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17章

「あっ」

 声をあげると、隣に座っていた友人がどうした? と声をかけてくる。あー、と間を繋ぎながらもう一度一通り鞄の中を確認したが、うすうすこれは無駄だと感づいていた。

「今日締め切りのレポート、忘れてきた」
「マジ? 珍しいな、桐谷がうっかりなんて」

 ま、一回くらいいいんじゃないの、とフォローされるが、そう簡単に諦めはつかない。
 ううむ。他の課題がメールでの提出ばかりの中、今回ばかりはプリントしたものを提出しなければならないと指定されていたのである。

「ノーパソ持ってきてるならこっちのプリンターで印刷してくればいいじゃん」
「パソコンごと忘れてきた……」
「それはもっと早くに気付けよ……」

 なんか今日一日身軽だなとは思ったんだ! 全然気付かなかった……。
 ああそうだ、パソコンを入れた鞄の中にファイルを入れたんだ。そしてその鞄を忘れないようにとソファの横に置いた。
 瞬くんにお見送りされるのが嬉しくて肩車しながら玄関まで移動したのが仇となったか……。
 今まで一度も穴をあけずに提出してきたのだ。それが……こんなことで……。
 普段だったら取りに帰る……が、往復する時間はないな……。バスを乗り継いで一時間ほどかかる。しかし今日はこれから試験があるのだ。そしてそれが終わったら課題を提出して帰宅、という計画であった。これから取りに帰れば締め切りには確実に間に合うが、試験には間に合わない。試験を終えてから取りに戻ったら締め切りに間に合わない。
 終わった。

「……家族に持ってきてもらえないの? 実家暮らしじゃなかったっけ」
「……あ……」

 見かねて助言され、顔を上げた。


『ええっ!? それって大事なものなの?』
「大事っていうか……締め切りを一分でもすぎたら一切受け付けてくれないんだよ。なんか、提出できなかったら謝罪文とか書かなきゃいけないらしくてさ……悪いんだけど車で届けにきてくれないかな」

 母はすぐに電話に出てくれた。後ろで「パパー?」と聞く瞬くんの声が聞こえて荒れた心がちょっとだけ潤う。

『でも……今実は瞬くんと知り合いのお宅にお邪魔してて、ちょっと距離があるから……』
「えっ!?」
『子犬が産まれたからって……』

 し、知らん……! な、なんでよりによって今日……!? 普段お出かけなんて買い物くらいしかしないのに!
 ……いや、でもすべては俺の責任である。ここで責めるのは完全に八つ当たりだ。これが運命だったのだ……。

「わ、わかったよ……無理言ってごめん。瞬くんと犬の写真は撮っておいてね……」
『あっでも千紗ちゃんは今家にいるから、連絡してみたらどうかしら!』
「え!? 一緒にいないの? 仲間外れ!?」
『違うわよ! 失礼な子ね!! ……瞬くんへのクリスマスプレゼントを今から作ってるのよ。だからいいって遠慮しちゃったの』
「あ、そ、そうなんだ……ごめん……。じゃあ千紗に聞いてみるよ」

 瞬くんに聞かれないようにしているのかこそこそした母の声にあわせて、何故か俺も小声になりつつ電話を切る。
 クリスマスプレゼント……? そんなの作ってるところなんて見たことないけど。高認の試験も終わったことだし、その分夜は暇になったからその時間に作っていてもおかしくないのに、俺はそんな情報全く知らない。
 まあいいや、千紗に電話だ。

『もしもし? どうしたの?』

 不思議そうな千紗の声である。俺が電話するなんてとても珍しいことなのだ。

「あ、あのさ、今家にいるかな?」
『いるけど……』
「ソファのところに鞄ないかな? 忘れちゃってさ……今日締め切りの課題が入ってるんだよ」
『え? あ! あったかも! え、ど、どうするの? 大丈夫なの?』

