9章
夏休みに入った。
俺は意外なことに最近、長門と話す機会が増えていた。
長門というのは別のクラスに通う同級生で、和泉の親戚だ。全然似てないけど。
和泉は長門と二人で学校の近くのアパートに暮らしているのだ。まあ、和泉の家に遊びに行く機会はそれほどないから、実際今までの接点は殆どなかったのだが。
この長門というのが俺は少し相性が良くない。和泉とは正反対でおどおどしていて、少し幼い性格をしていると思う。異常な人嫌いで、ネガティブという厄介な性格である。しかし見た目は背が高くて顔が良いというので女子に人気なのだ。そこが非常にムカつく。……まあ、その扱いは目の保養という位置づけで、男としてモテるかというとまた違うようなのだが。たまに学校で見かけるが、まるで介護か小さい子のお世話のように面倒を見られていてやっぱりムカつくのだ。完全に僻みだが、気に入らないのだ。
河合さんですら長門には気を遣っているようだし、腹立つ。
石橋といい、性格に難があるのに見た目で得している奴が多すぎる。それでもあいつと違って長門はわざわざ絡んできて文句を言うような害があるタイプではないからまだマシだけどさ。
とにかくあまりそりはあわないのだが、最近はよく顔を合わせる。なぜかというと長門も俺と同じ学校が第一志望らしい。学校が同じなだけで向こうは研究者的な方面に進むつもりらしいけど。
長門は生活力や社会性は皆無だが、成績はよい。天才肌であまり学校の授業以外で勉強はしていないようだが、特進科でそれならまあ勉強に関しては努力しなくても平気な人種なんだろう。これはもうやっかんでもしょうがない。努力しなくたって平均より足が速いやつがいるのと同じだ。
まあ、そんな奴なので勉強法を教えて貰うなんてことはできそうもなかったが、同じ目的を持っているというだけでも十分だった。
何故か「桐谷と同じかあ……」と苦い顔をされたが、文句があるのか聞くと目を逸らされただけなので、ちょっとした情報交換くらいはできるだろう。
はじめは学校で同じテストを受けたり、自習室で顔を合わせたりしていたのだが、なんとなく長門と和泉が住んでいるアパートまでたまに寄るようになっていた。
「そういえば長門も佐伯とは幼なじみなんだろ。あいつについて話は聞いた?」
和泉は買い物に行っていていない。畳のやや古くさい一間に、小さめのちゃぶ台を配置してそこに勉強道具を広げていた。長門のクラスを受け持っている先生が俺にもプリントなどをわけてくれるのだ。さっそくそれに取りかかっているところだった。
長門はぼんやりと顔を上げた。
こいつはあんまり会話が好きじゃないし上手でもない。和泉や佐伯とはうまく話していたのだが、俺や河合さんとはなんだかちぐはぐな会話になってしまうのだ。だからそのあたりは目をつぶって、とりあえず意志の疎通ができることを目指す。
「子供ができたってゆーのは聞いた」
「あ、それは知ってんだ」
「アキちゃんが家族会議に行って……帰ったら怒っててそう言ってたよ。相手は誰だって怒ってたよ。桐谷じゃないかって思うって言ってて、ぼくにどう思うって聞いて、わかんないって言ったけど、殴って吐かせようかなって言ってた」
「……それ俺本人に言う……?」
「あ。そうか」
長門はほっぺをつまむように掻いた。
そ、そうか……怒ってたか……バレバレだったか……そうか……。
和泉は普段怒らない。喧嘩っ早そうな見た目だけど、口だって悪いけど、温厚なやつなのだ。河合さんが石橋にちょっかいだされてたりだとか、面倒くさい上級生に絡まれたときなんかは凄んだりはするし、それは端から見てても少し恐ろしいのだが、決して怒ってはないのだ。
でも家族同然の幼なじみが傷つけられて、怒らないようなやつでもないよな。当然だ。
「他にはなにか言ってなかった? 佐伯のこと」
ちょっとでも情報は欲しいからな。和泉からは色々教えて貰ったけど、念のためだ。
「えっと……アキちゃん、トモちゃんが相手が誰なのか絶対言わないから、それで遠くに行くって言ってたよ。それはだめだって言ってて……」
長門の話はわかりにくい。誰の台詞なのかとか、たまに主語が抜けるし、ただ思い出したことを順に口に出しているという感じで、人に伝える気があまりなさそうだ。
「それなら学校やめてトモちゃんと結婚するって言ってたよ」
「え」
「でもだめって言われたって」
和泉がそんなことを?
