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千紗のお仕事探し奮闘記

「でね、何も知らない振りして言ったの。そちらでアルバイトを探していたわよね? って。友人に紹介させてもらったから、もし都合があえばよろしくねって」
「うわあ。河合さん相変わらずだなあ……」
「まあ、都合があわないことなんていくらでもあるから、それはいいんだけどね。わたしだってお断りすることはあるし。でもねえ、大丈夫だって言ってるのに子供が子供がって、嫌みったらしいわよねえ。こっちが悪いみたいな言い方しなくたってねえ」

 自分のことのように腹を立てる河合の姿を見て、千紗は少し気持ちがほぐれるような気がした。
 瞬の幼稚園の迎えには早い時間に家を出て、途中にある河合の店に顔を出していたのである。ちょうどこの時間帯客はまばらだ。もう少し遅い時間になると下校途中の学生なんかで多少の賑わいを見せるらしいが。
 暇なタイミングで話し相手ができてちょうどいいわ、と河合はよく言っていた。もっと来ても良い、というアピールであった。

「ごめんね、わたしのせいで嫌な気持ちにさせちゃって」
「全然全然! やめてよー。それに向こうだって悪気があったわけじゃないんだし」

 それはどうかしら、と河合は追撃しようとして、けれどそれは同時に千紗を傷つけるような気がしてやめた。どうせ文句を言いたい相手はここにはいないのだ。相手に傷をつけられないなら深追いしてもしょうがない。

「うちで雇ってあげられるくらいの余裕があればいいんだけどね……。暇だし、商店街のイベント期間だとか、年度末なんか以外仕事がないのよ」
「あはは……、そこまで甘えちゃうわけにはいかないよ。忙しくて大変なときはいつでも呼んでね」

 もちろんあわよくばと考えたことがないわけではないが、その案は千紗の中ですぐに没となったのだ。
 気の許せる友人と働けるのならさぞ楽しいだろうと思うし、人間関係で悩む心配もいらない。しかし今の環境からほとんど変化がないというのは、千紗はあまり喜ぶべきことではないと勘付いていた。
 このまま自分の複雑な事情や経歴を受け入れて、甘やかしてくれる相手とばかり関わっていてはいけないという気持ちが千紗の中にはある。おそらくそれでは今抱えている無力感だのは拭いきれないだろうと察していた。

「そうだ、児童書結構品揃え変わったのよ」

 話を切り替えるように河合は声のトーンを少し明るくして、壁際のコーナーを指し示した。

「あ、ほんとだ。場所広くなってるー!」

 基本的にこの店に置いてある本は真面目な色合いのものが多いのだが、児童書コーナーは河合がデコレーションして、対象年齢やオススメなどわかりやすくディスプレイされていた。子供だけでなく、可愛らしいものが好きな大人も惹きつけるような品のいい彩りであった。

「まだ瞬くんは本の虫かしら」
「うん、相変わらずだよ。幼稚園で借りれる本以外にもね、月に何冊か注文して買うのもできるんだけどそれじゃ物足りないみたいでさ。あんまり同じの繰り返し読まないタイプだから、薄いのたくさんより分厚いの一冊与えた方がコスパよさそうなんだよねえ。でもそういうのは高いし」
「大変ねえ」
「県の図書館も週一で通ってるんだよ? 私には考えられないよ」

 近頃日中は公園に遊びにいく機会も増え、瞬の読書ペースは落ちてはいるのだが、それでも毎日何かしら活字を摂取していた。四歳にしては膨大な量だろうと、素人でも推測できる。まったく本に触れてこなかった千紗からすると、まるでなにか知識を追い求める目的でもあるのではないかというほど活字に飢えたであった。
 小学校に上がれば自分で学校の図書室が利用できるのだから経済的にも楽になりそうだが。
 どれどれと声に出しながら千紗は新しく作られた児童書コーナーの前にしゃがみこんで物色する。
 世の中にこれほど本があるなんて千紗は知らなかった。本屋に赴くことはもちろんあったが、一冊一冊に物語や情報があることを意識したことなどなかったのだ。
 児童書であるにも関わらずいくつか辞書のように分厚いものもあった。さすがにこれを毎晩読めと言われるときのことを思うと、どうかこの本が当分瞬に見つかりませんようにと千紗は祈らずにはおれない。

「あ、これシリーズものだったんだ。瞬気に入ってたんだよね」
「それ、小学3年生くらいが対象だったと思うけど」
「うそ。うちの子もしかして天才?」

 冗談を言うが、河合は笑いもせずそうかもね、と肩を竦めた。
 帰りに瞬を連れて寄ってみるか。それともパパと一緒に来たときに買って貰った方がいいかもしれない。あの人は何かしら買い与えようとするのだが、あまり甘やかしてくれるなと普段から注意しているのだ。それをほったらかして抜け駆けはできまい。千紗は頭の中でぼんやりとそう企てた。
 ふいに店の入り口あたりの床がきしむのを感じて、客の気配に気付く。ここは自分も客になりすますべきだろう、と千紗が無関心を振る舞っていると、いつもなら無機質な声で「いらっしゃいませ」と声をかける河合の声が一瞬遅れたことに違和感を覚えた。

「あら。石橋くん」

 ぴくんと反射的に肩が跳ね、一拍遅れてから頭の中で名前と人物が符合する。
 それ以外のことは何も深くは考えず、伺うように首をもたげて客の姿を確認した。男が少し気まずそうな、もしかすると機嫌の悪いような顔をしてそこにいて、「あー……」と、やっぱり気まずそうな返事をしてさらに歩みを進めようとしているところだった。
 その顔は自分の記憶にある人物と綺麗に一致した。

「あ!」

 そう声を上げて立ち上がると、河合と男の間に割り込むような形になってしまった。
 さらに言うと彼が気まずそうになにか用件を言おうとしていたのに、それも遮ってしまった。男の視線が自分に向く。なんだこいつ、という表情が、記憶を探るような顔に変わるのが見てわかった。

「あ、ごめんなさい、あの」

 そうして見下ろされるとたちまち不安になり、しまった、とも思い、振り返って河合に目を向け、それからまた男を見る。
 一瞬、横をすり抜けて逃げてしまおうかと考えた。しかし逃げるという行動を選ぶというのは勇気のいる選択である。彼女はすべて受動的でありたいのだ。自ら行動を起こすのはとても疲れることだからだ。
 男の表情がぱちんと変わった。

「あ! お前、佐伯?」

 切り替わった表情は想像したより何倍も明るく、人なつっこいもので、千紗は投げかけられた言葉に反して、やっぱり人違いだったのではと己を疑った。
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