誕生日大作戦
久しぶりに気持ちよく晴れたその日、少しだけ早い時間に帰宅することができたので、河合さんのお店を覗いてみることにした。
もう三ヶ月ほど顔を見ていない。やっぱりお互い連絡をこまめにとるタイプではないのだ。どれだけスマホやSNSが発達してもすぐに没交渉となってしまう。一応、元気にやってるらしいという確認はできるけど。
春から働き始め、最初の夏が訪れようとしていた。
五月病の季節も終わったことだし、この調子であればなんとかやっていけていると報告できそうだ。
多分河合さんのことだから、声をかけてはこないもののそれなりに心配はしてくれているだろうと思う。そういう人なのだ。
「いらっしゃい。……あら。桐谷先生じゃない」
「先生はやめてマジで……今はまだ研修生だし……」
開幕いじられつつ、河合さんはちょっと待て、と言葉を発さずに手で示し、レジの仕事に移る。喜びも驚きもしない。落ち着いている、昔ながらの河合さんである。
店の様子は相変わらずだ。大して変化はない。ここだけ時間の速度がゆっくり進んでいるように思えるほど、この店は昔から雰囲気が変わらない。多分そういう空気を求めて常連がつくんだろうな。
「それで、どうなのお仕事の方は。うまくやれてる?」
客が引いたタイミングで、河合さんは店じまいの準備をしながらそう話を振ってきた。
「まあ、なんとかね。幸い夜勤とか休日出勤もないし、他の科と比べるとかなり楽なとこなんだと思うよ。残業したって九時には家につけるし……」
「わざわざしんどいとこと比べてどうするのよ」
「立場が違うとはいえ、同じ病院に勤めてるとどうしてもね……」
研修にいったセンターでは、入院棟や研究棟以外はみんな暗くなる頃には業務終了だったのだが、俺が働いているのは総合病院だ。夜間外来も救急もある。
しかし俺の所属している特殊脳理科はそういった急を要する患者というのはいない。
そういうもんだとは思いつつも、人がこれからまだまだ働くぞというときに自分は上がります、というのは後ろ髪引かれる気持ちになるのだ。特に俺が夜に弱くて夜勤なんてできそうにないから尚更頭が下がる思いだ。別に病院に限らず、どこにだってある光景なんだろうけど。
よく考えれば、バイトだって家庭教師以外はセンター絡みだったし、一般的な職場の様相というものを俺は知らないのだ。
そのうち慣れるんだろうけどさ。
「いじめられたりしてない?」
「俺が? いじめられると思う?」
「昔の桐谷だったら大丈夫だったでしょうけど、あなたって上手く立ち回るタイプじゃなくてやられたらやり返すタイプじゃない。でもそんなことできる立場ではもうないでしょ。心配にもなるわ」
お、俺のこと一体なんだと思っているんだ……。
やり返すのだって、もう卒業したのだ。そもそものトラブルを避ける、喧嘩は買わない。昔よりはそんな温厚な大人になっているつもりだ。
「……まあ、特殊脳理科とそれ以外では若干溝はあるけどね。外部の業者さんみたいな扱い受けてる感じもなくはない……かな? でもそれ以外は別に。そもそもみんな必要以上に仲良くないし、悪くもないよ」
「医療チームで絆深めたりしないの?」
「ドラマの見すぎじゃない? 普通のクラスメイトくらいの距離感だよ」
あと医療ではない。患者さんからすると同じ先生に見えても、俺たちが一般的な医療行為を行うと法に触れるのだ。この違いは明確にしておかないと。
河合さんはふうんとつまらなそうに頷いて、段ボールを持ち上げようとしたので慌てて手を貸す。
「あら気が利くわね」
「こんなちびっ子の力仕事を見てるだけでいられる男はいないよ」
おっと。睨まれてしまった。
話を変えたほうがよさそうだ。
「あ、そうそう。今日寄った理由なんだけどさ、相談があるんだ。もうじき千紗の誕生日なんだよね」
「あら。ああそうか、七月の頭だったわね」
「そうなんだよ。高校時代も祝い損ねたし、去年も誕生日過ぎてから再会したからまだ一度も祝えてなくてさ。これを逃すわけにはいかないだろ。どうしたら喜んでくれるかと思って」