だって、和泉は別に佐伯のことが男女として好きっていうわけではないだろう。それは見てればわかる。ここにきて二人の仲を疑おうって気にはとてもならない。
でも二人は幼なじみで、たしかに大事な存在ではあるだろうけど、普通そこまでするだろうか。だって、河合さんだっているし、将来の明確な目標だってある。自分の子供でもないのに。
「な、なんで和泉は急にそんなこと……」
「多分アキちゃんはぼくがトモちゃんみたいなことになっても結婚するって言ってくれたと思うよ。河合雪葉がなっても言うと思う」
つまりそういう奴なのだという。
結婚って、だって世の中の男が30になってもまだ早いと言って逃げるなんて話を聞くような、そんなことだぞ。その上自分にはなんの責任もないのに。
いや、でも何故だろう。
和泉だって俺と変わらないただの高校生で、働いてなんかないのに、何故だか和泉と結婚したなら、幸せになるんだろうなあと漠然と思えてしまう。本人はトレジャーハンターになるとかよくわからんことを言ってるけど。
河合さんだったら確実だ。どうせうまくいくのだろうと思える。佐伯は和泉とはベタベタするような仲の良さなんてまったくないけど……ても家族としてはうまくやれそうだ。長門なんて今同居できてるんだから余裕だろうな。
かたや俺は妊娠の報告や相談すらされず……しかも自分すらそりゃあ見限るだろうと自覚できるほどの頼りなさ……。
一体何なんだこの差は……。
人として和泉に並ぶとは元々思っていなかったが、ちょっと落ち込むな……。
ちゃぶ台に突っ伏す。ちょうどいい高さだ。プリントに皺が寄りそうになったのでそれだけそっと直す。はあ……悔しいという気持ちすら出てこない自分が嫌だ……。
「トモちゃんはちゃんと元気に産んであげられるかなあって言ってたよ」
がばっと体を起こした。折角居心地がよかったのに。
「さ、佐伯と話したの?」
「したけど……何……」
俺の勢いに長門は引いている。
そうだ。よく考えたら河合さんにも別れの挨拶に行っていたのだ。古い付き合いの長門にだって声かけたはずだ。
妊娠したことを知っている相手との会話だ。俺は聞けなかった。
「春休みに入ってからトモちゃん挨拶にきたよ。アキちゃんはあんまり悲しかったり寂しかったりしたら喋らないから……、トモちゃんはずっと励ましてて、昔話とかしてて、でも途中でアキちゃんは出て行っちゃったんだ」
なるほど、別れを言いにきたが、和泉は途中で耐えきれなくなったらしい。あんまり泣いたりするとこ人に見せたくないだろうしな。
それにしても長門の話は幼稚園児の話を聞いているようだ。本当にこいつ頭いいのか?
