間抜けなままで居てください。

穏やかな陽が差すとある日の午後、賢者もとい、真木晶は中庭を歩いていた。
ここ最近は任務が立て込んでおり、実に10日ぶりの休日であった。
それでも細々とした書類仕事は残っていたので、午前中はその処理をしていた。
なんとか片づけたものの、座り仕事で体のあちこちが凝り固まったので、軽く散歩をしようと思ったのだ。
噴水の前に行くと涼し気な空気が向かってくる。腕を大きく広げ体を伸ばす。なんと気持ちの良いことか。




______________ドォン。



腕を下ろすと同時に、これはまた穏やかな午後には似つかわしくない派手な爆発音が響いた。



******


爆発音の後、音がした方を見上げると魔法舎の5階の一角から煙が立ち上っている。
爆発はどうやらオズの部屋で起こったらしい。何があったのだろう。
混乱しながらその非日常的な景色を眺めていると、煙の中から黒い塊が放物線を描いて落ちてきた。
どうやらそれはこちらに向かっているようだ。
とりあえず、動ける範囲で後ずさる。目を凝らして近づいてくるそれを見ると、白い上衣と赤い髪からミスラだと分かった。

「み、ミスラーーーーーーー!!!!!????」

思わず名前を叫ぶ。意識があれば、彼は普通に空を飛ぶ魔法使いだ。恐らく気絶しているのだろう。呼んでみたが、そのまま彼は落ちてくる。助けないと。かといって、賢者は魔法が使えない。ただの人間であるので当然である。どうしよう、誰か。

ここで手助けが来れば良かったのだが、残念ながら今日という日は運がない日らしい。

________バシャン!!!!


憐れ、ミスラは見事噴水に頭から着水した。衝撃で飛び散った水が晶に降り注ぐ。反射的に目を瞑った間に彼女は全身ぐっしょりと濡れた。目を開けると水飛沫は日光に照らされてキラキラと輝いて綺麗である。目線を下げると、普段は北の魔法使いだと恐れられている彼の長い脚が水面から生えていた。さながら、あの有名な犬〇家の名シーンを彷彿とする。慌てて晶はそのすらりと伸びた美脚の元へ駆け寄る。ザブザブと噴水に入ると、ミスラの上半身はしっかり水に浸かっていて、頭の方からはゴボゴボと空気の泡が立っていた。


「ミ、ミスラ!起きて下さい!!ミスラ!!!」

とりあえず、呼びかけながら脇の下から腕を回し上半身を持ち上げる。彼は男性の中でも体格が良いほうであるから、かなり重たい。力を入れると全身の筋肉がブチブチと伸び切っていく感覚が広がる。頑張れ、私の筋肉。なんとか水面から顔を出すことには成功した。しかし、未だ彼の眼は開かない。ずるずると引っ張りながらなんとか噴水の縁に上半身を立てかけた。そのまま肩を掴んで、揺さぶったり頬を軽く叩く。すると、ようやく薄く目が開いて彼の深い緑色の瞳が現れる。

「・・・ゴホッ。コホ、ゴホッ!!」
「あぁ、良かった! 気が付いたんですね。」
「・・・・・けんじゃ、さま?」
「ええ、そうですよ。」


ぼんやりとした掠れた声だ。気管に水が入ったのだろうか。彼は何度も咳き込む。
背中を擦ろうかと、右手を伸ばすと素早く捕らえられた。

「・・・なんですか。この手は。」
「いや、背中を擦ろうとですね・・・・?」
「必要ありません。」

きっぱりと断られてしまった。少し悲しい。

「・・・はぁ。賢者様、どうしてずぶ濡れなんです?」

じっと彼は気だるげに彼女を見やる。

「それは、噴水に突っ込んで来たミスラを助けようとしたからですよ・・?」
「はぁ、それはどうも。」

少し彼はぼんやりしている所がある。普通ならもっと違う事を聞きそうなものだが、ミスラなのでしょうがない。この一言で説明がつく。意思疎通は7割取れれば良い方かなと賢者は最近思うようにした。

