千紗のお仕事探し奮闘記
「女ってやっぱ化粧で変わるもんだなあ」
「いや……ほぼスッピンなんだけどさ……」
レジの横の通路から奥の休憩スペースである座敷に通され、河合が接客する間五年ぶりに顔をあわせる男、石橋と二人きりの空間となっていた。
二人きり、といっても河合のいるレジとはのれんで隔てられているだけだし、二人でいるには広々とした空間だ。しかし千紗は心の自分ではうまく把握しきれない部分が焦っているような気持ちを感じていた。
普段関わることがないので自覚もあまりしていなかったが、やはり男に対して少し警戒心のようなものがあるらしい。元男のくせに、情けないとつくづく思う。
流と再会したときもこうだったっけ、と千紗は自分を落ち着かせようと必死で一年ほど前のことを考えた。
少なくとも、なんの事情も知らない相手に不快な思いをさせるわけにはいかない。千紗はひときわ明るい声をだした。
「まあ、それでもむしろわかられたら傷つくよ~、昔より女らしいでしょ?」
「あー……まあ……かもな」
女らしい、といっても格好はTシャツにパンツルックだ。色気もなにもない。しかし元が元である。女性になって以降、彼とはあまり友達付き合いというものをしなかったから、男のときの印象の方が大きいはずだ。
「石橋は元から大人っぽかったし、がらっと変わった感じないね」
「あー。よく言われるわ。他の奴らは久しぶりに会ったら割と年食ってるけどなあ」
そう言われて思い返すのはやはり流と再会したときのことである。全く高校時代の記憶と一致しなかった。名札がなく、初対面のように接されたら最後まで気づかなかったかもしれない。背は延びていて、顔立ちに幼さはなくなっていた。自分の心の中にあったものとあまりにもかけ離れていて、とても遠くにいるような、寂しいような気持ちになったのを覚えている。
「佐伯はさあ……」
「あ、……あのー……あのね、名前変わったんだ。今……」
名乗ろうとして、固まる。
昔なじみに、共通の知人と結婚したことを伝える、という状況を千紗は全く想定していなかった。
「なに? あ、それ結婚指輪? 名前変わったってそういうこと?」
「あ、え、ええと……うん、……う、うーん……まあ、下の名前も変わってるんだけど……」
「はあ。で、なに」
面白がってもったいぶっているとでも思われているのか、せかすように追撃される。
「……び、びっくりしないでね?」
「いやわかんねえけど」
正座した膝の上に乗せた手をこすりあわせ、千紗はああ、うう、と唸る。
「き、桐谷……千紗……」
ちらりと視線を上に向け相手の表情を伺うと、目をまるくしたのち愉快なおもちゃでも見つけたように顔がゆがむのがわかった。これは数年前見たことのある顔だ、と千紗は懐かしいような、なんだか恐ろしいような気持ちになる。
「まじ?」
「ま、まじ……」
「桐谷ってあの桐谷?」
「その桐谷……」
「はあ~っ」
目の前の男はため息のような声を張り上げる。口角は上がっていて、やはり面白がっているのがわかった。
「あいつがあ? お前と? まじかよ。何? ずっと付き合ってたってこと?」
「ち、違うよ。高校のとき学校やめたでしょ? あのときからずっと連絡とってなかったよ。去年こっちに戻ってきて……それで、再会して……って感じ」
「スピード婚じゃん。つーか俺去年あいつに会ったけど」
思ったほど、嫌ないじられかたはせずほっとする。
千紗の記憶にある彼ならきっともっと面白おかしく笑っていただろう。
「あ、うん。私もここにいたから知ってるよ。そのときはまだ、昔の知り合いに会ったらどうするとか話し合ってなかったから、伏せといてくれたんだと思う」
「ふうん……まあ、報告されるような仲でもねえけど」
どうなるかわからんもんだねえ、と石橋は老人のような柔らかい口調で言ったのがなんだかおかしかった。
