9章
梅雨が明けた。もうすぐ一学期が終わる。あっと言う間だった。
みんなそれぞれ受験に向けて動いていた。和泉も勉強だけじゃなくて資料を集めたり、先生と相談をしたり熱心に受験への準備を進めている。海外進学ということで他のみんなとはやることもタイミングも違うのがなんだか和泉らしいと思った。いつだって多数派にならないのだ。
さすがにこれだけ時間が経つと佐伯のことを日常的に思い出すことは少なくなっていた。だからといって気持ちが変わるということはないけど。
これがいつか、完全に過去のことになったら俺も他の人を好きになるんだろうか。河合さんに憧れていたのに、気付いたら佐伯のことをもっと好きになったときのように。
それが良いことなのかよくわからないが、不安になって携帯に残っていた佐伯の写真を見る。でもやっぱりじっくりは見ていられなかった。あー、だめだ。と目を逸らしてしまう。まだ、そんな調子だ。
ふと、部屋の一角に目を向ける。
ベッド横の棚に飾られているテディベア。佐伯がくれたものだ。元々飾ってあった大きめのテディベアの陰に隠れるようにちょこんと座っている。親が入ってきたとき見られては恥ずかしいからだ。
佐伯がいなくなってすぐの頃、もしやこの中になにかメッセージがあるんじゃないか、連絡先なんかが書かれてあるんじゃないかと思ったことがある。
佐伯が俺を花見に誘ってくれなければ、これを受け取った日が佐伯との今生の別れになるはずだったからだ。
しかしどれだけ触っても綿の感触しかしないし、いくらなんでも一か八かの可能性で、佐伯が作ってくれたテディベアを解体するなんてできるわけがなかった。
佐伯の痕跡と呼べる物があまりにも少ない。
こんなものなのか、と思ってしまうほどに。まあ、もっと佐伯にまつわるものに溢れていたら、もっと立ち直るのは遅かったかもしれないけどさ。
それにしたってぬいぐるみひとつと僅かな画像だけっていうのはいくらなんでもな……。
……いや、よく考えたら、ルービックキューブも佐伯のものだったか。勝手に持って行けといわれたから貰っただけで、思い出もなにもないが。あれは今リビングのテーブルに転がっていて、俺や両親がたまに挑戦している。
あれは……そうか、裕子さんの車でリサイクルショップに行ったときか。そのあとは和泉も一緒で、あれは楽しかった。あのときはこんなことになるなんて想像もしなかった。佐伯もだと思う。
ふと、そういえば、裕子さんたちはどうしているのだろうと気になった。
そうだ、よく考えたら、佐伯は長い間和泉家にお世話になっていたのだ。それも生まれた時からの長いつきあいだ。家族よりも家族らしく。佐伯も大事にされているのが伝わってきた。
いくら佐伯という存在であることをやめて、別の人生を生きる、と言ったって、勝手にやめますなんて言って納得なんかする人たちじゃないだろう。佐伯の親父さんが手引きしたとして、実際に面倒を見ていたのは和泉の家族なんだし。そこからなんの説明もなく連れ出すというのはいくらなんでも道理がなっていない。つまり、佐伯が出ていくにあたってなにかしら説明を受けたはずだ。
……そういえば、佐伯の家はどうなっているんだろうか。一家揃って引っ越したんだろうか。あの大きな家を……。
……ともかく、和泉だ。和泉だって何か知っているんじゃないだろうか。
俺も河合さんも、みんなでいるときはなんとなく佐伯の話題は避けていたし、なにより俺たちが付き合ってたなんて話もしていないのだ。和泉が何か佐伯について知っていたとして、俺に漏らすわけない。
それなら本人から聞き出すまでだ。この際だ、付き合ってたことを告白したっていいよな。……いや、やっぱり佐伯は和泉には知られたくないのかな。うーん……やっぱり最後の手段かな。
いくら佐伯がいなくなったからって、佐伯の意志を無視するのは嫌だしな。
でも、和泉や、そのお母さんなんかが詳しい情報を知っているとしたら、どこに行ったのかとか連絡先を知っているとしたら、もしかしたら、もしかしたら会えるかもしれないのか?
