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出会い〜脱走未遂編


 フユの意識がようやく浮上する。
 ぼんやりとした視界の中で、まず目に入ったのは――白だった。
 
 ただただ、真っ白な天井。
 病院のような白。けれど、どこか冷たく、無機質で、息苦しさを覚えるような――そんな白。

 次に自分の身体がベッドに横たわっていることに気付く。
 柔らかすぎず、硬すぎない上質なマットレスの感触。しかし、安心感なんてものはどこにもなかった。

 頭が重く、喉が乾いている。
 少し身体を起こすと、鈍い痛みが頬に走った。

(……そうだ、殴られてわたし……)
(……ここは、どこなの……?)

 身体を起こしながら周囲を見渡す。

 部屋は、四畳半ほど。
 壁も床も真っ白で、窓はなく、唯一の出入り口と思われる扉らしきものには、取っ手も鍵もない。
 
 辺りを見渡し次にフユが見つけたのは――監視カメラ。
 
 部屋の隅、高い位置で赤いランプが瞬いていた。

(……見られてる)

 そんな言葉が脳裏に浮かぶと同時に、背筋がぞわりと粟立った。
 慌てて布団をたぐって胸元まで引き上げる。服は着ている。それでも、見られてるかもしれないと思うと怖くて、少しも肌を晒したくなかった。

 そして、首。
 細い黒色のチョーカーが巻かれていた。

「……え……?」
 
 無意識に触れた指先が、微かに震える。
 金属の質感。小さな鍵穴。
 
 首輪。――これは、首輪だ。
 そう理解した瞬間、呼吸が乱れた。
 
(だめ、ここ……外じゃない。家でもない……)

 逃げられない。閉じ込められてる。
 窓のない“部屋”に、カメラとチョーカー。
 これはもう、檻だ。そう認識するのに時間は掛からなかった。

 そのとき、カチッとスピーカーが作動する音が響く。
 
『――起きたか?』

 スピーカー越しに聞こえてきたのは、忘れもしない声。
 ――シュウの声。

『そこ、お前専用の部屋だから、好きにくつろげよ。まあ、そっから出られねぇけど』
 
 決してくつろげるような空間ではない。
 シュウの声は、やはりどこまでも楽しげで、恐ろしくて、無邪気だった。
 
『何か欲しいもんあったら言えよ。聞いてやる。……ペットにも最低限の快適さは必要だろ?』
 
 そこでスピーカーからの音声が切れる。
 たったそれだけで、室内の空気が数度下がったように感じ瞳から静かに雫が零れ落ちた。
 
(これが……“飼われる”ってこと……?)

 まだ、現実じゃないような気がしていた。いや、認めたくなかったのかもしれない。
 けれど首に巻かれたこのチョーカーだけが、ここが“現実”だと突きつけてくる。
 
 再び涙が頬を伝った瞬間、扉のロックが外れる音がした。
 
 この部屋に“外”があるのだと、初めて知った瞬間だった。

 音を立て開いた扉の向こうから、革靴の音が響く。
 現れたのは、スーツ姿のシュウ。そして、その後ろには――銀のトレイを持った部下。
 
 食事だ。
 それだけのことなのに、フユの背中に冷たい汗が滲んだ。
 部下は無言で床にトレイを置き、黙ってその場でスプーンを手に取り、スープを一口すくって自ら一口飲む。
 
(……毒味?)
 
 その様子を、フユはただ茫然と見つめる。

 シュウの一瞥を受けると、部下は無言で退室した。

 この部屋に残ったのは、シュウとフユと食事だけ。
 白い陶器の皿には、温かいスープと、サラダ、パン。ちゃんとした“食事”だった。
 けれど、手が伸びない。伸ばしていいかもわからない。

「ほら、食えよ」
 
 ベットに座ったままのフユの目の前にしゃがみこむシュウ。まるで餌を与えるような言い方だ。
 フユは反射的に首を横に振る。

「……い、いや……お、お腹、すいてないです……」
 
 嘘だった。声が無意識に震える。
 空腹ではあった。けれど、喉が塞がって飲み込める気がしなかった。

 その瞬間、空気が変わった。

 さっきまで穏やかだったはずのシュウの表情が、すっと冷える。

「――俺の言うこと、聞けないって意味か?」

 声は静か。怒鳴っていない。
 けれど、フユの脳が警告を鳴らし、彼女の中で何かがざわっと揺れる。

 平手打ちの音。倒れた時の冷たさ。頬も痛み。銃声。血の匂い。
 ……そして――“おしおき”というあの言葉。
 倉庫で起こった光景がフラッシュバックした。
 
「あっ……ご、ごめんなさい……!」

 フユは慌ててベットから降りて、トレイに手を伸ばした。
 スプーンを握る手が、信じられないほど震えていたが、それでもどうにかすくったスープを口元へ運ぶ。
 温かさが、怖かった。食事すら罰と隣り合わせなのだと、突きつけられる。

