千紗のお仕事探し奮闘記
てとてとと坂道を上る。それほど急な坂ではないし、文句を言うのも今更ではあるのだが、やはり一日の終わりに長い坂道を上らなければ家につけないというのはなかなかしんどいものがあった。
早く車を買いたい。しかしさすがに社会人一年目でローンを組むのは難しいのだろうな、とぼんやりとした知識で流は思った。
というかそもそも、こんな立地に家を立てていることが間違いなのではないだろうか。もう父も良い年なのだし、あと十年だかすれば免許も返納しなくてはいけない年になるだろう。母はまだ若いからなんとかなるだろうが、それでも老人が車なしで住むのにはどう考えても向いていない土地である。いずれ移り住まなければいけないのではなかろうか。
それなら、もっと便利な場所に二世帯住宅を建てるだとか……、そういう計画を練ってもいいのではないか。それとももしかしてこの家には並々ならない思い入れがあって、きちんと自分に継いで管理してもらいたいと思っているんだろうか……。
そんな風に、いつものように思考に没頭しているうちに玄関までたどり着いてしまった。窓からはオレンジ色の明かりが漏れている。それを見ると流は毎日うきうきした気持ちになるのだった。
「ただいま~」
いつも通り声をかけながらドアを開けると、その音を聞きつけて駆けつけてくる足音がふたつあった。
「おかえりなさい!」
「おかえりパパ~!」
「ただいま~! 瞬くん良い子にしてたかな~」
腰にへばりついてくる息子を撫でつけ、同僚に見られたら頭でも打ったのかと心配されるような、自分でも驚くほどのでれでれとした声が毎日飽きもせず口から出るのだった。
しかし今日は少し様子が違うな、とすぐに流は勘付いた。鈍感だとよく言われるが、自分の家族のことにはひときわ気を配っているのだ。
「どうしたの? ごきげんだね」
手を洗い、荷物をしまうため自室に向かうと、その後ろをついてきた千紗に、流もなんとなく嬉しい気持ちで声をかけた。千紗は「えへへ」と笑う。胸の奥がふわふわと暖かくなるような気がした。
いつもであれば帰宅時間によって、このあとすぐ夕食だとか、瞬とお風呂に入るかとか、千紗から提案や質問があるのだ。それがなくてうしろをカルガモの親子のようについてまわるとき、いつも何か話したいことがあるのだと流はすっかりわかっていた。それもすぐにでも聞いて貰いたいことがあるときの行動である。
瞬もよく幼稚園で工作をしたときなんかにそれをするので、流はこの行動がすごく好きで可愛くて仕方のないのだ。
部屋に入ると「あのねあのねっ」と跳ねるような声で切り出された。まるで小さい子供である。
「えーっと、えっと、あ、そうだ、まずね、今日石橋に会ったんだよ」
「えっ!」
瞬が何か苦手なものを克服したのか、それとも晩ご飯が特別おいしく作れたのか、という流の予想を大きく外れ、千紗は級友の名前を口に出した。
「え、い、石橋って、あの石橋!?」
「そう、そう。今日瞬のお迎えの前に河合さんとこ行って、そしたら石橋も来たんだ。たまに来るんだって。二人とも仲良かったよ」
「え、ええ? そ、そうかあ……」
たしかに去年、二人の和解に立ち会った。
しかしそこから仲が良い、というレベルになるまで親交を持つとはとても想像がつかないことだった。和泉は知っているのだろうか、と少し心配する気持ちも湧き上がる。
「彼女さんに本をプレゼントするんだって。それで、あ、ごめんね、結婚したこととか言っちゃったんだ」
「あ、ああ、それは……まあ、いいけど」
むしろ隠される方が悲しい、と流は心の中で付け足した。
「それでそんなにご機嫌だったの? まあ、友達は多いに越したことはないけど……」
「ち、違う違う! まあ、久しぶりに会えたのは嬉しかったけどさ」
ぶんぶんと千紗は手を振って否定する。
「えっとね、石橋が大学のときやってたバイトを私に紹介できないかって、河合さんが聞いてくれて、そしたらね、夕方にはもう面接できるように連絡つけてくれたの!」
「随分展開が早いな……、それで、どうだったの?」
そんなものは聞かなくても、千紗の様子を見れば一目瞭然であった。しかし千紗はもったいつけるように手を後ろに回し、「んふふー」と笑って見せた。
「明日からお願いします、だって!」
「お、すごいじゃん! おめでとう!」