 どたどたと階段を降りているような音が響く。

「ごめん、届けに来てくれないかな……」
『え! い、いいの? 大丈夫……?』
「大丈夫だよ、センターまでの行き方はわかるよね? 途中に大学前のバス停があるでしょ、あれで降りてくれればいいからさ」
『え、あ、う、う、うん』
「これから俺試験だから、ついたら近くのお店に入って待っててくれる? 終わったらすぐ連絡するから。ごめんね、大丈夫かな?」
『あ、わ、わかった』

 ぷちんと通話は切れてしまった。だ、大丈夫なのかな……。焦らせてしまっただろうか……。
 もし急いだせいで坂で転んでしまったら……あ、だめだ。心配だ。
 冷や冷やとしてくる。が、もうまもなく試験である。冷静にならないと。
 大丈夫だ、千紗は結構しっかりしてるし、慎重なタイプだし。
 ほんの少し……いや、正直言うとかなり心配になりつつ、俺は試験に臨んだ。

---

 試験を無事に終え、大急ぎで荷物をまとめてスマホを確認する。
 少し前に千紗から近くのコンビニにいるというメールが入っていた。今行くと返信して俺は人目もはばからず走って向かった。


「ご、ごめん……ありがと……」
「わ、大丈夫? 間に合う? これでいいんだよね?」
「そう……そう……」

 広い大学の敷地を横断したのでへとへとになりながらコンビニで立ち読みする千紗を発見したのであった。
 千紗の方もすぐに俺の存在に気づき、表に出てきてくれた。鞄を受け取り中身を確認する。重たいだろうに、ずっと肩にかけて下げていたらしい。
 そして確かに目的のファイルはしっかりと入っていた。

「よ、よかったあ……」
「……だいじょぶ? そんな大事なものだったの?」
「いや……まあ、うん、課題は大事だけど、千紗を慌てさせちゃったから、転んで怪我でもしてないかと心配で……」
「な、なにそれー! 子供じゃないんだから」

 むっとしたような顔をしているが、すぐに笑顔に戻って「間に合ってよかった」と続ける。

「じゃあ私帰るね、学校頑張ってね」
「待ってよ、一緒に帰ろう。これ提出したらもう終わりだから」
「え? でも……」

 千紗は戸惑うように視線をうろつかせた。

「十分もかからないからさ。そうだ、お茶でも飲んで帰ろうよ。そこの喫茶店、先に入って待っててくれる?」
「え、でも、でも、いいの? 大学の目の前で、人に見られたら……」

 そう言われて動きが止まる。全くそんなこと考えていなかったからだ。
 まあ……たしかに……こんなところで二人でお茶をするなんて見てくださいと言わんばかりかもしれない。
 でもせっかくここまで来てくれたのにこのまま帰してバラバラに帰るなんて……そんなの寂しいじゃないか!

「……まあ、そのときはそのときだよ。見られちゃ困る人じゃないんだし」
「ええっ!?」
「友達には受け入れてもらえたって言ったろ?」
「そ、それはあ……そうだけど……でもお友達以外の人はどうだかわかんないじゃない……」

 まあ、そうだけどさ。逆にそれ以外の連中に俺たちの間柄について説明して回る義理もないのだ。真正面から構える必要なんてないだろう。根堀り葉掘り聞いてくる相手がいるとしても丁寧に相手をしてやる必要もない。
 ぽんぽんと軽く元気づけるように千紗の腕を叩く。

「そんなこそこそする必要ないよ。第一有名人でもないんだし、そんなに興味持つ奴いないって。……じゃあぱぱっと行ってくるね」
「……」
「……もし本当に嫌だったら無理しないでいいから、メール入れておいてね、あ、でも一緒には帰ろう、どこかで待っておいて」