 シュウはその様子を、満足げに眺めていた。

「美味いだろ? 生き物ってやつは、飯、食わなきゃ死んじゃうからな」
 
 笑ってる。優しい口調。けれど、やっぱりどこか壊れてる気がしてならなかった。
 味なんて全くわからない。美味しいかどうかを認識する余裕なんて今のフユにはない。
 喉を通すだけで精一杯で、何度もフォークを落としそうになる。

 やがてシュウは椅子にゆっくり腰を下ろした後、優雅に足を組み口を開く。

「残さず全部食えよ。せっかく作ったんだからよ」

 彼は、飼い犬を躾ける主人のように楽しげに笑っていた。

(……この人は、私が“食べるかどうか”すら楽しんでるんだ)

 そう思った瞬間、スープの味が一層、苦く感じられた。

 そうしてなんとか最後の一滴を飲み込むと、シュウは椅子から立ち上がった。すっと歩み寄り、フユの目の前に立つ。

「……いい子だな」

 ぽん、と、優しい手つきで頭を撫でられた。
 その瞬間、フユの全身が反射的に跳ねる。
 
「ひっ……!」
 
 口から漏れた悲鳴に、フユ自身が一番驚いていた。
 また怒るかと思ったが意外にもシュウは、くつくつと愉快そうに笑う。
 
「ちょっと触っただけで、そんな声出すかよ?」
 
 その声が怖くて、でも優しくて、なのにやっぱり“逃げ場がない”。触れられるたびに、心臓が縮こまる。
 
「風呂、入ってこいよ」
 
 シュウが口元を緩めて言った。
 どこか普通の日常のような何気ない言葉。けれど、その後に続いた言葉が、すべてを壊す。
 
「一人で風呂入れるの、今日で最後になるかもな?」

 フユの喉がひゅっと音を立てる。
 意味をすぐには理解できなかったが、わかってしまった。
 この先、“一人で”すら許されなくなる。そう言っているのだと。
 
「……い、や……」

 拒むつもりじゃなかった。ただ、声が漏れてしまっただけ。
 幸か不幸か、シュウはその言葉を聞く前にフユの腕を掴んでいた。

「ほら、立て。案内してやるよ、専用の風呂」

 強くもなく、優しくもないその手に引かれ、強引に立たされた。足がふらつき、全身が怖さで重くなり息もまともに吸えない。
 そのまま部屋の奥のバスルームへ連れて行かれた。
 
(これから、何をされるの?)
 
 シュウはフユをバスルームに押し込むと、満足そうに口元を緩ませパタンと扉を閉める。

(今、ひとりにされたのは、何かの前触れ?)

(もしかして、もう体を……あの男に渡さなきゃいけない……?)

 そんな考えで頭がいっぱいで、湯船に浸かっても心がまったく休まらず震え続けた。
 湯の温かさだけが、“人間”としての感覚を思い出させてくれる。
 
 ゆっくりと、肩までお湯に沈む。目を閉じると、怖さと疲れが入り混じっていつまでも出たくなくなる。
 そのせいでつい長風呂になり、のぼせて立ち上がってバスルームの扉を開け脱衣所に出たとき――
 
(……え?)

 脱衣所に戻ったフユの目に映ったのは、バスタオルが一枚だけ。
 着ていた服も、下着も、どこにもなかった。
 棚もカゴも空っぽで、まるで最初から存在しなかったかのように、きれいに片付けられている。

「……う、そ……」
 
 唇が震える。足も、また震え始める。
 バスタオル一枚だけ。それを纏って出ろということ意味なのだろうか。
 
 それとも――すでに、もう見られているのか。

 そんな考えが脳裏を掠めると、思わずバスルームと脱衣室の天井を見上げる。
 ――カメラ。そこには、なかった。
 しかし、だからといって安心できる場所でもなかった。
 
 ここでじっとしてるわけにもいかず、バスタオル一枚でフユは先ほどの、あの“檻”のような部屋に戻るしかない。
 濡れた髪から水がぽたぽたと落ちる。
 白いバスタオルは胸元からぎりぎりのところで巻かれていて、肩や鎖骨、腕、そして膝から下はすべて露わだった。