もしも高校時代の自分が見ていたとしたら、うげっと舌を出したことだろう。人のことを自分のことのように喜んでみせるなんて。未だに感情表現はうまくはないし、声の出し方や表情の作り方は少しぎこちないが、千紗はそれで十分であった。
流は正面から千紗を抱きしめて、ついでなのでキスもした。
「それでなんの仕事?」
「喫茶店の店員さん。えーっと、個人経営? チェーンじゃないの。結構綺麗なとこだったよ」
「看板娘じゃん」
「子持ちの既婚者ですけどねえ」
千紗は面接のときの説明を思い返した。子供のことだとか、今までの仕事の経験だとか、言い訳のようにならないように気をつけながら正直に話した。その返事は「あっそうなのー」という非常に軽いものだった。
そのあとは何時から何時まで、週何日だとか土日入れるかとか、そんなやりとりがサクサクと進み、採用不採用という言葉もなく流れるようにじゃあよろしくお願いします、と言われたのだった。
拍子抜けとはこのことである。
千紗の方から、本当にいいんですか? なんて聞いてしまった始末である。
「にしても石橋が喫茶店でバイトって……」
「ねー! 意外だよね。接客とか絶対嫌いそうなのに。ラテアートをできるようになりたくてはじめたんだってさ。一時期イケメン店員って話題になって雑誌で取り上げられたりしたらしいよ」
「なんだそれ……」
ざっくりと店の場所を聞いて、流はなんとなくの目星をつける。
あまり縁のない通りではあるが、自転車なら十分行ける範囲だった。もしかしたら横を通りかかったことくらいはあるかもしれない。
「そこのお店をやってるおじいちゃんと、あと娘さんがいてね、その娘さんの娘さん……が、去年まで瞬と同じ幼稚園通ってたんだって」
「へえ、そうなの。じゃあお迎えにもすぐ行ける範囲なんだね」
「うん、実際そういう感じでいこーってなってて、瞬を送ったらそのままバイトで、バイトが終わったらそのまま瞬回収して帰るって感じかなって」
「最高じゃん。いいとこ見つかったね」
んふふ、と千紗は機嫌良さそうに笑う。褒められてはにかむ瞬とそっくりだった。
ひとまずは週3、慣れてきたらもう少し増やすか、もしくは瞬の迎えは母に頼み、おやつ時をすぎるくらいまで伸ばすかということらしい。
「あんまり長い時間働けないし、大した稼ぎにはならないかもだけど、貯金の足しくらいにはなるよね」
「……そうだね、ありがとう」
そんなこと気にしなくてもいいのに、と流は思う。お金が大切なことは確かだが、それよりも今の間だけでも息子と一緒にいてほしいと思ってしまう。幼稚園が夏休みに入れば、パートの間は瞬の面倒は母に頼まなければならなくなるし、と考える。
しかし働いて帰ってきたあと、労ってくれる千紗の表情には流に対しての申し訳なさがあった。そんな気持ちを感じてほしくはないのに。
それを思えば、よい方法なのかもしれない。外との繋がりを持つのも大事だ。
(本当は、外でまた誰かに傷つけられやしないかと思うと気が気ではないけど……)
知り合いの紹介だし、理不尽にぞんざいな扱いはされないだろう。千紗が人当たりよく働き者なのはよく知っている。それ以上に厄介な男に目をつけられやすい体質なのも知っているものの……、それを口にしてはきっと何もできなくなるだろう。
流は千紗の頭を軽く撫でた。
「お祝いしようか」
「や、やめてよう、就職じゃなくてバイトだからね!? 初日に食器割りまくってクビになるかもしれないし!」
「それはそれで話の種になるからいいじゃないか」
「ひとっつもよくないよ……」
もはや報告というよりただのいちゃつきになり始めてきた頃、それを遮るようにとてとてとてと軽い足音が部屋の前に近づいてきたと思えば、ノックもなくドアが開かれた。
「ママーパパー!? しゅんまってるんだけどっ」
「おっとごめんごめん、お待たせ」
「あっ瞬ごめーん! パパ独り占めしちゃってたね」
まったくもう! とわざとらしく怒ったふりをしてみせ、瞬は流の手をとってきてきてと引っ張る。
なんとなく手を引かれながら、反対の手で千紗の手をとって見た。
「両手に花だ」
「なんだそれ」
「あのねえ! しゅんがねえ、きょうようちえんでれんしゅうしたんだけどお」
呆れる千紗に瞬は気にもとめずに今日の報告をはじめる。
