出会い〜脱走未遂編


 走る。走って、走って、走って――もう、これ以上どこへも行けない。

 心臓の音が鼓膜を内側から叩いていた。
 口の中はからからで、呼吸もうまくできない。
 雨上がりの路地裏は滑りやすく、何度も転びそうになる。それでも、立ち止まらない。立ち止まったら終わりだった。

 黒髪を揺らし、どこか幼い顔立ちの20歳のフユという女は、夜の街を必死に走っていた。
 
「いたぞ! あっちだ!」

 誰かの怒鳴り声が背後から響く。
 視界がぐにゃりと揺れ、脳が酸素を求めて悲鳴をあげる。
 それでも、やはり足を止めない。止めることは出来なかった。

(……死にたくない……!)
 
 その一心だった。
 親が作った借金。逃げた両親。残された督促。
 通っていた医療事務の専門学校は辞め、いくつものバイトを掛け持ちして昼夜問わず働き続けた。
 それでも“あの額”には到底届かなかった。

 だから――"逃げる"しかなかった。

「逃げんな、クソガキが!」

 鋭い声と同時に、背後から腕を掴まれる。

「……っや、!!」
 
 抵抗する暇もなく、コンクリートの壁へ乱暴に体が叩きつけられた。
 視界がぐらりと傾き、膝が崩れる。痛みで息が詰まったのと同時に、誰かの靴音が近づく。

 痛みに耐えきれなかったのか、それとも恐怖からかふっと、フユの意識は遠のいた。

───

 目を覚ますと、フユはパイプ椅子らせられていた。
 両手首と足首を、黒いビニールバンドのようなもので椅子に縛りつけられている。
 目の前には見たことのない天井。コンクリートむき出しの、どこかの倉庫のような無機質な空間だった。

 そして、周囲には――
 黒いスーツに金のネックレス、見ただけで“ヤクザ”だとわかるような男たちが五、六人。全員が睨みつけるようにしてこちらを見下ろしている。

 フユは、声を出すことすらできない。恐怖で喉の奥が張り付いたようにカラカラになったような生まれて初めての感覚だった。
 
「ずいぶん舐めた真似してくれたな、クソ女」

 連中のなかで最も威圧的な男が吐き捨てる。
 フユは堪らず足元に視線を落とす。体が勝手に震えて止まってくれない。
 
「借金、どうした? 逃げる前に返すもん返せや」
 
「てめぇみてぇのはな、風俗行って身体で金作って返すしかねぇんだよ。わかってんのか?」

 ぞっとする言葉だった。
 耳にしたくなかった単語が、あっさり刃のように投げつけられる。

「逃げなけりゃ情かけてやったのかもしれねぇのによ。ほんとバカな女だな」
 
「その顔で泣いて股開きゃ、いくらでも金になるだろ?」
 
 瞬間、笑い声が連鎖し、空間がゆがんだように感じられた。
 息が詰まって、フユの丸い瞳から雫がぽたりとこぼれ落ち、勝手に溢れて止まらなかった。
 
 (もうだめだ。逃げたって無駄だった。どこにも味方なんかいなかった。)
 (初めから、私の人生は……終わってたんだ。)
 
 暗く冷たい部屋で、椅子に縛られたまま、フユは静かに涙を流した。ぽたり、ぽたり、と涙が彼女の膝を濡らす。

 そのとき――

 コツ、コツ、コツ、と硬質な音がゆっくりとこちらへと近づいてくる。
 革靴の足音だと理解するのにそう時間はかからなかった。

 静寂のなかに規則正しく響くその音だけで、場の空気が一変する。
 ざっ、と。先ほどまでフユのことを好き勝手に罵っていた男たちが一斉に姿勢を正し、全員が入り口の方へ頭を下げた。

 もっと……もっと“上の人間”が来たと、フユは直観する。
 
「逃げた女、捕まえたって?」

 低く、抑えた声。
 声の持ち主の姿はまだ見えない。だというのに、圧が違った。背筋が凍るような気配だけが迫ってくるような声。
 場の全員が息を潜めるように沈黙するなか、フユだけが椅子に縛られたまま、体を小刻みに震わす。

 その声の持ち主であろう男は真っ直ぐにフユの前へ歩いてくる。
 やがて足音が止まり、視界の端に黒いスーツの影が現れる。その男が腰を屈めゆっくりとフユの顔を覗き込んだ。

 綺麗すぎる顔だった。
 黒髪の間に除く切れ長の目。、高い鼻梁、薄い唇。まるで人気若手俳優のように整っているのに、どこまでも冷たい。彼の瞳には感情がまるでなかった。

