夜の帝王
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
俺がその女を初めて見たのは、蒼天堀をフラフラと歩いていた時だった。
佐川が珍しく女をつれて歩いている。
イイ女だなと思ったが、同時に酷く幸が薄そうな印象を受けた。
それが美沙希だった。
仕事帰り、たまに立ち寄る焼き鳥屋がある。
古くからやっているというそこは、カウンターだけのこじんまりした店で、人の良さそうな親父が一人で切り盛りしていた。
寝酒を飲むのに丁度良い位置にあり、その日はたまたま立ち寄ったに過ぎなかった。
建て付けの悪い引き戸を開ける。
ガラガラと音がした後で、ふわっと炭の香りが鼻腔を掠めた。
「いらっしゃい」
親父の声に招かれるまま店内に足を踏み入れれば、カウンターに見覚えのある女がいた。
一人でちびちびと日本酒を煽っている。
「あんた確か...」
俺の言葉に女が顔を上げる。
「真島ちゃん、でしょ。私のこと知ってるの?」
「前に佐川とおるとこ見たわ」
俺は隣の席に腰掛けると熱燗を頼んだ。
「そう。私美沙希よ」
「美沙希サン」
自分より少し年上だろうか、自己紹介した女はニコリと笑った。
その笑顔はやはり幸せそうに見えない。
「今日は佐川と一緒やないんか」
「そんな毎日一緒にいないわ」
美沙希は新香の入った小鉢を端で突いた。
「佐川に会うのは言われた金を納める時だけ」
不健康に細い女の指が猪口を掴んだ。
美人の癖に安い日本酒がよく似合う。
「愛してもない男に捕まって、金の為に体を売って、焼き鳥屋のカウンターで安酒を煽る」
「それが私の人生」と美沙希は笑う。
「真島ちゃんも佐川に飼い慣らされてるんでしょう?
飼い犬同士、仲良くしましょうよ」
美沙希はカウンターに札を何枚か置くと、「また来週ここで」と言って店を出て行った。
別に約束した訳ではないが、俺は律儀にそれを守る。
何かが酷く気掛かりだった。
「あんた大阪出身やないな。生まれはどこや」
「忘れた。北の方のどっか」
美沙希は今日も安い日本酒を煽っている。
「親も兄弟もいなくてね。故郷を捨ててフラフラと大阪に来たのが運の尽き。
ヤクザってね、最初はすごく優しいの。
人生であんなに人に優しくされたのは初めてだった。
ぜーんぶ嘘だったけど」
あの男が如何にもやりそうなことだ。
女を一人風俗に沈めることくらい簡単だろう。
「たまに蒼天堀に身を投げてやろうかな、なんて思うんだけど。
あんな汚い川で死ぬのは嫌だなって考えちゃう。
だから私はまだ生きたいのね」
「そう思えるうちは大丈夫やろ」
なんの気休めかわからない言葉を口にした。
けれど美沙希はそれに笑う。
その笑顔は少しだけ以前より明るく見えた。
「美沙希サン、やったっけ。
あんたなんか雰囲気変わったな」
「真島ちゃんのお陰かも」
「また来週会える?」という問いに俺が「たぶんな」と言うと、美沙希は満足そうに出て行った。
「あの人いつも一人ぼっちで飲んでんやけど」
店の親父に声を掛けられる。
「あんといると楽しそうやわ。あんな顔見たことないで」
「うっさいわ。早よ串焼かんかい」
それから週に一度、小さな焼き鳥屋で飲み交わす関係が暫く続いた。
いつしか女は俺を「ゴロちゃん」と呼び、俺は「美沙希」と呼び捨てるようになっていた。
いつも彼女の人生における不幸話を聞き、良くある話だと感想を抱く。
けれどもそれは不憫な事実に他ならず、少なからず同情はしていた。
そして何度目かの奇妙な待ち合わせを果たした時、美沙希は酷く疲れた顔をしていた。
「なんや、随分と顔色悪いな」
「少し、疲れてるの」
初めて会った時と同じ、悲しい笑顔だった。
「ほな今日はもう帰った方がええんちゃう」
「ん...」
俺の言葉に美沙希は頷くと、カウンターに札を置き出て行った。
いつも必ず「また来週」と言ったのに、この日彼女はなにも言わなかった。