「それでトモちゃんと二人きりになって……えっと、他には、ちゃんとお母さんになれるかなあって言ってたよ。トモちゃんは裕子お姉ちゃんに似てるからっていったら喜んでた。お腹はちょっとだけ丸かった」
「さ、触ったの?」
「うん。触っていいよって言ったから」
ふ、複雑だ……。
それ……俺に言うか……? 俺は触りもなにもできなかったというのに……。
いや、こいつなら言うか……。
「それから、結婚する人、やな人だったらすぐ離婚して帰ってきなよって言ったら、困ってた」
なんとなくその様子はすべて想像できた。
すぐ離婚すればいい。俺だってそう思う。結婚するだけして、子供を産んで安定したらそんなところ逃げ出せばいいのだ。そして帰ってくればいい。それさえできれば俺も和泉もいくらだって手を貸すし、きっとどうにかなる。……でも佐伯はそういうことはしないだろうと思う。打算的に人を利用するだけして自分だけ幸せになるなんてこと、絶対しない。
好きでもない相手でも、結婚するってなったらちゃんと仲良くやっていこうと向き合うだろう。向こうが佐伯が好みでなかったりして離婚してくれれば……と思いもしたが、否定されて傷つく佐伯のことは想像したくなかった。
しかし、俺の前でだけ無理して明るく普段通り振る舞っているんじゃないかと思っていたが、和泉たちの前でも相変わらずいつもの調子だったようだ。少し安心した。
「あ、でも捨てられたらこっそり帰ってくるかもって言ってたよ」
……そうか。
でもやっぱり捨てられる佐伯は可哀想だから、佐伯が捨ててほしいな。できるだけこっぴどく。
どうか佐伯を傷つけない程度にクズであってほしいと祈ってしまった。
そんな話をしているうちに買い物に出かけていた和泉が帰宅した。
まだ陽は高いが、もう夕方だ。夕食の準備もはじめるだろうし、そろそろ帰った方がいいかな。
手早く残りの設問を片づけて、長門のプリントと照らし合わせて簡単に答え合わせをする。
「お前これ数字間違えて計算してるよ」
「あ」
長門は暗記がうまい。計算もミスがない。ロボットみたいだ。しかし数学の文章問題なんかは特に、そもそもの問題の数字を勘違いして計算してしまっていることがたまにある。俺にはよくわからないが、感覚的に捉えているせいで印象が先行してしまって読み間違えたりするらしい。とんちんかんなミスをするのだ。
……まあ、いくつか単純な計算ミスをした俺が言えた義理ではないのだが。
「なんだお前帰んの?」
「あれ。俺の分の夕ご飯作ってくれるつもりだった?」
「そういうわけじゃねえけど。お前量食うからな。……じゃなくてそんな時間かと思って」
「ああ。日が長いしね」
随分と所帯染みた様子で、買ってきたものを冷蔵庫に詰め込みながら和泉は時計を見上げた。
「そうだ和泉、裕子さんたちってやっぱ俺のこと怒ってる?」
靴を履きながら訪ねる。
ずっと聞きそびれていたことだ。
うちの両親と共に佐伯家の状況を聞くために赴いた際、和泉の家族には俺が佐伯を妊娠させたということは伝わっている。その場には裕子さんもいた。ただ状況的にきちんと話し合ったりだとかはできなかったのだ。
一応裕子さんとは今までも親交はあったし、改めて話をしたいとは思っていた。
……でも、裕子さんは佐伯と仲がよかったし、佐伯が男だったときは、二人は両思いなんじゃないかと俺は思っていた。そんな仲の相手をああいう状況に追いやった元凶とは顔も合わせたくないんじゃないだろうかと尻込みしている。
「あー……怒って……はねえんじゃね……? それよりまあ、悪い奴に騙されて逃げられたとかじゃなくてよかったって感じ。ずっとそれ心配してたし」
「……そっか……」
できれば裕子さんからも佐伯がどんな様子だったか話を聞きたい……のだが、やっぱり図々しいかな……。
きっと当時は何日も話し合いが行われたり、悩んだりしたのだろうと思う。そんな一方で俺はなにも知らずに毎日過ごしていたのだ。殴られたって文句は言えない。
……ほんとに、殴ってもらえた方がすっきりするのかもしれない。
だけど裕子さんはきっとそんな風に怒りをぶつける人じゃないんだよな。和泉でさえそうだ。……まあ、俺がすっきりしたってしょうがないか。