そうだ。この世から消えてしまったわけじゃないんだ。それならどこかで佐伯に繋がるはずだ。
なんで俺は今まで、少しもこんなことを考えなかったんだろう。受け入れるのに必死で、まったく思いつかなかった。探す手立てはまだ残ってるじゃないか!
まずは和泉。和泉もわからなければ裕子さんだ。裕子さんでもわからなければ和泉のご両親。そこもわからなければどうにか佐伯の親父さんに連絡を取って貰おう。そうだ。そこまでしてから納得しなければ。一人ですっぱり諦めようとするなんて、俺は一体なにをしてたんだ。
すぐさま和泉に電話をする。いてもたってもいられなかった。
「あ、和泉? 俺だけどさ。今電話いい?」
『おう、なんだよ。珍しいな』
和泉に電話することなんてないな。河合さんにだってないけど。
なんとなく落ち着かず、部屋の中をうろつきながら言葉を探す。
「あー、あのさあ、さ、佐伯のことなんだけど……」
『……はあ? 今? 遅くね~?』
「だ、だよね。俺もなんで今まで和泉に聞くことを考えつかなかったのか不思議だよ」
表情が見えず、声だけというのはなんだか不安だった。和泉は佐伯のように抑揚のついた喋り方はしないせいだろうか。でも少し笑っているようだ。
「それで、さ。あいつがどこに行ったかとかさ、和泉や和泉のお母さんなんかが何か知らないかと思って……。無理なら佐伯の親父さんと連絡とれないかなって……」
『あー……そいつぁやめといた方がいいと思うが……』
和泉はそうだなあ……と言葉を選んでいた。やめた方がいい、というのは何故なのか。
でも取り付く島もないっていう対応ではない。何かは知っているのだ。
もしかしたら、もしかしたらとどんどん気持ちがはやる。
「なんでもいいんだよ、ちょっと……ほら、突然だったし、色々話したいこともあるしさ、あいつ結構一人で悩んじゃうタイプだし」
『ま、そういうとこはあるけどよお、んー……そうだなあ……。言葉だけで説明するのもめんどくせえし、会わねえ? そっち行っていいか?』
「え? あ、ああ、うん、わかった。あ、俺が和泉ん家に行った方がよくない? バスの定期あるし」
『あー……いや、別にいい、そっち向かうわ』
まあ、そっちがいいならいいけど、と言うと電話は終わった。
謎だ。わざわざアクセスしづらい俺の家にきてくれなくたっていいのに。和泉の家の方が大人もいないし。まあ、長門がいたら話しづらいか。
まだ陽が高いうちに和泉は我が家にやってきた。
「随分早かったな……」
「走ってきた」
……走ってこれる距離ではないし、まったく息も途切れていないくせにそんなこと言われても。まあ、深くは聞かないでおこう。
和泉はうちの母に挨拶して、そのまま俺の部屋にあがる。
佐伯は人懐っこく話しかけるけど、和泉は大人にはちゃんと距離を持って接するのだ。愛想は良くしてるけど。
「どこ座ればいい?」
「あ。え、えーと、椅子とベッドと床どこがいい?」
「じゃあベッド」
人を招く部屋ではないため、座布団とか客用の椅子なんかの気の利いた物はない。
和泉は俺のベッドの縁に座り、姿勢を低く、肘を膝に乗せて手を組む。
よく考えると、和泉一人が俺の部屋に来るというのは今まで殆どないかもしれない。性格は全く違うが、むしろ気はあう方だと思う。それでも外で適当な調子でふざけたりするのがいい距離感であって、二人きりで遊ぶっていうのは少し調子が違うのだ。嫌ってわけではもちろんないけど……、やっぱりなんだか違う。
「飲み物とってくるから待ってて」
「おー。お構いなく」
なんとなく、二人きりでいると緊張した。
本当は早く問いただしたいのに。まるで時間稼ぎしてるみたいな自分の行動が不思議だった。
キッチンへ向かって適当な飲み物を用意しながら、母親に真面目な話をするから声をかけないように伝えて戻る。
「お待たせ。コーヒーでいいよな。砂糖とかミルクいる?」