 その男――若頭・朝日奈シュウは、ふっと口元を歪め、低く笑った。
 フユの親が借金をした関東最大の極道組織《朝日奈組》――その若頭だった。

「……こんなガキに逃げられるとか、俺らも舐められたもんだよなあ」
 
 わざとらしい、演技がかった声色。
 笑うたびに、この男の何かが狂っているのがわかる。
 
 (この人は――笑いながら、命を奪える人……。)

 根拠もなく、フユはそう確信する。
 喉が焼けるように渇き、呼吸が苦しくなっていく。

「若、こいつどうします?風俗にでも売りますか? それとも……殺っちゃいます?」
 
 ひとりの男が軽口を叩くが、まわりは誰も笑わない。
 この男、朝日奈シュウを除いては。
 
 シュウはフユから視線を外し、ふっと目を細める。
 
「風俗ねぇ……」

 その声色に、フユの心臓が跳ねる。
 どこか“面白がっている”ような響き。けれど、それが一番怖かった。

「風俗ごときで返せる額じゃねえよ、もう」

 シュウが笑って言った瞬間、フユの脳裏に、“死”という言葉が鮮明に浮かぶ。
 
(……終わった)

 本当に殺される。
 いや、殺すよりもっと酷い目に合うのかもしれない。
 例えば、臓器を売られるとか。身体をバラバラにされるとか。そんな想像が脳裏に浮かぶと再びフユの瞳に涙が滲んだ。
 これが、自分の人生の最期なのだと、彼女は静かに受け入れようとした。

 ――そのとき。

「……でもよ」
 
 ふいに、シュウが言葉を続け、フユの頬を指先でゆっくりなぞった。
 
「殺すには、惜しい顔してんだよな」
 
 瞬間、フユの前髪が掴まれ乱暴に引き上げられた。

「……っ、あ……!」

 痛みに呻き声が漏らしながらも、それ以上に恐ろしかったのは彼の表情だった。
 まるで、興味深いオモチャでも見つけた子どものような楽しげな表情。
 
 シュウは楽しそうに、笑っていた。
 
「なあ、お前、死にてぇ ?」
 
 唐突に投げかけられた問いに、フユの思考は停止する。
 
(死にたい?――何を言ってるの?)
(わからない。わからないけど、何か答えなきゃ。)
 
 答えなきゃ、そう本能が叫びフユは必死に首を振った。
 何度も、何度も、縋るように。
 
「……だよなあ」
 
 シュウはくつくつと喉を鳴らして笑い、指を離した。フユの頭が、がくりと落ち視界が揺れる。
 
「だったら、俺が飼ってやるよ」

 淡々と。まるで、天気の話でもするかのように。

「――今日からお前は、俺のペットな」

 その一言に、部下たちの間に微かなざわめきが走る。

「またそんな急な……! 若、だいたいこいつは――」
 

 次の瞬間。

 パンッ、と何かが弾ける音がした。フユが聞いたことのない音だった。
 彼女が音の方へ目を向けるよりも早く、何かが飛び散った。赤いものが、フユの頬に、ぱたっと跳ねた。

 (……何?)

