般若と白蛇
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まるで空が泣き出したかのような土砂降りだった。
残業をして終電を逃した仕事帰り、降られた雨に当たりながらコンビニまで走った。
急いで軒下に避難するけれど、服が濡れて体が冷たい。
「散々だなぁ」
自分の些細なミスでチームの足を引っ張り、こんな時間までそれを取り戻す為に働いた。
どんなに長時間働いたってミスを犯した事実は変わらず、ただでさえ気が重いのにこの土砂降りだ。
寒いし、眠たいし、お腹も空いた。
ちょっと泣きそうになって、仕方なく傘でも買おうと思った時だった。
「なんや、ネェちゃん。傘ないんか?」
声の方向に顔を向ければ、そこに派手な男の人がいた。
素肌にパイソン柄のジャケット、そこから鮮やかに覗く刺青、レザーパンツ、眼帯...
どこからどう見ても"只者"ではない雰囲気に圧倒される。
「これ使いや」
男は自分が差している黒い傘を畳むと私の隣に並び、それをこちらへ差し出してきた。
「...え、でも」
「ええから。わしは迎え呼んだらええだけや」
「ほれ」と半ば強引に押し付けられた傘を、私は「ありがとうございます」と受け取った。
「えらい降るのぉ。早よそれ差して行き」
シッシッと野良犬を追い払うみたいな仕草をされて、私はペコリと頭を下げて歩き出した。
怖かったけど良い人だなと思い、誰かの優しさに触れて少しだけ心が暖かくなる。
名前を聞かなかったことは家に着いてから後悔した。
この傘はどうやって返せば良いんだろう。
だから私は仕方なく、あれから毎日黒い傘を持って歩いている。
「やだ、めっちゃ雨降ってるじゃん」
私は同僚の声にPCから顔を上げると、オフィスの大きなガラス窓を見た。
そこには大きな雨雲が広がり、大量の雨粒が景色を濁らせている。
天気予報は晴れだったのにな。
そう思ってため息を吐くが、幸いにも私には傘がある。
あの日借りた黒いそれがデスクに引っ掛けてあった。
就業時間を過ぎてからも雨は降り続けていて、私は傘を持ってオフィスを後にする。
一階の通用口に辿り着いた時、大きな声が聞こえてきた。
「なんで車1台回すのにそない時間かかんねん!」
酷く怒った様子の声に一瞬怯むが、聞き覚えのあるイントネーションに足を進めた。
「こない雨の中わしに濡れろ言うんかボケ!」
チラリと覗き込めばそこには見覚えのあるパイソンジャケット。
あの日私に傘を貸してくれた男が電話をしながら立っていた。
「もうええわ。タダで済む思うなよ西田」
「クソが」と呟いた後で電話は終わったようだった。
土砂降りの外を眺める男の後ろから、私は恐る恐る声をかけた。
「あの」
「アァン?」
ギロリと睨まれ、思わず肩が震える。
私は手に持った傘をそっと差し出すと「これ」と蚊の鳴く声で呟いた。
「以前お借りした傘です。
返すのが遅くなってすいません」
「おぉ!Mストアで雨宿りしとったネェちゃんか」
男は嬉しそうな顔をすると「律儀やなぁ」とそれを受け取った。
「せやけどわしがこれ使たらネェちゃんどないすんの?」
「...折りたたみがありますから」
それは真っ赤な嘘だった。
私に折り畳み傘を持ち歩く習慣はなく、だからこそ以前この男に傘を借りる羽目になった。
けれど明らかに困っている様子であったし、何より元々はこの人のものだ。
自分は多少濡れたって我慢できる。
けれど目の前の男は相変わらず薄着で、雨に当たると風邪を引きそうだなと思った。
「ふうん。それやったらそっち貸して」
「え?」
思ってもみない言葉に私は瞬きを繰り返す。
けれども男は「ほれ」と皮の手袋に覆われた右手を差し出してくる。
「ネェちゃんに傘借りたら返す口実できるやろ。
そしたらそれ口実に飯でも行けるやんけ」
ヒヒ、と男は笑うが私は途方に暮れた。
この人と食事をするというのは想像できなかったし、何より折り畳み傘を持っていない。
どうしよう。目が左右に揺れた。
「あの...嘘です」
「あ?」
「折り畳みなんて持ってません」
「なんや、そないわしと飯食うんが嫌か」
眼光を鋭くされてギョッとした。
自己紹介などされていないがこの人は紛れもなくアッチ系だろう。
私は怒らせてしまったのだと冷や汗をかいた。
「ち...違います...あの...えっと」
しどろもどろになる私を数秒眺めた後、男は急にヒャッヒャッヒャと声を上げて笑った。
「そんなビビんなや。冗談やって。
わしに気使うて嘘ついてくれたんやろ」
「...あ...いや、はい」
「ほんならこうしよか」
男はまた右手を差し出すと笑顔で言った。
「わしと相合傘して駅まで行こ。それでぜーんぶチャラや」
何がチャラなのか分からない。
それでもその顔はイメージにそぐわない程爽やかで。
私は思わず彼の手を取っていた。
「...ネェちゃん、名前なんて言うん?」
「梨絵です」
「梨絵ちゃんな。わし、真島さん。
ほんなら梨絵ちゃん、駅までの短いデートしよか」
私の歩幅に合わせてゆっくり歩く彼の姿を、何度もチラリと見やった。
分からないけれど、この人はたぶん黙っていたら格好いいんじゃないだろうか。
鼻筋は通っているし、背も高いし、腹筋割れてるし...