「や、いらねえ」
和泉は言葉少なだ。
河合さんに対して饒舌なだけで俺に対してはいつもこんなもんだ。割とその場の雰囲気やメンバーなんかで和泉のテンションは変わるのだ。河合さんのようにずっと静かだったり、佐伯のようにずっとお喋りだったりはしない。
俺は机の上にお盆を置いて、和泉にはサイドテーブルを使って貰う。
俺も椅子に座り、コーヒーを一口飲んで、机に戻す。
「そ、それで、佐伯のことだけど」
「ああー、うん。言っとくけど、おれは居場所は知らねえ」
和泉は手をひらひらとさせる。
そうか……まあ、それもそうだ。知ってたら、俺に教えないまでも和泉のことだから何かしら行動には移しているはずだし。そして和泉のことだから行動に移せば結果を出す、そんな根拠もない信頼感がある男だ。
それに河合さんだって佐伯がいなくなって落ち込んでいたし、知っていて何も言わないということはしないと思った。
「そうだなあ……お前友也からなんて聞いてる? どこにいくとかなんで出て行ったのかとか」
俺は必死で佐伯の話を思い返す。
正直、つっこんだ話は何も教えてくれなかった。俺も何を言っても無駄だろうと諦めていた節はあるけど。
「たしか……知らない土地に引っ越して……女の子として生きる、みたいなことは聞いたよ。それ以上はなにも……」
「ふん、なるほど」
和泉はいつもの偉そうな態度だ。
普通ならイラッとくる部分なはずなのだが、それほど不快にはならない。
和泉はやはり、どういうところから説明しようかと悩んでいるらしい。沈黙が続いた。
「まあ、そうだなあ……、友也の親父と連絡とりたいっつっただろ? それは諦めた方がいいな。あの人はさ、友情とかそういうのに感動してくれるタイプじゃねえのよ。おれも突っぱねられたし。多分お前もぶん殴りたくなるタイプだと思うぜ」
「……そ、そう、なんだ……。殴った?」
「友也と姉ちゃんに止められた」
佐伯からは想像つかない人物像だった。
まあ、仕事人間なんだろうというのは伝わってきていたけどさ。少しでも愛情深い人間だったら、急に身体が変わってしまった息子を病院連れてっただけでほったらかしにはしないよな。
「うちの両親もさ、色々口出しはしたんだよな。そんな権限ねえかもしんねえけど、友也を引き取りたいとか、そういう感じのこと」
「前言ってたよね。養子にしたいって話してるけど佐伯が渋ってるって」
「そう。まあ、そうなんだよな。結局友也も親父さんも良しとはしてくんなかったけどさ」
そこに関しては、たしかに色々無理はあるだろうとは思いながら聞いていた。それでもその通りになれば理想的だと思いながら。
「うちも大口叩いておいて、監督不行き届きみたいなとこあったし……。やっぱなあ……おれがどうこう言ったって、どうしようもねえとこはあんだよなあ……」
和泉の話はなかなか進まない。指のささくれを触りながら和泉は少しうなだれているようにしていた。
「……じゃあ……佐伯はなんで引っ越すことになったのかっていうのも……知らないの?」
「……いや、それは知ってるけど」
けど、と和泉は言葉を止める。
少し苛々した。知っているのに、答えが目の前にあるのに教えて貰えない。和泉からしたらぺらぺらと人の家の事情を話すのは抵抗があるのかもしれないが、そんなことを配慮する余裕はない。
「た、頼むよ和泉。知ってること教えてほしい……他に知りようがないんだよ」
「知ってどうすんだよ。今更できることもねえぞ?」
「わ、わかってる。けど、どうするかは知ってから決めたい」
「んなこと言われたってなあ……」
椅子から降り、懇願するように床に膝をついた。和泉はぽりぽりと頭をかいてそれを見下ろしている。
「あのなあ、端っから教える気がなけりゃおれだってわざわざここまで来ねえよ。たださあ、おれだってお前が興味本位で知りたいだけなら教えたくなんかないわけ」
