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17章

 寝ているのに頭がぐらっとするような感覚があった。
 自分の体と魂みたいなものがズレているような気がして、心がざわざわとする。不安定さを覚えて、千紗は自分の体を確認するように布団の中で腕を動かし、自分の腕、肩、それから顔を順番に触る。
 何も変わりがない。痩せぎすの女の体だった。
 ふと額の辺りに布の感触があり、指先でなぞる。ぐるりと頭に包帯が巻かれているのがわかった。

(あ……そっか……棚にぶつけたんだ……)

 ぼんやりとした記憶を探る。
 あまり覚えていない。断片的な映像は思い浮かぶが、音声の情報が酷くぼんやりとしている。なにか怒鳴られた覚えはあるのだが、内容は全く頭に入っていないようである。
 頭を強く揺さぶられて、それどころではなかったのもある。
 満足したのか、それとも嫌気が差したのか、突き飛ばすようにされたはずみに、「あっ」と思ったのを覚えている。思ったものの、そこで踏みとどまれるほどの余裕はなくバランスを崩してそこから記憶がない。
 体を起こそうとすると、ずきりと痛みが走る。

(……頭打ったのに……大丈夫かな……)

 どれほどの傷だったのかわからないが、頭を打ったら病院で調べてもらうべきだという知識は千紗にもあった。
 しかし、世間体というものを非常にこだわる家らしい。救急車など以ての外だろう。

(きっと……死んじゃう怪我をしても、そのままだよね……)

 少しずつ指で触れる位置をずらしながら、傷の様子を確認する。後頭部にじくじくする感覚があった。先程からあった頭痛は枕での圧迫によるものらしい。なんとか上体を起こし、頭を浮かせると鈍痛は和らいだ。

「あら起きたの」

 冷たい声が投げかけられる。
 ぴんと胸に糸のようなものを張られる感覚がした。緊張を誤魔化すように髪を手ぐしで整え、こくこくと頭を縦に振る。と、そのたびにぴりりと頭に痛みが走り、顔をしかめる。

「寝てなさい。一日くらい、どうということはありません」

 たった一日か、と千紗は心の中で文句を言う。しかし彼女なりの労りの言葉なのだと受け取り、こくんとまたひとつ頷いた。痛みを避けようと、少し首を傾げた形になってしまったが、意図は伝わったらしい。というより、YES以外の言葉を受け付けてはいないのだ。
 口をもごもごとさせていると、珍しくこちらの言いたいことに気付いたらしい。

「部屋にも布団を敷いていますから、そちらで寝なさい」

 すでに千紗の祖母といってもいい年の女性にはここに移動させるのがやっとだったらしい。
 そっと頭に振動を与えないように立ち上がり、布団を仕舞おうと振り返る。
 後ろで義理の母が息を呑んだのが聞こえた。
 枕にはてのひらより大きいくらいの血が染み付いていた。

 結局、包帯やガーゼを着け直して貰い、枕は処分されてしまった。
 千紗はとぼとぼと廊下を歩く。

(お風呂入りたかったな……)

 この時間ならすでにお湯は抜かれているだろう。気を失ってしまったのだから、しかたがないのだが。よくよく見るとどうやってついたのか、首に血のあともこびりついていて、擦っただけでは取れなかった。
 それにしてもこんなに出血したことなどなかった。現場は殺人事件でも起こったような有様なのではないだろうか。気になったが、見に行くほどの勇気はない。

「まんま~!」

 引き戸を開けると、おそらく足音で察知していたのだろう。待ってましたというように瞬が出てきて足にぴとりと引っ付いた。
 思わず頭の痛みも忘れ、笑みが溢れる。
 寝ていろ、と言われていたものの、そうなると息子も一日この部屋に閉じ込められっぱなしだ。普段義母と家事を手分けしている間は、たまに義母も瞬の遊びの相手をしてくれているそうだが、今日は任せるとなるとこちらまで手は回らないだろう。
 どちらにせよ寝ている方が頭は痛いし、と千紗は考える。
 頭を撫でて、そっと離れたのを見てタンスに移動する。浴衣のような服を着せられていたので適当な服に着替えた。
 その間部屋の隅で暇をしていた瞬を手招きし、手をつないで部屋の外に出る。
 母屋へ繋がる渡り廊下で靴を履かせ、庭に出た。
 外側は林になっており、外から見られる心配もない。隅に木製の戸が作られていて、そちらを抜けると表側の庭に出るのだが、そちらは道に面しているため「近所迷惑だから」と遊ぶのは禁止されているのだ。
 瞬は一目散に茂みに駆け寄り、「わあ~」と芝居がかった感嘆の声を上げた。
 転んでもすぐに手を出せる位置に待機し、しゃがんでその様子を眺める。

