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18章

 帰宅すると、少し困った顔の母が迎えてくれた。
 瞬くんはテントに引きこもったまま泣き疲れて眠ってしまったらしい。
 昨日から瞬くんの機嫌はあまり安定しない。

「千紗は?」
「千紗ちゃんはお買い物に行ってくれてるわよ。もう帰ってくるんじゃないかしら」
「え。メールくれたら俺行ったのに」

 まあ、いつ帰るかわからない相手にわざわざ頼まないか。
 防寒具や上着を脱いで、ソファに座る。うーん……千紗はいない、瞬くんは寝ているとなると途端に暇になる。一人の時はなにしてたんだっけ。

「ねえママ、千紗の様子どう? 瞬くん結構騒いでたんだけど」
「うーん、ちょっと疲れ気味だったみたいだけど……まあこんなことは日常茶飯事だしね」
「瞬くん昼間は駄々こねることあるの?」
「そりゃああるわよ~。最近は公園でお友達と喧嘩することもあるしね。でも反抗期あんまりなかったみたいだし、大人に遠慮する子よりいいじゃない? 悪さをするわけじゃないしね」

 そういうもんか。
 俺といるときはたまたま機嫌のいいときが重なったんだろうか。それとも俺には遠慮してるってことあるのかな。
 ぐるぐるとそんなことを考えていると玄関のドアが開いて、千紗の声が聞こえた。

「ただいま~」
「おかえりなさい、千紗ちゃんどうだった~?」
「うん、すっごく漕ぎやすい! 坂道なのにスーッて動くの!」
「え、なになに?」

 母と千紗の謎の会話に、のそのそと玄関に近寄って輪に加わる。

「あ、帰ってたんだ、おかえり。あのね、お母さんのプレゼントさっき届いたんだ。きてきて」

 誘われるがままにそのまま外へでる。部屋着だったのでちょっと寒い。
 千紗の示す場所に目を向けると、玄関の脇にぴかぴかの自転車が停められていた。オレンジに白と黒がアクセントになっているクラシカルだが爽やかなカラーリングだ。

「えっすごい、これママたちが?」
「そうよ~ちょっとコンビニに行くのでも千紗ちゃんは大変でしょ? 一台あれば楽だと思って」
「電動なんだよ! 私初めて乗ったんだけどすごいの!」
「へえ〜いいね、色も千紗に似合うし」

 よくはわからないが、安いものではないだろう。千紗はへへ、と笑った。別れ際、当分引きずるのではないかと思っていたのだが、機嫌良さそうでほっとした。

「ね、パパも使っていいからね」
「え、あ。うん」
「あーだめなのよ、この子は自転車乗れないもの~」
「ちょっ……」
「えっ」

 うそでしょ? と目を丸く開いて千紗に見つめられる。
 は、恥ずかしい……。だ、だって、そういう機会がなかったんだから、しょうがないんだ……。でも当然できるだろうと思われていたことができないと露見するのは……思った以上に恥ずかしかった……。

「じゃあ瞬と一緒に練習しようよ!」
「い、いいよ……こんな綺麗なのに壊したらいけないしさ……俺は走るからいいよ……」
「そんな、昭彦みたいなこと言わないでよ」

 今更乗れるようになったって、車で事足りるし……。
 ……いや、まあ、いつまでも親の車を借りるってわけにもいかないだろうけどさ……。
 千紗は少し納得がいかないような表情をしていたが、再度母にお礼を言って三人で大人しく家の中に戻った。
 さあてと千紗はお昼ご飯の準備に取りかかりかけて、母にもう盛りつけるだけだからお昼の時間まで休んでて、と言われる。一度瞬くんの様子を覗き見て、それから千紗も俺もソファに座った。俺が一番大きいソファで、千紗はその斜め前の小さい一人用のソファだ。隣に来るかなと少し空けたスペースがちょっと切ない。

「河合さんどうだった?」
「ああ、相変わらずだったよ。イケメンのバイト雇ってた」
「え。昭彦嫉妬しないかな」
「高校生バイトらしいし、大丈夫だと思うけど……。そっちは? 瞬くん大変だったでしょ」

