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誕生日大作戦

 千紗は驚いたように口を開けて、それから息を飲んで、「ああ……」と声を漏らす。
 想像通りのような、ちょっと気まずいような空気に、俺は弁解するように続けた。

「ごめん、一回も佐伯の誕生日祝ってなかったと思って、言っておきたかったんだ。誕生日おめでとう、千紗」
「ああ……、ああうん、ありがと……」

 千紗はソファには座らず、床の上に膝を抱くようにしゃがんで俺を見上げた。
 それから一拍置いて、ふにゃりと笑う。

「やだなあ。それを言うために夜更かししてたの?」
「こればっかりは一番乗りしたくてさ」
「あはは。わかる。でもすっかり忘れてたよ」

 だと思った。俺たちの誕生日のことは絶対忘れないくせに。

「いや、ううん、違うかな。自分の誕生日のことは考えないようにしてたんだ」
「えっ?」

 予想と違う言葉に、千紗の顔を見つめる。苦笑気味というか、ちょっと恥ずかしそうな顔だった。

「だって、期待して誰にも祝われなかったら悲しいでしょ? 子供の頃は、梅雨のせいか、この時期はいつも具合が悪くて、当日に直接祝って貰えることってなかったんだよね。自分が悪いんだけど。だから、いつの間にか考えることをわざとやめるようになって、そしたら忘れちゃってた」

 この体になってからは、それどころじゃなかったし、と小さく付け加える。

「だから……ありがと」

 はにかむ千紗の表情は久しぶりに見る。いつもお礼を言われるような場面では、申し訳なさそうなところが少なからずあったから。
 そのまま抱きしめたくなる衝動をぐっと堪える。お祝いを言って終了、ではないのだ。俺はいそいそとソファの横に置いていたカバンを引き寄せた。

「あ、あのさ、喜んで貰えたらいいんだけど……正直、千紗の欲しいものや好みの把握は難しくて……」
「え、なに? プレゼント?」

 さっと取り出してリアクションをみたかったのに、俺はぐだぐだと言い訳を連ねていた。当然すぐ千紗は俺の行動を予測する。子供だってわかる。やはりサプライズなどは向いていないのだ。

「千紗の欲しいものをね、渡したかったんだけど、最初くらいは千紗に聞かずに自分一人で考えてびっくりさせたくてさ、でも俺ってプレゼント選びのセンスはないだろ?」
「そんなことないよ。昔貰ったマグカップ、今でもお気に入りだし」
「……あ、ありがとう……。ああ、うん……、ま、まあそれで……、答えがわかりもしない千紗の好みを推測して、俺にもよくわからないようなものを渡すより、千紗が嫌がりそうではないものの中から、俺がこれを身につけてる千紗を見たい、という自分勝手な理由の方が、むしろ健全なのではないかと思って……いやごめんこれは若干後付なんだけど……」
「それでそれで?」

 御託はいいから早く見せろという風に続きを促す千紗に、なんとなくもったいぶりたくなってカバンの口を塞ぎ、抱え込む。

「いや、ほんと、趣味じゃなかったらごめん……邪魔だったら記念品としてオブジェとして貰って結構なので……。値打ちのあるものでもないし……、それに改めて希望のものがあるなら全然今日それを買いたいと……」
「もーっ! 早く見せてよ!」

 満を持して、そっとカバンの中からリボンがつけられた紙袋を取り出し、手渡す。わあ素敵、開けてもいい? みたいな殊勝な反応はなく、「なんだろなんだろ」と容赦なくシールを破って包装を開ける姿は瞬くんと変わりない。でも、プレゼントという行為自体に喜んでくれてるというのが伝わってきて、予想以上に嬉しい。……もしかしたらこれが喜びのピークかもしれないけど。

「……わあ、カチューシャ?」
「そ、そう。たまに髪の毛邪魔そうにしてたろ?」
「うん、こういうのあったら楽かもって思ってたんだよ~。みっつもあるけど、いいの?」
「プレゼントにしては、そんなに高いものじゃなかったからね」
「えーっ迷うーっ」

 シンプルな布地のものが色違いでふたつ、もう一つがもっと幅が細く、革紐を編み込んだようなデザインのものだ。俺が必死に脳内で千紗に試着させて選んだみっつである。これ以上絞りきれなかったので全部買ってしまった。
 千紗はとことこと化粧台(という名の棚の上に置かれた卓上の鏡のある場所)に移動して、みっつのうちひとつを頭に装着する。しばらく角度を調整したのち、そうっとこちらの様子を伺うように振り返った。