あと河合さんはこういうこと忘れてそうだと思ったから、祝ってあげてくれという気持ちも込めて、予告がてら相談に来たわけだ。
「そういうの、あなたが一人で悩んだ方が喜ぶんじゃない? 他の女に意見求めるのって一般的に問題ありそう」
「そうかな……。でも河合さんならありじゃない?」
「どういう理屈よ」
確かに、彼女や奥さんへのプレゼントの相談を他の女性に聞いてもらうのってなんとなくアウトっぽい匂いがするな。それで浮気と勘違いされてこじれるっていうのはありがちなパターンだ。
……いや待てよ? よくよく考えたら、高校時代のクリスマスプレゼントも河合さんと選びに行って、ちょっと千紗とは気まずい感じになったんだよな……。うっ、ちょっと苦い気持ちが蘇ってきた。
そのときの反省を込めて、河合さんとの関係を疑われるような行動は慎むように気をつけていた記憶もあるのだが、すっかり頭から抜けていた。もしかして俺はまるきり成長していないんだろうか。
「……実は職場の先輩にもいいアイディアがないか聞いてみたんだけど、ブランドもののバッグとか、花束や指輪を渡せって言われて」
「典型的ね……。千紗ちゃんが喜ぶとは思えないわ」
「だよねえ」
河合さんだって喜ばないだろうけど。
千紗のことだから渡してしまえば喜んでくれるだろう。でもバッグをプレゼントしようか、と提案すれば絶対「いらない!」と即答するのが想像できた。それは俺に対する遠慮ではなく、心から興味がないのだ。
どうも職場での既婚者率は低い。働き始めの頃はみんな俺の結婚指輪を見てどよめいていた。まあ、年齢的にその反応も仕方ない部分はあるだろうけど、でも年輩者を見てもやっぱり既婚者の割合は低い印象がある。なんというか、女受けが非常に悪い職業らしいのだ。
例えば合コンなんかで病院に勤めていると言って、医者かと食いついてきた人は特殊脳理科であると言うと離れていくんだそうだ。まあ、医者と比べると収入がやや低いことは確かである。高収入の部類ではあるのだが、医者と比べて潰しがきかないし、まだあまり知名度の高くない仕事だというのもある。そしてわざわざ医者ではなくて……と説明するせいで悪目立ちするそうだ。かといって適当にはぐらかして医者面すればそれは詐欺みたいなもんだし。
既婚者の多くが大学時代の恋人と結婚したといういきさつらしい。恐ろしい。千紗がいなければ俺なんて一生売れ残り続けていたことだろう。
まあ、ようするにあまり頼りになるアドバイスは出てきそうにないということである。
「千紗ちゃんが本気で喜びそうなのはゲームや漫画か……あとは瞬くん関連のものでしょうけど、色気はないわよねえ……」
「そうなんだよなあ……。せっかく初めての誕生日プレゼントなんだからと思うと……、まあ、こんなの自己満足でしかないけどさ」
そして俺はゲームのことも漫画のこともわからないし。
本人に欲しいものある? と聞いても多分向こうは素直に物をねだったりはしないだろう。
どうせこの先毎年続くのだ。そうなれば本人の要望とかをきちんと聞いてプレゼントするのもありだろうが、初めてはさ、「ええ!? 覚えていてくれたの!?」みたいな反応を見てみたいじゃないか。
「……ちなみに河合さんはプレゼントとかあげてくださるんでしょうか……」
「なによ。まるでわたしが何も渡したがらないみたいじゃない」
河合さんはむっとした顔をする。
別に期待してなかったわけじゃないけどさ。厚かましいじゃないか。自分の奥さんになにかプレゼント贈ってくれなんて。
「そうねえ、お取り寄せの食べ物とかかしら。夏だからアイスとか。ああでも冷凍庫占拠するのは迷惑よね。じゃあフルーツとか。ネットで見て決めるわ」
「えっ、いいなあそれ!」
「わたしのアイディアよ。盗まないでよね」
むむむ……。
まあ、せっかく渡すならやっぱり残る物の方がいい気もするし。
食べ物は河合さんに任せるとしよう……。
