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3章

 あっという間に休み時間は終わっていた。
 男の集団が更衣室をあとにするまで、俺は廊下の向こうの角でぼうっと時間がすぎるのを待っていた。
 俺が佐伯と仲がいいことはクラスメイトなら全員知っている。そんな中に俺が入っていってどんな反応が返ってくるのか想像できなかったし、なんだか怖かったのだ。そう、怖かったんだと思う。何が怖いんだろう。
 何を確かめるのが怖かったんだろう。

 更衣室に戻り、着替えてゆっくりと教室に向かった。
 完全に授業には遅刻していたが、ずっと保健室にいたと嘘をつくと、文句は言われなかった。

 しかしどこか、男子の間で、くすくすと笑うような、面白がるような空気が流れていた。
 和泉はその雰囲気を感じ取ったのか、不審そうな顔をしている。
 和泉には誰も漏らさないだろう。
 和泉はヤンキーではないし、誰かと喧嘩したという噂だって聞かないが、それでもなんとなく、怒らせたらきっと敵わないだろうとみんな気づいているのだ。
 決して和泉は同性から嫌われてなんかないはずだが、そんな相手に優越感のようなものを抱くのだろうか。
 ちらちらと見ては、何も知らないことを笑っているようだった。

 うちのクラスは、こんなクズばかりだっただろうか。
 全員いいやつ、とまでは言わないが、いじめはなかったし、調子に乗って悪さをする奴もいなかった。
 そりゃ、佐伯をからかったりするやつはいたけど、しつこくつきまとうわけでもなかったし、本気で嫌ってるわけでもなかったはずだ。
 自分の家族や友達が同じ目にあってても、こうして笑えるんだろうか。
 そんなはず、ないと思う。じゃあ、なんでこうなるのか。
 佐伯なら、怒ってないと傷ついてないと思うんだろうか。
 許してくれると思うんだろうか。許すとか、許されないとか、そんなこと考えもしないんだろうか。
 わからないし、聞いて、答えが返ってくるとも思えなかった。

 昼休み。どういう行動をとればいいのか、決めかねていた。
 佐伯が休んでいる理由はわかった。
 だが、どうするのが一番いいのか。
 今すぐ会いにいって、大丈夫なのか、聞きたかった。怪我とか、してないか。
 しかしこんな時、人に会いたいだろうか。
 それも男には会いたくないんじゃないか。
 いや、そもそも俺に……というか知り合いに、知られたくなかったはずだ。
 でも、佐伯は絶対に傷ついていて、放っておいて一人で立ち直れるとは思えない。
 そういう状況になった人の気持ちはとても俺にはわからないけど……、場合によっては自ら命を絶つことだってあるんだ。

 とにかく、電話はかけよう。
 声を聞いてから決めよう。
 昼食を食べようという河合さんの誘いを先に食べててと断り、この時間人の寄り付かない校舎の隅のトイレに入り、電話をかける。
 出なかったら、出なかったらどうしよう。早退して、直接行こうか。こんな状態で放課後まで待っていられる自信はなかった。
 何度も発信音が流れるが、出ない。
 もう一度かけなおす。
 やはり出ない、と思ったところで、音が止まった。
 画面を見る。通話中になっていた。耳に当てる。

「もしもし……?」

 俺の声は情けないほど震えていた。喉はすっかり枯れていた。
 無音が続く。息遣いすら聞こえない。
 もう一度をかけようかと口を開く。

『……おはよう』

 掠れたような、小さな声だった。
 久しぶりに喋ったような声だった。

「だ、大丈夫……?」

 そんな聞き方をしても、しょうがないのに。
 そういう言葉しか、浮かんでこなかった。

『……なにが?』
「何がって……」
『……ああ、体調? うん、平気。ちょっと、頭痛かっただけだから……もう治ったよ』

 そんなの嘘だ。
 佐伯の声は明るかった。でも背景を知っているからか、いつもより元気がない。事情を知らなければ、気にもとめないほどの違いだけど。

「そうじゃ……なくて……、お前……」

 言葉に詰まる。
 俺の反応に、電話の向こうで小さく息を呑むのがわかった。
 沈黙が続く。
 佐伯は隠そうとしているのにそれを聞き出すなんて、どうすればいいのかわからない。