「と、ところでどうしてこんな事になったんですか?」
「・・・オズですよ。なんだかムラっと来たので、今日こそ殺してやろうかと思いまして。双子やフィガロも居なかったようですし。」
「あぁ~・・・・・。」

出ました。いつものだ。そういえば、あの長生きな3人は用事があるから出かけてくるって言っていたなと思い出した。

「まぁ、結局投げ出されたわけですが。」
「えと、大変でしたね・・・。」

晶は苦笑いを浮かべる。そんな彼女の頬を彼は大きな右手で掴んだ。両頬をふにふにと弄ぶ。押しのけようと彼女は左腕で抵抗するが全然通じていなかった。もう片方の腕もしっかり掴まれている。

「み、みしゅら!???」
「あはは、変な顔。」
「はにゃして、くらはい!???」

そんなに面白い顔をしていたのだろうか、随分ご機嫌な様子で彼女の顔を揉み続けた。新しいおもちゃを見つけた子供のように楽しんでいる。これは満足させるまでやらせるしかない。そう観念して彼女は抗う事を止めた。

「貴方、成人してるんでしたっけ。その割には赤子みたいに柔らかいですね。」
「そうでひゅか・・・?」
「はい。」

それは褒めているんでしょうか。個人的には褒められた気はしないのですがと彼女は眉根を寄せた。
すると、今度は彼の手は頬から眉間へ移動する。人さし指がくるくると回り、眉間の皺が伸ばされていく。
彼女は思わず、ぽかんと口を開けるとまた彼は少年のように笑う。

「あはは。また変な顔だ。」
「あの・・・、ミスラ、そんなに私面白い顔してます?」
「ええ、まぁ。間抜けな顔をしています。」
「結構失礼ですよ!それ。」

やっと自由になった頬だというのに、彼女は頬を膨らませた。少し賢者が怒ったような雰囲気が分かったのだろうか、ミスラは全ての拘束を解いた。そして、またいつもの眠そうな顔に戻った。そして彼は小声で呟く。

「・・・賢者様は、間抜けなままで居てください。」
「え?」
「それでは。」

流石に二度もはっきり言われるとは思わなかった。小声で聞き取りづらくはあったが、ちゃんと彼女の耳には届いていた。呆然としている彼女をよそに、ミスラはゆらりと立ち上がる。彼から滴る水が雨のように彼女に降り注ぐ。

「え、ちょっとミス、」
「≪アルシム≫」

彼が呪文を唱えると空間に扉が出現する。そのままドアノブに手を掛けながら、彼は振り向かずに言う。

「そういえば、賢者様。ちゃんと乾かした方がいいと思います。」
「は?」
「では。」

がちゃり、と扉を開けてその気まぐれな男はそのまま入って行ってしまった。

「一体何・・・・?」

しばらくして何故か噴水の中でずぶ濡れになっている賢者を見つけた南の兄弟が、血相を変えながら彼女を介抱した。




*******

「・・・というわけでして、ずぶ濡れだったのはそのせいだったんです。」

手元にあるオレンジジュースが入ったグラスを傾けながら賢者は言った。

「おやまぁ、それはなんとも面白いことです。」

この店の主である黒髪の美しい魔法使いは彼の魔道具でもあるパイプを燻らせながら微笑んだ。

「もう、ミスラさんってばやんちゃさんですよね!」

彼女の右隣からは珍しくこの時間帯に呑みに来ていたルチルが声を上げる。正確に言えば、介抱の延長線で一緒にシャイロックのバーに呑みに来てくれているのである。気分転換は大事ですからね!との事。ルチルのこういった優しさは胸に沁みる。ミチルは良い子は寝る時間なので、今頃ぐっすり眠っていることだろう。店内は彼ら三人の他には誰も居なかった。普段はこの時間はもう少し人が居り、賑やかなのだが。真向いにいるシャイロックはくすくすと笑いながらところで、と口を開く。