「まんまあ~こえ! こえ!」

 瞬の言葉にぴくりと反応する。
 だんごむしを見つけて指差しているのだと気付き、うんうんと笑顔で頷く。
 千紗の声が出なくなってから、一週間ほどが経っていた。
 あるとき急にそれは起こった。
 喉が固まったようになって、無理やり出そうとすると潰れたような言葉にもならない声しか出ないのだった。
 最初はパニックになったものの、しかしもうすでにその生活に慣れつつあった。
 原因はわからない。病院に行っていないからである。しかし物理的なものではないのだろうと千紗自身見当はついていた。
 そして喋れない体で生活してみると、案外不自由というものもなかった。
 今まで口数の多い方だと思っていたが、実際、その言葉の数々に深い意味や必要性などなかったのだということに気付かされた。
 外出することもないから、不便もない。
 家のことで意見をするようなこともない。
 育児に必要な道具は、最近の便利なものではないのだろうが、一応一通りは買い揃えられているし、千紗が言わずとも補充もしっかりされている。買い物などを引き受けてくれる使用人のような人がいるのだ。その注文のようなものは義母がすべて担当している。
 ありがたいことなのだろうとは思う。
 一人では何もまともにできなかっただろう。
 しかし、同時に気だるい気持ちになった。
 自分の話や行動には何もこの生活に影響がない。それを突きつけられて、しかし、冷静に今までの人生を振り返ってみても、やはり自分の行動に意味はなかったのだと思えてならなかった。自分の言葉や意思を誰も聞いてはいなかったのだ。

(でも……でも……桐谷は……)

 一瞬、甘えたような気持ちに気付き頭を振る。するとズキンと痛んだし、視界がくらくらとした。
 声を出せなくなって、生活に支障などひとつもなかったが、瞬の言葉の発達には影響が出ているだろうということくらいは千紗にも予想できた。
 生まれてからずっと、あれやこれやと意味のないこともあることも話しかけていた。まだ小さな赤ん坊だというのに、瞬はそれをじっと聞いてくれるのだ。嬉しくなって変に明るく、大きな仕草で語りかけると、楽しそうに笑ったり泣き止むのが嬉しかった。
 それをしてやれないのが悲しくてしょうがない。
 母親失格なのだと、何度も言われてきた言葉を反芻する。
 しかし、どれだけその資格がないとしても、自分がいなくなってこの家で育てば、きっとまともな子にはなれないだろうと思う。それが千紗の生きることをやめない原動力であった。
 瞬は言葉にならない声を上げて、自分の中では何かが成立しているらしく地面を突いてみたり、落ち葉をちぎったりとしている。
 何かに話しかけているような様子で、それを見守る。母親以外、話し相手があまりにもいないせいだろうか、いつの間にか瞬はこうして何もないところに話しかけるようになっていた。
 はじめは幽霊でもいるのかと恐ろしい思いをしたのだが、楽しげにしている瞬を叱ることなどできなかった。
 一人でごっこ遊びをする姿を見ると、じわじわと、このままではいけないという気持ちが出てくる。
 まさかこのままずっと外に出してもらえないということはないだろうが、しかし、大きくなって急に連れ出されて困るのは瞬である。

(もしかして……私が死ぬのを待ってるのかな……)

 頭では、そんなことないとわかっているのだ。母親が不要なら養子を取ればいい話なのだ。もしかしたら、里親になるには条件を満たせなかったのかもしれないけれど……。
 それに結婚した折に、旦那の面倒も頼まれているのだ。家事のひとつもできなくて邪魔かもしれないが、それでも最近はいなくなったほうが良いというほどではないと思っている。

