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19章

 河合さんの声は雑踏の中では他の音にすぐ打ち消されて聞こえづらい。しかし静かな場所で聞くととても綺麗で聞き取りやすい声なのだ。
 それは教会の雰囲気に実にあっていた。その声で読み上げられるだけで神聖な言葉に聞こえた。多分九九を諳んじるだけで人によっては拝むだろう。
 ……実際の河合さんはかちんこちんに緊張していて、カンペを食い入るように見つめていたのだが。
 はじめは曲をかけたりするか、とか新郎新婦の入場からはじめるか、とかてんやわんやとしていたのだが、片づけの時間も考えるとそれほど余裕もない。
 結局ただ、そこ立って! 並んで! はいはじめ! といかにも撮影ですよというような扱いを受け、どうにも気持ちがついていかない。千紗も同じらしい。笑いをこらえるような少し気まずいような目をちらちらと送ってきていた。
 それでも、河合さんの少しだけ震えた声を聞いていくうち、自然と俺と千紗は落ち着いていた。河合さんが必死にやっているのだから自分たちが台無しにするわけには行かないのだ。自分より緊張している人がいると冷静になれるというのもある。

「えっと……健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」

 河合さんはたどたどしくもきちんと読み上げると丸くて大きな目をこちらに向けた。
 なんだか俺はその瞬間にようやく今の状況を実感できた気がして、鼻の奥がつんとなった。大声を出すわけでもないのに息を吸って、少し震える唇を無理に開く。

「……誓います」

 なんだろうな。信仰心なんて当然ないし、こんなことわざわざ口にするなんて恥ずかしくて、笑ってしまいそうだと思ってたのに。服だってタキシードでもドレスでもないし、見てるのは河合さんと和泉と瞬くんだけ。段取りだってむちゃくちゃだし、ただ急に立たされてそれっぽいことを言っているだけだ。それなのになぜだか俺は一人、こっそりと感極まっていた。
 河合さんは俺の言葉を聞いた後、今度は千紗に向き直る。

「誓いますか?」

 千紗は少しぎこちないように笑って、こちらをちらりと見た。
 その目が「本当にいいの?」と訴えているようで、今更なにをと思ったが、往生際の悪さが妙に千紗らしくて笑ってしまった。
 しかし俺が笑ったことで安心したのか、納得したのか、千紗はやっぱりいつものように眉尻を下げて、肩を竦めて微笑んだ。
 やっぱり、無理してでもきちんとドレスを着させて、ささやかでもちゃんと式みたいなことをした方がよかったんだと、今になって後悔した。和泉が無理に企画を提案してくれなければ、こんなこと考えもしなかっただろう。

「……はい、誓います」

 小さな、しかしよく通る声だった。千紗は照れくさそうに笑って、袖で口元を隠した。
 河合さんはこくこくと頷いて、えーと、えーとと言葉を探している。とても進行役の姿には見えない。

「では、次は指輪交換を……お願い、します」

 短い準備時間で、誓いの言葉以降の具体的な例文は見つけられなかったとぼやいていた。ぎこちない河合さんの言葉に、千紗は「えっ」と声を上げる。
 俺は振り返って後ろに待機していた瞬くんに目を向ける。
 和泉にそっと背中を押された瞬くんは、このぐだぐだな式を、それでも真面目な親の晴れ舞台だと認識してくれているらしい。ふざけたりせず神妙な面もちで、しっかりとした足取りでまっすぐ俺と千紗の前に歩いてきた。そして大事に両手に乗せていた指輪のケースを差し出す。
 練習も何もなく、ただこれを持って、渡しにきてねとしか教えられなかったというのに、立派なリングボーイをこなしてくれた。
 ケースを受け取り、ありがとうねと言ったところで目を丸くした千紗が口を挟んだ。