そしてその通り、美沙希は一か月もの間店に現れなかった。
「久しぶり、やな」
店の引き戸を開けた時、いつもの席に美沙希がいた。
一か月ぶりの再会に少し気まずい雰囲気が流れる。
「ちょっと、ね。ゴロちゃん元気だった?」
その顔はどこか晴れやかで、何か良いことでもあったのかと俺は尋ねた。
けれど美沙希はただ首を横に振る。
「ね、ゴロちゃん。お願いがあるんだけど」
「なんや」
「お店、出ましょう」
促されるまま店を出て、ブラブラと公園まで歩いた。
聞けばこの辺りの安アパートに居を構えているらしい。
「お願いってなんなんや」
「あのね、ゴロちゃん。
私のこと、抱いてくれない?」
真っ直ぐ見つめられ、戸惑った。
「それは...」
口籠る俺に美沙希は笑う。
「佐川が怖い?」
「そんなんちゃうわ」
「じゃあ私が、商売女だから?」
「そんな偏見持ってる男に見えるか?」
美沙希は尚も笑って、「そうだね」と言った。
「無茶なお願いだってこと、わかってる。
けど私の人生、好きな男に抱かれたことなんて一度もないの。
一回くらいそういう経験してもいいじゃない?」
美沙希の言葉に俺は押し黙る。
「別にゴロちゃんの女にしてくれなんて言わないよ。
これで最後にするから。ね、お願い」
不幸な女に同情したからなのか、佐川に飼い慣らされてる同士情が湧いたのかわからない。
気付けば彼女の安アパートに招かれ、そのまま体を重ねた。
美沙希は商売をしている女とは思えないほど初心な反応をする。
ひたすら名前を呼ばれ、情事の後はただ裸で抱き合った。
佐川の女の部屋で一夜を共にするなんて大胆なことをしたもんや。
そう思いながらウトウトして目が覚めた時、美沙希の姿はどこにもなかった。
自分の部屋だと言うのに、そこから女は消えてしまった。
それから何度焼き鳥に行っても美沙希には会えなかった。
女のアパートを訪ねるほどの気持ちはなく、佐川に問うほどの熱もない。
だからただの一夜の出来事だと、俺の中で片付けられた後のことだった。
「佐川...はん」
俺が支配人を務めるGRANDの事務所に、佐川が訪れる。
それはいつも通りの急な来訪ではあるが、後ろめたさに思わず目が泳いだ。
「真島チャン、お前俺に黙ってることない?」
佐川は俺の首元を掴むと、その指に力を入れる。
息苦しさで顔を歪めた俺は壁際まで追い詰められた。
「別にあの女に情なんてないけどさ、俺は自分のおもちゃに勝手に触られるのが一番嫌いなんだよ」
殴られることを覚悟したが、佐川はそうしなかった。
フン、と息を吐くように笑うと俺を解放する。
「ま、もう終わった話を言っても仕方ないか」
「終わったってなんや」
佐川の言葉に胸騒ぎを覚え、咳き込むのも忘れて口を開いた。
「あの女、死んだよ。自分で首吊ってね」
「なんや...て」
「真島チャンあの女抱いた時、随分初心だと思わなかった?
そりゃそうだよ。随分昔に俺が手付けたきり、俺はあいつを本番ナシのピンサロに突っ込んでたんだからさ」
佐川は顔色一つ変えない。
「でもあいつ器量はいいけど愛想がねぇだろ。
思ったより稼げねぇんで先月からちょっと非合法な店に配置換えしたのさ。
それがよっぽど辛かったんだろうなァ。
真島チャンに抱かれた後すぐ店で首吊っちまったよ」
あの日、やけに晴れやかだった美沙希の顔が目に浮かんだ。
「最後に真島チャンに抱かれて幸せだったのか、むしろそれが引き金になったのかわかんねぇけどな」
薄ら笑いすら浮かべる佐川に、俺は嫌悪感を抱いた。
「非合法なとこで死なれたんで表にも出せねぇ。
今頃蒼天堀で浮かんでるとこを警察が見つけたところだろうよ。
身よりもねぇからな。
どっかの寺で無縁仏にでもなんじゃねぇか」
あんな汚い川で死ぬのは嫌だと言った美沙希の言葉が浮かぶ。
「せめてもうちょい綺麗なとこに葬ってやれんのか!」
俺の言葉に佐川が再び首元を掴んでくる。
「何、真島チャン。もしかして惚れちゃったの?