「賢者様は随分と懐かれたようですが、気分はどうです?北の猛獣は可愛いですか?」

懐かれた?いや、触ろうとしたら思いっきり断られたのですがと彼女は顔を顰める。

「いや、懐かれたというのでしょうか。あれは・・・。」
「しかし、頬を揉まれたのでしょう?彼、興味が無い方に触れるタイプには思えませんが。」
「確かにミスラさんならそのままスルーしそうです。」
「ほら、そうらしいですよ。賢者様。」

ニコニコと魔法使い達に囲まれて晶は冷や汗をかく。あ、コレ。あれだ。修学旅行でちょっとクラスで目立つ派手な子と班が一緒になって、夜にする恋バナの雰囲気だ。二人はれっきとした男性なんだけれども。

「いや~、そうですかね・・・?偶々でしょう。」

二人の視線から目を逸らしながらオレンジジュースに口をつけ、ちびちびと飲む。甘く程よく酸味が効いたこのジュースはお気に入りだ。本当はお酒が飲める歳ではあるのだけれど、体調が万全ではないのとビタミンを採るため(体に良さそうだから)今日はジュースで我慢している。しかし、興味深々といった様子の彼らの追撃の手は緩められない。

「どうです?賢者様はアリですか?ナシですか?」
「あり、なしと言いますと・・・・。」
「恋人に出来るかということですよ。」
「・・・・ッ!?」

思わず果汁が気管に入る。はっきりと言われてしまった。逃げ場が無い。むせ返りながら、声を絞り出す。

「こ、恋人ですか・・・・?」
「ええ、どうなんです?彼、顔は良いでしょう。」
「それにとてもお強いですしね!」
「二人とも、どうしてそんな乗り気なんですか!?」
『面白そうだからです。』

これが漫画であれば語尾に♡が見えそうな言い方である。シャイロックはまぁ西出身であるし、そういったことを楽しむのはまだ分かる。ルチルまでそう言うとは思わなかった。

「あのですね、人をからかうのは良くないと思います!」
「揶揄ってはいませんよ?至って真面目に聞いております。」
「そうですよ。ムキになるということはもしかして?」

キラキラと目を輝かせながらルチルは賢者の顔を覗き込む。反対に彼女は手元のグラスを注視した。正直に言って分からないとしか答えが出ないのだ。確かにミスラはかなりの美形だ。元の世界ではモデルか芸能人をやっていそうな容姿である。勿論、他の魔法使い達もそれに並ぶのだが、なんというかオーラが違うと表現するのが一番近いのだろう。平凡な自分が、彼の隣に立つのは想像が出来ない。別の世界の住人の様だ。実際そうなのだが。そう、これは無い。ナシという奴だ。顔を上げて覗き込んでいるルチルに断言する。

「いや、ナシですね。」
「ええ、そんな!」
「おや、振られてしまいました。」

二人とも残念そうな表情を浮かべる。一体さっきから何なのだ。ルチルはがっくりと肩を落とす。

「はぁ、賢者様がミスラさんと居てくれたら良かったのにな。」
「どうしてです?」
「ミスラさん、基本的に独りでいるでしょう?私達兄弟の所には来てくれますけど。折角こうして皆で暮らす事になったんですから。色んな方とお話してくれたらなって思って。」
「・・・なるほど?」

いや、それだとしても段階が早くないですかね。彼の場合まだ先にするべき事があると思うのですが。

「賢者様、最近賢者の書を書かれていたでしょう?確か、元の世界に帰ってしまっても次の賢者様に私達の事を伝えるためだとか。」
「そうですね。」

皆のプロフィールを簡潔に纏めたくて、空いた時間を使って少しずつ書いていた。確か、今週の頭にミチルの話を聞いて全員分は書き終わったはずだ。

「あれ、なんとおしゃってお尋ねになったか覚えてらっしゃいますか?」
「私が元の世界に帰って・・、あ。」
「ふふ、お分かりに?」
「しかも他の皆さんにも同じようにおっしゃってたみたいですね?」
「確かに同じように言いましたが・・・。」
「私達まだ出会ったばかりでしょうにね。ひどい人。」