 ――そして、そこにいた。
 シュウが、部屋の真ん中にある椅子に腰を下ろし、脚を組み、片肘を背もたれにかけて。まるで、舞台の開幕を楽しみにしていた観客のようだ。

「おっせえなあ」

 フユが姿を見せた瞬間、彼は余裕の笑みで言葉を投げつける。
 
「やっぱ女ってのは、どいつもこいつも長風呂だよな。のぼせてんじゃねえの?」

 無邪気な口調。けれど、その視線はタオルの下の”何もないこと”を知っている。
 フユは思わず背を丸め、腕で肩を隠そうとしたが、露出した足はどうにもならない。
 もはや立っていることすら恥ずかしく、足元がふらついてしまう。
 
「お前……ガリッガリだな」

 不意にシュウがひとりごとのように零す。
 フユがびくりと肩をすくめると、シュウは更に楽しげに片眉を上げる。

「少食? 飯、ちゃんと食ってなかったのかよ?」

「……っ」

 図星で答えられなかった。
 満足に食べたことなんて、人生で一度もなかった気がする。
 幼いころかた両親は借金まみれでずっと貧乏暮らし。それでも専門学校ではあったが進学して、なんとか人並の生活に戻れると思った矢先、夜逃げした両親の借金を背負われた。
 少しでも親の残した借金を返すために、食費なんて真っ先に削った。水だけで済ませた日。コンビニのおにぎり半分で一日をやり過ごした日。

 フユが黙っていると、シュウはため息交じりに呟く。

「……んな細かったら、風俗でも売れねえよ」

 その言葉に、フユの身体がぴくんと揺れる。
 
「……売る、んですか……?」
 
 恐る恐る口にした問いは、かすれて震えていた。
 再び空気が張り詰め、マヒルの瞳がひやりと冷える。

「……はあ?」
 
 シュウは椅子から立ち上がると、静かに、しかし着実に、フミナへと歩み寄る。
 ゆっくりと歩み寄ってきた彼は、彼女を見下ろした。
 
「お前は、俺のペットっつっただろうが」

「所有物を他人に触らせるわけねぇだろ。俺、潔癖なんだよな」
 
 最後の一言に、ふっと笑みが混ざる。その笑顔が、いちばん恐ろしい。

「心配すんなよ。お前は、俺専用」
 
 優しい声色で、ぞっとする言葉を囁かれる。
 シュウはふと目を細め、フユの身体からずり落ちかけたバスタオルに視線を落とした。
 
「……ま、いつまでも裸ってのもな。風邪ひかれてもだりぃし」

 そう言うとポケットからカード型のキーを取り出し、あの鉄の扉にかざした。
 電子ロックの音がして、扉が開く。

「待ってろ」

 その一言を残し、シュウはそのまま扉の向こうへ姿を消した。
 どれくらい時間が経ったのかはわからないが、彼は大きめの白いシャツ手に戻ってくる。

「まだなんも買ってねえから、今日は俺の服な」
 
 そう言って、シュウは無造作にシャツを掲げる。
 フユは恐る恐る手を伸ばそうとするが、その手をマヒルがぱしりと掴む。
 
「……ちげえだろ?」
 
 低く、ゆっくりと。けれど、否応なく心に突き刺さる声だ。
 
「……え?」

 何が“違う”のかわからず、フユは戸惑いのまま言葉を飲み込む。
 シュウはその様子に満足そうに口元を緩ませると、首を傾けて言った。

「俺は”ご主人様”で、お前は”ペット”。……わかるか?」
 
 その言葉に背筋がひやりと凍ったが、フミナは反射的に小さく頷く。

「だったら、お願いしなきゃだろ?」

 シュウは、相変わらず楽しげに笑う。まるで躾の一環のように。
 
「お願いしなきゃ、何もやんねえ。お願いできたら、やってやる」
 
 そう言いながら、シャツを片手にぶら下げたまま、微動だにしないシュウ。
 何を言えばいいのかもわからず、フミナの喉が詰まる。
 しかし、その沈黙さえもシュウは許さなかった。
 