「ど、どう?」
「……俺の見立ては間違ってなかった……」
「それっていい感じってこと?」

 サムズアップして見せるとへへへと照れくさそうに千紗は笑って、再び鏡に向き直って他のカチューシャを試す。
 その後ろ姿を眺めながら俺は口元のにやつきを必死で押さえた。

「千紗はどう? きつくない? 扱いづらくはない?」
「うん。今んとこ大丈夫そう。でも女の子らしいアイテムだから、普段の服で使いこなせるかどうか……」
「えっ! お、俺はいけると思ったんだけどな……!」

 た、たしかに千紗はどちらかというと活動的な格好が多いし、カチューシャをつけている人の写真を見ると、たいがいふわふわした感じのモデルさんが多かったという印象はある……けど、いかにも可愛らしいという色合いでもないし……いけると思うんだけどな。
 先ほどとは違うカチューシャを身につけ、くるっと振り返った千紗は、やっぱりよく似合ってるとしか思えない。これはもしかしてあばたもえくぼってやつなのだろうか。いやいやいやなにを言っているんだ。俺はそんな盲目的な人間ではない。
 一通り試した千紗は、「明日さっそくつけてみるね」と、笑顔でそれを引き出しにしまってくれた。
 どう、だったのかな。千紗は心から喜んでくれたのだろうか。千紗が笑顔を見せてくれても、自信持って成功したとは言えない。まだ不安でどきどきしていた。意味もなく手を擦りあわせる。
 千紗は再びソファのそばへとことこ寄ってきて、俺の前で立ち止まった。

「お礼してもいい?」
「えっ?」

 一体なにを? とそのまま見上げていると、千紗は正面から距離を詰め、腕を大きく開いて俺の体にしがみついた。
 普段は俺が上から包み込むような体勢になるが、座っているせいで顔のすぐそばに千紗の首があった。ふわんとシャンプーのにおいがする。
 夫婦なのだからこのくらいの接触は当然のことのはずなのだが、俺は自然な仕草で受け入れることができなかった。
 だって、千紗からこうして抱きしめられることなんてなかったから。
 腕にひっついてくるとか、そのくらいはあったけど、いや、それだって珍しいけど、こんな大胆に、なんの言い訳もできないくらい素直に抱きついて、というか抱きしめてきたことなんて、今までなかった。
 しばらく呆けてしまって、でも多分そのままだとすぐ離れてしまうと気づいて慌ててがっしり抱き返す。その力が強すぎたのか、「うっ」と息が漏れた。

「お、お礼に、なってないよね、これ」
「いや、大丈夫。もっと自信持っていい」

 へへへ、と千紗は照れ隠しをするように冗談っぽく笑った。
 しばらく沈黙、というか、自分の心音と、すぐ横でゆっくり繰り返される千紗のかすかな呼吸だけが続く。
 普段、俺からはふざけた調子で抱きついたり抱きしめることはあった。しかしそれは日常生活の中の戯れみたいなもので、ぎゅっと抱きしめて笑いながら離れるというような距離感である。こうしてしっかりと相手の感触を味わったりするようなものとはほど遠い。
 ここからどうすればいいのか、ものすごく迷っていた。
 できることならもっと堪能したい。いや、別にやらしい意味ではなくて! すぐ目の前で瞬くんが寝ているわけだし!
 しかし、そろそろこの体勢も苦しいだろうと思い出す。千紗は中途半端に俺に身を預けているものの、膝をソファの縁に乗せてバランスを取っているという不安定な状態であるようだった。俺が腕の力を緩めて解放すると、千紗もその意図をくみ取り上体を離して居住まいを整えた。
 その様子に思わず声がでた。

「……おやおや……?」
「……な、何か文句でもある?」

 てっきり俺の隣にでも座るかな、と思っていたのだが、千紗は両膝を揃えて横に投げ出し、完全に俺の膝の上に座って再びもたれるようにひっついてきたのである。
 普段素直なくせに、こういうときは必ず強気で素っ気ない態度をとるのが千紗というやつである。

