このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

9章

「あー……頭がパンクする……」

 和泉は単語帳を放り出して机に突っ伏す。
 突っ伏している和泉の横に苦笑気味のウェイトレスさんがクリームソーダを置いて、俺がすいませんと謝った。

「お、難易度上がってるじゃん。俺が知らない単語も結構あるし。これ覚えたの?」
「はんぶんくらい……」

 力ない声で和泉は返事をするが、目をみはるほどの成長スピードだ。もっと自信持っていいのに。……まあ、いくら必死で単語を覚えたって受験に合格するかはまた別か。普通の英語のテストと違って、暗記じゃ意味ない。語彙として身につける必要があるのだから、難易度はまったく違うのだろう。
 和泉の目下の課題はエッセイの制作、の練習のようだ。ただのエッセイだけでも大変だろうに、英語だからな。一年の頃ディスイズアペンレベルだったこいつの英語力でそんな大それたものに挑もうなんて、普通に考えれば無茶だとしか言えない。
 普通留学経験があるだとか、そのくらいの自信がなきゃまず手を出そうと思わないんじゃないだろうか。
 まあ、すでに語学力に関する試験は受けているらしく、そこで先生からの待ったがかからないということは、和泉はすでにその水準に達しているのだろう。
 さすがに実用的な英語を教えてくれと言われても手に余るので、俺は近頃和泉の勉強にはノータッチだ。和泉の両親という英語ネイティブの先生がそばにいるしな。
 定期考査の対策は今でも河合さんと一緒に面倒見てるけど。三年に上がってから二人の差は大きく開いてきた。得意分野など似通っている二人が、やる気いかんでこれほど違いがでるとは思わなかった。二年の頃は河合さんの方が素直に理解していた印象があるが、和泉は最初のうちの覚えが非常に悪いだけで、一度コツを掴めば放っておくだけでそれなりに一人で進められるタイプらしい。
 それに、なにより執念みたいなしつこさで勉強に臨んでいる成果だろうな。さすがさそり座の男。

「電池切れたみたいだね。一休みしなよ」
「そうすっか……」

 のろのろと体を起こし、和泉はストローをあけてクリームソーダを飲む。
 今日は珍しく二人で喫茶店に寄り道していた。河合さんは昨夜おじいさんが怪我をしただとかで、病院に寄ると行って電車に乗って行ってしまった。二人で駅まで見送りに行って、ついでだからお茶でもしますか、という流れなわけだ。暑いしな。

「最近、洋画字幕なしで割と追えるようになってきた」
「お。すごいじゃん。聞き取りやすい英語じゃないでしょ。俺ほとんどわからないし」
「だろ~。でも理解するまで時差があっからさ、話どころじゃなくなっちまうんだよなあ。慣用句とかわかんねえし」

 よく考えたら、そもそも俺は吹き替えでしか洋画見ることなかったな、とミルクセーキを飲み込みながら考える。
 しかし映画好きからすれば魅力的なスキルなのだろうな。

「こないださー適当に見た映画を吹き替えなしで見たらさあ、なんっにもわかんなくてよお、とうとう勉強しすぎで頭退化したんかと思ったら、スペイン映画だった」
「いやそれは間違えないだろ!」

 んははと和泉は笑いながらクリームソーダのてっぺんについていたさくらんぼを食べた。
 暑い初夏に、メロンソーダに浮かぶアイスはぴったりだろう。いつか佐伯が飲んでたな、と思い出した。あれはクリスマスだったから、夏に飲めばいいのにと思ったんだった。
 佐伯と深く付き合うようになったのは秋以降。夏頃は大して季節のイベントごとなんかを楽しんだりはしなかったのだ。その頃はまだ男だったし。しかし、それでもやっぱり佐伯を思い起こさせるものというのは消えない。まだ思い出すと悲しい気持ちはいくらでも生まれてくる。もう泣くことはないけど。
 なんとか意識をそらさないと、と話題を探していたところで和泉が背もたれに深く寄りかかりながら呟いた。

「友也なにしてんだろうなー」

 俺の体は不自然に一瞬止まったと思う。

「そ、そう……だね。新しい学校でうまくやってるといいけどねー。まあ、あいつなら心配ないだろうけどさ」
「あー……たしかに?」

 そういえば、和泉は幼稚園のころからずっと同じ園、同じ学校に通ってたんだよな……。

「や、やっぱ和泉も寂しいとか思う感情あるの?」
「おれのことなんだと思ってんだ……?」

 河合さん以外には全く興味のない男だと思っていました。……っていうのは、ちょっと酷いか。河合さん以外にはあけっぴろげに表現しないだけだろう。

「まー……、別にべったり遊んでたのは小学校のときまでだからなあ……。寂しいっていうのかどうかはわかんねえけど、違和感はそりゃあるわな」
「……そりゃあそうだよな」

 佐伯がいなくなってしばらくの間、俺は自分のことでいっぱいいっぱいだった。でも和泉の方が俺よりずっと付き合いは長いのだから、思い入れの性質は全く違うだろうけど、ショックを受けないはずがない。

「……それよりさあ、河合が夏休みにプール行きたがってたぞ。お前余裕ある?」
「まあ、一日くらいは別に……」

 あからさまに話を逸らされた。まあ、俺だって佐伯の話を振られたら、同じ事をするだろう。和泉にはあんまり弱気なところを見られたくはない。

「プールか……。水着あったかな」
「お前学校の水着着てきそうだよな……」
「う、うるさいな。プライベートで泳ぎにいくなんてことないんだよ」

 っていうか、泳げないし……。
 しかし一日遊びに行くためだけにわざわざ買うのもなあ……。
 高校ではプールの授業はない。中学で買った水着ならまだあるはずである。中学時代はまだ入院したり体調が万全のときがほとんどなかったせいで、水着を買ったもののプールの授業は毎回見学で結局使わずじまいだった。そのまま眠らせておくのはもったいない。

「まあ、お前ならありか」
「ど、どういう意味だ……!?」

 バカにされている……!?