 うーん、と千紗は苦笑する。

「まあ……興奮してたから、ああなったらもう言葉で説明してもあんまりわかってくれないからね、起きたら仲直りできると思う」

 こちらからはダイニングのテントの様子は上手く見えない。ちょうど壁が邪魔である。もうちょっと場所を考えた方がいいかな。
 そして改めて千紗に謝罪する。先ほどの俺は無力だった。むしろ邪魔しそうだった。

「その……さっきはごめんね、俺ろくに瞬くんを叱れてなくてさ、損な役回りさせちゃってるよね。今度からはさ、俺が叱り役になるよ」
「ああー……」

 千紗は深く腰掛けて、思い返すように天井を見上げる。
 それからちょっと困ったように笑って、首を傾げた。

「……パパ、ほんとに怒れる?」
「えっ……ま、まあ、俺なりに頑張るよ」
「あのね、瞬、普段は言葉で説明したら納得してくれるでしょ? でもああ見えて結構わかってる振りしてるだけのことあるんだよ。怒られてるときは、わかるって言ってたけど全然わかってないじゃん、ってときあるし、逆にわかってないふりをすることもあるよ」
「お、俺の手には余ると……?」
「あ……ううん、そういうわけじゃないけど……。ほら……あの子もね、自分の感情わかってなかったり、言葉で説明できなかったりもするから……あ、あの、そういうのってパパ、得意じゃないんじゃないかなって……。話せばわかる、とかわかってくれる、ってとこ、ない? 子供には通用しないときあるから、ね?」

 段々と千紗の口調が焦ったようになってきた。俺の機嫌を損なわないように気を遣っているように思える。
 ……まあ、たしかに。言われてみれば、俺は瞬くんに対しても理屈が通ったものが彼の中にあるだろうと思って話しているところはある。子供は子供なりに、何か考えがあると思ってしまうところはある。言動や考えに矛盾があることは、大人にだって十分あり得るとわかってはいるのだが……。
 俺はかなり理屈っぽいタイプだと言われてきたし、千紗もそこをよく理解しているのだろう。心配されても仕方ないと思えた。

「……ご、ごめん。じゃあ今度何かあったらお願いするね」
「いや、こっちこそごめん、その懸念はもっともだ。うん、俺も気をつけるよ。もし叱り方が間違ってたらちゃんと教えて」
「そんな……私だって正しい叱り方ができてる自信なんてないよ。さっきのだってずっとどうすればよかったのかって考えてるし……」

 そうして千紗はやや俯いた。

「怒るほどのことじゃなかったかな、とか……。確かに河合さんのところに行くっていうのは瞬には関係ない話だし……、むしろ私のわがままだったのかも、とか……」
「で、でも瞬くんもはじめは河合さんのところ行きたいって言ってたしさ。気にすることじゃないよ」

 ……俺がやってるのはどっちにもいい顔して嫌われないよう立ち回ってるだけじゃないだろうか。俺は瞬くんがああまで言うならちょっとくらい公園に行かせてあげてもいいと思ったし。でも今までの経験上千紗はそれではよくないと判断したのだろう。
 千紗は肩を竦めて笑った。相変わらず困ったように眉尻を下げて。
 少し気になってたことを俺は補足するように続けた。

「あのさ、瞬くんさっきはママいやーとか言ってたけどさ、昨日は寝てる千紗を見てママが死んだら悲しいから寝てるとこ見るの嫌って言って泣いてたんだよ。あんなの口だけだよ」
「……そう……」

 あんなこと言ってたけどあいつママのこと大好きっすよ! という告げ口のつもりだったのだが、思った以上に千紗の表情は複雑そうだった。

「……あのね、私別にね、喧嘩の時とか癇癪の時にママのバカとか、ママいらないとか言われても気にしないよ。本当はいなくならないってわかってるから言うんだって思うから」

 ……そ、そんなこと言うのか……。
 俺は母にはもちろん、そもそもバカとか、そういう暴言は中学くらいになるまで言ったことないんだけどな……。まあ、自分のことでいっぱいいっぱいで、母とも喧嘩する余裕なんてなかったというのもある。