ううーん、どうしたもんだろう。どうしても話を聞かなきゃいけないってわけではないが、このままずっと放置していたら一生気まずいままな気がする。連絡を取らないと顔を合わせる機会もない人だし。
それってやっぱりわだかまりというやつが残るんだと思う。少なくともそれはいいことじゃない。解消できることならすぐに解消すべきだと思う。
だって、そうだ。俺は佐伯と再会する気満々なのだ。ひとつも諦めていないのだ。何か情報を掴んだなら教えて貰いたいし、もし佐伯と再会できたら裕子さんだって会いたいはずだ。それならちゃんと気負わず連絡がとれる仲であるべきだと思う。
第一、会ってしまわなければずっとここであーだこーだと悩み続けるだけだろう。
帰りのバスに乗りながら、俺は意を決して裕子さんにメールを打った。改めて佐伯について謝りたいことと話を聞きたいという内容だ。
……ところで、裕子さんと会うとして、俺はどういう態度でいればいいんだろうか。自分の立場というものがいまいちピンとこない。世間的には責任もとれないのに女の子を妊娠させたクズ……というのはわかっているのだが……。
ぼんやり考えていると、急に昔の記憶が蘇ってきた。
小学生のとき、何か学校の備品を落として壊してしまってクラスの女子に怒られたときのことだ。
俺はすぐに先生に報告に行こうとしたし、しかし俺が先生の元にたどり着く前に他の子の大声で先生には伝わっていた。幸い弁償するという必要もないようなものだったらしく、俺が謝ると先生は許してくれた……というか、そもそも別に怒ってもいなかった。それでも最初に俺を叱責した女子は許さなかった。
俺の謝り方がよくなかったらしい。もっと慌てたり、泣いたりしてないとその子には反省の気持ちとか申し訳なく思っていることは伝わらなかったようだ。結局何故かその子がヒートアップして泣いてしまい、先生はその子をなだめているし、他のクラスメイトには俺が泣かせたとはやし立てられるし、なかなか納得がいかない気持ちになったのをよく覚えている。
でも今となってはその女子の気持ちもわからないわけではない。俺からは誠意というものが感じられなかったんだろう。俺なりにやってしまったとは思ったのだが、伝わらなければ意味のないものでもある。誠意というのは、そういうものなのだ。実際に誠意があるなら表に滲み出てくるもの……であるべきとされているのだ。まあ、そうだとしてもやっぱり今思い返してみてもその女子に指摘される筋合いはないのだが……それはそれだ。
そのときはただ物が壊れただけだったが、今回傷つけたのは人だ。そして無関係の女子ではなく、佐伯の保護者の一人である裕子さんだ。
人を傷つけたとき、ただ冷静に対応するだけで納得してもらえるとは限らない。それを身にしみて感じたのだ。頭を丸めるとかも必要性がわからなかったが、そういうことなんだよな。
俺がなんとも思っていないと思われるのは困る。そしてそう思われやすい態度なのだろうとも思う。それは改善しなければ。
でもあんまり悲壮感たっぷりというのも、謝っているはずなのになんとなく被害者感が出るような気がするんだよな。許さざるを得ない雰囲気にしかねないというか……。
別に俺は許されたいわけではないのだ。
うーん、これ以上考えると打算的すぎるだろうか。こういうところがにじみ出てしまうのかな。よくないな。佐伯のことを昔は軽薄そうと思っていたのだが、こう考えると俺の方がよっぽど軽薄な人間のような気がする。
その日の夜メールの返事が来た。いつもの元気な文面とは違っていたが、拒絶されているという印象でもなかった。偶然今日から連休で実家に帰ってきていたそうで、明日喫茶店で会うこととなった。
いつも裕子さんに会うときはどきどきしていたが、今回は全く違う意味でどきどきしている。
ああいう朗らかな人に迷惑をかけて悲しませたと考えると、やっぱり胸が痛い……。
でもひとつずつちゃんと向き合っていかないと、佐伯に堂々と顔向けできないだろう。逃げるわけにはいかない。
俺は意外なことに最近、長門と話す機会が増えていた。
長門というのは別のクラスに通う同級生で、和泉の親戚だ。全然似てないけど。
