑かして連れて行ったあの男を恨めばいいのだろうか。
それともそんな男についていった母を憎めばいいんだろうか。
私にはだれを憎むこともできなかった。
きっと誰も悪くないのだから。
「本当にこの家を手放してしまうの?」
「はい、住み込みで働ける場所を見つけたので、ここは倉庫にするなり取り壊すなり好きにお使いください」
「…そう。寂しくなるわね」
「私のことはどうか忘れてください。そうしたら寂しいなんてことありませんから」
「いつでも戻ってきていいんだからね」
「ありがとうございます」
深く礼をして住んでいたその場所を離れる。
ああ、くそ、上手く息ができない。人の優しさが痛い。
暖簾をくぐり一言挨拶をする。
「今日からここで住み込みで働かせてもらいます。名字名前です」
ここらはいわゆる私娼窟と呼ばれている。本物の蕎麦屋を見つけるのが困難なほどに、蕎麦屋の暖簾をかけた売春宿が何件も続いていた。
言っておくが私は体を売りに来たのではない。住み込みで炊事洗濯をすることで身売りを回避したのだ。それで宿屋の店主とはひと悶着、いやふた悶着ほどあったが何とか炊事洗濯をこなす、という労働条件にこじつけた。
仕事は大変だが、意外と問題はなく、静かに時間は進んでいった。
何も言わずに母は夜、どこかへ行った。
「あの男と駆け落ちしたんだ、そうに違いない」
父が恨みのこもった地を這うような声で言っていた。
あの男、に私は心当たりがあった。
きっとそれは父より金を持っていたあの男だろう。
可哀そうに、父は母に捨てられたのだ。
「畜生、なんだって俺が……クソ、クソ…ッ」
その日から父は徐々に酒に溺れていった。
一杯が二杯に、一本が二本に
いつの日かそんな父が醜い化け物に見えた。
そんな父が嫌だったと同時に、己の父が化け物に見えてしまった自分が嫌になった。
何度も何度も逃げ出したかったけど、大好きな自分の父親だ。
私は甲斐甲斐しく世話をした。酒を買った。
人は父を最低だと罵った。小間使いのように扱われる私を可哀そうだと同情した。
私はそれを見ないふりして、聞こえないふりをした。
「お父さん」
「なんだ」
「……ごめん、なんでもない」
『 お酒は体に良くないよ。いつか体を壊すよ 』
『 このままじゃお父さん、死んじゃうよ 』
その言葉は喉元まで出かかったのに、私は飲み込んでしまった。
お父さんに嫌われたくなかった。こんな父でも私の父なのだから。
「お父さん、ただいま」
やけに家が静かだった。
全身の血の気が引いていった。
大丈夫。きっと寝ているだけだから。お父さんはいつも酒を飲んだらすぐに眠るから。
慌てて靴を脱ぎ、買ってきたばかりの酒を放り投げて部屋の戸を開ける。
転がった酒瓶、ひっくり返ったつまみの入った皿
零れた酒が畳に広がって大きな染みになっていく。
「お父さん」
父を呼ぶ。父の体を揺さぶる。父の顔に耳を近づける。
返事はなかった。反応はなかった。寝息は、聞こえなかった。
「お父さん、お父さん」
何度呼んだってもう答えない冷たい父の体。
どうしたらいい?どうしたら父は起きる?
「ああ、お父さん……酷い、酷いよ……」
膝から崩れ落ちた私は泣いた。
私の泣き声が外まで聞こえたのか、家に近所の人間が入ってくる。
「名前ちゃん…?」
「あ……あぁ……お父さんが、お父さんが」
震える声でおばさんの方を見て、そして再度父を見る。
それだけで察したのだろう。おばさんは一瞬目を逸らしてこちらにやってくる。
「名前ちゃん。悲しいのはわかるけれど、お父さんをこのままにしておくのは可哀そうよ。だから…」
「わかっています……わかっています」
程なくして父の葬式等は行われた。
どうしてこうなったんだろうか。私は、誰を憎めばいいのだろうか。
母を誑かして連れて行ったあの男を恨めばいいのだろうか。
それともそんな男についていった母を憎めばいいんだろうか。
私にはだれを憎むこともできなかった。
きっと誰も悪くないのだから。
「本当にこの家を手放してしまうの?」
「はい、住み込みで働ける場所を見つけたので、ここは倉庫にするなり取り壊すなり好きにお使いください」
「…そう。寂しくなるわね」
「私のことはどうか忘れてください。そうしたら寂しいなんてことありませんから」
「いつでも戻ってきていいんだからね」
「ありがとうございます」
深く礼をして住んでいたその場所を離れる。
ああ、くそ、上手く息ができない。人の優しさが痛い。
暖簾をくぐり一言挨拶をする。
「今日からここで住み込みで働かせてもらいます。名字名前です」
ここらはいわゆる私娼窟と呼ばれている。本物の蕎麦屋を見つけるのが困難なほどに、蕎麦屋の暖簾をかけた売春宿が何件も続いていた。
言っておくが私は体を売りに来たのではない。住み込みで炊事洗濯をすることで身売りを回避したのだ。それで宿屋の店主とはひと悶着、いやふた悶着ほどあったが何とか炊事洗濯をこなす、という労働条件にこじつけた。
仕事は大変だが、意外と問題はなく、静かに時間は進んでいった。
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