「服、着せてください――って、言えよ」
 
 静かに明確な“命令”が下され、フユの心が葛藤で揺らぐ。

(言えない。そんな恥ずかしい言葉、言いたくない。でも……)

 そんなフユを追い詰めるかのように、シュウが肩をすくめる。
 
「……いらねえなら、俺はそれでいいけど? 全裸で寝んのも、ペットっぽくていいな。……それも悪くねえか」
 
 言葉の刃が、逃げ場をなくしじわじわと彼女の心を締め付けてくる。
 羞恥と屈辱と、それでも“裸でいるよりはマシ”という最低限の尊厳が、フユの口を無理やり動かした。
 
「……ふ、服……き、着せて……ください……」

 震えて涙を堪えた声。
 
 でも、それが――正解だった。

 シュウは満足そうに目を細め、「いい子」と呟く。
 彼は、フユの身体に巻かれていたバスタオルを剥ぎ取り手にしていたシャツを、彼女の肩に優しく掛けた。
 その“優しすぎる”手つきに、フユの中で新たな恐怖が湧き上がった。
 ボタンをひとつひとつ留めながら、シュウの指先が何かを確かめるように触れてくる。いやらしさはない。
 ただ、“静かに”“丁寧に”服を着せてくる。
 
(自分で……服を着る自由も、私にはもうないんだ……)

 そんな当たり前のことすら、もう許されない。それを突きつけられる時間だった。
 
 最後のボタンを留め、シュウは笑う。
 フユは、そのシャツに包まれながら俯き震えていた。
 着せられたシャツは、低身長な彼女の身体にはあまりにも大きく、袖は手をすっぽりと覆い裾は膝近くまで届いていた。
 けれど、そのぶかぶかのシルエットがかえって“着せられている”という事実を際立たせていた。

 シュウが、ふうっと満足そうに息を吐く。

「……けっこー可愛いじゃん、お前」

 軽い声だったが、その奥には何かを“所有した者”特有の安堵と悦びが滲んでいる。
 フユは、言葉を返せずにいた。
 
 肌を、見られた。
 生まれて初めて他人――それも男に全て見られた。
 足も下腹部も胸も肩も首筋も――この男の目に晒されていた。
 顔が熱い。胸が苦しい。
 俯いたまま、唇を噛みしめて立ち尽くすしかない。

 そんなフユの顔に、突然、硬い指が触れた。
 ぐいと顎を、乱暴に掴まれ持ち上げられると、すぐ目の前にある真っ黒な瞳と視線がぶつかる。
 その奥が、怒っているのか笑っているのか彼女にはわからなかった。
 
「……着せてもらっといて、無言か?」
 
「お前、礼儀とか知らねえタイプ?」
 
 責めるような声色ではない。
 むしろ、淡白で、あまりにも当たり前のことを言っているような、そんな言い方。
 
(怒ってる……?)

(また、殴られる……?)

(ちゃんと……しなきゃ……)
 
 脳内で、ぐるぐると思考が巡る。脈が早くなり手の震えが止まらない。
 シュウの手が顎から離れないまま、フユの喉がごくりと鳴った。
 そしてようやく、掠れるような声でシュウが望む言葉を紡ぐ。
 
「……あ……あ、ありがとう……ご、ざいます……っ……」

 それは“言わされた”のではなく“言いたくないのに、言わざるを得なかった”声だったが、シュウはその言葉を聞いた瞬間、ゆるく笑った。
 
「そう。それが礼儀だよな」

 顎を離し、フユの頭を軽く叩く。

「してもらったら、ありがとう。ガキでもわかんぞ」

 フユの中の“自由”を確実に削っていく冷めた声だった。

「……は、はい……」

 小さく、怯えながらも頷く。それが、今のフユにできる精一杯の“服従”だった。
 すると、シュウはふっと腰を屈めて彼女の耳元へ顔を寄せる。
 吐息が触れるほどの距離で、優しく、甘く囁く。 

「お前がちゃんといい子でいたら……怖いこと、しねえよ」
 
 「……俺、優しいからさ」

 その囁きが、最も恐ろしかった。
 シュウはゆっくりと身を引くと、真っ白なベッドへと向かい無言で腰を下ろす。
 何も言わずにそこへ座るだけ。たったそれだけなのに、フユには“何かが始まる”合図のように感じられた。