「そんなんじゃない!」
「ああ、わかってる。わかってるよ……」
いつの間にか和泉も苛ついているようだった。いや、もしかして俺が気づいていないだけでずっと苛々していたのだろうか。
和泉は俺に打ち明けていいのか、品定めをしているのだ。だったら、俺だってきちんと佐伯との関係を明かすべきじゃないだろうか。一方的に情報だけ求めるような、そんな立場には俺はいないじゃないか。
「あ、あの……お、俺……実は……俺はその、佐伯と……つ……」
「待て」
和泉に制止され、思わず顔を上げていた。
いつもの荒っぽいが表情は穏やかな、そんな和泉の顔ではなかった。河合さんには決して見せない顔だ。
「話してやる」
「……い、いいの……?」
「学校の連中には言うなよ。河合にもだぞ」
「う、うん……」
「おれはさ、お前のこと尊敬してんだよ。失望させてくれんなよな」
和泉の言っている言葉の意味が少しわからなかった。
しかし、嫌な予感だけはちりっと胸に感じた。
かといって、何か余計なことを言ってこのチャンスを台無しにはしたくなくて、じっと次の言葉を待つ。
和泉は深いため息をついた。
「嫁に行った」
和泉の丸い目がまっすぐこちらを見ていた。
え、と言ったか、は、と言ったか自分でもわからない。なにも声がでてなかったような気もする。
言葉の意味を脳で組み立てることがうまくできなかった。
「……何……え?」
「だから、嫁に行ったんだよ。どこか知んねえけど、親父さんの知り合いに息子の嫁捜ししてる人がいるっつって、見合いもなしで嫁に行った」
「な、なんで……っ!?」
少しずつ、和泉の説明は頭に入ってきたが、すぐに霧散する。それでもそう聞かずにはいられなかった。考える暇などなかった。
和泉が平然と言うことの意味が分からなかった。気付けば和泉の膝にすがりつくようになっていたが、和泉は少し鬱陶しそうな顔でこちらを見下ろすだけだ。
「な、なんで、だって、なんでわざわざ……い、意味がわからない……んだけど……はあ? 佐伯だって、なんで素直に……そんなこと……」
理由が全く思いつかなかった。政略結婚なんて今時そうないだろう。あったとしても、少なくとも高校卒業してからだ。そういうことをするからには、気にするべき周囲の目があるからのはずだから、急ぐ必要なんてないはずだ。
もしかして佐伯の父親が佐伯が突然女になったってことで世間体とかを気にしてよそにやりたかったとか?
でもだとしたら、佐伯はなんで俺に何も言わなかったのか。だって、絶対嫌がるはずだ。いくら佐伯でも、そんな理不尽な状況を受け入れる謂われはない。たとえ俺に解決できることでなくても相談くらいしてくれたっていいはずだ。
「話、聞けるか?」
はっと和泉の顔を見る。
そうだ。テストじゃないんだ。頭で考えたって、絶対に答えなんて出ない。答えは和泉が持ってる。
いつの間にか和泉は、俺の手首を掴んでいた。俺が和泉の膝にしがみついていたからだろうと、後から理解した。随分熱い手だと思った。俺の手が冷たくなっているのだろうか。
「お前が聞きたくないならここで終わっていい」
「……いや、いや……し、知りたい……」
和泉の顔はすぐそばにあった。二つの目に睨まれると、俺は今裁かれているような気がした。
和泉は正義の元にいて、俺はそこにいない気がした。俺は今までずっと、間違いは起こしても罪は犯していない、自分の正しさを信じてきたはずなのに、それが揺らいだ。
そして和泉が口を開いた瞬間、何をいうのかがわかった。すべてわかった。考えてみれば、きっと俺じゃなければとっくにわかったのだ。きっと。
「あいつ、妊娠してた」
思った通りのことを、和泉は言った。
