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19章

 年越しを終え、蕎麦も食べた。
 瞬くんはとっくにお布団の中だ。
 俺もこたつでうたたねしていたらしい。肩を揺すられて、はっと覚醒した。

「初日の出、どうする?」

 千紗に問いかけられ、「ん? え?」と首をかしげる。

「おばあちゃんたちとさっきお参りに行ってきたんだけどね、今から山の方に行けば見れるかもって」
「ああ……みんなで行く?」
「ううん。おばあちゃんはもう休むって。二人で行ってきたらってお母さんたちが言ってくれたの」

 ああ、そういうことか。正直寒いし、いつもだったら勘弁して欲しいが、千紗と二人きりで特別な日の出を見るというのはとても良いアイデアだと思った。
 俺は一度伸びをして、こたつから這い出る。

「よし、わかった。行こうか」
「え! 珍しいね。こういうの絶対嫌がると思ったのに」
「今年の抱負なんだ。ちゃんと行事ごとは楽しむって」
「絶対今決めたでしょ」
「いつ決めたっていいだろ」

 千紗は笑って、風邪引かないように厚着してね、と注意した。瞬くんと同じ扱いをされている気がする。
 こう見えて俺は風邪のスペシャリストなのだ。対策だってちゃんとやるんだぞ。やってる上で引いてしまうんだけど。
 適当に服を着込んで財布と携帯だけ持って準備完了だ。千紗もさすがに日の出を見るだけのためにオシャレをするわけもなく、あっという間に外に出られる格好になる。
 俺は千紗が編んでくれたマフラーをして、なんとなく千紗が寒そうだったので帽子の方は貸した。

「手袋買ったほうがいいかもね」
「ねー。自転車だとポケットであったまれないしね」

 それもそうか。俺は体温も高いし、バスで移動するから必要ないけど、千紗は氷みたいに冷たい手をしているしな。
 帰ったら見に行こう。結局クリスマスプレゼントは渡せず仕舞いだったしな……。

「ああ!」
「えっ!? なに?」

 家の前で声を上げると真っ暗ななか千紗が驚いて顔をあげるのがわかった。

「あー……、ちょっと、実家の方の忘れ物を思い出して……」
「え。何? 大丈夫なやつ?」
「いや、まあ、うん。別に困るものじゃないから……」

 適当にごにょごにょと誤魔化すと千紗は深追いしないでいてくれた。
 くそ~……、指輪、持ってくればよかった……!!
 夜明けをバックに指輪を渡すって、これ以上ないシチュエーションじゃないか!
 やってしまった……。
 ……まあ、環境は良くとも、未だに千紗との関係が改善したというわけではないから……。むしろ先走らなくてよかったのかもしれない。
 うん。そう思おう。
 持ってきた懐中電灯を手に、千紗に道を案内しながら家の裏側に回る。そこから田んぼに沿って山の方に向かうと、コンクリートの車道から外れた土の坂道が出てくる。足場は良くないが、山道の途中お墓や石碑みたいなものがあるので、地元の住民がちょくちょく通るため草木なんかはきちんと取っ払われているのだ。

「すごい、結構ちゃんとした山道だね」
「でしょ。年寄りばかりなのにハードだよね」

 子供の頃俺は親に連れられて何度か登ったことがあるが、そのたびに途中でくたびれてしゃがみこんでいたことを思い出す。
 今となっては、少し疲れるけど、でも、こんなもんだったかな、というくらいあっさりと進んでいく。

「他のおうちの人は来ないのかな?」
「どうだろうね。みんな神社の方に行ってるんじゃないかな。わざわざこっちに戻ってきて登るのって大変だし。若い子はいるかもね」
「流の知り合いいるかな?」
「そこまで馴染んだことないからいないよ……」

 千紗はどうやら田舎への帰省というものに並々ならぬ夢を抱いているらしい。そこで知り合った地元の子供と仲良くなって一生の思い出を作るものだという偏見があるようだ。
 少し急な坂に差し掛かると、千紗がすぐ後ろでおいしょと声を上げたので、思わず背中を支えるように腕を差し出す。