和泉は長門と二人で学校の近くのアパートに暮らしているのだ。まあ、和泉の家に遊びに行く機会はそれほどないから、実際今までの接点は殆どなかったのだが。
この長門というのが俺は少し相性が良くない。和泉とは正反対でおどおどしていて、少し幼い性格をしていると思う。異常な人嫌いで、ネガティブという厄介な性格である。しかし見た目は背が高くて顔が良いというので女子に人気なのだ。そこが非常にムカつく。……まあ、その扱いは目の保養という位置づけで、男としてモテるかというとまた違うようなのだが。たまに学校で見かけるが、まるで介護か小さい子のお世話のように面倒を見られていてやっぱりムカつくのだ。完全に僻みだが、気に入らないのだ。
河合さんですら長門には気を遣っているようだし、腹立つ。
石橋といい、性格に難があるのに見た目で得している奴が多すぎる。それでもあいつと違って長門はわざわざ絡んできて文句を言うような害があるタイプではないからまだマシだけどさ。
とにかくあまりそりはあわないのだが、最近はよく顔を合わせる。なぜかというと長門も俺と同じ学校が第一志望らしい。学校が同じなだけで向こうは研究者的な方面に進むつもりらしいけど。
長門は生活力や社会性は皆無だが、成績はよい。天才肌であまり学校の授業以外で勉強はしていないようだが、特進科でそれならまあ勉強に関しては努力しなくても平気な人種なんだろう。これはもうやっかんでもしょうがない。努力しなくたって平均より足が速いやつがいるのと同じだ。
まあ、そんな奴なので勉強法を教えて貰うなんてことはできそうもなかったが、同じ目的を持っているというだけでも十分だった。
何故か「桐谷と同じかあ……」と苦い顔をされたが、文句があるのか聞くと目を逸らされただけなので、ちょっとした情報交換くらいはできるだろう。
はじめは学校で同じテストを受けたり、自習室で顔を合わせたりしていたのだが、なんとなく長門と和泉が住んでいるアパートまでたまに寄るようになっていた。
「そういえば長門も佐伯とは幼なじみなんだろ。あいつについて話は聞いた?」
和泉は買い物に行っていていない。畳のやや古くさい一間に、小さめのちゃぶ台を配置してそこに勉強道具を広げていた。長門のクラスを受け持っている先生が俺にもプリントなどをわけてくれるのだ。さっそくそれに取りかかっているところだった。
長門はぼんやりと顔を上げた。
こいつはあんまり会話が好きじゃないし上手でもない。和泉や佐伯とはうまく話していたのだが、俺や河合さんとはなんだかちぐはぐな会話になってしまうのだ。だからそのあたりは目をつぶって、とりあえず意志の疎通ができることを目指す。
「子供ができたってゆーのは聞いた」
「あ、それは知ってんだ」
「アキちゃんが家族会議に行って……帰ったら怒っててそう言ってたよ。相手は誰だって怒ってたよ。桐谷じゃないかって思うって言ってて、ぼくにどう思うって聞いて、わかんないって言ったけど、殴って吐かせようかなって言ってた」
「……それ俺本人に言う……?」
「あ。そうか」
長門はほっぺをつまむように掻いた。
そ、そうか……怒ってたか……バレバレだったか……そうか……。
和泉は普段怒らない。喧嘩っ早そうな見た目だけど、口だって悪いけど、温厚なやつなのだ。河合さんが石橋にちょっかいだされてたりだとか、面倒くさい上級生に絡まれたときなんかは凄んだりはするし、それは端から見てても少し恐ろしいのだが、決して怒ってはないのだ。
でも家族同然の幼なじみが傷つけられて、怒らないようなやつでもないよな。当然だ。
「他にはなにか言ってなかった? 佐伯のこと」
ちょっとでも情報は欲しいからな。和泉からは色々教えて貰ったけど、念のためだ。
「えっと……アキちゃん、トモちゃんが相手が誰なのか絶対言わないから、それで遠くに行くって言ってたよ。それはだめだって言ってて……」
長門の話はわかりにくい。誰の台詞なのかとか、たまに主語が抜けるし、ただ思い出したことを順に口に出しているという感じで、人に伝える気があまりなさそうだ。
「それなら学校やめてトモちゃんと結婚するって言ってたよ」
「え」
「でもだめって言われたって」
和泉がそんなことを?