三人揃って手を繋ぎながらリビングに入ると、夕飯を温め直してくれていた母に「あらまあ仲良しねえ」と小さな子供たちでも見るような目で言われたのだった。
早く車を買いたい。しかしさすがに社会人一年目でローンを組むのは難しいのだろうな、とぼんやりとした知識で流は思った。
というかそもそも、こんな立地に家を立てていることが間違いなのではないだろうか。もう父も良い年なのだし、あと十年だかすれば免許も返納しなくてはいけない年になるだろう。母はまだ若いからなんとかなるだろうが、それでも老人が車なしで住むのにはどう考えても向いていない土地である。いずれ移り住まなければいけないのではなかろうか。
それなら、もっと便利な場所に二世帯住宅を建てるだとか……、そういう計画を練ってもいいのではないか。それとももしかしてこの家には並々ならない思い入れがあって、きちんと自分に継いで管理してもらいたいと思っているんだろうか……。
そんな風に、いつものように思考に没頭しているうちに玄関までたどり着いてしまった。窓からはオレンジ色の明かりが漏れている。それを見ると流は毎日うきうきした気持ちになるのだった。
「ただいま~」
いつも通り声をかけながらドアを開けると、その音を聞きつけて駆けつけてくる足音がふたつあった。
「おかえりなさい!」
「おかえりパパ~!」
「ただいま~! 瞬くん良い子にしてたかな~」
腰にへばりついてくる息子を撫でつけ、同僚に見られたら頭でも打ったのかと心配されるような、自分でも驚くほどのでれでれとした声が毎日飽きもせず口から出るのだった。
しかし今日は少し様子が違うな、とすぐに流は勘付いた。鈍感だとよく言われるが、自分の家族のことにはひときわ気を配っているのだ。
「どうしたの? ごきげんだね」
手を洗い、荷物をしまうため自室に向かうと、その後ろをついてきた千紗に、流もなんとなく嬉しい気持ちで声をかけた。千紗は「えへへ」と笑う。胸の奥がふわふわと暖かくなるような気がした。
いつもであれば帰宅時間によって、このあとすぐ夕食だとか、瞬とお風呂に入るかとか、千紗から提案や質問があるのだ。それがなくてうしろをカルガモの親子のようについてまわるとき、いつも何か話したいことがあるのだと流はすっかりわかっていた。それもすぐにでも聞いて貰いたいことがあるときの行動である。
瞬もよく幼稚園で工作をしたときなんかにそれをするので、流はこの行動がすごく好きで可愛くて仕方のないのだ。
部屋に入ると「あのねあのねっ」と跳ねるような声で切り出された。まるで小さい子供である。
「えーっと、えっと、あ、そうだ、まずね、今日石橋に会ったんだよ」
「えっ!」
瞬が何か苦手なものを克服したのか、それとも晩ご飯が特別おいしく作れたのか、という流の予想を大きく外れ、千紗は級友の名前を口に出した。
「え、い、石橋って、あの石橋!?」
「そう、そう。今日瞬のお迎えの前に河合さんとこ行って、そしたら石橋も来たんだ。たまに来るんだって。二人とも仲良かったよ」
「え、ええ? そ、そうかあ……」
たしかに去年、二人の和解に立ち会った。
しかしそこから仲が良い、というレベルになるまで親交を持つとはとても想像がつかないことだった。和泉は知っているのだろうか、と少し心配する気持ちも湧き上がる。
「彼女さんに本をプレゼントするんだって。それで、あ、ごめんね、結婚したこととか言っちゃったんだ」
「あ、ああ、それは……まあ、いいけど」
むしろ隠される方が悲しい、と流は心の中で付け足した。
「それでそんなにご機嫌だったの? まあ、友達は多いに越したことはないけど……」
「ち、違う違う! まあ、久しぶりに会えたのは嬉しかったけどさ」
ぶんぶんと千紗は手を振って否定する。
「えっとね、石橋が大学のときやってたバイトを私に紹介できないかって、河合さんが聞いてくれて、そしたらね、夕方にはもう面接できるように連絡つけてくれたの!」
「随分展開が早いな……、それで、どうだったの?」
そんなものは聞かなくても、千紗の様子を見れば一目瞭然であった。しかし千紗はもったいつけるように手を後ろに回し、「んふふー」と笑って見せた。
「明日からお願いします、だって!」
「お、すごいじゃん! おめでとう!」