「大丈夫?」
「あ、ごめん」

 千紗は驚いたり身構えたりしなかった。それが嬉しくてそのまま背中に手を回したままでいると、千紗がこちらを見上げるのがわかる。
 文句を言われるだろうか、と思いながら道の先を懐中電灯で照らしていると、やはり千紗の体が身を捩りながらちょっとだけ離れた。

「手とか……つなぐ……?」
「えっ……い、いいの?」

 暗闇の中ではあるものの、こくんと頷くのがわかった。
 右手で道を照らして、左手で千紗の冷たい手を取る。本当に、氷のように冷たかった。

「あったかい」

 千紗が言う。
 なんだかドキドキする。夫婦なのに。子供だっているのに。こんなに寒いのに、手汗が出ているようで気持ち悪くないかと心配になる。
 千紗の歩幅に合わせて少しだけペースを落として歩き始めた。

「あのね」

 足音だけが響く中、千紗が口を開いた。その話し方でどんな話をしようとしているのかわかる。

「私ね、自分がすごく汚く思えて、嫌になっちゃうんだ」

 真剣な空気を誤魔化すように笑ったような声で千紗は小さな声で言った。
 俺が今否定したところで、そんなのは無駄だろう。俺がそんな風に思っていないことくらい、千紗もわかっていると思うから。

「あのね、私もね、その、あのー……し、したくてしたくてたまらない……とかじゃ、ないんだよ? そういう気持ちは、ないんだけど……」
「そ、外でそういう話は……」
「わ、わかってるよ! だから言葉濁してんじゃん」

 繋いだ手をぶんぶんと振りながら千紗は弁解する。
 やっぱり、夜二人きりでいると思いつめてしまうのかもしれない。こうして外で歩きながら話すと、重苦しい感じがなかった。いつ人とすれ違うかと思うとヒヤヒヤするけど。
 しばらくして手の動きを止め、千紗は続ける。

「……でも、そういうことしないと、私、いる意味ないんじゃないかって、そんな風に思うの」
「そんなわけ……ないって前も話したよね?」
「うん……流はそんなことないって、わかってる。でも、私は不安になっちゃって……そう思うと、流と違ってそういう考え方になっちゃう私って……きっとすごく……気持ち悪いんだなって、思うんだ」

 黙って、千紗の話す内容を考える。
 肉体関係を持たないと自分がいる意味がないと思ってしまう、というのは千紗自身の価値観ではなくあとから植え付けられたものだろう。だから開き直ることもできないし、かといってそれが正しいと思う人がいるのだから、一概に否定することもできないのだと思う。

「それで、それでね? そういうの、全部流に見透かされてるような気がして、恥ずかしくて……。それに、そうでなくたって……す、好きな相手が……過去に……色々……あったって、知ってると……、気にならないわけ、ないでしょ……?」
「…………まあ……」

 正解の反応がわからない。嘘をつきたくはないが、これ以上千紗を傷つけたくはないのだ。
 そりゃあ、気になるけど、それでどうってことはないんだ。だって、大事なのは目の前に千紗がいるってことで、千紗の話し方とか性格とか、考え方とかが気に入って一緒にいたいってことなんだから。
 ……こういうことも、全部口にしろってことなのかな。と、和泉の説教を思い返す。俺なりに伝えているつもりだけど、伝わっていないのなら意味がない。
 道がひらけた場所に出た。何故か鉄棒があって、ものすごく小さな公園のようになっている。もう少し登れば朝日がよく見えるだろう。
 相変わらず人の気配はない。話している内容が内容だけにありがたかった。千紗も人がこないか気にするようにしながら、しかし話をやめる気はないらしい。まあ、気になるから納得行くまで話したいけどさ。果たして朝日を見逃さずに切り上げられるだろうか。

「…………その、あのね、どう説明したらいいのか、言葉がうまく選べないんだけど、ね……」
「うん?」

 千紗は一段ともじもじとした様子だ。今更何を言いよどむことがあるのか、とその様子を見守る。

「その……あのね……流がね、私のこと、女として見れなくて、困ってる気がするって……昭彦に……言っちゃったの……」
「……はえっ!?」

 何その話!? っていうか、数年ぶりに再会した直後にそんな相談を!? 色々ツッコミどころが多い!