 ――ベッド。
 ――男の人。
 ――自分は今、薄手のシャツ一枚。
 ――助けなんてこない。
 
 足がすくみ、身体がこわばる。
 しかし、シュウは無慈悲にフユを見据えた。
 
「……何してんだ。早く来い」
 
 軽い口調。しかし、確実に逃げ道を断つ音だ。
 その一言に、フユの目に溜まっていた雫が、堰を切ったように次々と零れ落ちる。
 
「……や……っ……ぅ、う、ぅあ……」
 
 しゃくりあげる声が漏れる。涙が頬を伝い、顎をつたって落ちていく。
 来いと言われた。ベッドに。
 “そういうこと”をされるのかもしれない。
 覚悟なんて、できていない。そんな経験、今まで一度もなない。フユの体は男をまだ知らない。
 それでも、”拒む”なんて選択肢はフユには与えられていなかった。

(いやだ、でも、言ったらまた――)
 
 頭の中で、あの“音”が蘇る。平手打ち、銃声、叱責。
 泣き出したフユを前にしても、シュウの表情は変わらない。

「……隣。座れ」
 
 怒るでも、慰めるでもない。ただ、当然のように命令する声。

 涙を拭う余裕もないまま、フユはゆっくりと、足を動かす。
 一歩一歩、ベッドへ。そして、シュウから距離をとって端のほうにそっと腰を下ろした。せめてもの抵抗だったのかもしれない。
 シュウは文句を言うこともなく、自然にその距離を詰めてきた。
 肩が触れるか触れないか、ぎりぎりの距離。触れはしないが、逃げられるほどの隙間もない。
 フユは、泣き顔を見られないように俯くしかなかった。
 
 不意にシュウが、身体は触れず、視線だけをぶるかのようにフユの顔を覗き込む。

「お前、泣いてる顔……可愛いな」
 
 ぽつりと、思ったままを零すように言う。
 
「今どんな気持ちで泣いてんだよ。怖くて堪んなくて泣いてんの?」

 楽しげな声。
 まるで、それを知ることが“興味深い観察”か何かのように。
 
(……かわいい?今そう言ったの?)

(この状況で? なんで、そんなこと……)
 
 涙を見て、可愛いと言われる。
 その言葉の意味が理解できず、フユは固まった。
 シュウの視線は、冷たくはない。けれど、温かくもなかった。
 まるで泣いているフユすら、“面白いオモチャ”のように、観察しているだけのようで。しゃくりあげるフユの顔を、シュウはじっと見つめる。
 その視線から逃げられず、ただ俯いて涙を拭うこともできなかった。
 
 シュウの指先が、そっと頬をなぞる。

「……この涙も、俺だけのもん」

 ぽつりと落とされた。
 低く、優しげで、それでいてどこか怒っているようにも聞こえる声。
 フユの背筋がぴしりと凍った。

(……なに、いまの……)
 
 混乱と困惑で身体がこわばる。
 なぜそんなことを言うのか到底理解ができない。
 けれど、そんな風に困惑するフユを気にすることもなく、彼は囁くように耳元で続けた。
 
「他のやつの前で泣いたら、”おしおき”な?」
 
 声が直接、鼓膜の内側に落ちてくる。
 
「お前は俺のもんなんだから」
 
 意味がわからない。でも、抗うこともできない。
 涙の所有なんて、そんなものがこの世にあるなんて聞いたことがない。
 フユが声も出せずに固まっていると、シュウの声がもう一度落ちてきた。 

「……おい。返事」

 心臓が跳ねる。
 そのたった一言で、フユの脳裏に蘇るのはあの時の――椅子ごと倒され、叩かれ、冷たい声で言われた言葉。
 
 ――「返事は、はいだけだ。やり直せ」
 
(……はい、って、言わなきゃ……)
 
 ”おしおき”が、何を意味するのかはわからない。
 でも、試されていることだけはわかった。

「……は、はい……」
 
 掠れた声で、それだけをなんとか絞り出すと、シュウの顔がふっと綻んむ。
 
「いい子だ」
 
 そう言って、シュウの手が――フユの頭に、触れた。
 指先が、濡れた髪を梳くように動く。
 撫でるように。 まるで、ペットをあやすように。

 それが、優しかった。あまりにも、優しすぎて。

(……頭、撫でられるの……初めて……)

 親からにすら、頭を撫でられたことがなかった。
 我が子に借金を押し付け逃げるような親だ。幼いころから親の愛情なんてもの、フユは受けたことがない。

 (怖いはずなのに……拒絶しなきゃいけない相手なのに……)
 