しかし、こうして説明を求められると千紗は小さく縮こまって消えてしまいたくなる。旦那の順風満帆な人生に、余計なちょっかいを出しているような気になるのだ。自分たちの経緯についてどの程度言って良いものか、言わなくてすむのならそれがいいと思うのも嫌だった。
そしていっそのこと洗いざらい話して軽蔑されてしまいたいとも思ってしまい、その度に息子や旦那への罪悪感に押しつぶされそうになる。
しかもこの相手は下手にこちらに遠慮をしたり、気遣ったりしないだろうと思えるのも都合がよかった。千紗は大事に庇われるよりも、己の罪やいたらなさを突きつけられたほうがうんと安心するのである。
けれど道連れとなる家族を思うと、そうやって自分の心を慰めることもできない。
ただ、下手に黙ってもおれず、聞かれることに答える形で結婚のこと、息子のことも話してしまっていた。昔から相性がいいのか、悪いのか。流に対してはうまくいく話しの逸らし方や誤魔化し方は、この男には何故か通用しないのだった。
「あんまりいじめてはだめよ」
のれんから顔を出した河合に窘められ、石橋は気まずそうにそっぽをむいて「別にいじめてねえし」と文句を言った。まるで姉と弟のような姿に驚く。
すっかり七割くらいの情報は洗いざらい聞き出されてしまったあとであったが、そのつたない助け船に千紗は安堵した。
「ま、無事でやってんなら万々歳よ。消息不明だったんだからな。同窓会んときとか女子の間ではお前の話出たらしいぜ」
「そ、そうなんだ……」
「この話誰かにしていい?」
「え、えーと……う、うーん……できれば……あんまり言ってほしくはないかなあ……。私一人の問題じゃないし……。言うなら自分から言いたいし……」
「問題ねえ」
含みのある返事である。
「ま、いいけど」
しかし深くは追求されなかった。
良くも悪くも、それほど興味がないのだろう。
それが一番千紗にとっては都合がよかった。
「いや……ほぼスッピンなんだけどさ……」
レジの横の通路から奥の休憩スペースである座敷に通され、河合が接客する間五年ぶりに顔をあわせる男、石橋と二人きりの空間となっていた。
二人きり、といっても河合のいるレジとはのれんで隔てられているだけだし、二人でいるには広々とした空間だ。しかし千紗は心の自分ではうまく把握しきれない部分が焦っているような気持ちを感じていた。
普段関わることがないので自覚もあまりしていなかったが、やはり男に対して少し警戒心のようなものがあるらしい。元男のくせに、情けないとつくづく思う。
流と再会したときもこうだったっけ、と千紗は自分を落ち着かせようと必死で一年ほど前のことを考えた。
少なくとも、なんの事情も知らない相手に不快な思いをさせるわけにはいかない。千紗はひときわ明るい声をだした。
「まあ、それでもむしろわかられたら傷つくよ~、昔より女らしいでしょ?」
「あー……まあ……かもな」
女らしい、といっても格好はTシャツにパンツルックだ。色気もなにもない。しかし元が元である。女性になって以降、彼とはあまり友達付き合いというものをしなかったから、男のときの印象の方が大きいはずだ。
「石橋は元から大人っぽかったし、がらっと変わった感じないね」
「あー。よく言われるわ。他の奴らは久しぶりに会ったら割と年食ってるけどなあ」
そう言われて思い返すのはやはり流と再会したときのことである。全く高校時代の記憶と一致しなかった。名札がなく、初対面のように接されたら最後まで気づかなかったかもしれない。背は延びていて、顔立ちに幼さはなくなっていた。自分の心の中にあったものとあまりにもかけ離れていて、とても遠くにいるような、寂しいような気持ちになったのを覚えている。
「佐伯はさあ……」
「あ、……あのー……あのね、名前変わったんだ。今……」