「お、女としてしか見てないけど……!?」
「う、うん。うーん……あの……えっと……、わ、わかるんだけどね? でも、私も一応元男だから……こう……好きな相手なら、なおさら……私の過去とか考えると、精神的に、体が反応しなくなるのは……わかるなあって……」
「え、あ、ええ……?」
「でも……今更過去は消せないし……どうしようって、思わず昭彦に漏らしちゃって……そしたらちょっと勘違いしたみたいで……」

 そこは今はどうでもいい。
 俺が好きだというのは伝わっていて、好きだからこそ千紗の経歴で俺が傷ついているのではないかと、そういうことを気にしていたということか……?

「……クリスマスのとき様子がおかしかったのも、その前も、もしかしてそういうこと……?」

 しばらくの沈黙の後、千紗はこくんと頷いた。
 申し訳なさそうな顔だ。
 俺は脱力しそうになったのをなんとか踏みとどまる。しかし握った手に力が入ったのに千紗は少し驚いたようだった。

「ああ……そう、うん……そうか……。俺が、千紗の申し出を断ったから……?」

 こくこく、とまた千紗は頷く。
 まさかそんな風に解釈されているとは……思っても見なかった。
 俺はゆっくり首を振る。

「……ごめん、そんなつもりは一切ないよ。……むしろ俺はてっきり、千紗が男性に対してトラウマを抱いていて、怖がらせてしまったんだとばかり……」
「え……、私からしようって話振ったのに?」
「まあ、そうだけど……無理してる感じだったから……」

 たしかに、本当に嫌だったら自分から呼び出したり言い出したりせずそんな状況自体を避けるよな……。でもやっぱり千紗のことだから、自分が嫌な気持ちよりも俺を優先して無理してくれてるんじゃないかと、そう思ったのだ……。

「……た、確かにね、自分から言っておいて、ちょっとビビってたのはほんとだけど……。でも、家の中ではずっと私や瞬に付きっきりで、一人の時間なんて殆どないでしょ? だから絶対溜まってると思って……」
「い、いいからそんな気遣わなくて……! なんとかなってるから!」

 なんでこんなこと告白しなきゃならないんだ……!
 男側の気持ちも身を持って知っているからこそ気を遣ってくれていたということなんだろうか……。
 こちらがもういいと言うのに千紗は必死で弁明を繰り返していた。

「でも女はいざってとき、なんとかなるけど……、男の人はた、たたなきゃ始まらないじゃない……? もしかしたら私のせいでそういう症状が出てるのかなって……」
「それ和泉に話してないよね……!?」
「う、うん、はっきりとは……」

 やんわりとは言ったのか……!?
 それが一番傷つくんだけどな!? うちの旦那もしかしてEDかも……なんて共通の友達に相談されてたなんて、辛すぎる。しかも別に違うし。
 う、うおお……。っていうか外で、こんな田舎で、自然に囲まれてする話では絶対ない……! もう日の出間近だというのに! 心が乱れまくっていてとてもじゃないが初日の出を拝む気になれない!
 ……いや、でも……ここで怒るのは……だめだな、余計こじれる。それに千紗の立場を思えば……まあ、本人相手には言いづらい……か……。うん……。

「大丈夫だから、その辺は。本当に……。ただ、欲望を解消するためだけにそういうことはしたくないんだよ」
「……女の人みたいだね」
「う、うるさいな。……それに高校の時だって避妊してるつもりで結局失敗したわけだし……、そのときのことを思うと、まだ親の世話になって自立できていない段階で、リスクのあることはやっていい立場ではないと思ってただけだよ。本当に、それだけ」

 千紗の目が何度か瞬いた。ぱちんぱちんとまるで音がするように。

「じゃあ……したくない……わけじゃない?」
「あ、当たり前だろ……」
「……なんだあー……よかったあ」

 気の抜けた声を上げて、千紗はしゃがみこんだ。

「怖かった……、流が好きでいてくれてるのに、嬉しいのに、そのせいで苦しめてるんじゃないかって……」
「……ごめん、俺も怖がらせてるんじゃないかって、踏み込んで話せなかった」