店主は眉を下げながら、カラカラと小皿にナッツを載せる。こちらに出してくれるわけではなく、そのままアーモンドを一つ摘まむと口に運んだ。

「皆さん結構気にしてて、特に若い年の子の間では『寂しいな』なんて話をしてたんですよ?」
「そ、そうなんですか・・・。」
「はい、それで皆で双子先生に相談しに行ったんです。」
「え!?」
「おや、お二人を訪ねるとは。若い方は行動力が違いますね。」

割と大事になっている気がするのは私だけなんでしょうか。賢者は冷や汗をかく。

「それでどういう話になったんです?」
「双子先生が言うには『来る日が来ればおのずと帰るもの、まぁこっちで恋人なんか出来ちゃったら違うかもね!』って言ってましたよ。」
「あぁ、それで恋人の話が出たんですね・・・。」
「そうです。」

肯定すると彼はグラスを呷り一気に飲み干した。そのままシャイロックにグラスを渡す。受け取ると店主は別の酒を入れ直す。

「賢者様、こちらで気になる人とか居ないんですか?」
「そ、そうですね・・・、うーん、仮に、恋人が出来たとしてもこちらに残れるとは限りませんよね?」
「それはそうですけど・・・。」
「なら、もしかしたらその方とはお別れしなくちゃいけなくなりますよね。それはちょっと困っちゃいます。寂しくなってしまいますね。」
「賢者様・・・。」

彼女はすっかり氷が融けて薄まったオレンジジュースを飲む。そう、いつかは元の世界に帰るのだ。ただでさえ今行動を共にしている彼らと別れるのも辛く思うだろう。まして、その一歩進んだ特別な関係になれば一体どうなってしまうのだろうか。とても耐えられるような気はしない。しんみりとした空気に響くのは店主の声である。

「ふふ、そういう考えもありますが・・・、ずっと共にあるというのも味気ないのかもしれません。」
「そうなんですか?」
「変化がありませんから。離れてみると一層強く思うようになる、という事あるのやも。」
「言われてみればあるのかも・・・?」

若い二人はピンと来ないという表情で顔を合わせる。この見た目よりは随分長く生きている色男はそう考えた時期もあったのだろうか。かといって、易々話してくれるようなフランクさは彼には無いだろう。あれこれと二人はお互いの予想を話し合う。ふと店主は店の入り口の方に目を向け、カウンターに座っている若者達に声を掛けた。

「お客様方、そろそろお開きに致しましょう。」
「もうそんな時間ですか。」
「ええ、時間もそうですが、賢者様。お迎えが来たようですよ。」

彼がそう言うとタイミングを図ったかのように、ミスラが店に入ってきた。

「賢者様、ここでしたか。探しましたよ。」
「え、ミスラ。どうしたんです?」
「はぁ・・・、何って貴方が居ないと眠れないでしょう。早く行きますよ。」

ミスラは賢者の腕を引っ張り、立たせようとする。あらあらと温かい目でルチルとシャイロックは見守る。

「ま、待ってください!お勘定がありますから!!」

慌てて彼女はポケットから財布を出そうとする。

「早くして下さい。俺はもう眠いんですよ。≪アルシム≫」

彼が大きな欠伸をこさえながら呪文を唱えると空間の扉が出現する。

「待って!待って!シャイロック!今日のお代は幾らですか!?」
「お代は結構ですよ。今日は彼へのお礼も兼ねて私の奢りです。楽しい時間を過ごさせていただきましたし。」
「実は今日ここに来たのはシャイロックさんがお礼をして下さるというのもあったんです。」
「そうだったんですね。み、ミスラ!腕、腕が痛いです!!」


