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挿話

「友也くん、最近ご機嫌だねえ」

 裕子に指摘され、卵焼きを食べながらへへへ、と佐伯は笑った。

「あ、これ味薄い。オレなにか間違えちゃったかな」
「あれっほんとだ。お塩入れ忘れたんじゃないかな? あたしも一回やったことあるよ」

 お塩? と佐伯はオウム返しに呟いた。

「お砂糖足りないんじゃなくて? いつものはもっと甘いよ」
「そう思うでしょ~? でもねー、お塩が入ってないと甘さって引き立たないんだよねえ、面白いよねえ」

 へえー! と素直に感心する。
 近頃、裕子が帰宅している日はちょこちょこと料理を教わっていた。別に女になったからとそれっぽい趣味に目覚めたわけではない。今までは教わる機会などなかったのだ。人が料理をする光景というのはそれほど馴染みがあるものではなかった。

「甘みはお砂糖がっつりいれなきゃなかなかわからないけどね、お塩ってちょっとだけでぐっと変わるんだよね。入れすぎ注意だけど」

 裕子の話を聞きながら、佐伯は残りの卵焼きをお腹に納める。失敗作は自分で処理しなくては申し訳ない。
 もし自分一人だったら、次の卵焼きは砂糖漬けのような有様になっていたかもしれないと考えながらお茶で流し込んだ。

「でもよかった、友也くんが元気になって」

 しみじみと裕子は繰り返す。
 実際、佐伯の精神的な部分は最近かなり安定してきていた。

 あれ以来、先輩は週に何度か佐伯の部屋を訪れるようになっていた。
 寝不足で寝坊しそうになったり授業中眠ってしまうのは問題だったが、人が自分と向き合ってくれる時間があるというのは佐伯の精神的な支えとなっていた。
 ちょっとした愚痴や悩みも、先輩は毎回耳心地のいい返答ではぐらかす。解決にはならないが、少なくとも下手な考え方をして後ろ向きになることを防いでくれるのは佐伯の心を守るのに十分だった。思考停止を誘発するのは佐伯にとって有益だった。
 もちろん心から自分のことを大事に思ってくれているわけではないというのは、佐伯にもわかっていた。
 カップル割引としっかりかかれた二枚組の割引券を寄越したのは先輩だったし。
 気になる子と行けば、と言われたし。
 残念ながら甘いものは特別好きではなかったが、貰えるものは貰っておく主義だ。

(吉田あたりにあげれば……あれ、彼氏と別れたんだっけ。まだだったかな。うーん……)

 誰なら有効活用してくれるだろうか。
 休み時間、女友達との談笑を抜け出し教室をぐるりと見渡す。すると教室の後ろに難しい顔をしている桐谷を見つけた。

(そーだ! 桐谷、前河合さんとスイーツ食べに行きたがってたじゃん!)

 名案だと思った。それに桐谷に感謝されるのはとても気分がよくなるだろうと確信していた。彼に何か世話を焼いてやれる機会などそうない。
 軽快な足取りで駆け寄る。桐谷は何を考えているのか、気付いていないらしい。彼の驚く顔を想像して、わくわくと胸が踊った。

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 じくじくと、胸がかさぶたができているかのようにうずいた。
 どうしてだかスイーツビュッフェには桐谷と自分がいくことになっていた。
 誘われた瞬間驚いて、うまいリアクションができなかった。
 それから嬉しいような気持ちがふわっと沸き上がってきて、それが重たい石に下敷きにされたかのようにしゅんとしぼむ。
 むずむずとした。
 桐谷のことなどすっぱり諦めきったつもりでいたはずなのに、こうして誘われると喜んでしまう自分に戸惑っていた。
 そうして、そんな自分に気付くと途端に冷や汗をかくような気分になったのだ。
 まるでようやく自分の罪を自覚したような、そんな感覚。
 自分と先輩との関係を桐谷が知ったら、きっと強く叱責するだろうと、佐伯は桐谷の普段の行動からよくわかっていた。
 正しいことを正しく扱う人である。悪いことは悪いと言える人である。
 自分はあまり、言えない。相手の事情とか、自分が果たして人を責められる立場にあるのかとか、そういうことを考えてしまう。だからこそ桐谷の性格の鋭さをよく知っていた。
 言葉は優しいけど、傷つけることを恐れて間違ったことを良しとはしない人だ。
 おそらく軽蔑されるだろうことを、自分はなんの抵抗もなくやっていたのだとそこでようやく自覚したのだ。
 だからといって、桐谷の機嫌を取るために先輩との付き合いをやめて、果たして自分にメリットはあるのだろうか。第一、嫌だといって関係が断ち切れるとは思えない。それどころか、機嫌を損ねたせいで酷くされたらと思うと恐ろしかった。

(もしかして、オレ、詰んでる?)

