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9章

 帰るなり、家に入らずに玄関前に鞄と上着を置いた。
 坂を下に降りて、折り返してまた上がっていくのを繰り返せば十分だ。速さもスタミナにも自信ないし、はりきった割に一往復で力尽きそうだな。
 とにかくまず走る。下り坂のせいか走り始めは思ったより足が軽かった。
 春休みで体が鈍っていたし、元々ない体力がさらに落ちていただろうに、こんなことをして、明日から朝早くに起きて学校に行かなければいけない、授業だってはじまる。何をやっているんだろう。
 門の手前で折り返す。あんまり入り口に近づくと通行人に見られるかもしれないし。
 すでに息は上がっていたが、それでもまだ限界ではない。
 体が熱い。久しぶりに動いて汗を流している気がする。
 もし誰かが見たら相当間抜けな姿なんだろうな。陸上部の練習かなにかくらいにしか思わないのかな。走り方、やっぱり下手なのかな。
 顎から汗が落ちた。目がしばしばした。
 佐伯、なんであいつがいないんだろう。
 なんで俺以外のやつはこんなになってないんだろう。
 俺はどうすればよかったんだろう。
 どうすればこんな気持ちにならなかったんだろう。
 今何ができるんだろう。走ってる暇なんてないはずなのに。
 まったく知らない土地で、佐伯はどうしているのか。
 もう俺は知ることはできないんだろうか。
 どんな風に生きて誰と出会って何を感じたのか、もうわからないのか?
 今まであいつがどんな風に生きてきたのかだって、まだ聞き足りなかったのに。
 意味わかんないだろ、それ。
 死んだみたいだ。生きてるのに。生きてるのにもう話せないし、会えないなんて、死んでるのとなにも変わらない。実際に死んだって、わからないんだし。
 そんなのってないだろ。嫌いなやつなんていくらでもいるのに、なんで一番好きになった奴とそんな風にならなきゃいけないんだ。おかしいだろ。

「うううぅぅう~~~」

 走りながら、情けない声が勝手に口から出てきた。生まれて始めての経験だった。
 いつの間にかあたりは真っ暗で、足下も見えない。
 息が上がって、むせそうになった。汗だくで暑いのに頭が冷たくなっている。酸欠状態になりかけている。
 何度目かもはやわからなかったが、坂の一番下にたどり着いたとき、目の前がぱっと明るくなった。門が開く。

「……流くん?」

 止まった車の運転席から出てきたのは父だった。そりゃあそうだ。こんな時間に客なんてこない。
 膝に手をつき、肩で息をするがいくらやっても落ち着きそうになかった。言葉がまったく出てこない。喋れそうにない。

「どうしたんだい、なにかあった?」

 喋ろうと思ったが、口は酸素を吸うためにしか機能しないようだった。ぶんぶんと頭を振る。
 父はどうしていいのかわからないようだった。俺だって自分をどうしたらいいのかわからないのだ。恥ずかしいところを見られたはずなのに、それどころではなかった。息をして、酸素を送るのに必死だった。生きようとすることだけにしか頑張れないようだった。
 ただ父に言われるがまま助手席に乗って、家まで乗せて貰った。何も言われなかったし何も言わなかった。

 帰るなり真っ先にシャワーを浴びた。足が重たくて、すぐに寝たかったけどさ。
 それでもなんだか、すっきりしたような気がした。もう疲れ果てて考えるのに飽きたのかもしれない。
 もう俺はたくさん考えた。うん。
 ほんの少しだけ夕食を口にして、あとは寝た。
 母も父も何か聞きたげではあったけど、俺は久しぶりにさっぱりと、割と明るく振る舞えたと思う。そのせいか、何も言ってはこなかった。
 大丈夫だ。自分でなんとかできる。
 平気だ。