だって、和泉は別に佐伯のことが男女として好きっていうわけではないだろう。それは見てればわかる。ここにきて二人の仲を疑おうって気にはとてもならない。
でも二人は幼なじみで、たしかに大事な存在ではあるだろうけど、普通そこまでするだろうか。だって、河合さんだっているし、将来の明確な目標だってある。自分の子供でもないのに。
「な、なんで和泉は急にそんなこと……」
「多分アキちゃんはぼくがトモちゃんみたいなことになっても結婚するって言ってくれたと思うよ。河合雪葉がなっても言うと思う」
つまりそういう奴なのだという。
結婚って、だって世の中の男が30になってもまだ早いと言って逃げるなんて話を聞くような、そんなことだぞ。その上自分にはなんの責任もないのに。
いや、でも何故だろう。
和泉だって俺と変わらないただの高校生で、働いてなんかないのに、何故だか和泉と結婚したなら、幸せになるんだろうなあと漠然と思えてしまう。本人はトレジャーハンターになるとかよくわからんことを言ってるけど。
河合さんだったら確実だ。どうせうまくいくのだろうと思える。佐伯は和泉とはベタベタするような仲の良さなんてまったくないけど……ても家族としてはうまくやれそうだ。長門なんて今同居できてるんだから余裕だろうな。
かたや俺は妊娠の報告や相談すらされず……しかも自分すらそりゃあ見限るだろうと自覚できるほどの頼りなさ……。
一体何なんだこの差は……。
人として和泉に並ぶとは元々思っていなかったが、ちょっと落ち込むな……。
ちゃぶ台に突っ伏す。ちょうどいい高さだ。プリントに皺が寄りそうになったのでそれだけそっと直す。はあ……悔しいという気持ちすら出てこない自分が嫌だ……。
「トモちゃんはちゃんと元気に産んであげられるかなあって言ってたよ」
がばっと体を起こした。折角居心地がよかったのに。
「さ、佐伯と話したの?」
「したけど……何……」
俺の勢いに長門は引いている。
そうだ。よく考えたら河合さんにも別れの挨拶に行っていたのだ。古い付き合いの長門にだって声かけたはずだ。
妊娠したことを知っている相手との会話だ。俺は聞けなかった。
「春休みに入ってからトモちゃん挨拶にきたよ。アキちゃんはあんまり悲しかったり寂しかったりしたら喋らないから……、トモちゃんはずっと励ましてて、昔話とかしてて、でも途中でアキちゃんは出て行っちゃったんだ」
なるほど、別れを言いにきたが、和泉は途中で耐えきれなくなったらしい。あんまり泣いたりするとこ人に見せたくないだろうしな。
それにしても長門の話は幼稚園児の話を聞いているようだ。本当にこいつ頭いいのか?
