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2章

 佐伯は、へへへ、と誤魔化すような、照れくさがるような笑い方でパンを持って俺たちの輪に入った。
 昼食時、俺と和泉と河合さんはいつも一緒に食べるが、佐伯は大体二、三日に一回という頻度だ。
 学食を利用するときもあるし、他の友達に誘われたらそっちを優先する。もちろん俺たちが誘えばそっちは断るだろうけど、俺たちはわざわざ一緒に食事しようと約束するタイプでもないからだ。
 しかし佐伯は女子たちに、まるで転校生のような人気っぷりだったが、ごめんねと約束があるていで断ってこっちにきたのだ。「おまたせ~」とか言って。別に待ってないのに。なんて意地悪なことは和泉も河合さんも言わない。
 ……まあ、幼馴染の和泉がいるせいか、河合さんが他の女子とは雰囲気が違うせいか、数少ない男友達だからか、佐伯は俺たちには他の女子たちより心を開いてくれてるんじゃないかと、勝手に思っている。

「もうすっかり馴染んでんじゃん。お前はこれからも元気にやってけるよ」
「やめてよ〜、みんな気を遣ってくれてるんだよ。今だけ今だけ」

 和泉が茶化す。確かに妙に女子たちが親しげにしているのは、佐伯を励まそうという雰囲気なのかもしれない。
 性別が突然変わってなんともない人間なんていないだろうし。

「早く戻るといいわね」

 河合さんは、ことの重大さがわかってないような呑気さだった。

「なんか変わったこととかあんのか? 体調とか」

 和泉は務めていつも通りの口ぶりで尋ねた。
 幼馴染だけあってか、女嫌いがあってか、他の男子どもとは接し方が全然違う。
 最初こそ佐伯の女っぽさに動揺していたが、もうすっかり今まで通りの和泉だった。佐伯の姉であるリサちゃんにそっくりだからもう慣れた、と和泉は言っていたけど。

「それがさ、そんなに違和感はないんだよね。身長が全然違うから、そこはすっごく変な感じなんだけど。小人になった気分。でも体は思ったより普通かも。あ、でも走ったりすると体が重い感じするかな」
「へえー。筋肉量とか体脂肪率の違いかな」

 胸が揺れたりだとか、そういう感覚はどうなんだろうか……。す、すごく気になる。揺れるほどなさそうだけど。
 見たところ、佐伯はだいぶスレンダーな体つきのようだ。姿勢や服のせいもあるだろうけど、全体的に細い。まあこれは元からか。

「あ! でもね、目は良くなったよ!」

 ん? と全員で疑問符を浮かべた。大発見と言わんばかりの声だった。
 確かに佐伯は目が悪くて、授業中はいつもメガネをしていた。普段は裸眼のようだからそれほどひどいわけでもないのかなと思っていたけど。

「性別が変わるのと視力が良くなるのって関係あるのかしら」

 河合さんが首を傾げる。子供っぽくて可愛い仕草だ。
 そうだ。確かに骨が縮んだり、内臓が変わったり、筋肉量が変わったりするのはわかるけど、視力はまた別の話じゃないか? 一体この変化というのがどの範囲にまで及んでいるのか、それってかなり重要なことじゃないだろうか。

「……でも脳はそのままなんだろ。記憶は引き継がれてるわけだし」
「え、何? 怖い話?」

 俺が口を挟むと佐伯が身構える。怖い話じゃない。お前の話だよ。
 脳は無事だけど他が変わる、そんな器用なことができるのか?
 でも確か、脳にだって男女差があるはずだ。体に司令を出すのも脳なわけだし、片方にない器官への司令も、もう片方の脳じゃないと出せないのではないだろうか。ホルモンを出す司令とかも脳だろ。じゃあやることはだいぶ違うじゃないか。
 ということは、体に合わせて脳も作り変わらなきゃいけないわけで、体に問題が起きていないということは、佐伯は脳も変わってしまっているんだろうか。
 だとしたら記憶や性格がそのままなのはおかしいのではないだろうか。