みんなそれぞれ受験に向けて動いていた。和泉も勉強だけじゃなくて資料を集めたり、先生と相談をしたり熱心に受験への準備を進めている。海外進学ということで他のみんなとはやることもタイミングも違うのがなんだか和泉らしいと思った。いつだって多数派にならないのだ。
さすがにこれだけ時間が経つと佐伯のことを日常的に思い出すことは少なくなっていた。だからといって気持ちが変わるということはないけど。
これがいつか、完全に過去のことになったら俺も他の人を好きになるんだろうか。河合さんに憧れていたのに、気付いたら佐伯のことをもっと好きになったときのように。
それが良いことなのかよくわからないが、不安になって携帯に残っていた佐伯の写真を見る。でもやっぱりじっくりは見ていられなかった。あー、だめだ。と目を逸らしてしまう。まだ、そんな調子だ。
ふと、部屋の一角に目を向ける。
ベッド横の棚に飾られているテディベア。佐伯がくれたものだ。元々飾ってあった大きめのテディベアの陰に隠れるようにちょこんと座っている。親が入ってきたとき見られては恥ずかしいからだ。
佐伯がいなくなってすぐの頃、もしやこの中になにかメッセージがあるんじゃないか、連絡先なんかが書かれてあるんじゃないかと思ったことがある。
佐伯が俺を花見に誘ってくれなければ、これを受け取った日が佐伯との今生の別れになるはずだったからだ。
しかしどれだけ触っても綿の感触しかしないし、いくらなんでも一か八かの可能性で、佐伯が作ってくれたテディベアを解体するなんてできるわけがなかった。
佐伯の痕跡と呼べる物があまりにも少ない。
こんなものなのか、と思ってしまうほどに。まあ、もっと佐伯にまつわるものに溢れていたら、もっと立ち直るのは遅かったかもしれないけどさ。
それにしたってぬいぐるみひとつと僅かな画像だけっていうのはいくらなんでもな……。
……いや、よく考えたら、ルービックキューブも佐伯のものだったか。勝手に持って行けといわれたから貰っただけで、思い出もなにもないが。あれは今リビングのテーブルに転がっていて、俺や両親がたまに挑戦している。
あれは……そうか、裕子さんの車でリサイクルショップに行ったときか。そのあとは和泉も一緒で、あれは楽しかった。あのときはこんなことになるなんて想像もしなかった。佐伯もだと思う。
ふと、そういえば、裕子さんたちはどうしているのだろうと気になった。
そうだ、よく考えたら、佐伯は長い間和泉家にお世話になっていたのだ。それも生まれた時からの長いつきあいだ。家族よりも家族らしく。佐伯も大事にされているのが伝わってきた。
いくら佐伯という存在であることをやめて、別の人生を生きる、と言ったって、勝手にやめますなんて言って納得なんかする人たちじゃないだろう。佐伯の親父さんが手引きしたとして、実際に面倒を見ていたのは和泉の家族なんだし。そこからなんの説明もなく連れ出すというのはいくらなんでも道理がなっていない。つまり、佐伯が出ていくにあたってなにかしら説明を受けたはずだ。
……そういえば、佐伯の家はどうなっているんだろうか。一家揃って引っ越したんだろうか。あの大きな家を……。
……ともかく、和泉だ。和泉だって何か知っているんじゃないだろうか。
俺も河合さんも、みんなでいるときはなんとなく佐伯の話題は避けていたし、なにより俺たちが付き合ってたなんて話もしていないのだ。和泉が何か佐伯について知っていたとして、俺に漏らすわけない。
それなら本人から聞き出すまでだ。この際だ、付き合ってたことを告白したっていいよな。……いや、やっぱり佐伯は和泉には知られたくないのかな。うーん……やっぱり最後の手段かな。
いくら佐伯がいなくなったからって、佐伯の意志を無視するのは嫌だしな。
でも、和泉や、そのお母さんなんかが詳しい情報を知っているとしたら、どこに行ったのかとか連絡先を知っているとしたら、もしかしたら、もしかしたら会えるかもしれないのか?
