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9章

 気づいたら、床に座り込んでいた。
 和泉は気にせず話を続けていたが、そちらに顔を向けることはどうしてもできなかった。言葉をきちんと聞いているはずなのに、頭の中は別のことを必死に考えているようで、意識がどこに向かっているのか、自分でもよくわからなかった。

「おれが知ったのは三月入ってからだけど、二月の半ばにはもううちのお母さんにバレて病院に行ってたらしい。聞かされたときはどうだったかな……もう四ヶ月だつってたかな……。まだ安定期じゃないけど、つわりは終わったとか言ってたかな」

 三月の段階で四ヶ月。今は七月だ。

「あいつ、相手が誰か絶対に口割らなかったし、でも産みたいつっておじさんに土下座してた。おじさんは堕ろせの一点張りでさ、まあ、普通に考えたらそうだよな。相手わかんねえし、学校あるし、誰が面倒見て金出すんだって話だろ。産むまでも、産んでからもあの家じゃ無理だろ。どう考えたって」

 淡々と、和泉は続ける。その言葉がどんどん頭の中に蓄積していく。
 そうしながら、俺は佐伯の行動をひたすらに思い返していた。

「第一、どうみたって未成年のガキがさ、妊婦してたら噂にもなんだろ? おじさんはそういうの一番嫌いなんだよ。リサちゃんだっているしな」

 事情を知らない人の耳に入ったら、妊娠したのが佐伯のお姉さんだと勘違いした噂が流れるということだろうか。
 ……佐伯はどんな気持ちで俺と一緒にいたんだろうか。

「このままうちで面倒みるって言ったんだよ。でも意味ないって。まあ、近所だしな。当然噂は避けらんねえよな。うん。全然ダメだった。なんの権限もねえの。むしろ信頼して預けてたのになんでこんなことになったのかって言われちまって、返す言葉もねえよな」

 和泉は自嘲気味に笑っていた。
 それでもすぐに真顔に戻って、小さくため息をついていた。
 佐伯の父親の言い分は勝手に聞こえた。親として、今後を考えて出産に賛成できない気持ちは当然わかる。でもだからって自分が放置していたのに、和泉の家族を責められるだろうか……。それを受けるべきなのはどう考えたって、和泉たちでも……佐伯でもなくて……。

「で、おじさんが嫁入り先を見繕ってきたわけ。向こうは嫁探してて、それも子供が産める若い女を探してたらしい。ちょうどいいだろ?」
「……はあ……? 何がだよ……」
「今まで通りこの土地で生きるなら堕ろす、産むなら嫁入りって条件だったわけだよ」
「……そ、そんなの……」

 そんなの、ただの厄介払いじゃないか。
 なんだ? 理解できない。
 妊娠は、わかる。大人が子供に堕胎すべきだと言うのも、わかる。
 でも、それは、なんだ? 子供が産める若い女を探していて丁度いいから……って、なんだ? そんな奴と結婚したのか? そんな奴に子供を差し出す親がいるのか? 本当に、何を言っているのかわからなかった。

「あっ頭おかしいんじゃねえの……なんでそんなこと平然と、お前は……」

 気付けば和泉の胸ぐらを掴んでいた。
 淡々と説明する和泉が信じられなかった。吐き気がした。
 こいつはひとつも悪くないのに。悪いのは誰かわかっているのに。

「な、なんで、なんでそんな奴のとこに行く前に、お、俺に教えてくれなかったんだよ……」
「お前にこんな話しする義理ねえだろ」
「だ、だって、だって……」

 手首を掴まれ、易々とふりほどかれる。たった一瞬だったのに掴まれた箇所はじんじんと痛んだ。
 また床にへたりこむように座った。

「だって……俺の子供なのに……」

 口に出した瞬間、吐き気がこみ上げてきた。
 この数ヶ月、俺は何をしていた? 自分のことばかりで、ただ都合のいいことばかり考えていた。
 佐伯は新しい学校に通っていて、きっとそこでうまくやってるんだと思っていた。でもそんなものは存在しない。ただの妄想だった。
 なんとか口を押さえてやり過ごす。頭の中はぐるぐるとしていて、何を考えているのか自分でも把握できない。

「お前じゃない。父親は友也の結婚相手だ」
「違う! そんなのむちゃくちゃだ!」

 佐伯は一人で悩んで、一人で決めた。俺はすぐそばにいたのに。なんで、そんな佐伯のことをなにも知らない奴が父親なんだ。なにもかもがおかしい。
 そんな提案をする佐伯の親も、相手も、勝手に決めて何も教えてくれなかった佐伯も、これっぽっちも気付かなかった自分も……。

「お前さあ……、お前に友也が妊娠したっつったとして、お前、どうすんだよ」
「そ、そんなの、責任……とるに決まってるだろ……」

 和泉の目は冷たかった。
 佐伯を女にしたあの犯人の男。あいつを見る目と変わらなかった。
 そうだ、あいつは佐伯との子供が欲しいと言っていた。何も考えず、漠然とした欲求だけで。そう言われたあとの佐伯の言葉をぼんやりと思い返していた。

「じゃあお前、責任とるってさ、学校はどうすんだよ。やめるのか? 中卒で働けんのか? それとも高校は最後まで通うのか? だとすりゃ大学進学諦めんのか? で、その間友也はどこに住むんだよ」
「そ、それは……う、うちに……」
「お前の親が全面的に協力してくれる保証はあんの? もししてくれるとして、友也はずっと、どんな気持ちで世話になるんだ? なあ。おい。友也がどう考えるかくらいわかんだろ?」