でもさァ、忘れちゃダメだよ。
あれは俺が先に見つけたおもちゃでね。
お前が勝手に手を付けたこと、怒ってない訳じゃないんだよ。
でも死んじまったから水に流してやってんだ。
お前も死にたいの?調子乗んなよ」
俺は佐川の手を振り払うと、夢中で蒼天堀に向かって走り出した。
橋の下には大勢の警察官と、野次馬。
人混みを掻き分けるよう前に進むと、ビニールシートを被せられた遺体から、だらんと白い腕が見えた。
汚い橋の柵を掴んで泣いた。
正体の分からない後悔とやり切れなさが俺を襲う。
そしてその思いは、その後何年経っても俺の中に澱のように溜まってなくなることはなかった。
ーーーーー佐川の女
佐川が珍しく女をつれて歩いている。
イイ女だなと思ったが、同時に酷く幸が薄そうな印象を受けた。
それが美沙希だった。
仕事帰り、たまに立ち寄る焼き鳥屋がある。
古くからやっているというそこは、カウンターだけのこじんまりした店で、人の良さそうな親父が一人で切り盛りしていた。
寝酒を飲むのに丁度良い位置にあり、その日はたまたま立ち寄ったに過ぎなかった。
建て付けの悪い引き戸を開ける。
ガラガラと音がした後で、ふわっと炭の香りが鼻腔を掠めた。
「いらっしゃい」
親父の声に招かれるまま店内に足を踏み入れれば、カウンターに見覚えのある女がいた。
一人でちびちびと日本酒を煽っている。
「あんた確か...」
俺の言葉に女が顔を上げる。
「真島ちゃん、でしょ。私のこと知ってるの?」
「前に佐川とおるとこ見たわ」
俺は隣の席に腰掛けると熱燗を頼んだ。
「そう。私美沙希よ」
「美沙希サン」
自分より少し年上だろうか、自己紹介した女はニコリと笑った。
その笑顔はやはり幸せそうに見えない。
「今日は佐川と一緒やないんか」
「そんな毎日一緒にいないわ」
美沙希は新香の入った小鉢を端で突いた。
「佐川に会うのは言われた金を納める時だけ」
不健康に細い女の指が猪口を掴んだ。
美人の癖に安い日本酒がよく似合う。
「愛してもない男に捕まって、金の為に体を売って、焼き鳥屋のカウンターで安酒を煽る」
「それが私の人生」と美沙希は笑う。
「真島ちゃんも佐川に飼い慣らされてるんでしょう?
飼い犬同士、仲良くしましょうよ」
美沙希はカウンターに札を何枚か置くと、「また来週ここで」と言って店を出て行った。
別に約束した訳ではないが、俺は律儀にそれを守る。
何かが酷く気掛かりだった。
「あんた大阪出身やないな。生まれはどこや」
「忘れた。北の方のどっか」
美沙希は今日も安い日本酒を煽っている。
「親も兄弟もいなくてね。故郷を捨ててフラフラと大阪に来たのが運の尽き。
ヤクザってね、最初はすごく優しいの。
人生であんなに人に優しくされたのは初めてだった。
ぜーんぶ嘘だったけど」
あの男が如何にもやりそうなことだ。
女を一人風俗に沈めることくらい簡単だろう。
「たまに蒼天堀に身を投げてやろうかな、なんて思うんだけど。
あんな汚い川で死ぬのは嫌だなって考えちゃう。
だから私はまだ生きたいのね」
「そう思えるうちは大丈夫やろ」
なんの気休めかわからない言葉を口にした。
けれど美沙希はそれに笑う。
その笑顔は少しだけ以前より明るく見えた。
「美沙希サン、やったっけ。
あんたなんか雰囲気変わったな」
「真島ちゃんのお陰かも」
「また来週会える?」という問いに俺が「たぶんな」と言うと、美沙希は満足そうに出て行った。
「あの人いつも一人ぼっちで飲んでんやけど」
店の親父に声を掛けられる。
「あんといると楽しそうやわ。あんな顔見たことないで」
「うっさいわ。早よ串焼かんかい」
それから週に一度、小さな焼き鳥屋で飲み交わす関係が暫く続いた。
いつしか女は俺を「ゴロちゃん」と呼び、俺は「美沙希」と呼び捨てるようになっていた。
いつも彼女の人生における不幸話を聞き、良くある話だと感想を抱く。
けれどもそれは不憫な事実に他ならず、少なからず同情はしていた。
そして何度目かの奇妙な待ち合わせを果たした時、美沙希は酷く疲れた顔をしていた。
「なんや、随分と顔色悪いな」
「少し、疲れてるの」
初めて会った時と同じ、悲しい笑顔だった。
「ほな今日はもう帰った方がええんちゃう」
「ん...」
俺の言葉に美沙希は頷くと、カウンターに札を置き出て行った。
いつも必ず「また来週」と言ったのに、この日彼女はなにも言わなかった。
そしてその通り、美沙希は一か月もの間店に現れなかった。
「久しぶり、やな」
店の引き戸を開けた時、いつもの席に美沙希がいた。