俺の悩みは解決しそうになかったが、食べ物のプレゼントならおこぼれが貰えるなあと卑しい気持ちで俺の心は浮ついた。
もう三ヶ月ほど顔を見ていない。やっぱりお互い連絡をこまめにとるタイプではないのだ。どれだけスマホやSNSが発達してもすぐに没交渉となってしまう。一応、元気にやってるらしいという確認はできるけど。
春から働き始め、最初の夏が訪れようとしていた。
五月病の季節も終わったことだし、この調子であればなんとかやっていけていると報告できそうだ。
多分河合さんのことだから、声をかけてはこないもののそれなりに心配はしてくれているだろうと思う。そういう人なのだ。
「いらっしゃい。……あら。桐谷先生じゃない」
「先生はやめてマジで……今はまだ研修生だし……」
開幕いじられつつ、河合さんはちょっと待て、と言葉を発さずに手で示し、レジの仕事に移る。喜びも驚きもしない。落ち着いている、昔ながらの河合さんである。
店の様子は相変わらずだ。大して変化はない。ここだけ時間の速度がゆっくり進んでいるように思えるほど、この店は昔から雰囲気が変わらない。多分そういう空気を求めて常連がつくんだろうな。
「それで、どうなのお仕事の方は。うまくやれてる?」
客が引いたタイミングで、河合さんは店じまいの準備をしながらそう話を振ってきた。
「まあ、なんとかね。幸い夜勤とか休日出勤もないし、他の科と比べるとかなり楽なとこなんだと思うよ。残業したって九時には家につけるし……」
「わざわざしんどいとこと比べてどうするのよ」
「立場が違うとはいえ、同じ病院に勤めてるとどうしてもね……」
研修にいったセンターでは、入院棟や研究棟以外はみんな暗くなる頃には業務終了だったのだが、俺が働いているのは総合病院だ。夜間外来も救急もある。
しかし俺の所属している特殊脳理科はそういった急を要する患者というのはいない。
そういうもんだとは思いつつも、人がこれからまだまだ働くぞというときに自分は上がります、というのは後ろ髪引かれる気持ちになるのだ。特に俺が夜に弱くて夜勤なんてできそうにないから尚更頭が下がる思いだ。別に病院に限らず、どこにだってある光景なんだろうけど。
よく考えれば、バイトだって家庭教師以外はセンター絡みだったし、一般的な職場の様相というものを俺は知らないのだ。
そのうち慣れるんだろうけどさ。
「いじめられたりしてない?」
「俺が? いじめられると思う?」
「昔の桐谷だったら大丈夫だったでしょうけど、あなたって上手く立ち回るタイプじゃなくてやられたらやり返すタイプじゃない。でもそんなことできる立場ではもうないでしょ。心配にもなるわ」
お、俺のこと一体なんだと思っているんだ……。
やり返すのだって、もう卒業したのだ。そもそものトラブルを避ける、喧嘩は買わない。昔よりはそんな温厚な大人になっているつもりだ。
「……まあ、特殊脳理科とそれ以外では若干溝はあるけどね。外部の業者さんみたいな扱い受けてる感じもなくはない……かな? でもそれ以外は別に。そもそもみんな必要以上に仲良くないし、悪くもないよ」
「医療チームで絆深めたりしないの?」
「ドラマの見すぎじゃない? 普通のクラスメイトくらいの距離感だよ」
あと医療ではない。患者さんからすると同じ先生に見えても、俺たちが一般的な医療行為を行うと法に触れるのだ。この違いは明確にしておかないと。
河合さんはふうんとつまらなそうに頷いて、段ボールを持ち上げようとしたので慌てて手を貸す。
「あら気が利くわね」
「こんなちびっ子の力仕事を見てるだけでいられる男はいないよ」
おっと。睨まれてしまった。
話を変えたほうがよさそうだ。
「あ、そうそう。今日寄った理由なんだけどさ、相談があるんだ。もうじき千紗の誕生日なんだよね」
「あら。ああそうか、七月の頭だったわね」
「そうなんだよ。高校時代も祝い損ねたし、去年も誕生日過ぎてから再会したからまだ一度も祝えてなくてさ。これを逃すわけにはいかないだろ。どうしたら喜んでくれるかと思って」