「それでトモちゃんと二人きりになって……えっと、他には、ちゃんとお母さんになれるかなあって言ってたよ。トモちゃんは裕子お姉ちゃんに似てるからっていったら喜んでた。お腹はちょっとだけ丸かった」
「さ、触ったの?」
「うん。触っていいよって言ったから」
ふ、複雑だ……。
それ……俺に言うか……? 俺は触りもなにもできなかったというのに……。
いや、こいつなら言うか……。
「それから、結婚する人、やな人だったらすぐ離婚して帰ってきなよって言ったら、困ってた」
なんとなくその様子はすべて想像できた。
すぐ離婚すればいい。俺だってそう思う。結婚するだけして、子供を産んで安定したらそんなところ逃げ出せばいいのだ。そして帰ってくればいい。それさえできれば俺も和泉もいくらだって手を貸すし、きっとどうにかなる。……でも佐伯はそういうことはしないだろうと思う。打算的に人を利用するだけして自分だけ幸せになるなんてこと、絶対しない。
好きでもない相手でも、結婚するってなったらちゃんと仲良くやっていこうと向き合うだろう。向こうが佐伯が好みでなかったりして離婚してくれれば……と思いもしたが、否定されて傷つく佐伯のことは想像したくなかった。
しかし、俺の前でだけ無理して明るく普段通り振る舞っているんじゃないかと思っていたが、和泉たちの前でも相変わらずいつもの調子だったようだ。少し安心した。
「あ、でも捨てられたらこっそり帰ってくるかもって言ってたよ」
……そうか。
でもやっぱり捨てられる佐伯は可哀想だから、佐伯が捨ててほしいな。できるだけこっぴどく。
どうか佐伯を傷つけない程度にクズであってほしいと祈ってしまった。
そんな話をしているうちに買い物に出かけていた和泉が帰宅した。
まだ陽は高いが、もう夕方だ。夕食の準備もはじめるだろうし、そろそろ帰った方がいいかな。
手早く残りの設問を片づけて、長門のプリントと照らし合わせて簡単に答え合わせをする。
「お前これ数字間違えて計算してるよ」
「あ」
長門は暗記がうまい。計算もミスがない。ロボットみたいだ。しかし数学の文章問題なんかは特に、そもそもの問題の数字を勘違いして計算してしまっていることがたまにある。俺にはよくわからないが、感覚的に捉えているせいで印象が先行してしまって読み間違えたりするらしい。とんちんかんなミスをするのだ。
……まあ、いくつか単純な計算ミスをした俺が言えた義理ではないのだが。
「なんだお前帰んの?」
「あれ。俺の分の夕ご飯作ってくれるつもりだった?」
「そういうわけじゃねえけど。お前量食うからな。……じゃなくてそんな時間かと思って」
「ああ。日が長いしね」
随分と所帯染みた様子で、買ってきたものを冷蔵庫に詰め込みながら和泉は時計を見上げた。
「そうだ和泉、裕子さんたちってやっぱ俺のこと怒ってる?」
靴を履きながら訪ねる。
ずっと聞きそびれていたことだ。
うちの両親と共に佐伯家の状況を聞くために赴いた際、和泉の家族には俺が佐伯を妊娠させたということは伝わっている。その場には裕子さんもいた。ただ状況的にきちんと話し合ったりだとかはできなかったのだ。
一応裕子さんとは今までも親交はあったし、改めて話をしたいとは思っていた。
……でも、裕子さんは佐伯と仲がよかったし、佐伯が男だったときは、二人は両思いなんじゃないかと俺は思っていた。そんな仲の相手をああいう状況に追いやった元凶とは顔も合わせたくないんじゃないだろうかと尻込みしている。
「あー……怒って……はねえんじゃね……? それよりまあ、悪い奴に騙されて逃げられたとかじゃなくてよかったって感じ。ずっとそれ心配してたし」
「……そっか……」
できれば裕子さんからも佐伯がどんな様子だったか話を聞きたい……のだが、やっぱり図々しいかな……。
きっと当時は何日も話し合いが行われたり、悩んだりしたのだろうと思う。そんな一方で俺はなにも知らずに毎日過ごしていたのだ。殴られたって文句は言えない。
……ほんとに、殴ってもらえた方がすっきりするのかもしれない。
