あなた...小さなレストランの若きオーナー
揺れる思い
空欄の場合は"柚葵"になります
「今日は何を召し上がりますか?」
柚葵が笑顔で問いかけてくる。
この顔が見たかった。
「ほんなら適当につまみ作ってや」
そういうと真島はカウンター席から厨房を眺めた。
小刻みに下ろされる包丁の音が心地良い。
手際よく料理する柚葵の姿はいつ見ても飽きないと思った。
先に出された瓶ビールを片手に、先ほど勇人と呼ばれていた青年の言葉を噛み締める。
一般的にヤクザ言うたらああいうイメージや。
ほんまはこの子の近くにおったらあかんのやろな。
「どうぞ、まず一品目です」
出された皿を受け取り、一口食べる。
うまくできた煮びたしだった。
「うまいなぁほんまに」
「真島さんが来てくださるかもって、昨日のうちに仕込んだんですよ」
「良かった」と笑う柚葵の顔にドキリとした。
血を見る争いを散々続けてきても、こういう感情は残っていたのかと自分で自分に驚いてしまう。
「煙草、気にせず吸ってくださいね」
まだ一度も煙草に火を付けていないことに気付いたのか、柚葵が申し訳なさそうに言った。
「そやかて苦手なんやろ」
吸えるものなら吸いたいが、別に我慢できない訳でもない。
柚葵が苦手ならばやめておこうと思っていた。
「…どうぞ。まだ足りなければ作りますよ」
残りの料理が付け台に置かれた。
4、5品はあるだろうか。
良く短時間でこれだけの品数をこなせるものだと感心してしまう。
「いや、十分やで。柚葵ちゃんも隣に座り。たまには話相手になってや」
真島が隣の椅子を軽く引くと、柚葵が嬉しそうに「はい」と言って厨房から出てくる。
自分の視界に入らないようにわざと左側の椅子を引いた。
あまり近くで顔を見ていたらどうにかなりそうなのだ。
「煙草、本当にもう平気なんです。だから吸ってください」
以前置いて行ったハイライトを柚葵が差し出す。
けれど真島はそれを受け取らなかった。
「なんで苦手やったん?」
理由を聞くまでは吸わないでおこうと決めていた。
できれば柚葵の前で後悔しそうなことはしたくない。
自分が女に対して「煙草を吸ってもええか?」などと聞いたことはなかった。
こんな姿を冴島や桐生に見られたら、何を言われるか分かったものじゃないと思う。
「…ふぅ」
柚葵は深く息を吐いた後、コック服のボタンを外していく。
「ちょ!」
それを見た真島は慌てるが、柚葵の指は第二ボタンを外したところで止まった。
「見えますか?」
そういうと柚葵はコック服をめくり、露出した右肩を真島に差し出した。
そこには幾つかの小さなやけどの跡が見える。
「…煙草の火ぃか」
傷跡を確認すると真島はまっすぐ前を向いた。
むごい傷跡以外にも、今の自分には刺激が強すぎると思ったからだ。
「はい。記憶には全くありませんけど、父にやられたそうです」
隣で柚葵がコック服を着なおす気配を感じ、真島は安堵する。
「母は神室町で働く女性でした。父はどこかの暴力団の構成員だったそうです。
…神室町の産婦人科で生まれたなんて言いましたけど、本当は母は私を自宅で一人で産んだんです。
病院に行くお金がなかったのか、何か事情があったのか私にはわかりません。
ただわかっているのは父が生まれたばかりの私に煙草の火を押し付けるような男だった、ということだけです。
母は逃げるように私を埼玉の施設に預けました。一通りの事情を話した後、職員の目を盗んで消えたそうです。
調べてみたら私は出生届も出されていなかった」
柚葵の言葉に真島は言葉を失った。
普段明るい彼女からは想像もできない過去だったからだ。
「でも私のおくるみに『柚葵』と刺繍があったそうです。名前だけが唯一親にもらったものです。
…だから私には記憶がなかったから本当に煙草が苦手な訳ではないんです。ただ勇人は…
あの子の父親もどこかの暴力団の構成員で、もっとひどい虐待を受けていました。
