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千紗のお仕事探し奮闘記

「ただいまー!」

 時間に似合わず元気のいい声に真っ先に反応したのは、すでにパジャマに着替えていた瞬である。
 ドアが開く音でぴくっと頭が起き、続く声が聞こえるやいなや「おかえりー!」と声を上げて玄関へ駆けていった。千紗もそれに続く。

「おかえりなさい」
「ただいま、瞬くんもうお風呂入っちゃったかー。もうちょい急げばよかったなあ」
「しゅんはいっちゃったー」

 へばりつく瞬を抱えながらにこにことした顔を振りまく旦那の姿を見ると、千紗は未だに新鮮でおかしな気持ちになるのだった。
 彼は高校時代から決して表情が薄いというわけなかったものの、笑顔を見る機会は少なかったように思う。どちらかというと鋭い目つきも相まって、常に不機嫌そうだと勘違いされるような顔をしていた。それが今やいつも穏やかで、考え込んだとき以外機嫌がよさそうな顔をしているもんだから、人間どう成長するかわからないと思うのだ。

「ご飯の準備すぐできるけど、先お風呂入る? 今空いてるよ」
「うん、そうしようかな。汗かいたし」
「パジャマ出しとくから、そのまま向かっちゃってー」

 図らずも典型的な「ご飯にする? お風呂にする?」みたいな質問をしてしまったことがなんだか気恥ずかしい。
 それを心に押し留めて鞄と瞬を預かり、脱衣所に追い込む。すると両手が塞がっているところを大きく手を広げて抱きしめられた。

「なんていい奥さんなんだろう……」
「あはは……でしょー? でも汗だくの体で抱きしめられるのは遠慮してほしいかも」
「すいません……」

 すごすごと離れた流はそのまま大人しく脱衣所に入っていった。

(あんまり辛辣にしてると愛想尽かされるかな?)

 少し不安に感じてしまうが、しかし素直に可愛がられる自分というのは想像するだけでどうも気色悪いのだ。ついノリの悪い言葉を返してしまう。
 その度に少し反省するのだが、うまく直せそうにない。
 鞄から弁当を出し、流しの水につけておく。その足で寝室に向かい、パジャマを取り出して脱衣所の洗濯機の上にわかりやすいよう置いておいた。この程度で褒めてくれるなら安いものだった。

「これパパにみせたらおどろくかな?」
「今日園で作ったやつ? うん、驚くよー。センスいいもん」
「あ、やっぱりー? まりせんせーもほめてくれたしなー」

 瞬は幼稚園で作ったという何かの筒をデコレーションして作られたペン立てを惚れ惚れするようにいろんな角度から見ている。
 園で父の日の贈り物として制作したらしい。母の日のときはメダルのように首から下げるようにしてある型紙に似顔絵が描かれたものだった。現在もリビングの壁に、他の瞬の作品と一緒に飾られている。

(今日はお風呂別々でよかったかも。絶対瞬のことだから見せる前に教えちゃうもんね)

 あまりリアクションのうまい旦那ではないが、父親としては精一杯瞬に感情が伝わるよう表情や身振りには気を使ってくれているらしい。その様子を思い浮かべて千紗は思わずひとり微笑んだ。

---

「絶対職場のデスクに飾るんだ」

 流はにやにやした口を隠しもせず、悦に入るようにうっとりとペン立てを見つめている。
 瞬に差し出されたときの反応といったらなかった。しきりに瞬のために、うわあ、とかセンスいいね、とか、作品に対してのコメントを口にしていたが、実際その表情は父の日の贈り物、という名目に感激しているようだった。
 ちょっとだけ泣きそうなように口元がひきつっているようにすら見えた。
 正直この男は淡泊というか、少なくとも感激屋というイメージとは真逆だった。それが千紗が再会してみるとすぐに泣くし、喜ぶし、それを顔に出してしまうような人となっていた。
 昔の彼と比べて、なので、他人から見れば未だに素っ気ない部類に入るのかもしれないけれど。

「職場で瞬の話とかすることあるの?」
「そんなにプライベートの話はしないかなあ。でもたまに上司に子供はどのくらいの年かーみたいな話を振られることはあるよ。嫁さんに苦労かけるなよーとか。既婚者が珍しい職場みたいだしね」

 へえー、と相づちを打つ。彼が自分たちのことをどんな風に語るのか気になった。
 家族に対してはかなり鼻の下を伸ばしたような態度をとるが、自分の両親であったり、よそでは冷静に振る舞っているようだし、下手なことは言わないだろうという信頼はある。