---

 四月中、学校生活は少しばたばたとしていた。通常の授業がはじまりつつも、掃除の場所分けとか、委員会の決定だとか、ちょこちょことHRが挟まった。もちろん健康診断もあったし、身体測定もあった。4cm伸びていた。そこからゴールデンウィークを挟んで、ようやく落ち着いていつもの学生生活に戻った。
 俺たち三人は別のもう三人と共に教室の掃除担当となった。三人だけの掃除場所というのはなかったのだ。残りの三人は女子グループだ。彼女らは比較的真面目な子たちで、河合さんに対しても強く当たるタイプじゃない。割と安心できそうだ。和泉は少しやりにくそうだったが。
 まあ、黙々掃除していればいいのだ。邪魔するような相手でなければ俺は誰でもよかった。
 最初のテストも上々だった。
 学校のレベルが低すぎるのだろうか。レベルの低い場所で高評価を貰ってもしょうがない。やはり予備校などに通うべきなんだろうか。
 しかし正直俺はテストで高得点をとりたい、成績を上げたい、学校に合格したいという目的で勉強をしているわけではないので、どうにもノリがあわない。どうやら、ゲームや競争のように成績を伸ばす楽しさを見いだしているらしいが、俺にはよくわからない感覚だった。知らないものをきちんと自分の中に入れておきたいだけなのだ。結果的に同じことでも、動機がピンとこないやり方は、正直温度差がなかなかきつい。
 多分明確な目的がないからだろう。この学校に合格したい、というのがあればいいのだが……とりあえず、ある程度のハードルがあり俺でも狙えるのはここかな、という意識しかない。野心とか、そういうものが足りないのかもしれない。
 反対に和泉はそういうゲーム感覚で自分を成長させるのが性に合っているようだ。その上はっきりとした目標がある。学年があがり、新しい単元に入って仕切り直しにもなったのか、授業にきちんとついてこれているし。わからなかった部分を俺に聞いてくるが、それもきちんとわかる部分とそうでないところをわかっているようだった。去年はどこがわからないのかもわからない、というレベルだったのに。
 それに和泉は最近英語を母親に習っているらしい。俺は勉強の英語しかわからないから、そちらのほうがずっと実用的だろう。
 河合さんは相変わらずの様子だ。二年の頃とさして変わらない。受験だって関係ないし、ただ和泉につきあっているせいか少しだけ成績は上がっていると思う。

 三年になってからは毎日河合さんと一緒に帰っている。
 基本的にはどこにも寄らず、ただバスに一緒に乗るというだけだけど。
 まあ、佐伯と親密になる前に元通りだ。
 さすがにもう泣きはしなくなっていた。思い出すとため息はでるが。
 親が死んだっていずれは立ち直るんだ。そういうものだよな、とは思う。
 それでもまったく思い出さない日がくるとはまだ思えない。
 年月が経ったら、あんなこともあったよな、くらいになるんだろうか。過去の恋愛が黒歴史になる人もいるようだが……俺も自分を客観的に見ると、なかなか恥ずかしいし痛々しい行動をたくさんした自覚がある。それでも人生の汚点になんか、なるとは思えないんだけどな……。
 ああでも、佐伯がなんであんなきもい男と付き合ってたんだろうと思ってたら、ちょっと納得はいくかもな。俺だって俺みたいな奴とは付き合いたくない。気が利かないし、鈍感だし、理屈っぽいし、面白くないし、女子に慣れてなさすぎる。
 もし、もしも将来、どうにか佐伯に会えるときが来たら。そんなとき、こんなやつと付き合ってたのか、なんて思われない人間になりたい。
 また好きになってもらえるようになりたい。もしかしたら、万が一再会できても、そのときには佐伯には他にいい相手がいるかもしれないけど。いや、その可能性の方がずっと高いよな。あいつはいい奴だし。
 それでも、ちょっとはまともになったと思われるような、そんな風になろう。もしいい思い出になってても、消したい過去になっていても、恥ずかしい思いはさせないくらいには。
 うん、それだ。どう転んでも、何も悪いことにはならないだろう。
 今までは保身とか、人の目を気にして躊躇していた行動も、そう思えば怖くなくなりそうだと思った。
 少しはまともな人間になろう。
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