「なにも文句なんてありませんよ」
「余裕ぶってるけどきみも顔真っ赤だからね」

 きみもって。自分も赤い自覚はあるらしい。
 どうしたの、急に。と聞いてしまいたい。でも答えは分かり切ってる。今日が特別な日で、そして俺がそれを祝うことを喜んでくれてるからだろうというのは、人の気持ちに鈍感だと言われる俺でもわかった。
 喜んでくれた。俺が喜ばせたいと思ってしたことで。これ以上嬉しいことがあるだろうか。

「……桐谷」
「…………えっ」

 久しぶりの呼び名であったが、あまりにしっくりとして反応がやや遅れた。
 頬の赤らみがだいぶ薄れた顔で、千紗は真剣な表情がすぐそばにあった。

「ありがと。祝ってくれて。もし前の私が幽霊になってそばにいたとしたら、嬉しくって成仏してたよ」
「な、なんだそりゃ……。幽霊もなにも、あなたが本人でしょうよ」
「ふふふ。そうなんだけどさ」

 おかしな言い分を並べ立てながら、千紗は朗らかに笑った。

「ずっと私は子供の頃から同じ私のつもりだけど、でも、全然変わってて、だけど昔の自分は変わらずにどこかにいるような感覚なんだ。これって、私だけなのかな?」
「……まあ、多くの人は、人生であれほど大きな変化を遂げることはないからね……」

 もしかしたら、何かがらりと人を変えてしまうような事件や事故などにあった人などとは共有できる感覚なのかもしれないけど、俺はそんな経験がないのでわかりようもない。多少考えや立ち振舞いが変わっても、子供の頃から地続きの自分であることは同意するけど。
 千紗はゆっくりと言葉を選ぶように繋げていく。

「だからね、えっとさ、結婚して、家族ができて、幸せなんだけど、それって私の幸せでしょ。昔の自分は置いてけぼりのようで、喜んでいる私を、見ている私がいるようで、かわいそうで、よくないような気がしたんだ。これは、佐伯友也に対してなのか、この体で生まれた人に対してなのか、もうわかんないんだけどさ……」

 千紗の声は本当に小さかった。なんとか空気を震わせているような、かすかな声だった。それでも体をひっつけているせいか、俺の体に響くように伝わってくる。俺は黙って千紗が思考を言葉にするのを待った。

「……流が、佐伯にもおめでとうって言ってくれるのがね、すごく嬉しかったんだ。よかったねって思えたんだ。自分に対してそんなこと考えるなんて、変だよね」
「そんなことないよ。俺だって、千紗の心の中にあるもの全部を喜ばせたいからね」

 ……我ながら、キザぶったことを言ったという自覚はある。
 でも口をついて出たんだ! 俺は受け入れたのに、なんで千紗は変な顔をしてこっちを見てるんだ……!?

「そんな歯の浮くようなこと平気で言うなんて、ほんとにきみはあのうぶで不器用な桐谷なのかなあ~」
「ひ、ひどくない!? 昔の俺に関しても決して褒めてないし!」
「私は未だに疑ってるんだよねえ。離れてるうちに宇宙人にさらわれて頭いじられちゃったんじゃないかって」

 マジでひどい。
 そりゃあ久しぶりに会う人には毎回俺が桐谷だと気付いて貰えないけどさ!
 千紗は「暑いね」とぼやくと惜しむ様子もなく体を離して隣に座った。……まあ、夏だしな。冷房はつけていたが、ひっついていた部分はすっかり汗をかいていた。

「去年再会したときはさ、付き合ってた頃の「桐谷」とはあんまりにも違うから、人見知りしてたんだ」
「えっ!? 聞いてないけど!」
「言わないよ~言えないよ~。昔の延長で付き合いを持とうとしてる相手に、こっちは別人としか思えません、なんてさ」

 確かにめちゃくちゃ傷つくけど……!
 そ、そりゃあ確かに背が伸びて体格が変わった自覚はあるし、それに対して怯えられても仕方ないとは思っていた。思っていたけど、そこまで……!?
 喋り方や立ち振る舞いも改善はしたものの、中身が変わったつもりなんて一切なかった。話してみれば昔と変わらないね、みたいに思われていると完全に思いこんでいたのだ。