『……誰かから、聞いた?』

 ドクンと心臓が跳ねた。
 まるで悪いことがバレたような気がした。

『そっか……』

 何も答えないのを肯定と察したらしい。佐伯はこういう時、勘がいい。

「……ごめん、俺……何もできなくて……」
『やめてよ、関係ないよ。オレがバカだったんだ、ほんと、ドジっちゃって……』
「そんなわけないだろ」

 被害者が自分を責めるなんて、あってはならない。
 あいつは周りの仲間に持て囃されて、なんで佐伯は一人で苦しんでるんだ?
 おかしい。
 駄目だ。そんなの。
 佐伯は「へへ」と笑った。笑っているふりだということはさすがにわかる。笑っていられる状況ではない。
 どういうやりとりがあったのか、どういう関係性なのかは知らないけど……学校に来ないってことは、きっとそういうことだ。

『あのね…………最初はね、告白されたんだ』

 声色は無理やり明るくしているように、少し震えていた気がする。
 絞り出すように、言葉を何度か途切れさせて佐伯はあらましを説明してくれた。
 思い出したくないはずなのに。
 俺を納得させようとして。

『知らないやつだったんだけどね……名前も、わかんないんだけどね、勢いに押し切られて、聞きそびれちゃって……。オレのこと、男の頃から好きだったって、言ってくれたんだよ。男同士だから諦めてたけど、女になったのをみて、嬉しかったって、言ってくれたんだよ……」

 言って「くれた」だなんて、なんでそんな言い方をするのかわからない。憎くはないのだろうか。
 言葉を選んでいるのが、まるで相手に悪印象を抱かせまいとしているのではないかと思えてくる。そんな必要は全くないのに。

「それでね、オレさ、その人が犯人なのかなって思ったんだ。だから、もし女にしたのが君なら、元に戻して欲しいってお願いしたんだよ』

 佐伯は呼吸が少し乱れてるような気がする。細切れにして少しずつ発声しているようだった。
 叫ぶのを堪えているようにも思えた。

『そしたら、そしたらね、い……一回、ヤらせてくれたらいいよって、言うから、嫌だったけど、嫌だったけどさ、それしかないなら、それで戻れるなら、仕方ないって思ったんだ。だって、戻りたかったから。それで、それで、家に行って、それで、でも、終わったら、……そんなの知らないって……言われて……』

 なんだよそれ……。
 ……考えてみれば予想できた話だった。
 そいつが本物の犯人だったとしても、そうじゃないにしても、そういう手口は、いくらでもあり得たのだ。
 そしてそんなやつが自ら佐伯を元に戻す理由はあるわけがない。
 証拠隠滅のために、とかいう理由でなら元に戻す選択肢もあるだろう。
 でもそれじゃ全て遅い。

 どう考えても俺のせいだった。
 俺の見通しが甘かった。
 犯人がいるはず。接触してくるはず。そいつなら治せるはず。そういう情報だけ佐伯に与えて、リスクの話をしなかったし、俺自身それほど深く考えていなかった。
 だって、きっとその場には俺や和泉がいて、それならきっとなんとかなると思ったから。
 これがまったく見知らぬ相手だったら、佐伯だってもっと警戒してたと思う。まず相談してくれたんじゃないかと思っている。
 でも相手が同級生だったら、そして自分を好きだと言ってる奴だったら。
 佐伯は、悪意や害意がある可能性を疑わないのかもしれない。
 好きな相手が苦しんでも平気なやつがいるとは、多分考えない。……実際、相手が佐伯を本当に好きだったのかも定かではないが。
 いや、今するのはそんな反省じゃない。そんなことしても現状は何も変わらない。