あと河合さんはこういうこと忘れてそうだと思ったから、祝ってあげてくれという気持ちも込めて、予告がてら相談に来たわけだ。
「そういうの、あなたが一人で悩んだ方が喜ぶんじゃない? 他の女に意見求めるのって一般的に問題ありそう」
「そうかな……。でも河合さんならありじゃない?」
「どういう理屈よ」
確かに、彼女や奥さんへのプレゼントの相談を他の女性に聞いてもらうのってなんとなくアウトっぽい匂いがするな。それで浮気と勘違いされてこじれるっていうのはありがちなパターンだ。
……いや待てよ? よくよく考えたら、高校時代のクリスマスプレゼントも河合さんと選びに行って、ちょっと千紗とは気まずい感じになったんだよな……。うっ、ちょっと苦い気持ちが蘇ってきた。
そのときの反省を込めて、河合さんとの関係を疑われるような行動は慎むように気をつけていた記憶もあるのだが、すっかり頭から抜けていた。もしかして俺はまるきり成長していないんだろうか。
「……実は職場の先輩にもいいアイディアがないか聞いてみたんだけど、ブランドもののバッグとか、花束や指輪を渡せって言われて」
「典型的ね……。千紗ちゃんが喜ぶとは思えないわ」
「だよねえ」
河合さんだって喜ばないだろうけど。
千紗のことだから渡してしまえば喜んでくれるだろう。でもバッグをプレゼントしようか、と提案すれば絶対「いらない!」と即答するのが想像できた。それは俺に対する遠慮ではなく、心から興味がないのだ。
どうも職場での既婚者率は低い。働き始めの頃はみんな俺の結婚指輪を見てどよめいていた。まあ、年齢的にその反応も仕方ない部分はあるだろうけど、でも年輩者を見てもやっぱり既婚者の割合は低い印象がある。なんというか、女受けが非常に悪い職業らしいのだ。
例えば合コンなんかで病院に勤めていると言って、医者かと食いついてきた人は特殊脳理科であると言うと離れていくんだそうだ。まあ、医者と比べると収入がやや低いことは確かである。高収入の部類ではあるのだが、医者と比べて潰しがきかないし、まだあまり知名度の高くない仕事だというのもある。そしてわざわざ医者ではなくて……と説明するせいで悪目立ちするそうだ。かといって適当にはぐらかして医者面すればそれは詐欺みたいなもんだし。
既婚者の多くが大学時代の恋人と結婚したといういきさつらしい。恐ろしい。千紗がいなければ俺なんて一生売れ残り続けていたことだろう。
まあ、ようするにあまり頼りになるアドバイスは出てきそうにないということである。
「千紗ちゃんが本気で喜びそうなのはゲームや漫画か……あとは瞬くん関連のものでしょうけど、色気はないわよねえ……」
「そうなんだよなあ……。せっかく初めての誕生日プレゼントなんだからと思うと……、まあ、こんなの自己満足でしかないけどさ」
そして俺はゲームのことも漫画のこともわからないし。
本人に欲しいものある? と聞いても多分向こうは素直に物をねだったりはしないだろう。
どうせこの先毎年続くのだ。そうなれば本人の要望とかをきちんと聞いてプレゼントするのもありだろうが、初めてはさ、「ええ!? 覚えていてくれたの!?」みたいな反応を見てみたいじゃないか。
「……ちなみに河合さんはプレゼントとかあげてくださるんでしょうか……」
「なによ。まるでわたしが何も渡したがらないみたいじゃない」
河合さんはむっとした顔をする。
別に期待してなかったわけじゃないけどさ。厚かましいじゃないか。自分の奥さんになにかプレゼント贈ってくれなんて。
「そうねえ、お取り寄せの食べ物とかかしら。夏だからアイスとか。ああでも冷凍庫占拠するのは迷惑よね。じゃあフルーツとか。ネットで見て決めるわ」
「えっ、いいなあそれ!」
「わたしのアイディアよ。盗まないでよね」
むむむ……。
まあ、せっかく渡すならやっぱり残る物の方がいい気もするし。
食べ物は河合さんに任せるとしよう……。
俺の悩みは解決しそうになかったが、食べ物のプレゼントならおこぼれが貰えるなあと卑しい気持ちで俺の心は浮ついた。