そうだ。この世から消えてしまったわけじゃないんだ。それならどこかで佐伯に繋がるはずだ。
なんで俺は今まで、少しもこんなことを考えなかったんだろう。受け入れるのに必死で、まったく思いつかなかった。探す手立てはまだ残ってるじゃないか!
まずは和泉。和泉もわからなければ裕子さんだ。裕子さんでもわからなければ和泉のご両親。そこもわからなければどうにか佐伯の親父さんに連絡を取って貰おう。そうだ。そこまでしてから納得しなければ。一人ですっぱり諦めようとするなんて、俺は一体なにをしてたんだ。
すぐさま和泉に電話をする。いてもたってもいられなかった。
「あ、和泉? 俺だけどさ。今電話いい?」
『おう、なんだよ。珍しいな』
和泉に電話することなんてないな。河合さんにだってないけど。
なんとなく落ち着かず、部屋の中をうろつきながら言葉を探す。
「あー、あのさあ、さ、佐伯のことなんだけど……」
『……はあ? 今? 遅くね~?』
「だ、だよね。俺もなんで今まで和泉に聞くことを考えつかなかったのか不思議だよ」
表情が見えず、声だけというのはなんだか不安だった。和泉は佐伯のように抑揚のついた喋り方はしないせいだろうか。でも少し笑っているようだ。
「それで、さ。あいつがどこに行ったかとかさ、和泉や和泉のお母さんなんかが何か知らないかと思って……。無理なら佐伯の親父さんと連絡とれないかなって……」
『あー……そいつぁやめといた方がいいと思うが……』
和泉はそうだなあ……と言葉を選んでいた。やめた方がいい、というのは何故なのか。
でも取り付く島もないっていう対応ではない。何かは知っているのだ。
もしかしたら、もしかしたらとどんどん気持ちがはやる。
「なんでもいいんだよ、ちょっと……ほら、突然だったし、色々話したいこともあるしさ、あいつ結構一人で悩んじゃうタイプだし」
『ま、そういうとこはあるけどよお、んー……そうだなあ……。言葉だけで説明するのもめんどくせえし、会わねえ? そっち行っていいか?』
「え? あ、ああ、うん、わかった。あ、俺が和泉ん家に行った方がよくない? バスの定期あるし」
『あー……いや、別にいい、そっち向かうわ』
まあ、そっちがいいならいいけど、と言うと電話は終わった。
謎だ。わざわざアクセスしづらい俺の家にきてくれなくたっていいのに。和泉の家の方が大人もいないし。まあ、長門がいたら話しづらいか。
まだ陽が高いうちに和泉は我が家にやってきた。
「随分早かったな……」
「走ってきた」
……走ってこれる距離ではないし、まったく息も途切れていないくせにそんなこと言われても。まあ、深くは聞かないでおこう。
和泉はうちの母に挨拶して、そのまま俺の部屋にあがる。
佐伯は人懐っこく話しかけるけど、和泉は大人にはちゃんと距離を持って接するのだ。愛想は良くしてるけど。
「どこ座ればいい?」
「あ。え、えーと、椅子とベッドと床どこがいい?」
「じゃあベッド」
人を招く部屋ではないため、座布団とか客用の椅子なんかの気の利いた物はない。
和泉は俺のベッドの縁に座り、姿勢を低く、肘を膝に乗せて手を組む。
よく考えると、和泉一人が俺の部屋に来るというのは今まで殆どないかもしれない。性格は全く違うが、むしろ気はあう方だと思う。それでも外で適当な調子でふざけたりするのがいい距離感であって、二人きりで遊ぶっていうのは少し調子が違うのだ。嫌ってわけではもちろんないけど……、やっぱりなんだか違う。
「飲み物とってくるから待ってて」
「おー。お構いなく」
なんとなく、二人きりでいると緊張した。
本当は早く問いただしたいのに。まるで時間稼ぎしてるみたいな自分の行動が不思議だった。
キッチンへ向かって適当な飲み物を用意しながら、母親に真面目な話をするから声をかけないように伝えて戻る。