「あ、あのさ……今日……家寄ってもいい?」
 
 沈黙だった。
 今やるべきことは、佐伯のケアだ。俺は人を励ますとか元気付けるとか、苦手だ。そういうことは佐伯の得意分野だ。
 でも何かできるのは俺しかいない。こんな話を和泉や河合さんにするわけにはいかない。
 佐伯が他の誰かに助けを求められるなら別だけど、多分こいつはしないだろう。

『……いや……その……大丈夫だから……怪我とかもしてないし……』
「大丈夫なわけないだろ」
『ほんとに……平気だよ。でも今は……来てくれてもあんまり、元気にできないから、また今度……』
「元気じゃないから行きたいんだよ!」

 何故この状況で、俺が佐伯に元気に振る舞ってほしいと思うのか。
 佐伯だって、いつも河合さんなんかが失敗して落ち込んでる時は寄り添ってたじゃないか。
 どうしてそれが自分に当てはめられないのか。

「……とにかく、ひ、一人で放ってはおけない。し……心配だよ」

 こんなこと、口にしたことがあっただろうか。
 今更なにを言っているのか。自分で自分に腹が立った。
 でも、別にうまく励ませなくても、誰も周りにいないよりはマシなはずだ。傷ついて落ち込んでいる時、一人でいるのは危ない。
 絶対的に被害者の立場なのに、自分を責めてしまっているなんてよくない。
 そっとしておく、という状態ではないと思う。

「佐伯、このこと、他の誰かには言った?」
『……んーん、言ってない……』
「和泉んとこのお母さんには、相談できる?」
『……』

 だろうな……。
 多分、実の親子だってそうそう言える内容ではない。
 話を聞く限り、和泉家の人は佐伯を家族同然に扱ってくれているようだが、佐伯は遠慮しているように見えるし……。

「……やっぱり、俺そっち行くよ」

 微かな息遣いだけが聞こえる。
 昼休みの終わりを告げるチャイムがなった。
 今授業なんてどうでもいい。お腹を壊したとでも言えばいいし。

『……ごめん、ありがとう……。でも、ほんとに平気だから……またすぐ学校にも行くし……、桐谷が心配してるようなことはないから……安心して』
「な、なんで?」

 弱っているところを人に見せたくないという気持ちはわかる。
 わかるけど……。

『ごめんね……。今、誰にも会いたくないんだ……。桐谷に、八つ当たりしたらオレ、自分のこと許せなくなりそうで……』

 そんなの、いくらでもしていいのに。
 ……大丈夫にはとても見えない。
 でも本人は平気だという。
 じゃあどうすればいい? 和泉だったらどうするか。
 和泉だったら相手の返事なんか聞かずにとっとと会いにいってるだろう。そうして俺には思いつかない言葉をいって、安心を与えられるんだ。
 じゃあ想像上の和泉の真似をして、俺も佐伯の意見なんか無視してすぐさま向かおうか。
 それで問答無用で入り込むのか。
 男に襲われた被害者の元に、来るなって言葉を無視して?
 そんなの逆効果だ。馬鹿でもわかる。
 冷静に考えれば考えるほど、俺が佐伯のところに行きたいのは俺のエゴでしかなくて、それで状況がよくなる理由なんてなかった。