「ごめん、やな気持ちになった?」
「い、いや……いやっていうか……そ、それは……さぞ怖かっただろうと……」
「はじめはちょっとね。あのときはいっぱいいっぱいだったから、ほんとに気持ちに余裕がなくて、いろんな気持ちがごちゃ混ぜだったんだ」

 一年前は本当に短い間に色んなことがめまぐるしく変わっていたから、それもしょうがないとは思う。俺の方はずっと探していた千紗が見つかったところで、一息つけていた部分もあるし、そこに差が生まれるのは当然だろう。
 千紗はきまずそうに膝を手で擦る。

「ほんとはね……離れてる間も……ずっと……その……前の旦那には、すごく、申し訳ないんだけど……ずっと、桐谷のこと……考えてた、からさ。そしたら、見た目も喋り方も違う人が、急に桐谷だよってぬって出てきても……頭では意味わかってても気持ちがついていかなくて。今の流と一緒にいるのって、昔の流を放って浮気してるみたいな気持ちになって、怖かったんだ」
「え、えええ……そんな風に悩んでたなんて、教えてくれればよかったのに……」
「教えてどうするのさ。戻ることなんてできないでしょ? 私と同じ」

 それは、たしかにそうだ。
 ……まあ、言わんとすることはわからんでもない。千紗と男の時の佐伯は姿が違うだけで中身は同じだと頭ではわかっていても、千紗自身ですらつい分離して考えてしまうのだ。変化を受け入れるのが難しいということは散々学んだ。そしてどうしたって受け入れる以外ないのだが、変化する前の姿が亡霊のように心の中に住み着いてしまうというのも、おかげさまで理解できてしまった。

「今はね、そんな気持ちないよ。私の中には昔の私も、昔の流もいるけど、多分、思い出になってきてる、と、思う。でも、佐伯に対してお祝いしてくれたのはね、嬉しかった。自分で昔の自分を喜ばすことはできないからねえ」
「昔の俺に戻ってほしいとは思わない?」
「だからそんなこと無理でしょ~。思わないよ。ぷにぷにほっぺはちょっと惜しいけどね」

 そういうと千紗は俺の頬を軽く摘んだ。残念ながら余った肉がないのでしっかり摘むことはできない。

「ほんとにね、昔は馬鹿な子供だったけど、今より素直に好きだったんだと思う。でも多分、あのままずっと一緒で、何もなかったかっていうと自信ないんだ。好きっていう膜のせいで、上手に優しくできなかったと思う。私も、流も、そんな気、しない?」

 言葉を悩んで選ぶということを放棄したらしい千紗は、抑揚なく頭に浮かんだ言葉を述べているようにも聞こえた。しかし言わんとすることはよくわかる。

「……多分、あのままだったら俺は知らないところで千紗を傷つけたり苦しめたりしてたと思う」

 結局、つらい思いをさせたことに変わりはないのだが……、まあ、そこは結果論だ。

「それは……まあ、お互い様なんだよね。私は正直劣化したけど」
「すーぐそういうこと言う~」

 脇腹をくすぐるように触ると、ころころと笑い身を捩る。
 しかし心なしか、千紗の声がもったりとしてきた気がする。無理もない。普段ならとっくに寝ている時間だ。

「……そろそろ寝ようか。明日改めてみんなでお祝いするからね」
「へへへ……。どんな顔して起きればいいのかわかんないよ」

 照れくさそうに、千紗は肩を竦める。
 明かりを消して、いつものように瞬くんが寝る布団の中に入り込む。瞬くんの小さな寝息が聞こえた。
 きっと明日になれば、瞬くんたちにお祝いされた千紗は嬉しそうにするのだと思う。驚いたり、呆気に取られたりはしないだろう。それは俺が先にネタばらししたからという意味ではなくて、誕生日を家族に祝われるという当然のことを、期待すらしていなかった千紗が受け入れてくれたからだ。
 ずるい話なのだが、俺はそれを独り占めしたかったのである。
 千紗は、みんなに大事にされてほしい。俺一人から与えられることには限りがあるから、色んな人に愛されて、喜んでほしい。ただ、一番はじめにその笑顔を見るのは俺でありたいのだ。わがままだけどさ。

「生まれてきてくれて、ありがとう」

 暗闇で顔が見えないことをいいことにこっ恥ずかしいことを言ってみれば、鼻を啜る音が一度聞こえて「へへ」という笑い声が帰ってきたから、俺はとても満足したのだった。


おわり
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