(思ってる……けど……)
「まあま? うんなったい」

 瞬の声に我に返る。
 小さくて少し湿った手が千紗の顔に触れた。
 安心させるように微笑みその手に触れようとして、何故だか涙が出ていることに初めて気がついた。
 最近多い。何も悲しくはないし痛くもないのに、勝手に涙だけが流れているのだ。
 ごめんごめん、大丈夫だよ、と言おうとするも何も口からは出ない。
 すると不安に思ったのか、見る見る瞬の顔が歪んでぽろぽろと涙が湧いて出てきた。
 泣き声が本格的になる前にと抱き上げて屋内に戻る。
 こんなとき、励まして笑わせてあげたいのに、ただ撫でて、背中をさすってやるしかできない。
 それが今、一番つらかった。

---

 目が覚めると、あたりはまだ真っ暗だった。時計盤が見えない。明け方というにはまだ早いらしい、となんとなく感じた。
 腕を伸ばし、スマホを確認する。便利だろうに、最近はすっかり時計として扱ってしまっている。四時過ぎ。起きるにはさすがにまだ早い。
 横を見ると小さな枕が見えた。もう少し下を見ると瞬の小さな頭頂部が見える。どうやら90度傾いてしまったようだ。
 体を起こすと、足の方は流の胸の上に乗っていた。苦しいだろうに、この父子はこの程度の寝苦しさでは目覚めないのだ。
 苦笑しながらそっと小さな足を持ち上げて、体の傾きを直して布団に寝かせ直す。
 昨日はかなり大きな公園に連れて行ってもらって、疲れ果てるまで遊んでいた。これは朝が来ても当分眠りこけるだろう。
 寝直すという気分にもならず、そっと抜け出して部屋を出る。こういうとき、千紗はいつも流の部屋で時間を潰す。
 六時頃になると義理の母が目をさますので、その時間に合わせてこそこそと降りていくのがいつもの流れとなっていた。
 この部屋は千紗も一人で好きに使える部屋として明け渡されている。パソコンも自由に使っていいと言われているが、どうも興味をそそられなかった。他になにか暇つぶしがあるわけではないのだが、リビングなどで一人で気ままに過ごすほどまだ馴染めてはいない。
 ベッドに腰掛け、壁を見つめたあとそのまま寝転ぶ。

(やな夢見ちゃった)

 こうしてため息をつくのは何度目だろう。
 実害自体は少ない。もっと悪夢を見たような恐ろしい気持ちで目覚めるときだってあった。そんなときはわざわざ横で眠る流を叩き起こしたいような気持ちにさせられるのだ。今の所実行したことはないが。
 あの頃は自分が思っているよりも精神的にしんどかったのかも知れない。
 喋れない感覚なんていうのは今はもう思い出せなかった。そんなこともあった、と言われれば思い出せるが、なんとなくぼんやりしていたような、目の前のものを見ているようで理解はしていないような、そんな風に生活していた気がする。
 結局10日ほど口が利けなかったはずだが、いつのまにかまた少しずつ声が出るようになっていたと思う。
 しかし今夢のお陰で思い返してみると、あの頃の経験というのは大きかったのだ。
 こちらに戻ってきて、落ち着きが出たとか大人っぽくなったと言われたが、結局は口数が減っただけなのだ。喋ることができない生活で、感じたことを口に出すという行為のハードルが上がったのだろう。
 話したって、どうせ聞いてはくれないのだから。
 でもこの家に住む人は、そうではない気がした。千紗が自分から声をかけるととても喜ぶのだ。少しずつそれが千紗にも伝わってくるようになっていた。
 幼い頃、言葉を話せない自分に、必死に裕子が語りかけてきたことを覚えていた。その頃のような感覚だった。
 すっかり使われなくなってしまった布団に手を滑らせる。

(私の家はここ)

 自分に言い聞かせた。
 時折こうして確認しないと、自分がまるでとても場違いな、どこか知らない場所にいるような感覚になる。
 昔の夢を見たときなどは特に。こちらが夢のような気がしてしまう。
 ふと目を覚まして、あの家で目覚めたら。

(私の家はここ)

 大丈夫だと思えた。
 段々と、気持ちが落ち着いてくるから。
 ここにいられるなら、きっと大丈夫だと思えた。
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