「お待たせ。コーヒーでいいよな。砂糖とかミルクいる?」
「や、いらねえ」
和泉は言葉少なだ。
河合さんに対して饒舌なだけで俺に対してはいつもこんなもんだ。割とその場の雰囲気やメンバーなんかで和泉のテンションは変わるのだ。河合さんのようにずっと静かだったり、佐伯のようにずっとお喋りだったりはしない。
俺は机の上にお盆を置いて、和泉にはサイドテーブルを使って貰う。
俺も椅子に座り、コーヒーを一口飲んで、机に戻す。
「そ、それで、佐伯のことだけど」
「ああー、うん。言っとくけど、おれは居場所は知らねえ」
和泉は手をひらひらとさせる。
そうか……まあ、それもそうだ。知ってたら、俺に教えないまでも和泉のことだから何かしら行動には移しているはずだし。そして和泉のことだから行動に移せば結果を出す、そんな根拠もない信頼感がある男だ。
それに河合さんだって佐伯がいなくなって落ち込んでいたし、知っていて何も言わないということはしないと思った。
「そうだなあ……お前友也からなんて聞いてる? どこにいくとかなんで出て行ったのかとか」
俺は必死で佐伯の話を思い返す。
正直、つっこんだ話は何も教えてくれなかった。俺も何を言っても無駄だろうと諦めていた節はあるけど。
「たしか……知らない土地に引っ越して……女の子として生きる、みたいなことは聞いたよ。それ以上はなにも……」
「ふん、なるほど」
和泉はいつもの偉そうな態度だ。
普通ならイラッとくる部分なはずなのだが、それほど不快にはならない。
和泉はやはり、どういうところから説明しようかと悩んでいるらしい。沈黙が続いた。
「まあ、そうだなあ……、友也の親父と連絡とりたいっつっただろ? それは諦めた方がいいな。あの人はさ、友情とかそういうのに感動してくれるタイプじゃねえのよ。おれも突っぱねられたし。多分お前もぶん殴りたくなるタイプだと思うぜ」
「……そ、そう、なんだ……。殴った?」
「友也と姉ちゃんに止められた」
佐伯からは想像つかない人物像だった。
まあ、仕事人間なんだろうというのは伝わってきていたけどさ。少しでも愛情深い人間だったら、急に身体が変わってしまった息子を病院連れてっただけでほったらかしにはしないよな。
「うちの両親もさ、色々口出しはしたんだよな。そんな権限ねえかもしんねえけど、友也を引き取りたいとか、そういう感じのこと」
「前言ってたよね。養子にしたいって話してるけど佐伯が渋ってるって」
「そう。まあ、そうなんだよな。結局友也も親父さんも良しとはしてくんなかったけどさ」
そこに関しては、たしかに色々無理はあるだろうとは思いながら聞いていた。それでもその通りになれば理想的だと思いながら。
「うちも大口叩いておいて、監督不行き届きみたいなとこあったし……。やっぱなあ……おれがどうこう言ったって、どうしようもねえとこはあんだよなあ……」
和泉の話はなかなか進まない。指のささくれを触りながら和泉は少しうなだれているようにしていた。
「……じゃあ……佐伯はなんで引っ越すことになったのかっていうのも……知らないの?」
「……いや、それは知ってるけど」
けど、と和泉は言葉を止める。
少し苛々した。知っているのに、答えが目の前にあるのに教えて貰えない。和泉からしたらぺらぺらと人の家の事情を話すのは抵抗があるのかもしれないが、そんなことを配慮する余裕はない。
「た、頼むよ和泉。知ってること教えてほしい……他に知りようがないんだよ」
「知ってどうすんだよ。今更できることもねえぞ?」
「わ、わかってる。けど、どうするかは知ってから決めたい」
「んなこと言われたってなあ……」
椅子から降り、懇願するように床に膝をついた。和泉はぽりぽりと頭をかいてそれを見下ろしている。