 直後、さっきまで口を開いていた男が、床に崩れ落ちている。

 そこに“人の形”は、もうなかった。

 煙をくゆらせる黒い銃を、フユが無言でホルスターへ収める。

「ひゅ、……あ、あ……っ」
 
 フユの喉からは、かすれた空気の音しか出なかった。
 言葉にならない。震えが止まらない。目の前で起こった惨劇が現実だとは認めがたかった。

 そのなかで、シュウは――やけに優しげな声で囁く。

「今日からお前、俺の所有物な」
「勝手に逃げたり、俺に逆らったりしたら……おしおきな?」

 そう言って彼は笑っていた。
 血の匂いの中で、無邪気な子どもみたいに。

 フユは相変わらず理解が追いつかず、体を小刻みに震わせていた。

「……ど、どういう……」

 ようやく絞り出せた声。しかしフユの声が途切れるよりも早く、バシンッ!と乾いた音にかき消された。

 強く頬を打たれた衝撃で、縛られていたパイプや椅子ごとフユの体がごとりと倒れる。
 視界がぐるりと反転し、気付けば床が目の前にあった。
 
 頬が、じんじんと熱い。痛い。怖い。

「返事は、“はい”だけだ」

 倒れたフユの髪を、シュウが再び強い力で掴み、無理やり顔を起こす。
 その声は、さっきまでのどこか壊れた笑みとは違っていた。冷たく、命令のためだけに発された声だ。

「やり直せ」

 拒否などできるはずがなかった。フユは震える唇を無理矢理動かす。
 
「は……はい……」

 それが、自分の命を繋ぐ、唯一の選択肢だと理解したからだ。

 すると、フユの手足を拘束していたビニールバンドが外された。体を括りつけていたバンドがなくなると同時に、誰かの手が乱暴にフユの腕を引き上げ体を引き起こされる。

 フユはそれすらも怖くて、身体が跳ねる。ガタガタと、歯の根が合わないほど彼女は震えていた。

 ――人に殴られたのは、初めてだった。

 あの乾いた音。倒れたときの衝撃。頬に残る鈍い痛み。これが“暴力”なのだと、生まれて初めて知った。
 
「はは、なんだよ。小動物みてえに震えて……ウケるな」

 シュウの声は、ひどく楽しそうだった。
 その顔には、怖さも怒りもない。ただただ、悪意のない“無邪気な悪”が浮かんでいる。

「おい、首輪あるか?」

 不意にそんな言葉をシュウが部下に投げかける。
 もちろんその声はフユの耳にも届いたが、彼女の脳内は、理解が追いつかなかった。
  
(……くびわ?)
(首輪って……ペットにする……?)
 
 意味がわからない。けれど、理解したくもなかった。 

「今はねぇっす」

「ちっ、つまんねえな」

 舌打ちしたシュウは代わりに、何か別の拘束具を受け取ると、それを使ってフユの手首を無理やり後ろに縛り上げ、引きずるように倉庫から連れ出した。
 
 倉庫の前に止まっていたのは、黒塗りの、いかにもな雰囲気の車。
 すぐさまドアが開けられ、フユは無理やり後部座席に押し込まれる。バンッ、と乱暴にドアが閉まる音が、まるで檻の扉のように響いた。

 どこに連れていかれるのかなんて、フユには全く予想ができなかった。
 
 殺されるんじゃないか。さっきの言葉は全部、ただの“前置き”だったんじゃ……。
 
(拷問……売られる……また殴られる……)

 そんな想像が止まらなかった。そんな最悪な想像でも……こうして考えることでしか、この恐怖から逃げられない。

 隣に足を組んで座るシュウは、顔を真っ青にし震えるフユをちらりと見て、また口角を上げる。

「なぁ、お前、名前なんだっけ」

 それだけの問いかけなのに、フユの喉が閉じた。
 
(答えなきゃ。でも、答えていいの?本名を言っていいの?)
(言ったら、何かされるんじゃ……)
 
「この口はお飾りか?」

 シュウは不機嫌そうに呟き、ぺし、ぺし、とフユの頬を軽く叩く。

 まるで反応を確かめるかのように。
 まるで、“試して”いるかのように。

「また、無理やり開かせてやっても、いいけど?」
 
 その一言。
 たったその一言でフユの中に蘇るのは、先ほどの痛みだった。平手打ちの衝撃。倒れたときの冷たい床の感触。
 
 耐えきれず、口が勝手に動いた。

「……ふ、フユ……です」

 蚊の鳴くような声だった。
 けれど、それを聞いたシュウは嬉しそうに目を細めた。

「フユ、ねぇ。……フユか」
 
 なぜか、確認するようにシュウは何度もその名前を口の中で転がす。

「俺は、シュウ、な?シュウさんで、いいぜ」

 シュウはここで初めてフユに対し自分の名を名乗った。

 しかし、名乗られてもなおフユは車のシートの隅で、小刻みに震えていた。
 身を縮め、瞼をきつく閉じ、息を殺して声を出さずにこの恐怖をやり過ごそうとする。
 
 しかし、シュウは見逃さなかった。フユの怯えた様子を
 見て、シュウは退屈そうに口を開く。

「……なあ、ずっとそうやって震えてられても、つまんねぇんだけど」
 
 そう口にした後、シュウは何か思い付いたような表情をする。
 
 そして、彼はくっと喉を鳴らして笑い――

「フユ」
「ひっ……!?」

 シュウは突然フユの名前を呼んだ。
 名前を呼ばれただけ。それだけのことでもフユの身体じは恐怖で跳ねる。
 彼女の小さな口から掠れた小さな悲鳴が漏れたのを、シュウは楽しげに見つめフユの耳元に自身の唇を寄せる。

「フユ」
「……や、め……っ……ひ……っ」

 呼ばれるたびに、怯えがフユの全身を駆け巡る。
 息が苦しい。酸素が足りない。音が遠ざかる。

 名前を、何度も、優しげに、しかし確実に“脅し”として繰り返すシュウの声。

 ――その声を最後に、フユの意識は真っ白になった。
 
 気を失ったフユの頭が、静かにシュウの肩にもたれかかる。
 
「……やべ、壊れんの早すぎじゃね?」

 呆れたように笑いながらも、シュウはフユの頭を乱暴に支えた。
 
「ま、いっか。飼いならすのは、これからだしな」
 

 
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