 いや、記憶が脳だけに保存されるという考えも間違ってるのか?
 人の体を乗っ取る、入れ替える、といった事件が何度かあったような気がする。詳細は調べてみないとわからないけど。
 意識が人の体を乗っ取って、その体の脳の記憶で行動するなら、それは乗っ取れているとは言い難い。乗っ取られた人に戻るだけだ。乗っ取った側の記憶があるからこそ乗っ取るということが証明できたんだし、意味があるのだ。
 ということは記憶は意識自体にもある?
 ……話がどんどんずれてきた気がする。そもそも俺が「脳はそのまま」ということに触れたからこうなったんだ。
 つまり「そのまま」ではないということだ。
 視力が良くなった、というのは改善したわけではなくニュートラルに戻った、ということなんだろうか。だとしたら脳も?
 その場合何を基準にするんだろうか。年齢によって、経験によって脳の発達は違う。それまでの積み重ねによって変わるはずだ。
 視力がよくなったのなら、もし何か病気を抱えていたらそれも治っていたのだろうか。
 もし、男の姿に戻ったら、やっぱりまた目は悪くなるんだろうか。なるのかな、やっぱり。だって元の状態に戻れないのであれば、それは戻ったとは言えないわけだし。

 うーむ……。気になる。だが俺にはこれ以上調べようがない。MRIなんかを撮ってもらうしかないけど、でも男だった時のデータがないと比較もできない。

「なんだかオレより桐谷の方が悩んでるね」
「お前ももうちょっと深刻な顔してよ」

 いや、これは嘘だ。佐伯はあっけらかんとしている方が絶対にいい。
 正直女になってから、笑顔も見せるがずっとやんわりと悲壮感というか、少し落ち込んでいるような気配が漂っているのだ。
 多分クラスの女子たちはそれを感じとって佐伯に気を遣うんだろう。
 そっと河合さんが身を乗り出す。

「佐伯、何か困ってることとかない? 他に助けてくれる人、いっぱいいるでしょうけど、何かあったらわたしに相談してくれてもいいのよ?」

 優しい……。
 確かに、女子ならではのルールとかマナーとか色々あるだろう。足を開いて座らない、とか。

「あ、うん。他の子もね、そう言ってくれたんだけど、いつも大人数でいるからこっそり相談とかってできなくて、実は困ってたんだ。河合さんなら相談しやすいかも」

 まあ、確かに。
 クラスの女子たちは佐伯を気遣ってるのはわかるけど、新しいおもちゃを見つけた、みたいな雰囲気も感じなくもない。
 ちなみに、佐伯は現在教員用のトイレを使うことになっている。着替えもそこだ。
 対応が早いのはいいことなんだけど、周りより本人の方が変化について行けてないように見える。

「あのさ、下着をね、買いに行かなきゃいけないんだ。でもサイズとかよくわからなくて……」
「ああ、なるほどね。別にオシャレなやつが欲しいわけじゃないわよね? 帰りに買いに行きましょ」

 そんな話されると男は口を挟めない。
 もしかして、河合さん御用達の下着屋さんに行くのだろうか。ちょっとだけ佐伯が羨ましい気がした。そんなこととても口には出せないけど。

「つーかお前、親父さんはなんて言ってんの?」

 女子同士(?)の話し合いに口を挟んだのは和泉である。
 確かに、家族の反応は気になる。メールでは喜ばれたって話だったけど。どんな親だよ。
 佐伯はううーんと笑いながら困った顔をした。

「リサちゃんにお願いして、一緒に電話で説明してもらったんだ」

 どういう説明をしたのかはわからないが、それでなんとか信じてもらったらしい。
 
「なったものは仕方ない。だって。それに親父は娘の方が嬉しいらしいから……、まあいいじゃんみたいな感じで、オレより受け入れてるっぽかったよ」

 本当に、どういう親なんだ。

「服とかも一から揃えなきゃだから、それ用のお小遣いもくれたし……、学校には原因不明の病気って説明したみたい。本当は診断書みたいのがいるみたいだけど、でも女に変わったことは事実だから、そういう部分はあとあとっていう風になったんだ。休学とかも勧められたけど、いつ治るかもわかんないしね」
「病院は?」
「明日親父が知り合いの病院に予約入れてくれたから行ってみるけど、ちゃんと診てもらえるのかなあ……」
「保険証と性別違うわけだし、別人だと思われて受付で突っ返されんじゃねえ?」