 佐伯は、佐伯はきっと、そんな状況になったら、自分を責めると思う。
 俺の人生を壊した、とか、そんな風に思いこんで。
 そういう奴だということは、俺にだってわかる。
 俺に相談しなかったのも、理解はできる。

「友也も友也だけどな。産みたいって主張一辺倒で、実際問題どうすんのかなんてのは全く見えてなかったし……。それでも、まあ、妊娠しちまったもんはさあ、堕ろすなんて、できる奴じゃねえよなあ」

 少し、和泉の声は震えていた。初めて聞く声だった。
 和泉の顔を見る勇気は出なかった。

「別に、お前が全部悪いなんて言うつもりねえんだよ。二人のことだし、本人に隠されたんじゃお前は知りようもなかったんだし。でもさ、おれはやっぱ、あいつに肩入れしちまうんだよな」

 和泉が視界の端で立ち上がるのが見えた。
 熱い手が、俺の肩に触れる。

「あいつのために黙っとくべきだってわかってたんだけどさ、言わなきゃおれ、お前のこと許せそうになくてさ……ごめんな」

 そのままぽんぽん、と少し強い力で肩を叩いて、和泉は通り過ぎていった。
 殴られると思ったのに。殴ってほしいと思ったのに、和泉の声は穏やかだった。
 こいつは、今までなにも知らずにいる俺のことをどんな風に見ていたんだろう。兄弟同然の幼なじみを不幸にした相手を。

「い、和泉……」

 ドアを開ける音に、俺は思わず振り返って呼び止めていた。和泉は足を止め、こちらを見ている。

「さ、佐伯がまだいた頃……俺が佐伯と付き合ってるって、お前に言ってたら……どうしてた……?」

 和泉は笑うような、困るような、呆れるような、そんな表情をした。

「責任取らせてたに決まってんだろ」

 じゃあなと和泉は出て行った。
 俺は一人取り残されて、部屋の真ん中でずっと座っていた。

 佐伯が妊娠していた。
 ずっと具合が悪そうなのは全部つわりだったのだろう。
 なんで気付かなかったんだ。そんなこと、ひとつも考えつかなかった。
 避妊はきちんとしていた……はずだ。でも100%防げるわけじゃないことくらい知っている。
 とにかく、俺の子供だ。それは確かだ。どれだけ気をつけていたつもりでも、子供ができる行為をしたんだから。
 あいつが浮気するやつじゃないのはわかってる。無理矢理……とかそんなことがあれば、いくら俺だって気付くはずだ。どれだけ隠すのがうまいったって、付き合ってからの距離感だったらいくらなんでもわかる。……妊娠に気付けなかったくせに、言えることじゃないけど。
 そんなことはどうだっていいんだ。佐伯に子供ができたのなら、それは俺の子供なのだ。
 気分が悪い。佐伯は妊娠に気付いたとき、どんな気持ちでいたんだろう。きっと絶望したはずだ。心細かったはずだ。俺はそのとき、どうしていたんだろう。
 トイレに駆け込んで、何度か戻した。
 母がそれに気付いて心配して声をかけてきた。
 うちの両親は、どう思うのだろう。傷つけるだろうか。真面目なふりして、ろくでもない息子だ。悲しませるだろうか。軽蔑されるんだろうか。
 頭ではあれこれ考えていられるのに、舌がもつれてうまく喋れない。

「マ、ママ……どうしよう、どうしよう……俺、さ、佐伯が、俺の子供、に、妊娠してたって、俺、ずっと知らなくって、どうしよう……」

 情けなく泣く俺の背中をさすりながら、母親がすうっと短く息を飲むのが聞こえた。

「……その子の、おうちはわかる……?」

 掠れた声だった。

「わかる、わかるけど、佐伯はもう、いなくて、こ、子供産むために、どこか遠くに嫁に行ったって……」

 母は根気よく俺の話を聞いて、少しだけ呼吸が落ち着くのを待って、どこかに電話をしたあと出かける準備をはじめた。

「大丈夫だから、一緒にその子のおうちに行きましょう」

 そうやって、俺が寝込んだときのような優しい声色でそう言った。
 何一つ大丈夫なんかじゃないのに。
 佐伯は実の家族にも見放されて、たった一人で知らないところにいるのに。俺はここまできても親に気遣われて、何をしていいのか、ひとつもわからないままだった。

 車に乗せられ、途中で病院に寄って父も無言のまま合流して、いつの間にか夜になっていた。
 両親と佐伯の家まで行ったが、そこには誰も住んでいなかった。電気はついておらず、その家を売りに出している看板が立っていて、上に売約済みというシールが貼ってあるだけだった。
 途方に暮れて和泉の家を訪ねると、和泉のお母さんが出てきた。
 しかし佐伯の話を振ると悲しそうな顔をして何も知らないと首を振るのだった。
 あとから裕子さんも出てきて、俺はすべて自分のせいだと打ち明けても、誰も俺のことを責めはしなかった。きっとそんなことをしても無駄だからだ。
 もうどこにも佐伯はいなかった。この世界からまるきり消えてしまったように。
 ただ取り残された人だけがいた。

 家に帰ると、俺はもう何もしたくなくなっていた。
 父がなにか、励ますつもりだったのか、説教のつもりだったのか、何かを言ったのだが、思い出せないし、それがなにか、どうしても気に入らなくて、許せない気持ちになって俺は何か叫んで椅子を蹴り倒してしまった。
 そうしたら当然父にも母にも怒られて……でもやっぱり納得行かなくて……そのまま部屋に閉じこもった。
 全部俺が悪いのに。人に怒りをぶつけられる立場じゃないのに。誰にも謝ることすらできていなかった。
 頭から全部、俺のやっていることは間違っていた。
 今更気付いたって遅いのに。
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