「あのなあ、端っから教える気がなけりゃおれだってわざわざここまで来ねえよ。たださあ、おれだってお前が興味本位で知りたいだけなら教えたくなんかないわけ」
「そんなんじゃない!」
「ああ、わかってる。わかってるよ……」
いつの間にか和泉も苛ついているようだった。いや、もしかして俺が気づいていないだけでずっと苛々していたのだろうか。
和泉は俺に打ち明けていいのか、品定めをしているのだ。だったら、俺だってきちんと佐伯との関係を明かすべきじゃないだろうか。一方的に情報だけ求めるような、そんな立場には俺はいないじゃないか。
「あ、あの……お、俺……実は……俺はその、佐伯と……つ……」
「待て」
和泉に制止され、思わず顔を上げていた。
いつもの荒っぽいが表情は穏やかな、そんな和泉の顔ではなかった。河合さんには決して見せない顔だ。
「話してやる」
「……い、いいの……?」
「学校の連中には言うなよ。河合にもだぞ」
「う、うん……」
「おれはさ、お前のこと尊敬してんだよ。失望させてくれんなよな」
和泉の言っている言葉の意味が少しわからなかった。
しかし、嫌な予感だけはちりっと胸に感じた。
かといって、何か余計なことを言ってこのチャンスを台無しにはしたくなくて、じっと次の言葉を待つ。
和泉は深いため息をついた。
「嫁に行った」
和泉の丸い目がまっすぐこちらを見ていた。
え、と言ったか、は、と言ったか自分でもわからない。なにも声がでてなかったような気もする。
言葉の意味を脳で組み立てることがうまくできなかった。
「……何……え?」
「だから、嫁に行ったんだよ。どこか知んねえけど、親父さんの知り合いに息子の嫁捜ししてる人がいるっつって、見合いもなしで嫁に行った」
「な、なんで……っ!?」
少しずつ、和泉の説明は頭に入ってきたが、すぐに霧散する。それでもそう聞かずにはいられなかった。考える暇などなかった。
和泉が平然と言うことの意味が分からなかった。気付けば和泉の膝にすがりつくようになっていたが、和泉は少し鬱陶しそうな顔でこちらを見下ろすだけだ。
「な、なんで、だって、なんでわざわざ……い、意味がわからない……んだけど……はあ? 佐伯だって、なんで素直に……そんなこと……」
理由が全く思いつかなかった。政略結婚なんて今時そうないだろう。あったとしても、少なくとも高校卒業してからだ。そういうことをするからには、気にするべき周囲の目があるからのはずだから、急ぐ必要なんてないはずだ。
もしかして佐伯の父親が佐伯が突然女になったってことで世間体とかを気にしてよそにやりたかったとか?
でもだとしたら、佐伯はなんで俺に何も言わなかったのか。だって、絶対嫌がるはずだ。いくら佐伯でも、そんな理不尽な状況を受け入れる謂われはない。たとえ俺に解決できることでなくても相談くらいしてくれたっていいはずだ。
「話、聞けるか?」
はっと和泉の顔を見る。
そうだ。テストじゃないんだ。頭で考えたって、絶対に答えなんて出ない。答えは和泉が持ってる。
いつの間にか和泉は、俺の手首を掴んでいた。俺が和泉の膝にしがみついていたからだろうと、後から理解した。随分熱い手だと思った。俺の手が冷たくなっているのだろうか。
「お前が聞きたくないならここで終わっていい」
「……いや、いや……し、知りたい……」
和泉の顔はすぐそばにあった。二つの目に睨まれると、俺は今裁かれているような気がした。
和泉は正義の元にいて、俺はそこにいない気がした。俺は今までずっと、間違いは起こしても罪は犯していない、自分の正しさを信じてきたはずなのに、それが揺らいだ。
そして和泉が口を開いた瞬間、何をいうのかがわかった。すべてわかった。考えてみれば、きっと俺じゃなければとっくにわかったのだ。きっと。
「あいつ、妊娠してた」
思った通りのことを、和泉は言った。