 その手のひらの温もりが恐怖と安堵の境界を曖昧にする。
 なにが正しいのか、もうわからない。どこまでが“されること”で、どこからが“自分の意思”なのか。
 夢に見た優しさが、恐怖の手の内にある。

 シュウの指が、フユの髪をゆっくり撫でている。

 まるで毛並みを整えるように、丁寧に、やさしく。
 ただ、それは恋人のようでもなく、親のようでもなく――どこか、ペットに触れる“飼い主”の手つきだった。

「……お前は、いい子だな」
 
 ぽつりと、シュウが言葉を落とす。
 呟きというにはあまりにも意図的な、まるで“教え込む”ような響き。
 その言葉が褒め言葉なのか、“いい子でいろ”という命令なのか、フユには分からなかった。

(……これって、褒めてるの?)

(それとも、……従わせたいだけ?)
 
 温かいはずの手が、怖くて、でも心地よくて――怖いのか、優しいのか。
 どちらかに決めてしまいたいのに、境目が見えない。
 
 ――その不確かさが、一番怖い。

 そう思った瞬間、シュウの手が、ふと撫でるのを止めた。
 そして、そのままフユの肩を掴み、静かに告げる。

「――寝ろ」
 
 一言。けれど、その一言が、背中に冷たい刃のように刺さる。
 
(……寝ろって、まさか……)
 
 頭の奥が、真っ白になる。
 ベッドの上。男とふたりきり。シャツ一枚。拒めない立場。
 
「……ま、まって、くださ……」
 
 思わず震えた声が漏れた。

 その瞬間――

 バチンッ、と鋭い音が部屋に響く。フユの視界がぐらりと揺れ、頬は焼けるように痛みを訴える。
 倒れそうになる身体を、シュウの手は逃がず彼女の耳元に氷のような囁きを落とす。

「これが、おしおき。……わかるか?」
 
 フユの目に、涙が滲む。
 
(嫌だ、怖い、もう叩かれたくない……痛いのは、嫌……)
 
 首が勝手に動いた。こく、こく、と必死に頷く。
 その瞬間、シュウの手が再びフユの頬に触れる。

 今度は――やさしく。
 
 額に、唇が落ちた。

「こっちは、ご褒美な」
 
 優しく微笑むシュウは、さっきとは別人のようだった。
 
(……殴られるよりは、こっちのほうが……まだ……)
 
 フユの足がベッドの上へと向かう。
 “自分で選んだ”わけじゃない。
 でも――選ばされているうちに、その境界がもう、わからなくなっていた。

 静かにフユベッドに横たわると、シュウはそれを見届けるようにベッドの縁に腰掛けた。
 ただ、眺めている。何もしない。だけど、視線だけが――フユを支配する。
 フユは、身体を小さく縮こめるように背中を丸め、ぎゅっと目を瞑る。

(……犯されたら、どうしよう)

(お願い、何もしないで……)

(……今日だけは、もう……終わりにして)
 
 声にならない祈りを、彼女は心の中で何度も繰り返した。

 いつかは――いずれは、きっと。身体も、全部、暴かれてしまうのだろう
 でも、それが“今日”じゃなければ、それでいい。 それだけを、ただ何度も、何度も願った。

 その時――
 
 ふわりと、毛布がかけられる感触。
 驚いて身体がびくりと跳ねたが――何もされなかった。
 ただ、シュウの手が、そっと彼女の髪を先ほどのように撫でる。

 あまりにも、優しい手つきで今さっき自分の頬を叩いた手と同じだなんて、信じられなかった。
 
(……違う人、みたい……)

 頭が混乱する。怖いのか、安心しているのかさえ、判別がつかなかった
 それでも、今日だけはもうこれ以上、何もされない。その“保証のない安心感”に、フユはわずかに縋ってしまう。
 心が、音もなく崩れていく。気づけば、フユの瞳からは涙は溢れた。溢れだし、止まらないままいつしかフユの呼吸は浅くなり、静かに寝息へと変わっていった。

 シュウは何も言わなかった。
 ただ、寝息を立てるフユの顔を、黙って見つめている。
 毛布にくるまり、まだ泣きながら眠っている女の顔は――不安と痛みと、幼さが滲んでいて。
 
「……ふ」

 笑った。楽しそうに、心底満たされたように。
 そして、誰も聞いていない空間にだけ届くほどの声で、ぽつりとつぶやいた。
 
「……本当に壊すのは、もっとあとだ」
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