 もはやそれほど急ぐ必要はないのだが、待たせたくはないと俺は早歩きで来た道を引き返した。
 そういえば、高校時代からだもんな。世間に隠して付き合うっていうのは。
 前の旦那さんと結婚したときだって、話を聞いてみると殆ど家に軟禁状態だったようだし。千紗が世間から身を隠したがる思考回路に陥るのもわかる気がする。そんな日常を過ごしてきたら、例え全く文句を言われる理由がなくともきっと不安になるのだろう。学生結婚で、しかも子持ちとくればいくらでも文句は言われる隙はあるのだし。
 俺たちは最善と思って結婚のことも決めたのだから、堂々としていればいい、と思うのだが、これは俺の勝手である。千紗に付き合わせることじゃないよな。
 しかし、である。それはそれとして、俺はじわじわと嬉しさが沸き上がってきて、顔がにやけそうになる。
 今回のは完全なる俺のミスだった。叱られても言い訳などできない。だというのに俺のために大慌てで千紗は荷物を持ってきてくれたのだ。まるで自分のことのように。
 こんなの、嬉しいに決まってるじゃないか!
 それから自分が普段通っている学校のそばに千紗が来てくれたことで、少々舞い上がっているのかもしれない。
 こんな時は一緒にお茶でもして噛みしめたいじゃないか。

---

「ほんとありがとう、助かったよ」

 結局、指定した喫茶店に千紗はいた。
 ほっとして向かいに座る。千紗はメニュー表で顔を半分隠しながらじとっとこちらを見上げていた。

「それはよかったけど……」
「え、なに?」
「私、部屋着なのに……こんなおしゃれなとこいられないよ……」

 ああ……言われてみればたしかに。いつも家でしている格好だった。
 母のお下がりのカーディガンに、シンプルなパンツ。これまたお下がりの小さな鞄を肩にかけて、本当に慌てて出てきたといういでたちだった。徐々に冬になりつつある今の時期では少し寒いかもしれない。
 しかし家で見慣れている格好というだけで、外では不格好な服装というわけではない。

「全然おしゃれ」
「うそだー。すっぴんだし」
「それは本当にどっちでもわからないから大丈夫」
「う、嬉しくない……」

 学校で会う女子と比べると、確かに華やかさというのは劣るかもしれないけどさ。化粧もいつも、本当にしてるんだかしてないんだかよくわからない薄さだし。
 しかし大急ぎで来てもらったはずなのにばちばちにおしゃれ決めてこられたらそれはそれで複雑だぞ。
 二人で適当に飲み物とケーキを注文した。せめてものお礼である。

「そうだ、瞬くんたち子犬見に行ってるんだって? 一緒に行かなくて良かったの?」
「ああ、うん。だって里親募集中なんだって。そんなこと言われたら絶対飼いたくなっちゃうし……それにほら、お天気怪しかったから、お留守番いた方がいいかなって」
「なるほど……」

 動物好きの千紗なのに一体どうしたのかと思ったのだが。
 しかし、母が言っていた瞬くんへのクリスマスプレゼントという話は出てこない。ちょっと気になる……。

「あ、そうだ。さっき流のお友達っていう人に声かけられたよ」

 口から全部出そうになった。

「え、えっ!? な、なんですぐ言わないの!? だ、だれ?」
「名前は聞き損ねちゃった……。二人組の女の子だったよ。あ、一人はめぐみって呼ばれてたかも」

 めぐみ!? めぐみってあの!?

「し、知らない子たちかも……」
「えー? そうなの? もしかして流って有名人なんじゃない?」
「そうなのかな……」

 本当に、一体どういう情報網が張り巡らされているのだろう。俺が学校付近でいつもと変わった行動をとったら毎回誰かにバレている気がする。たしかに普段決まったルーティーンで動きすぎているところはあるけど、学校ってそんなもんじゃないか……?
 っていうかいつもと違う行動してるからってそんな興味持つか!? 恋人いるやつなんて珍しくないだろ。
 それとも俺が自覚していないだけで、もしかして俺のファンクラブとかあるんだろうか。自覚がないのにモテたってしょうがないのだが。せめて実感を得たいぞ。

「大丈夫だった? どんな話したの?」
「え、ええと、桐谷くんの彼女さんですかって、聞かれて……」

 何故俺に聞かない!?