「あ、そだ。お父さんへのプレゼント、これでいいかな……?」
「ああ、ごめんね、選んで貰っちゃって。ありがとう。帰ってきたら一緒に渡そう」

 千紗は今日帰りに購入したネクタイを取り出す。父の日の贈り物にネクタイ、というのはいかにもテンプレだ。しかし初めての父の日だし、と二人で相談して決めたのだった。
 母の日のときもそうだったが、こうした家族での行事というのは千紗にとってとても新鮮なものだった。
 元の家族ではもちろんそんな経験はなかったし、一度目の結婚の時は自由に使えるお金も出かける機会もなかったものだから、当然プレゼントするものだってない。
 くすぐったいような、照れくさいような気持ちだった。いまだに自分は一人場違いなところにいるのではないかという感覚が抜けない。

「喜んでくれるかなあ……」
「当然だよ。俺が学生時代に渡した安っぽいものでも喜んでくれたし」

 テレビのバラエティ番組が終わり、どのチャンネルを見てもニュースばかりになってしまった。
 瞬はとうに眠り、義母は自室で読書。そんな時間千紗と流は二人リビングで過ごすことが一番多い。
 かつては大学での課題だとか、千紗も高卒認定試験の勉強だとかの時間に当てていたが、最近は流が持ち帰りの仕事を片づけるだけで、他にやるべきことというものがない。
 その日あったことだとか、他愛もない話をする時間となっているのだが……最近は話題が尽きることも多い。仕事の内容は守秘義務というものがあるらしく、あまり聞かせてはくれないし、千紗も瞬が幼稚園に通うようになってからは面白いようなことというのはなかなかないのだ。ママ友というのも、うまくできていないし。入園時点ですでに派閥のようなものができていて、そういうのに加わるのは不得意だった。自分一人なら気まぐれに動けるが、瞬のことを考えると好き勝手にはできず、大人しくなるしか方法がなかったのである。

(つまらなくないかな……)

 少し、焦りのような気持ちも芽生える。
 今の自分はつまらない存在である自覚があった。
 そんな相手と同じ時間を過ごさなければならない相手が不憫であった。

「あ、そうだ千紗、今日面接行ってきたんじゃなかったっけ」

 流の台詞に、思わず肩が動いてしまった。
 あまり触れられたい話題ではなかった。自分の情けなさというものから目を逸らせなくなってしまうからだ。

「ああ……うん……ちょっと、ね。あわなかったみたい……」
「……そっかあ。仕方ないね」

 実はバイトに応募して不採用となるのは三度目である。前の二つは時間の都合があわなかったのだが、しかし今日の対応を考えるとそれは方便だったのかもしれないとも思えてきていた。

「なに凹んでるんだよ、らしくないなあ」
「え? あはは、別に気にしてなんかないよ?」

 わざと明るい声で茶化される。そんなにあからさまだっただろうか、と千紗は不安になった。

「ちょっとトイレ行ってこよっかな」
「ん、わかった」

 そそくさと席を立ち、トイレに籠もる。
 はあ、とため息をつけるのはここと一人で入浴している間だけだった。
 田舎でお店も少なく、免許はないし、中卒で、バイト経験はない。時間も原則幼稚園のある間だけ。自分の履歴書を改めて見るとこれはやはり、厳しいだろうとは思った。電車で行ける距離にまで範囲を広げれば候補は増えるだろうが、通勤時間が一気に長くなる。すると働ける時間も減る。

(やっぱり幼稚園のお迎えはお母さんに頼むとか……。……でも、大変だよねえ……)

 自分のことであまり義母の仕事を増やしたくはない。そうして自分が働いても義母には一切プラスにはならないのだ。
 流は無理に働く必要などないし、瞬が小学校に上がる頃にでも、と目指している仕事のための勉強をしていればいいと言ってくれている。
 しかし、そういう問題ではないのだ、と千紗は感じつつあった。

(なんか、誰にも必要とされてないみたいで、嬉しくない……)

 家族が自分を大事にしてくれているのは感じている。しかし、その優しさを受け取るには自分は足りないように思ってしまうのだ。
 優しさをただなんの後ろ盾もなく受け取るのは恐ろしいことだ。
 ある日突然取り上げられたらきっと立ってはいられなくなるだろう。人に与えられるものに無限はないのだ。千紗はそれをよく知っていた。
 こう悩むものの、それはすべて自己満足だ。どうせ働けたとしても大した稼ぎにはならない。働きたがるのも、採用されずに悲しむのも、それで悩むのもすべて千紗が勝手にやっていることである。それに流を振り回すべきではないと千紗は考えていた。
 軽く頬を叩き、深く呼吸する。この落ち込みを外で見せるべきではない。気持ちを切り替えなければ、と気を取り直してトイレから出た。
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