名乗ろうとして、固まる。
昔なじみに、共通の知人と結婚したことを伝える、という状況を千紗は全く想定していなかった。
「なに? あ、それ結婚指輪? 名前変わったってそういうこと?」
「あ、え、ええと……うん、……う、うーん……まあ、下の名前も変わってるんだけど……」
「はあ。で、なに」
面白がってもったいぶっているとでも思われているのか、せかすように追撃される。
「……び、びっくりしないでね?」
「いやわかんねえけど」
正座した膝の上に乗せた手をこすりあわせ、千紗はああ、うう、と唸る。
「き、桐谷……千紗……」
ちらりと視線を上に向け相手の表情を伺うと、目をまるくしたのち愉快なおもちゃでも見つけたように顔がゆがむのがわかった。これは数年前見たことのある顔だ、と千紗は懐かしいような、なんだか恐ろしいような気持ちになる。
「まじ?」
「ま、まじ……」
「桐谷ってあの桐谷?」
「その桐谷……」
「はあ~っ」
目の前の男はため息のような声を張り上げる。口角は上がっていて、やはり面白がっているのがわかった。
「あいつがあ? お前と? まじかよ。何? ずっと付き合ってたってこと?」
「ち、違うよ。高校のとき学校やめたでしょ? あのときからずっと連絡とってなかったよ。去年こっちに戻ってきて……それで、再会して……って感じ」
「スピード婚じゃん。つーか俺去年あいつに会ったけど」
思ったほど、嫌ないじられかたはせずほっとする。
千紗の記憶にある彼ならきっともっと面白おかしく笑っていただろう。
「あ、うん。私もここにいたから知ってるよ。そのときはまだ、昔の知り合いに会ったらどうするとか話し合ってなかったから、伏せといてくれたんだと思う」
「ふうん……まあ、報告されるような仲でもねえけど」
どうなるかわからんもんだねえ、と石橋は老人のような柔らかい口調で言ったのがなんだかおかしかった。
しかし、こうして説明を求められると千紗は小さく縮こまって消えてしまいたくなる。旦那の順風満帆な人生に、余計なちょっかいを出しているような気になるのだ。自分たちの経緯についてどの程度言って良いものか、言わなくてすむのならそれがいいと思うのも嫌だった。
そしていっそのこと洗いざらい話して軽蔑されてしまいたいとも思ってしまい、その度に息子や旦那への罪悪感に押しつぶされそうになる。
しかもこの相手は下手にこちらに遠慮をしたり、気遣ったりしないだろうと思えるのも都合がよかった。千紗は大事に庇われるよりも、己の罪やいたらなさを突きつけられたほうがうんと安心するのである。
けれど道連れとなる家族を思うと、そうやって自分の心を慰めることもできない。
ただ、下手に黙ってもおれず、聞かれることに答える形で結婚のこと、息子のことも話してしまっていた。昔から相性がいいのか、悪いのか。流に対してはうまくいく話しの逸らし方や誤魔化し方は、この男には何故か通用しないのだった。
「あんまりいじめてはだめよ」
のれんから顔を出した河合に窘められ、石橋は気まずそうにそっぽをむいて「別にいじめてねえし」と文句を言った。まるで姉と弟のような姿に驚く。
すっかり七割くらいの情報は洗いざらい聞き出されてしまったあとであったが、そのつたない助け船に千紗は安堵した。
「ま、無事でやってんなら万々歳よ。消息不明だったんだからな。同窓会んときとか女子の間ではお前の話出たらしいぜ」
「そ、そうなんだ……」
「この話誰かにしていい?」
「え、えーと……う、うーん……できれば……あんまり言ってほしくはないかなあ……。私一人の問題じゃないし……。言うなら自分から言いたいし……」
「問題ねえ」
含みのある返事である。
「ま、いいけど」
しかし深くは追求されなかった。
良くも悪くも、それほど興味がないのだろう。
それが一番千紗にとっては都合がよかった。