そんなことを考えていたら、ピリリリリと真島さんの胸元にある携帯が音を鳴らした。
「なんや」
短い挨拶の後で「ほな駅まで来いや、5分以内やで」とだけ言って電話は切られる。
「わしこっから車やから、この傘また梨絵ちゃんに貸したるわ」
「でも」
「ええから使うとき」
駅の改札前で真島さんは傘を畳むとそれを私の手に押し付けた。
そのまま踵を返そうとする彼を私は思わず呼び止める。
「真島さん!」
「なんや、どないしてん」
並んで歩いた彼の右肩はびっしょりと濡れていた。
私は堪らない気持ちになる。
「あの...この傘返す口実に、一緒に食事なんて如何ですか」
私は真っ赤になっていたと思う。
自分から男性を誘うことなんて、私の人生では数えるほども経験がない。
真島さんはツカツカとこちらに歩み寄ってくると、私に一枚の名刺を差し出した。
「雨の日に電話しぃや。
そしたら何遍でも梨絵ちゃんに傘貸せるやろ」
「雨じゃなくても電話します」と、私はそれを受け取った。
傘じゃなくても、ハンカチでもライターでも、何でも良いから口実にしますと、心の中でそう思った。
ーーーーー相合傘
残業をして終電を逃した仕事帰り、降られた雨に当たりながらコンビニまで走った。
急いで軒下に避難するけれど、服が濡れて体が冷たい。
「散々だなぁ」
自分の些細なミスでチームの足を引っ張り、こんな時間までそれを取り戻す為に働いた。
どんなに長時間働いたってミスを犯した事実は変わらず、ただでさえ気が重いのにこの土砂降りだ。
寒いし、眠たいし、お腹も空いた。
ちょっと泣きそうになって、仕方なく傘でも買おうと思った時だった。
「なんや、ネェちゃん。傘ないんか?」
声の方向に顔を向ければ、そこに派手な男の人がいた。
素肌にパイソン柄のジャケット、そこから鮮やかに覗く刺青、レザーパンツ、眼帯...
どこからどう見ても"只者"ではない雰囲気に圧倒される。
「これ使いや」
男は自分が差している黒い傘を畳むと私の隣に並び、それをこちらへ差し出してきた。
「...え、でも」
「ええから。わしは迎え呼んだらええだけや」
「ほれ」と半ば強引に押し付けられた傘を、私は「ありがとうございます」と受け取った。
「えらい降るのぉ。早よそれ差して行き」
シッシッと野良犬を追い払うみたいな仕草をされて、私はペコリと頭を下げて歩き出した。
怖かったけど良い人だなと思い、誰かの優しさに触れて少しだけ心が暖かくなる。
名前を聞かなかったことは家に着いてから後悔した。
この傘はどうやって返せば良いんだろう。
だから私は仕方なく、あれから毎日黒い傘を持って歩いている。
「やだ、めっちゃ雨降ってるじゃん」
私は同僚の声にPCから顔を上げると、オフィスの大きなガラス窓を見た。
そこには大きな雨雲が広がり、大量の雨粒が景色を濁らせている。
天気予報は晴れだったのにな。
そう思ってため息を吐くが、幸いにも私には傘がある。
あの日借りた黒いそれがデスクに引っ掛けてあった。
就業時間を過ぎてからも雨は降り続けていて、私は傘を持ってオフィスを後にする。
一階の通用口に辿り着いた時、大きな声が聞こえてきた。
「なんで車1台回すのにそない時間かかんねん!」
酷く怒った様子の声に一瞬怯むが、聞き覚えのあるイントネーションに足を進めた。
「こない雨の中わしに濡れろ言うんかボケ!」
チラリと覗き込めばそこには見覚えのあるパイソンジャケット。
あの日私に傘を貸してくれた男が電話をしながら立っていた。
「もうええわ。タダで済む思うなよ西田」
「クソが」と呟いた後で電話は終わったようだった。
土砂降りの外を眺める男の後ろから、私は恐る恐る声をかけた。