一か月ぶりの再会に少し気まずい雰囲気が流れる。
「ちょっと、ね。ゴロちゃん元気だった?」
その顔はどこか晴れやかで、何か良いことでもあったのかと俺は尋ねた。
けれど美沙希はただ首を横に振る。
「ね、ゴロちゃん。お願いがあるんだけど」
「なんや」
「お店、出ましょう」
促されるまま店を出て、ブラブラと公園まで歩いた。
聞けばこの辺りの安アパートに居を構えているらしい。
「お願いってなんなんや」
「あのね、ゴロちゃん。
私のこと、抱いてくれない?」
真っ直ぐ見つめられ、戸惑った。
「それは...」
口籠る俺に美沙希は笑う。
「佐川が怖い?」
「そんなんちゃうわ」
「じゃあ私が、商売女だから?」
「そんな偏見持ってる男に見えるか?」
美沙希は尚も笑って、「そうだね」と言った。
「無茶なお願いだってこと、わかってる。
けど私の人生、好きな男に抱かれたことなんて一度もないの。
一回くらいそういう経験してもいいじゃない?」
美沙希の言葉に俺は押し黙る。
「別にゴロちゃんの女にしてくれなんて言わないよ。
これで最後にするから。ね、お願い」
不幸な女に同情したからなのか、佐川に飼い慣らされてる同士情が湧いたのかわからない。
気付けば彼女の安アパートに招かれ、そのまま体を重ねた。
美沙希は商売をしている女とは思えないほど初心な反応をする。
ひたすら名前を呼ばれ、情事の後はただ裸で抱き合った。
佐川の女の部屋で一夜を共にするなんて大胆なことをしたもんや。
そう思いながらウトウトして目が覚めた時、美沙希の姿はどこにもなかった。
自分の部屋だと言うのに、そこから女は消えてしまった。
それから何度焼き鳥に行っても美沙希には会えなかった。
女のアパートを訪ねるほどの気持ちはなく、佐川に問うほどの熱もない。
だからただの一夜の出来事だと、俺の中で片付けられた後のことだった。
「佐川...はん」
俺が支配人を務めるGRANDの事務所に、佐川が訪れる。
それはいつも通りの急な来訪ではあるが、後ろめたさに思わず目が泳いだ。
「真島チャン、お前俺に黙ってることない?」
佐川は俺の首元を掴むと、その指に力を入れる。
息苦しさで顔を歪めた俺は壁際まで追い詰められた。
「別にあの女に情なんてないけどさ、俺は自分のおもちゃに勝手に触られるのが一番嫌いなんだよ」
殴られることを覚悟したが、佐川はそうしなかった。
フン、と息を吐くように笑うと俺を解放する。
「ま、もう終わった話を言っても仕方ないか」
「終わったってなんや」
佐川の言葉に胸騒ぎを覚え、咳き込むのも忘れて口を開いた。
「あの女、死んだよ。自分で首吊ってね」
「なんや...て」
「真島チャンあの女抱いた時、随分初心だと思わなかった?
そりゃそうだよ。随分昔に俺が手付けたきり、俺はあいつを本番ナシのピンサロに突っ込んでたんだからさ」
佐川は顔色一つ変えない。
「でもあいつ器量はいいけど愛想がねぇだろ。
思ったより稼げねぇんで先月からちょっと非合法な店に配置換えしたのさ。
それがよっぽど辛かったんだろうなァ。
真島チャンに抱かれた後すぐ店で首吊っちまったよ」
あの日、やけに晴れやかだった美沙希の顔が目に浮かんだ。
「最後に真島チャンに抱かれて幸せだったのか、むしろそれが引き金になったのかわかんねぇけどな」
薄ら笑いすら浮かべる佐川に、俺は嫌悪感を抱いた。
「非合法なとこで死なれたんで表にも出せねぇ。
今頃蒼天堀で浮かんでるとこを警察が見つけたところだろうよ。
身よりもねぇからな。
どっかの寺で無縁仏にでもなんじゃねぇか」
あんな汚い川で死ぬのは嫌だと言った美沙希の言葉が浮かぶ。
「せめてもうちょい綺麗なとこに葬ってやれんのか!」
俺の言葉に佐川が再び首元を掴んでくる。
「何、真島チャン。もしかして惚れちゃったの?
でもさァ、忘れちゃダメだよ。
あれは俺が先に見つけたおもちゃでね。
お前が勝手に手を付けたこと、怒ってない訳じゃないんだよ。
でも死んじまったから水に流してやってんだ。
お前も死にたいの?調子乗んなよ」
俺は佐川の手を振り払うと、夢中で蒼天堀に向かって走り出した。
橋の下には大勢の警察官と、野次馬。
人混みを掻き分けるよう前に進むと、ビニールシートを被せられた遺体から、だらんと白い腕が見えた。
汚い橋の柵を掴んで泣いた。
正体の分からない後悔とやり切れなさが俺を襲う。
そしてその思いは、その後何年経っても俺の中に澱のように溜まってなくなることはなかった。
ーーーーー佐川の女