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千紗のお仕事探し奮闘記

「石橋くん、何か用があったんじゃないの? ほしい本でもあった?」

 再びレジの方から顔をだし、河合が声をかけた。
 千紗の知らぬ間に、昔では考えられないほど二人は気軽な様子で会話を交わしていた。どうやら和解したようだという話は聞いていたが、それにしても石橋に変な威圧感はないし、河合も怯えた様子はない。それは異様な光景ですらあった。
 そして自然な様子で石橋はああそうだ、とズボンのポケットをさぐり紙切れを差し出す。

「この本探してんだけど」
「……ああ、なるほど。プレミアついてるけど……」
「は? まじ? あんの!?」

 お座敷の前の通路を通り過ぎ、河合は奥の部屋に向かう。そちらは倉庫かなにかになっているらしいというのは知っていたが、千紗はその扉の向こうを覗いたことはない。

「石橋、本読むんだ」
「俺じゃなくて彼女がな。誕生日だから」
「え! やさしーじゃん!!」
「だろ」

 千紗は今までの石橋へのイメージは誤っていたのかもしれない、と申し訳なく思った。こうして人のために積極的に動くタイプだとはまったく思わなかったのだ。

「上下巻併せて二万ね」
「にっ!?」

 その石橋の素っ頓狂な声というのは、なんだかちょっと面白かった。
 河合が持ってきたのは二冊の文庫本である。プレミアがついているというのでそれはそれは歴史の深い古書なのだろうと思っていたが、少し古いだけで普通の本だった。ふちがよれて、ふわふわと紙の繊維が飛び出しているだけで、装丁などは親世代の若い頃に売られていた本なのかな、程度の古さだ。

「文庫本にしてはかなり高いけど、ネットの相場を参考にしたら妥当な値段よ」
「こ、こんなちっせえ本に……二万……」
「いっぱいゲーム買えるね……」

 ものの価値は千紗にはさっぱりわからないが、そう聞くとなんだかすばらしい作品の表紙のように思えてくるから不思議だ。図形が描かれたデザインはアートのように感じる。

「……二万……二万かあ……」

 噛みしめるように石橋は唸る。
 千紗はなぜだか人のそんな姿を見ると半分出そうか!? などと口をついて出そうになるのでぐっと堪えた。当然そんなことを言われたって石橋もその彼女もありがた迷惑でしかないだろう。
 にまん。と千紗も頭の中で反芻する。それだけあれば息子の服も買い換えられる。本も自由に選んで良いよと言ってやれる。甘党な夫にホールケーキを買ってやれる。そう思うととてつもない金額であった。その二万を稼ぐ術は今の彼女にはないのだ。

「石橋今仕事何してるの?」

 ふとわいた純粋な疑問である。彼がよくあるサラリーマンをするとは思えなかった。幼なじみ同様、そういう社会とそりがあわない人種は意外と周りに多い。
 すると彼はあからさまに言葉を濁した。むうん、というような唸りを漏らし、視線を明後日の方にそらす。

「ん?」

 もしかすると彼女のヒモでもやってるんだろうか。あり得なくはない。そしてできなくはないだろう。そりゃあ二万も出し渋る。
 石橋はしばらく「うー」とか「むー」とか唸って、頭を掻いて、唇をもごもごして絞り出すように言った。

「……が……ガラス職人……」
「えっ」
「の、見習い……」
「え!?」

 思ってもみない返答であった。
 聞くに、ガラス職人というのは学校なんかもあるものの、工房に弟子入りするのが一般的な就職方法であるらしい。そちらで修行をして、一人前になればよいものの、それまではバイトをしていた方がよっぽど稼げるほどの賃金しか貰えない。むしろ学ぶ立場なのだから、金を払わなくていいだけ良心的なのだそうだ。
 ちなみに、石橋が卒業した大学は芸術などとはなんの縁もゆかりもない学校だ。二年の頃、突然思い立ったのだそうだ。ということで学校に通いつつ、卒業後も弟子入りとなれば当分収入はあてになりそうもないのでバイトをして貯金をしていたらしい。これには河合も千紗も、あの石橋が? と耳を疑った。高校時代の記憶の限りでは、そういった地道な苦労とは無縁の人間と思っていたのだ。
 実際のところ、だらけたり道草を食わずに大学を卒業できたのも職人見習いになれたのも、石橋の言う「彼女」というものの活躍があったおかげなのだが、それはまた別の話である。
 当然千紗はガラス職人というものをよく知らない。テレビで棒の先に熱せられたガラスをくっつけ、ふうふうと吹く姿しか知らない。どのようにして就職するのかも知らないし、どんな時間帯に働くものなのかもわからない。いつどうやって依頼や対価が発生するのかもよくわからない。しかし自らの夫の知的探求心ほどではないにしろ、こういった創作ごとへの好奇心は人並みにあった千紗はあれこれ尋ねたくなった。しかし本題はそこではない。ぐっと口を噤む。あとで教えてもらおう、と自分をなだめた。