「迷ったんだけど、家族ですって言ったら、へえーって、言ったところで流がこっちくるのが見えて出て行っちゃった」
「は、はた迷惑な……」

 それにしても家族か……。うん、真実である。しかしその子たちは兄弟なんかだと勘違いしたのかもしれない。全然似てないけど。まあ、嘘ついたわけでもないし、都合はいいか。

「気分悪いこと言われたりはしなかった?」
「……うん、思ったより平気だったかも。昔の河合さんと小野さんみたいな空気になったらどうしよーて不安だったんだよね」
「あれは特殊でしょ。それに残念ながら恋敵になりそうな相手はいないはずだよ」
「ふふ、それはよかった」

 めぐみの存在は気になるけどな!
 まあ、こちらに直接接触してこない以上放置するしかないか。

「小野さんもね、大学生になってから再会したらだいぶ大人っぽくなってたよ。優しくなってた」
「え、そうなんだー! やっぱり大学行くと変わるもんなんだねえ。石橋も雰囲気変わってたんでしょ?」
「まあ……少しは話しやすくはなってたけど。大学行ったから変わったのかはわからないけどね」
「でも行ってない私や河合さんはあんまり変わってなくない?」

 ほ、ほんまや……。
 いやいや、というより新しい人との交流が増えたかどうかだろう。大学に行かずとも社会に出て働いていればそれはそれで変わっていたと思う。河合さんは今までの人生と行動範囲はほとんど変化がないし、千紗も人との交流を断絶されていたから……。そりゃあ変わりようもない。
 ……いや、でもこんな言い方、まるで成長してないみたいでよくないな。

「……二人は高校時代の仕上がりで十分だったってことだよ」
「えー? なんか調子いいこと言ってない?」

 全然誤魔化されてくれない。
 ああでも和泉は大学デビューどころか海外デビューして大きく環境が変わったものの、別に変わらずだな。長いこと会ってないから、もしかしたら顔を会わせてみれば様変わりしているのかもしれないけど……。

「流、なんかご機嫌だよね。大学ではいつもそんな感じ?」
「まさか。千紗が来てくれたからですよ」
「なにそれえ~」

 こういうちょっとでも甘そうなことを言うと千紗はバランスをとるように唇をとがらせて苦そうな顔をするのだ。しかし最近はその顔も少し嬉しそうに見えてきた。幻覚だろうか。

 ケーキを食べ終え、二人で帰宅した。
 別に手を繋いだり腕を組んだりするわけじゃないから、もしかしたら本当に周りからはただの家族に見えたかもしれない。
 でも俺はなんだかとてつもなく嬉しかったのである。
 もし、千紗も一緒に大学に通えていたら……とありもしないことを想像して。

---

 結果として、やっぱりそれほど周りからの反応というものはなかった。まあ、一番に突っ込んできそうな筒井さんや馬場には報告を済ませていたからなのが大きいかもしれない。メールは何件か来たけど、直接問いただしにくるような仲ではないらしい。ありがたいような切ないような。
 本当に、なんでみんなそんな人の動向に敏感なのだろうか。
 しかしその話題の殆どが、俺が彼女に対してはあんなへにゃへにゃに笑うなんて、というようなものや、本当に彼女がいたなんてという存在自体に驚くものばかりであった。彼女の正体というようなものを気にする人などいなかったのである。実際に話しかけられたらどうだったろうとは思うが、俺があんまりに情けない姿を晒していたので怖くて話しかけられなかったと言われた。納得いかない。
 もしかして、千紗から見た俺って骨抜きのめちゃくちゃ情けない姿なのか……?
 心配になって主張してみた。

「俺、クールで大人っぽいってたまに言われるんだよ」
「知ってるよー」

 本当かな……?

「瞬くん、パパかっこいい?」
「あのねえパパはねえ、しんかんせんよりしたくらい」

 えええ……?
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