だけど裕子さんはきっとそんな風に怒りをぶつける人じゃないんだよな。和泉でさえそうだ。……まあ、俺がすっきりしたってしょうがないか。
ううーん、どうしたもんだろう。どうしても話を聞かなきゃいけないってわけではないが、このままずっと放置していたら一生気まずいままな気がする。連絡を取らないと顔を合わせる機会もない人だし。
それってやっぱりわだかまりというやつが残るんだと思う。少なくともそれはいいことじゃない。解消できることならすぐに解消すべきだと思う。
だって、そうだ。俺は佐伯と再会する気満々なのだ。ひとつも諦めていないのだ。何か情報を掴んだなら教えて貰いたいし、もし佐伯と再会できたら裕子さんだって会いたいはずだ。それならちゃんと気負わず連絡がとれる仲であるべきだと思う。
第一、会ってしまわなければずっとここであーだこーだと悩み続けるだけだろう。
帰りのバスに乗りながら、俺は意を決して裕子さんにメールを打った。改めて佐伯について謝りたいことと話を聞きたいという内容だ。
……ところで、裕子さんと会うとして、俺はどういう態度でいればいいんだろうか。自分の立場というものがいまいちピンとこない。世間的には責任もとれないのに女の子を妊娠させたクズ……というのはわかっているのだが……。
ぼんやり考えていると、急に昔の記憶が蘇ってきた。
小学生のとき、何か学校の備品を落として壊してしまってクラスの女子に怒られたときのことだ。
俺はすぐに先生に報告に行こうとしたし、しかし俺が先生の元にたどり着く前に他の子の大声で先生には伝わっていた。幸い弁償するという必要もないようなものだったらしく、俺が謝ると先生は許してくれた……というか、そもそも別に怒ってもいなかった。それでも最初に俺を叱責した女子は許さなかった。
俺の謝り方がよくなかったらしい。もっと慌てたり、泣いたりしてないとその子には反省の気持ちとか申し訳なく思っていることは伝わらなかったようだ。結局何故かその子がヒートアップして泣いてしまい、先生はその子をなだめているし、他のクラスメイトには俺が泣かせたとはやし立てられるし、なかなか納得がいかない気持ちになったのをよく覚えている。
でも今となってはその女子の気持ちもわからないわけではない。俺からは誠意というものが感じられなかったんだろう。俺なりにやってしまったとは思ったのだが、伝わらなければ意味のないものでもある。誠意というのは、そういうものなのだ。実際に誠意があるなら表に滲み出てくるもの……であるべきとされているのだ。まあ、そうだとしてもやっぱり今思い返してみてもその女子に指摘される筋合いはないのだが……それはそれだ。
そのときはただ物が壊れただけだったが、今回傷つけたのは人だ。そして無関係の女子ではなく、佐伯の保護者の一人である裕子さんだ。
人を傷つけたとき、ただ冷静に対応するだけで納得してもらえるとは限らない。それを身にしみて感じたのだ。頭を丸めるとかも必要性がわからなかったが、そういうことなんだよな。
俺がなんとも思っていないと思われるのは困る。そしてそう思われやすい態度なのだろうとも思う。それは改善しなければ。
でもあんまり悲壮感たっぷりというのも、謝っているはずなのになんとなく被害者感が出るような気がするんだよな。許さざるを得ない雰囲気にしかねないというか……。
別に俺は許されたいわけではないのだ。
うーん、これ以上考えると打算的すぎるだろうか。こういうところがにじみ出てしまうのかな。よくないな。佐伯のことを昔は軽薄そうと思っていたのだが、こう考えると俺の方がよっぽど軽薄な人間のような気がする。
その日の夜メールの返事が来た。いつもの元気な文面とは違っていたが、拒絶されているという印象でもなかった。偶然今日から連休で実家に帰ってきていたそうで、明日喫茶店で会うこととなった。
いつも裕子さんに会うときはどきどきしていたが、今回は全く違う意味でどきどきしている。
ああいう朗らかな人に迷惑をかけて悲しませたと考えると、やっぱり胸が痛い……。
でもひとつずつちゃんと向き合っていかないと、佐伯に堂々と顔向けできないだろう。逃げるわけにはいかない。