「……じゃあ、あんまり生活に余裕はないということね。よく知らないけど、駆け出しの職人っていうのはどこもそういうものでしょ?」

 河合の言葉に、石橋はふてくされるような顔をした。
 誰しも下積み時代というのは苦しいものだが、いざ自分のそんな現状を知られるのはやはり恥ずかしいのである。成功したのちに苦労話をするのとは訳が違う。これから全く実を結ばない可能性だって十分あるし。絶対夢を叶えてみせるぜ! と豪語できるような性分でもなかった。

「取り置きしてもらうっつーのは……」
「もちろんいいわよ。どうせずっと裏で眠っていたんだし」

 ネットオークションに出品すればすぐに売れちゃうでしょうけどね、と河合は脅すように冗談を言った。
 石橋の様子は多少落胆したように肩を落としていた。まさか文庫本にこれほどの値がつくとは思いも寄らなかったのだろう。そして自分の生活費に思いを馳せていることだろう。
 それを見て河合は一度千紗に目を向け、それから本に目を落とした。そのあとまた石橋の情けない姿に視線を戻す。

「彼女さん、本が好きな人なの?」

 河合の質問に、石橋はきょとんとした顔をする。こうした話題を河合は普段振らない。必要なことを言い、必要なことに答える。たまに冗句も言うものの、話しの合間に茶々を入れることはあるものの、自分から疑問を産みだし、投げかける人間ではないのだ。
 千紗はこういう質問された石橋がどんな表情で答えるのか気になって、その顔をじっとみた。

「あー……まあ、暇さえあれば読んでる」
「本棚は大きい? 本を開いたまま伏せたら怒る人?」
「な、なんなんだよ。そりゃあ、まあ、よくいる本好きくらいには……。床が抜けるから、図書館使うことも多いけど」
「なるほど」
「なんで私の周りって読書家ばっかりなんだろう」
「類は友を呼ぶっていうだろ」
「私は読まないよ!」

 えばるな、と窘められ千紗は河合の顔を見てその意図を伺う。なるほど。とは一体。
 すると河合は二冊の本を重ね、とんとん、と底を軽くテーブルに当てる。
 まるで裁判官の、静粛に! というハンマーみたいだと千紗は思った。

「古本が高いのはね、ちゃんと求めている人のところに渡るためなのよ」

 河合は親指で表紙をさする。
 千紗はその言葉や様子がとても不思議だった。
 本の中にあるのは情報である。物語に感動する気持ちは千紗にもよくわかるが、それでも文字だけ、というのはやはり千紗には味気ないのだ。だって、そのまま書き写してしまえばいくらでも増やせるではないか。音や絵があるなら、そう簡単にはいかないのだろうと思うけれど、文字だけ。素人でも機械を使わなくてもできる。絵や音や匂いがないからこそ無限に想像ができてよいのだという河合の熱弁を昔聞いたことがあったが、千紗はその価値に気づけていない。
 その文字たちに高値をつけて追い求める姿というのは千紗にはわからなかった。もちろん本を愛し、本を求めている人を前にそんなことを口に出せるわけはないのだが。
 一方石橋もこちらはこちらで一体河合がどう話を進めるのか、出方を伺うように視線を小さな、未だ少女らしさを失わない河合へと落としていた。

「わたしはこれを持っていただけで、作った人でもなんでもないでしょ。高い値段をつけているのは儲けを得るためじゃなくて、これを安く買って高く売り払うためだけに狙う人から遠ざけるため」

 千紗は石橋の目がきらんと光るように見えた。千紗はそういう人の表情に敏い。

「で、でもだからって安く譲ったんじゃ河合さんの商売は成り立たないじゃないか」
「あ。このやろ。口を挟むんじゃねえよ」
「だ、だってえ、そうでしょ……?」

 水を差すつもりはなかったのだが、そうとしか取られようがあるまい。

「……長いことうちに保管していたから、別にいくらで売らなきゃ元が取れない、みたいなことはないんだけどね。もしかしたら定価で買ったのかもしれないし」
「……いいの?」
「大丈夫よ、わたしもタダで譲るなんて言うつもり一切ないもの」

 まあ、心配してくれてるのよね。と、河合は千紗にお礼を言う。
 一方石橋はタダで譲るつもりはない、という言葉に一体なにが出てくるのかと警戒するような顔になっていた。

「石橋くん、バイト紹介してくれないかしら」

 思ってもみない要望に、思わず千紗は石橋と顔を見合わせていた。
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