「え、うそ、どうしたの、それ」
「ずっと渡すタイミング伺ってたんだ。遅くなってごめんね」

 指輪と俺とを見比べながらもしっかり腰にひっついた瞬くんの頭を撫でている。
 しかし瞬くんは照れくさそうに身をよじったあと、走って和泉の元に戻ってしまった。そこで自分のカメラを受け取りこちらに向けて構えている。なんというプロ意識……。
 今更ながら注目を集めていることに気恥ずかしさを感じながら、千紗の手をとる。びっくりするほど冷たかった。

「桐谷、手、逆」

 危ない危ない……。
 反対の手をとって薬指に指輪を通す。自分の手が震えていることにはじめて気がついた。
 それでも千紗の細い指に指輪はすんなりとはまる。サイズはぴったりのようだった。
 千紗は先ほど離した方の手の甲を顔に当てて、口元の表情を隠している。ここまできてそれはずるいぞ。

「ほら、今度は千紗がはめて」
「う、うん」

 俺がしたように、千紗も俺の左手をとる。手で隠されていた口は泣くのをこらえるようにへの字になっていた。とても幸せそうに見えないぞ。
 でも俺の指に指輪を通す瞬間、ちらりと俺の目を見上げた千紗は、きらきらと瞳に光を反射させながらそっと微笑んだ。
 この顔が見れたんだから、俺の人生にしては上出来だ。そう思った。
 多分他の人からすれば、俺の選択は間違いだらけで、甘ったれてて、狡くて酷いもんなんだろう。でも俺はこのとき、きっと他の何かを選択した俺より、ずっと今が幸せなんだろうと心から思えたのだ。

「では……お二人で誓いのキスを……」
「げえっ! ほんとにやるの!?」

 一気に現実に引き戻され、羞恥心が戻ってくる。和泉のキース、キース! という雰囲気もくそもないコールが響く。瞬くんも真似している。

「だ、だって俺たち最近ようやく手を繋ぐようになったレベルで……」
「はーっ? おいおい結婚式だぞ!? 今やらないでいつやるんだよ!」

 やんやと騒ぐのは一人しかいないくせに随分とうるさい。
 ちらりと千紗の様子を伺うと、思いの外機嫌の良さそうな笑顔でこちらを見ていた。
 驚いた。案外乗り気らしい。
 千紗のその態度を見ると拒否するわけには当然いかない。でもなあ、撮られるのはなあ……。屈辱的というか……。
 い、いいや、外野なんて無視だ。状況はさておき、キスしたいかしたくないかでいうと、そりゃあしたい。こちとらほぼ五年ぶりだ。
 千紗と向き合って、そっと肩に手を置く。千紗がこちらを少し見上げる角度で目を閉じた。それから俺は少し体を屈めて……あれ。いつ目を瞑ったらいいんだっけ。どのくらいの力加減がいいんだっけ。顎とか、頬とか触って、角度を調整すべきなんだったか。唇ってどういう形でどのくらいの力加減が普通なんだっけ。
 悩んでいる時間は現実には数秒も経っていないはずなのだが、至近距離で千紗の瞳がぱっと開かれた。
 大きな猫のようなつり目。その中に俺がいた。間抜けないつもの俺だ。
 その瞳が再び閉じられた瞬間、首に腕を回されたかと思うとぐいっと引き寄せられて唇と唇がそっと触れた。
 視界の外で和泉が口笛を吹いて冷やかすのがわかって、俺はそれを聞いてないふりをして目を閉じる。ああでも、俺の動揺なんて丸わかりなんだろうな。

「あははっ、超恥ずかしいんだけど!」

 離れた途端誤魔化すようにそういって笑う千紗は、恥じらっているというより楽しげで、たまらず俺は抱えるように抱きしめてほっぺにキスをした。自分からもしてやらないと気がすまなかったのだ。
 くすぐったそうに身を捩って、それでも笑って受け入れてくれる姿が俺がずっと求めていたものなのだと気づいて、泣きたくなるくらい幸せなのだとわかった。
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