勇人が施設に来たのは5つの時だから、記憶が残っているんです。
幼いころから勇人は煙草を怖がりました。私はいつも一緒にいましたから自然と煙草が苦手になってしまって」
「今は本当に平気なんです」ともう一度付け加えて柚葵が再びハイライトを差し出してくる。
真島は「いや」と断るが柚葵も譲らない。
「真島さんに遠慮されたり気を使われるのは嫌です。私の前では自然体でいてください。
かわいそうなんて思われるのも嫌いですから」
「…かわいそうとは思わへん。けど、よう頑張ったな」
真島はそう言うと差し出された煙草を受け取った。
「よう頑張ったで」
そう言うと右手で柚葵の頭を撫でる。
「自分で努力して磨いた腕や。夢の為に身ぃ一つで金も貯めたやろし、その夢も叶えとる。
今じゃ立派な城の主や。えらいこっちゃ。その若さで中々できることやあらへん」
真島に頭を撫でられた柚葵の目が潤むのがわかった。
泣かないでくれ、と真島は思う。
今泣かれてしまったら蓋をしている理性の箍が外れてしまいそうだった。
「まぁGRANDちゅー名前には似つかわしくない店やけどな」
いつかも言ったであろう真島の軽口に柚葵がフフと笑った。
「こんな小さな店なのに、変ですよね。
私にとっては叶うかわからない壮大な夢だったから。
もし叶うならこの名前にしようって決めていたんです」
「でも叶った」と柚葵が笑う。
そしてその後で彼女の目から一粒、涙がこぼれた。
「このお店ができてから真島さんに助けられてばかり。
今日だって私のこと、そんな風に褒めてくださって…
本当にありがとうございます」
また一粒、もう一粒と柚葵の目から涙がこぼれ、それが頬を伝っていく。
「なんだか胸がいっぱいで…」
そう涙の言い訳をする女から目が離せなくなった。
「…あかん」
そういったのと刹那。
真島は無意識に柚葵の腕を掴むと強引に自分の方へ引き寄せた。
そして力強く抱きしめる。
「え…」
驚く柚葵の声が耳に届くが、もう体は止まらない。
精一杯に押し殺していた感情が壊れた蛇口のようにあふれ出してくる。
「せっかく冗談言うたのに、柚葵が泣くからや」
力強く抱きしめ、柚葵の柔らかい髪を何度も撫でる。
体を固くしていた彼女の腕が、真島の背中にぎこちなく回された。
「あかんて言うてるやろ」
精一杯発した声は掠れ、体温が上がっていくのを感じる。
止まらなくなってしまいそうや
柚葵の肩にそっと手を置き、自分から離した。
覗き込んだ女の顔は蒸気し、瞳が潤んでいる。
長いまつ毛にはうっすらと涙の粒が残っていた。
このまま引き離して終わりにしよう。
真島は自分にそう言い訳する。
今ならまだ「冗談だった」で済まされる。
引き返すなら今が最後のチャンスだと。
けれど、できなかった。
頬に手を当て、顔を近付ける。
柚葵が少しでも拒絶すれば止めるつもりだった。
けれど女は何かを覚悟したように目を瞑る。
あかんて、なんぼ言わせんねん
そのまま唇を重ねてしまおう、そう思った時だった。
雰囲気に似つかわしくない、間抜けな着信音が鳴る。
真島の携帯だった。
「…なんやねん」
体を離すと携帯を取り出す。
画面には「事務所」と表示されていた。
思ず「チッ」と舌打ちし、「大したことない用やったらしばくで!」と大声で出た。
「…ほうか。わかった。今GRANDにおるから、車1台回してくれや」
どうやら三次組織の組員が一人、弾かれたらしかった。
相手は近江の一員だとかで大きな抗争に発展するかも知れないという。
「仕事や」
と短く言う真島に、「はい」と柚葵が答える。
その顔は恋をしている女そのもので真っ赤に染まっていた。
「そないな顔したらあかん。誘われてんのかと思ってまうやろ」
「真島さ…私…」
柚葵と母親を傷つけた極道と自分は同じなのだと言い聞かせ、返事も聞かず真島は店を後にした。