「あの」
「アァン?」
ギロリと睨まれ、思わず肩が震える。
私は手に持った傘をそっと差し出すと「これ」と蚊の鳴く声で呟いた。
「以前お借りした傘です。
返すのが遅くなってすいません」
「おぉ!Mストアで雨宿りしとったネェちゃんか」
男は嬉しそうな顔をすると「律儀やなぁ」とそれを受け取った。
「せやけどわしがこれ使たらネェちゃんどないすんの?」
「...折りたたみがありますから」
それは真っ赤な嘘だった。
私に折り畳み傘を持ち歩く習慣はなく、だからこそ以前この男に傘を借りる羽目になった。
けれど明らかに困っている様子であったし、何より元々はこの人のものだ。
自分は多少濡れたって我慢できる。
けれど目の前の男は相変わらず薄着で、雨に当たると風邪を引きそうだなと思った。
「ふうん。それやったらそっち貸して」
「え?」
思ってもみない言葉に私は瞬きを繰り返す。
けれども男は「ほれ」と皮の手袋に覆われた右手を差し出してくる。
「ネェちゃんに傘借りたら返す口実できるやろ。
そしたらそれ口実に飯でも行けるやんけ」
ヒヒ、と男は笑うが私は途方に暮れた。
この人と食事をするというのは想像できなかったし、何より折り畳み傘を持っていない。
どうしよう。目が左右に揺れた。
「あの...嘘です」
「あ?」
「折り畳みなんて持ってません」
「なんや、そないわしと飯食うんが嫌か」
眼光を鋭くされてギョッとした。
自己紹介などされていないがこの人は紛れもなくアッチ系だろう。
私は怒らせてしまったのだと冷や汗をかいた。
「ち...違います...あの...えっと」
しどろもどろになる私を数秒眺めた後、男は急にヒャッヒャッヒャと声を上げて笑った。
「そんなビビんなや。冗談やって。
わしに気使うて嘘ついてくれたんやろ」
「...あ...いや、はい」
「ほんならこうしよか」
男はまた右手を差し出すと笑顔で言った。
「わしと相合傘して駅まで行こ。それでぜーんぶチャラや」
何がチャラなのか分からない。
それでもその顔はイメージにそぐわない程爽やかで。
私は思わず彼の手を取っていた。
「...ネェちゃん、名前なんて言うん?」
「梨絵です」
「梨絵ちゃんな。わし、真島さん。
ほんなら梨絵ちゃん、駅までの短いデートしよか」
私の歩幅に合わせてゆっくり歩く彼の姿を、何度もチラリと見やった。
分からないけれど、この人はたぶん黙っていたら格好いいんじゃないだろうか。
鼻筋は通っているし、背も高いし、腹筋割れてるし...
そんなことを考えていたら、ピリリリリと真島さんの胸元にある携帯が音を鳴らした。
「なんや」
短い挨拶の後で「ほな駅まで来いや、5分以内やで」とだけ言って電話は切られる。
「わしこっから車やから、この傘また梨絵ちゃんに貸したるわ」
「でも」
「ええから使うとき」
駅の改札前で真島さんは傘を畳むとそれを私の手に押し付けた。
そのまま踵を返そうとする彼を私は思わず呼び止める。
「真島さん!」
「なんや、どないしてん」
並んで歩いた彼の右肩はびっしょりと濡れていた。
私は堪らない気持ちになる。
「あの...この傘返す口実に、一緒に食事なんて如何ですか」
私は真っ赤になっていたと思う。
自分から男性を誘うことなんて、私の人生では数えるほども経験がない。
真島さんはツカツカとこちらに歩み寄ってくると、私に一枚の名刺を差し出した。
「雨の日に電話しぃや。
そしたら何遍でも梨絵ちゃんに傘貸せるやろ」
「雨じゃなくても電話します」と、私はそれを受け取った。
傘じゃなくても、ハンカチでもライターでも、何でも良いから口実にしますと、心の中でそう思った。
ーーーーー相合傘