 なんだよ、結局和泉の言う通りじゃないか。
 お互い、言葉が足りていなかった。
 千紗の気持ちがわからなくて不安に思っていたように、俺も俺の気持ちを伝えきれていなかったのだ。悔しいな。
 千紗は自分の顔を両手で覆って、そのあとそのままおでこを触って、髪を掻き上げて、立ち上がった。少しすっきりしたような顔に見える。

「ごめんね。昭彦じゃなくてはじめから流に言えばよかったのにね」
「それはいいよ……、言いづらいことだったろうしさ」

 内容が内容だけに、河合さんにも相談はできなかったろうな。そう思うと和泉が帰ってきたのはかなりよいタイミングだった。
 和泉が騒いでくれなければここで千紗が打ち明けてくれなかったかもしれないし、そうなればどんどんこじれる一方だっただろう。
 なんとなくちょっとムカつくけど。
 千紗は照れくさそうに笑う。だいぶ辺りは明るくなり、その顔がよく見えた。

「……ん? あっやばい! 日登ってる!」
「あ! 忘れてた」

 懐中電灯の明かりも目立たなくなっているほど、もうすっかり明け方だった。慌てて千紗の手を引いて山道を登る。道も青くよく見えた。

「セ、セーフ!」
「セーフかな!? もう日出てるけどな」

 といっても今回ばかりは千紗のせいだからな! ……まあ、話してくれてよかったけどさ。
 太陽はすでに殆ど山の向こうから顔をだしていた。空は青白くて、太陽に向かってオレンジと黄色を混ぜ込んだようになっていた。夕焼けのようにも見えたけど、少しずつ光が強くなっていく。そのうち見慣れた青空になるのだろう。毎日繰り返されていることのはずなのに、なんだか今しか見られない、世界で初めて観測した人間になったような、そんな気がした。おかしなことを考えていると思う。
 言葉はなく、いつも見るただの朝の景色になるまで二人で見つめ続けていた。
 ひんやりとした空気の中、繋いだ手がすっかり汗をかいてしまうくらい、ずっと。

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 すっかり日も昇ってから家に戻ると、すでに瞬くん以外は目を覚まして活動をはじめていた。
 正月特番を流しながら手のこんだお節をつつき、食べ終わって今度はおもちを食べ始めているところで知ってるような知らないような大人たちが代わる代わる顔を出してきた。
 親戚……とも言えないレベルの人たちだが、彼らは祖母の世話になっているらしく挨拶を欠かさない。向こうは大きくなったなーと声かけてくるが、こっちは相手が一体誰なのかわからない。おじさんなんて数年じゃ変化しないだろうにおかしな話だ。
 俺は少しだけいつもよりも居心地が悪かった。いつもこんな場は苦手だけどさ。今回はなおさらである。なんせ突然子供とお嫁さんを連れてきたのだから。この間までお年玉を貰っていたのに。
 しかし両親も祖母も、とても普通のことのように、なんの躊躇いもなく来客に俺と千紗と瞬くんを紹介してくれた。
 みんな驚いた顔でおめでとうと言ってくれて、あの流くんがねえ、と言って去っていく。多分裏ではあれこれ言われているんだろう。
 しょうがないことだ。
 千紗がそれを察しないわけはないだろう。それでも、こんな賑やかで親戚付き合いがある家って憧れてたんだ、と言うのだった。

 お雑煮も食べたし、お年玉も貰っちゃったし、瞬くんは色んな人に可愛がられた。まあ、本人は怖がって千紗にひっついたまま固まってたけど。
 来客がこなくなってからは庭に出てあれこれ古いおもちゃで遊んだし、人生で一番正月らしい正月をできたと思う。
 そうして2日には、俺たちは帰ることとなった。
 あまり瞬くんは環境の違う土地に長い間いるべきではないという判断だ。体調を崩してからでは遅い。この対応にはみんなもう慣れたもんだ。
 別れ際、祖母は千紗の手を取って言った。

「うちに来てくれてありがとうね」

 千紗はふへへ、とくすぐったそうに笑うのだった。
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