 しかしだからといって、他にどうできたというのか。

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「よかったじゃないの」

 河合はいつも通りの淡々とした声をしながらも、佐伯の背中をぽんぽんと叩いた。
 そんなに嬉しそうな感情が漏れていただろうか、と自分の頬を触れる。照れくさくて口を噤んだ表情なのがわかった。

「べ、別に、いいとかそういうのないけどさ。最初は河合さんと桐谷がいけばいいんじゃないかって渡したんだよ。ほんとにオレでいいのかな……」
「わたし、今月もう500円しかお小遣いないわよ。ビュッフェなんて贅沢なところ行けないわ」

 河合さんとなら、奢ってあげる気がするんだけどな、と佐伯は思ったが、かといって河合がそれに乗っかるとも思えなかったので黙った。
 桐谷に言ってみようか。奢ってあげれば一緒に行けるかもよ、と。きっといつか河合を誘って行きたいのだろうと思うから助言は必要だろう。

「とりあえずわたしをあてがっておこう、みたいな扱いよしてよね」
「そ、そんなつもりないよ~! 桐谷にとって河合さんは特別なんだよ。だって唯一仲良い女の子なんだから」
「あなただって今はそうでしょ」
「……今はね。でも女の子として仲いいわけじゃないし」

 ふうんと、河合は興味なさげに答える。
 河合はじっと話を聞いてくれるし、ずばずばと言いたいことも言ってくれる。そういう相手は佐伯にとって貴重だった。
 特に河合の意見はそれほど吟味された内容でないのもいい。あんまり手を尽くして相手をされると、気を遣って相手の意見に合わせてしまうからだ。それ以上の愚痴が言えなくなってしまうし、せっかく大事に考えてくれた意見を無碍にはできなくて、反論もできなくなる。

「でも、最近桐谷はオレの心配ばかりしてくれてるでしょ。それなのに休日も顔をあわせるなんて、申し訳ないよ」
「佐伯と行くっていうのは本人の申し出でしょ? 余計なお世話よ、そんなの」
「そう……そうかなあ」
「そうよ」

 河合の考え方は単純で気持ちがいい。
 普段は自分が河合に人との付き合いを教えていたというのに、すっかり立場は逆転していた。
 河合は多くの相手とそれなりに渡り合うということがうまくできないが、それはやり方をまだ知らないだけなのだ。その代わりに大事な相手との向き合い方は心得ている。きっと家族とか、そういう近しい人ときちんと関係を築いてきたからだろう。
 佐伯はどうだっていい相手にそれなりに気に入られることはできたが、大事な相手をうまく大事にする方法がわからなかった。
 だって、人を大事にして接するということは自分の心の内を明かさないといけない。そうしないと距離は縮まらないままだし、何もわかってもらえない。しかしそれはとても恐ろしく勇気のいることなのだ。真似できるとは思えなかった。

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 携帯のバイブで、はっと現実に引き戻されたような感覚になった。
 桐谷に断りを入れて道の端に寄って通話にでる。

『あれ? 外?』
「あ……うん……友達と遊びに出てて……」

 気持ちがどんどんと沈んでいくのを感じた。
 もしこの内容を桐谷に聞かれたら、そう思うと怖かった。そして聞かれたくないことをしているのだと自覚させられる。
 先輩が来る日は大体決まっていた。兄が夜勤の仕事をしている日だ。同じ職場でバイトしているらしく、自分より先輩の方が兄の予定には詳しい。
 もう嫌だと断って、和泉の家に引きこもったら、そのまま縁は切れるのだろうか。それはそれで悲しい気もしてしまうのがあまりに自分勝手で虚しくなる。
 決して自分のことが好きで一緒にいてくれるわけではないのだとわかりつつも、自分が断ったことで傷つくのではと思うと、やはり言えなかった。思い上がりだとわかっているのに。
 いくつかの優しい言葉に返事をする。
 そうしていくうちに、頭が冷えていくような感覚がした。
 たとえここですっぱり関係が切れたところで、今までの行動がなかったことになるわけではない。そもそもこういった軽薄な経験があるというだけで嫌がる男は多いだろうと思う。それなら、もはやなにも変わらないのだ。どう取り繕うとしたって、純真で綺麗な女の子にはもうどうしたってなれないのだ。そう考えると、あとは楽だった。
 今更媚びを売って相手の反応に喜んだって、万が一桐谷が今より自分のことを気に入ってくれたって、打ち明けられない行動をして隠し続けるなんて、そんなの騙しているようなものじゃないか。
 いくら隠し事が得意だからって、そんなことはしたくない。そう思えば、諦めがついた。

「お待たせ~」
「彼氏ほったらかして誰からの電話よ」
「えっ? なにそれえ、一回デートしただけで彼氏面?」

 くすくすと笑う。
 自分らしく振る舞えているような気がした。
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