三人が話している間も、ミスラは賢者の腕をぐいぐいと引っ張っていた。あからさまに店に入って来た時よりも不機嫌になっている。

「まだですか。」
「もう、終わり!終わりましたから!!」

熊に捕まった兎と言ったところだろうか。悲鳴じみた声を上げる賢者は、可哀そうではあるが命の危険は感じていないような表情である。あの北の魔法使いに捕まっていてだ。

「はぁ、全く。次は待ちませんから。それでは、さようなら。ルチル、帰りはくれぐれも気を付けて。」

そう言いながら彼は自室に繋がる扉開くと、賢者を放り込んだ。扉越しに何か話している声がするがあまり聞き取れない。

騒々しく去っていく来客を見送りながら、残された魔法使い二人は顔を見合わせる。

やはり、仲は良いのでは と。


********


放り込まれた先はベットの上だった。持ち主の身長に合わせて元々大きかったが、最近は二人で寝る事も多くなったので魔法で大きくされている。至って普通の体格である彼女にとっては広すぎて落ち着かない。
とりあえず端の方に移動して、部屋の主を待つ。彼はすぐに室内へ来た。そのまますぐにベットに寝転げる。

「・・・?何故、そんな端に居るんです?早く手を握って下さい。」

手を差し出しながら、じろりと彼は小さくなっている彼女を見た、というよりは睨みつけたの方が正しい。

「えと、では失礼して・・・。」

憐れ、彼女には選択肢は残されていないのだ。恐る恐る彼の手を握り、隣に寝転ぶ。すると猛獣は目を閉じて口を開いた。

「・・・今日は疲れました。さっさと眠りたいのに貴方が居ないから寝れませんでした。」
「それはすみません・・・。」
「どうして酒場に居たんです?貴方、酒は飲まないでしょう?」

早く寝たいという割には彼は良く喋る。そもそも今日彼が空から降って来なければ、ルチルに誘われることも無かった。かといって、はっきり言うのは得策では無いので当たり障りが無いように伝える。

「せ、世間話をしに行きました!!」
「世間話ですか。談話室でも食堂でも出来ますよね。それ。」
「しゃ、シャイロックに聞いて貰いたかったんですよね。」
「ふーん、そうですか。俺ではなくあの人の方が良かったんですね。」

じっとりと彼は目の前の彼女を見つめる。不機嫌そうに顔を見てくる彼はそういえば昔交流した野良のボス猫を彷彿とされるなと彼女は思った。見えないはずのしっぽがゆらゆら動いているようだ。

「そうですね。今日は彼が適任だったんです。」
「何を話したんです?俺の方が強いのに。」
「えと、ミスラの言う強い弱いはあまり関係が無い話ですかね・・・?」
「・・・なんですかそれ。まぁいいです。」

疑問形で返されたら萎えたのだろうか。それ以上追及はしてこないようだった。かといって、彼が寝付くまでは雑談は続けなければならない。色々試してきたが、一番効果があったのは何かしら話すことであったから。少し握る力を強めて語り掛ける。

「そういえば、昼間の間抜けで居てくださいってどういう意味だったんですか?」
「・・・?そのままの意味ですが。」
「ええ、ショックです・・・。」

しょんぼりと項垂れる賢者を見て、天井を見つめながらミスラは呟く。

「・・・貴方弱いんですから、俺を助けようとしなくて良かったんですよ。」
「いや、普通人が空から落ちてきて水に浸かってたら助けますからね?」
「俺は人間ではないので。そう簡単には死にません。」
「でも、気絶してましたよね?」
「賢者様が居なくても起きたと思います。」
「・・・迷惑だったんですか?」

とても小さな彼女の声が響いた。暫しの間、深い沈黙が流れる。もしかして、このタイミングで眠ったのだろうか。そっと、彼の顔を覗き込むとばっちり目が合う。まだ、起きていた。そのまま彼は彼女の腕を引っ張る。見事、黒いシャツの上に彼女は着地した。