「和泉に笑われていじめられそうだから行くのやめよっかな~」
「あーあーうそうそ、絶対何にも触れねえから。心に秘めとくから」

 なんのフォローにもなっていないが……。
 まあ、和泉は置いといて河合さんの要望であるなら無視することはできない。

「俺は別にみっちり予定詰めてるわけじゃないし、和泉の都合にあわせてって河合さんにも言っといて」
「余裕ですなあ」
「今のところはね」
「はー、羨ましいこって」

 俺の場合、学力より面接とか、内申とかが課題なんだよな……。学業以外に力を注いだ活動とか取り組みが全くない。一年の頃はまだ休みがちだったし、とにかく学校に通いきるということを目標にして入学していたから、そもそもの水準が低すぎるのだ。
 三年に入ってから、今のところ欠席はしていない。これは快挙なのだ。だがそんな事情なんて他人は知ったこっちゃないだろうし、体調管理できないやつからようやく普通レベルになった、くらいにしか思わないだろう。
 一応学校が紹介しているボランティアなんかには参加するようにはしているけど……自信持ってプレゼンできるほどの立派な生活を送れてはいない。
 現在のことにいっぱいいっぱいで将来のことなんて考える余裕がなかったせいだけど、そのしわ寄せが今になって出てきているらしい。ま、かといって今更あがきようもないしな。なるようになれと思っている。

「和泉は来年以降日本にすらいない可能性あるし、そりゃあ河合さんも外に出たがるよね」
「まあ、おれは受かったら来年の初夏くらいまでは春休みやってっけどな」

 あ、そうか。向こうは九月始まりだもんな。羨ましい。

「でも受かるかわかんねえしなあ。こんなことなら去年もっと満喫しておきゃよかったぜ」

 ほんとに、俺もそう思う。
 でもあの頃はまだ河合さんも遊び慣れていなかったし、俺もまだまだ体調は不安定だった。
 そのときにはそのときの理由があったと思う。
 でも受験の事なんて考えもしなかったし、なによりも佐伯がいた。……その頃は本当にこんな後悔をするとはひとかけらも思わなかった。悔やんでもしょうがないけど。

ーーー

「もう、ほんとに大したことないのよ。それを大騒ぎして、それで入院して検査したら健康そのものなんだから、やんなっちゃうわよ」
「まあまあ、それも結果論だからさ」

 翌日、河合さんの愚痴を聞きながらバスに乗り込んだ。
 なんともなくてよかったじゃないかと思うが、振り回された側からすると文句も言いたくなるのだろう。

「あ、そうだ。桐谷いつでもプールOKなんですって? 期末が終わったらさっそく行きましょうよ」
「え? あ、ああ、別にいいけど」
「わたしはね、去年の反省を生かしてちゃんとスケジュールを立ててるのよ。プールも行くし、花火大会も行くし、できれば海にも行きたいところよね」
「はは……」

 じゅ、受験生なんだが……。
 ……でも、この先の人生この三人で全力で遊べる機会はもう限られているのかもしれないと思うと、今やらなくてどうするとも思えてくる。

「わたしは学割使えるの今年が最後だから、遊び尽くさなきゃ」
「なるほど。それは大事だ」

 河合さんが楽しげに計画しているのを見ると、少しだけ心も踊る。しかし心のどこかがずっと冷静なままだった。
 どれだけ面白いことでも、楽しくても、そこに佐伯はいないのに意味はあるのかという疑問が覗いてしまう。こんな考え方はよくないとわかっているのに。
 このままもやもやした気持ちを抱えているのがいいとは思っていないけど、だからって忘れたくもない。佐伯のことをすっかり忘れて楽しくすごしている自分になりたいとは思えなかった。

「桐谷は大学生になったらやっぱり遊ぶ時間増えるのかしら」
「え? あ、ああ、どうだろうね?」

 河合さんは窓から外を眺めながら呟くように言った。
 身近に大学生なんて裕子さんくらいしかいないし、他に年上の知り合いはないから実際の大学生の生活なんてものは全く馴染みがない。
 テレビとかで飲み会だとか遊んでるイメージはあるから暇なのかなと思わなくもないけど、まあ学校によるだろうけど。
 理系は忙しいとか漠然と聞いたことはあるな。

「暇だったらわたしを遊びに誘ってもいいからね」
「そ、それはどうも……」
「合コンとかは嫌だから呼ばないでね」
「そ、それは俺も嫌だよ……」

 河合さんの方を見ても、白いほっぺと覗いた睫毛がちらりと見えるだけで表情は全くわからない。

「だから、桐谷が元気になれるときに元気になればいいからね」

 おかしな日本語に、少し声に出して笑ったら、もう、とふくれっ面で睨まれた。
5/14ページ
スキ