「もしかしたら本当にいなくなるかも、なんてちょっとでも不安に思ってたらそんなこと言えないでしょ? だから、それはね、いいんだ」

 つまりは絶対的な愛情への自信がある上で甘えているのだ。この年の子はわざと怒られることをして境界線を探ったり、愛情を確かめるような試し行動とかをするというのは知っている。
 本気で言っているわけじゃないなんて千紗だってよくわかっていたのだ。
 ちょっと気にしすぎてしまったかもしれない。例え嘘でも最愛の瞬くんに否定されるようなことを言われたら、千紗は耐えられないのではないかと思ってしまった。
 しかし千紗が引っかかっているのは別の部分であった。

「……でも、いつか瞬を置いて死んじゃうって、そういう不安は感じさせちゃってたんだね……」
「あ……それは……しょうがないよ、ほら、色んな絵本見てるとさ、死とかを取り扱ってるのもあるし、その影響だと思うよ」
「ううん……」

 う、ううんって……。

「あのくらいの年の子はさ、今がずっと続いて、みんなが自分のことを好きで、明日も明後日も楽しいって思うのが一番いいんだと思ってるんだ。もしかしたら誰もいなくなるかもとか、次に外に出たらもう家に入れてもらえないかもとか、そんな不安を感じてたらびくびく周りの顔を伺う子になっちゃうよ」

 その発想は少し突飛だと思った。瞬くんは少なくともそんなことは言っていない。ただママが死んだら嫌、ということだけだ。そりゃあ、夏にあったことがトラウマになってる可能性はなくはないけど、でも夜子供が不安がって泣くのはよくあることだ。

「瞬くんがどこで何を感じて怯えたり怖がったりするかまではいくら親でも操作できないよ。絵本とかアニメとか、いろんなものから影響を受けてるんだから。親ができる範囲の安心感とかは千紗はちゃんと与えられていると思うよ」
「……そうかな……」
「だって、千紗がさっき言ったじゃない。ママがいなくならないってわかってるからああいうこと言えるんだって」
「……うん」

 それでも千紗は相変わらず納得できてないようだ。
 どうもこいつは大前提として自分が間違っているとか悪影響を与えているという結論ありきで語っているところがある。だから矛盾を指摘しても結論を変えずにそこに至るまでの過程が間違ってると思いこむようだ。
 頑固である。
 ふと、千紗が顔を上げ、緩く笑ってるのに気付いて視線の先を追う。

「……ママ」
「瞬、おはよう」

 瞬くんが目を覚まして、よたよたと気まずそうな足取りで近づいてきたのを千紗は体を起こして見守る。

「ママ……ごめんなさい……」
「……瞬、どうして怒られたか覚えてる?」

 千紗の声は優しかった。間違ってても許してくれそうな声だった。

「しゅんが……こうえんいきたいって、ゆったから……」
「うん……、公園行くのはね、いいんだよ。でもね、河合さんのところに行こうっておでかけしたのに、瞬だけ別のことはできないのね。だからママはだめだよーって言ったんだよ、それはわかる?」
「うん……かわいしゃんとやくそくしてたから……」
「さすが瞬~! わかってるねえ、ありがとね」

 千紗が少しおどけた声でわしゃわしゃと瞬くんの頭を撫でてあげると、瞬くんはくすくすと笑った。ほっぺたは涙の跡が残っていて少し痛々しい。

「ママもごめんね、瞬はひろくんと遊びたかったんだもんね。河合さんとの約束もママとパパがしたんだもんね、付き合わせちゃってごめんね」
「いいよ。ママかわいしゃんとあそべなかったんでしょ?」

 ごめんなさいと瞬くんは小さい声で再び謝った。

「仲直りのぎゅーする?」

 瞬くんは頷いて、千紗の膝の上にあがって正面からしっかり抱き合った。
 理想的な親子の図のように見えた。
 俺はどうするのが正解なのかいまだわからない。
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