「・・・・わぷ。」
「・・・はは。」

そのまま彼はわしゃわしゃと彼女の頭を撫でまわす。

「あの、ミスラ、あの?」
「はい、なんでしょう。」
「訳が分からないのですが。」
「奇遇ですね、俺もです。」
「えぇー・・・・。」

撫でまわしながら彼はぽろぽろと言葉を落としていく。

「のこのこ弱いくせに人を助けに来たり、かといってそれをしない貴方は何かが違う気がしますし。笑ってない貴方は見ていて面白くないですし。何でしょうね、これ。」
「すみません、私も分かりませんね。それ。」
「はぁ、使えない人だな。」
「ごめんなさい!?」

なんなのだろう、堂々巡りなこの会話は。答えが全く出てくる気配がしない。

「・・・どうせ貴方が元の世界に帰れば、これの事も忘れるんでしょうけど。」
「・・・え?」
「前の賢者様の事は思い出せないので、もう忘れてしまったんでしょう。まぁ貴方ほど話したことは無い気がしますが。」
「・・・・・・。」
「いっそ、今から帰りますか?そうしたらぐっすり眠れる気がします。」

かなり酷い言いようである。彼女は悲しいを通り越して、段々腹が立ってきた。とりあえず伝わるか分からないがぐりぐりと彼の腹に頭を擦り付ける。

「・・・・帰れるものなら、とっくに帰ってますよ。でも、それは出来ないので。ただ、帰る日を待つことしか出来ませんから私は。」
「・・・・。」
「でも、ぼんやりと待つのは少し違うと思うんです。私に出来ることはやり切って、次の賢者が困らないように引き継ぎ書を作る。それが今の私の役目です。まだ未完成なのでしばらく帰るつもりはありません。」
「・・・貴方、言っている事が無茶苦茶ですよ。」
「ミスラも滅茶苦茶なのでこれでおあいこです。」

彼女はそう言うと腹の上から起き上がった。すっかり乱れてしまったボサボサの頭を手櫛で整える。
一瞬手を離されたのが不安だったのか、じっと彼は見つめてくる。このまま寝かしつけを止めても良かったのだが、それは何となく可哀想に思ってしまったので再び手を取ると握り返してくる感触が広がった。

「・・・まぁ、帰らないなら恋人とやらも作る必要が無いですね。」
「・・・ん?」
「双子が言ってたんですよ。恋人が出来たら貴方は帰らないかもしれないって。」
「何時ですか?」
「昼間、貴方と別れた後ですね。扉をくぐった後、ばったり出くわして。そこから説教ですよ、最悪です。部屋を壊したのはオズなのに。そうこうしてたら、ルチルとミチルが何人か引き連れて『賢者様が元の世界に帰らない方法はあるのか』なんて双子に聞きに来たんです。」
「あー、そうだったんですね。」

随分とタイムリーな話だったらしい。

「それから誰がなるべきかとか、色々話合ってたみたいですが、めんどくさくなったのでそのまま離れました。その後は、知りません。」
「あはは・・・、ミスラらしいですね。」
「・・・そうですか。」

そう話す彼の声は段々眠気が混じり、途切れ途切れになっていった。そろそろ本格的に夢の世界へ旅立とうとしているのだろう。寝ぼけ眼は閉じられていく。

「・・・賢者様、鈍いって言われません?」
「え?いや、どうでしょう。普段はそんなことないと思いますけど。あれでも今日は間抜けってよく言われましたね???」
「・・・そういうところですよ。まぁ面白いからいいですけど。」
「あ、ありがとうございます?」
「・・・賢者様、間抜けなままで居てください。」

彼は小さく笑うと、そのまま寝息を立て始めた。一人現実に取り残された賢者は先ほどの会話を思い返してみるが、やはり間抜けと言われる筋合いが分からなかった。

「どういうことなんですかね、ミスラ・・・・。」

ぽつり、一人分の息遣いが響く部屋に彼女の疑問は落とされた。

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