「わ、わかった……。……何か、あったら……何もなくても、辛くなったら、いつでも電話してくれていいから」
『ありがと。……誰にも言わないでね、昭彦にも……』

 そうして、電話は終わった。
 終わったからといって、すぐに気分を切り替えて授業に出ようとは思えなかった。
 自分が感じている感覚がどういうものなのか、自分のことなのにわからない。
 虚しいのか、悔しいのか。
 多分、理想としては、嫌なことなんて忘れて元気を取り戻して欲しいけど、いくらなんでも無茶だとわかる。
 元気になって欲しいけど、なれないならなれないでいいんだ。
 ただ佐伯が、元気になれない姿を俺に見せたくないというのがひしひしと伝わってきて、情けなかった。
 苦しみを分かち合うとか、そういう仲間の素晴らしさみたいな、よくテレビで聞くようなものは実際、やりたくてできるものではないらしい。
 俺は佐伯が弱ってる部分を晒せる相手には、達してなかった。
 そして今までの自分の振る舞いを考えると、そう思われてもなんの反論もできなかった。
 もしくは、佐伯は本当にそういうのを誰にも見せたくない人間なのかもしれない。けど、でも俺はそういう形で力になりたかったのだ。
 だって、他にできることは何もないし……。

 ぐるぐると、似たようなことを考えてはやめた。自分が納得する結論は絶対に出ないのがわかった。
 扉に寄りかかり、何もない天井を見上げる。

 あいつ、誰だったか。
 うちのクラスじゃないなら、今日の合同だったクラスは確か五組か。修学旅行に参加してなかったのなら、それほど特定に時間はかからなそうだ。
 なんのゆかりもない、名前も知らない奴だった。
 何かできることはあるんだろうか。やつに制裁を加える手は。
 まず先生に相談すれば事実確認はしてくれる……だろうけど、確認する先は、あいつと佐伯か。
 本人がしらばっくれたとして、写真だかのデータを消したとして、そうすると佐伯が自分で訴えるほかない。
 証拠でもあれば話は違うが……。
 今日の話ではないんだし、証拠らしいものはあまり期待できそうにない。聞いてみないとわからないけど、いつ電話が切られてもおかしくない、返事もやっとの状況で、それはいつの話? 証拠はある? 病院は行った? なんて、とても言い出せなかった。いや、そもそも実際目の当たりにするとそんなところには頭も回らなかった。
 冷静に考えれば絶対に大事な項目なのに……。
 泣き寝入りなんて、あってはいけないことだと常に思っている。
 それで罪が見過ごされるなんて間違ってる。助長させるだけだとも思っている。
 だけど……正しさで潰されるのが被害者本人であるなら……。
 ……いいや、こういうことは、佐伯本人がどうにかしたいと言い出したときに俺も考えよう。
 勝手に暴走したって、きっといい結果にはならない。犯人をとっちめても、佐伯は溜飲を下げるタイプでもないし。

 ……なんで俺はあの時、更衣室の中に乗り込んで殴らなかったんだろう。
 そんな短絡的な行動ではなんの解決にもならないけど、でも、段々と後悔が募っていた。
 そうすべきだった。後先考えず。
 佐伯はそういうのはきっと好きじゃない。返り討ちにあったかもしれないし、色んな人に叱られて、処罰を受けたかもしれないけど、それでも。
 そうじゃないと、晴れない何かがきっと俺の中にはあった。
 でも、もう遅い。全部。

 僅かしかない佐伯の感触を思い返した。
 手は冷たくて、爪は丸くて小さかった。髪はさらさらだった。肩は細かった。
 胸はほとんど服の感触だったけど、でも、柔らかかった。
 ただ見た目が違うだけだって思ってたけど、触ってみると、大事に優しく扱わなきゃいけないんだって思って、少し怖くなったんだ。壊したらいけないと思って。俺は力は全然ないけど、きっとそれでも下手に触れたらすぐに壊れてしまうと思って。
 でも、そうか。あいつは壊したのか。なんの躊躇もなく。

 それなら、俺があの時最後までしておけば、そうすれば、佐伯だって、そりゃあ嬉しくはないだろうけど、嫌がったかもしれないけど、でも本気で怒ったり悲しんだりはしないんじゃないかとどこかで思っていた。それにそれでも、少なくとも今よりは……。
 そう考える自分に、吐き気がした。
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