もしも高校時代の自分が見ていたとしたら、うげっと舌を出したことだろう。人のことを自分のことのように喜んでみせるなんて。未だに感情表現はうまくはないし、声の出し方や表情の作り方は少しぎこちないが、千紗はそれで十分であった。
流は正面から千紗を抱きしめて、ついでなのでキスもした。
「それでなんの仕事?」
「喫茶店の店員さん。えーっと、個人経営? チェーンじゃないの。結構綺麗なとこだったよ」
「看板娘じゃん」
「子持ちの既婚者ですけどねえ」
千紗は面接のときの説明を思い返した。子供のことだとか、今までの仕事の経験だとか、言い訳のようにならないように気をつけながら正直に話した。その返事は「あっそうなのー」という非常に軽いものだった。
そのあとは何時から何時まで、週何日だとか土日入れるかとか、そんなやりとりがサクサクと進み、採用不採用という言葉もなく流れるようにじゃあよろしくお願いします、と言われたのだった。
拍子抜けとはこのことである。
千紗の方から、本当にいいんですか? なんて聞いてしまった始末である。
「にしても石橋が喫茶店でバイトって……」
「ねー! 意外だよね。接客とか絶対嫌いそうなのに。ラテアートをできるようになりたくてはじめたんだってさ。一時期イケメン店員って話題になって雑誌で取り上げられたりしたらしいよ」
「なんだそれ……」
ざっくりと店の場所を聞いて、流はなんとなくの目星をつける。
あまり縁のない通りではあるが、自転車なら十分行ける範囲だった。もしかしたら横を通りかかったことくらいはあるかもしれない。
「そこのお店をやってるおじいちゃんと、あと娘さんがいてね、その娘さんの娘さん……が、去年まで瞬と同じ幼稚園通ってたんだって」
「へえ、そうなの。じゃあお迎えにもすぐ行ける範囲なんだね」
「うん、実際そういう感じでいこーってなってて、瞬を送ったらそのままバイトで、バイトが終わったらそのまま瞬回収して帰るって感じかなって」
「最高じゃん。いいとこ見つかったね」
んふふ、と千紗は機嫌良さそうに笑う。褒められてはにかむ瞬とそっくりだった。
ひとまずは週3、慣れてきたらもう少し増やすか、もしくは瞬の迎えは母に頼み、おやつ時をすぎるくらいまで伸ばすかということらしい。
「あんまり長い時間働けないし、大した稼ぎにはならないかもだけど、貯金の足しくらいにはなるよね」
「……そうだね、ありがとう」
そんなこと気にしなくてもいいのに、と流は思う。お金が大切なことは確かだが、それよりも今の間だけでも息子と一緒にいてほしいと思ってしまう。幼稚園が夏休みに入れば、パートの間は瞬の面倒は母に頼まなければならなくなるし、と考える。
しかし働いて帰ってきたあと、労ってくれる千紗の表情には流に対しての申し訳なさがあった。そんな気持ちを感じてほしくはないのに。
それを思えば、よい方法なのかもしれない。外との繋がりを持つのも大事だ。
(本当は、外でまた誰かに傷つけられやしないかと思うと気が気ではないけど……)
知り合いの紹介だし、理不尽にぞんざいな扱いはされないだろう。千紗が人当たりよく働き者なのはよく知っている。それ以上に厄介な男に目をつけられやすい体質なのも知っているものの……、それを口にしてはきっと何もできなくなるだろう。
流は千紗の頭を軽く撫でた。
「お祝いしようか」
「や、やめてよう、就職じゃなくてバイトだからね!? 初日に食器割りまくってクビになるかもしれないし!」
「それはそれで話の種になるからいいじゃないか」
「ひとっつもよくないよ……」
もはや報告というよりただのいちゃつきになり始めてきた頃、それを遮るようにとてとてとてと軽い足音が部屋の前に近づいてきたと思えば、ノックもなくドアが開かれた。
「ママーパパー!? しゅんまってるんだけどっ」
「おっとごめんごめん、お待たせ」
「あっ瞬ごめーん! パパ独り占めしちゃってたね」
まったくもう! とわざとらしく怒ったふりをしてみせ、瞬は流の手をとってきてきてと引っ張る。
なんとなく手を引かれながら、反対の手で千紗の手をとって見た。
「両手に花だ」
「なんだそれ」
「あのねえ! しゅんがねえ、きょうようちえんでれんしゅうしたんだけどお」
呆れる千紗に瞬は気にもとめずに今日の報告をはじめる。
三人揃って手を繋ぎながらリビングに入ると、夕飯を温め直してくれていた母に「あらまあ仲良しねえ」と小さな子供たちでも見るような目で言われたのだった。