 そこなんだよな……。
 体の構造まで変わってしまったとしたら佐伯を佐伯だと証明する方法がないような気がする。
 たしか身元不明の遺体は歯形だか、虫歯の治療痕とかで判別するらしいけど……、歯型はもちろん顎の大きさに合わせて変わっているはずだし、虫歯はもともと0だそうだ。羨ましい。
 しかしだからといって性別が突然変わったのをホイホイと受け入れられても、それはそれで全くの別人が悪意を持って入れ替わってても気づかれなさそうなのは、この国の治安が心配になるし……。
 和泉もそのあたりが気になるらしい。きょとんとする河合さんの隣で顎をじっくりと触って考えている。顎髭なんて生えてないのに。

「友也、今日おれん家に帰れよ」
「え」

 和泉の住んでるアパートに!? 和泉は親戚である同級生の男と一緒に二人で暮らしている。
 二人とも幼馴染とはいえ、男二人の部屋に呼ぶって、どう考えても怪しすぎる。さてはエッチなことする気だな!?

「お前んち男兄弟多いし、リサちゃんもあんまり面倒みてくれるタイプじゃないじゃん。うちはお母さんも妹もいるし、そっちの方がお前も気楽だろ。構いたがりだから気も紛れるだろうし」
「そりゃあ、おばさんたちとの方が仲良いけど……」

 ああ、実家の話か……。
 それにしても、実の兄弟より幼馴染の家族の方が安心するのか。

「でも……流石に、びっくりするだろうしなあ……。優しいから、心配かけたくないよ」
「どうせ近所に住んでたらそのうちバレるだろ。こういう時は周りに人がいた方がいいんだよ。悩んだってしょうがねえ」

 お。ちょっと感動した。
 和泉がちゃんと佐伯を気遣っている。
 二人の関係は腐れ縁という感じで、あからさまな仲良しという感じではない。
 俺と河合さん以外交友関係も全く被らないから、いつも付かず離れずという距離感だと思う。二人がしっかりしてるっていうのもあるけど。
 だからなんだか新鮮に思えた。

「……裕子さんは……今帰ってる?」
「姉ちゃん? いや。特にそんな予定はないけど」
「……そっか。うーん……じゃあ、お邪魔しようかな」
「おう。そんなら今日はおれも一旦家に行くかな。びっくりするとこ見たいし」

 なるほど。裕子さんのことが気がかりだったのか。
 やっぱり、好きな人にこんな姿は見せたくないんだろうな。
 うーむ。女に変わったのが俺だったら……。
 河合さんに見られても、そんなに気にならないかな。むしろ心配されて構ってもらえるとしたら役得だ。
 その上女湯に入り放題だとか、そういう妄想ばかりしてしまうのは今男の体だからだろうか。
 でも女っぽい意識になるわけじゃないなら、佐伯だって中身が男のままなら、そういう方面で気持ちを明るくしてくれればいいんだけどな。
 やっぱり、当事者になるとそれどころじゃなくなるんだろうか。
 全く、うまく回らないな。

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 翌日佐伯は検査を受けるため学校を休んだ。
 検査結果が気になった俺が家に帰ってからメールをすると、すぐさま電話がかかってきたのである。まるで待っていましたと言わんばかりに。

『聞いてよ桐谷! もうサイアク!』

 電話越しだともうただの女の子である。喋り方は何一つ変わっていないのに、知らない女子と話しているような錯覚に陥ってしまうのを必死に誤魔化した。
 そして佐伯のぎゃんぎゃんと喧しい嘆きがはじまったのである。ちょっと珍しい姿だ。
 どちらかというと相手に喋る隙を与える話し方をするタイプの男だ。俺は自分の喋りたい内容があるとひとまずそれを伝えようとするわけだが、それはどうも会話ではなく主張であるらしい。おまけに口振りが気の弱い相手であれば反論の余地を与えないのだという。そんな横暴な振る舞いをしている自覚はないのだが、佐伯曰くそうなのだ。
 そもそもの話の組み立て方が、佐伯とは違うのである。ただ今回はそんな気配りをする余裕はないようであった。文句をひたすらぶちまけていた。

「……ま、まあ、でも、相手は医者だからさ」
『そんなのわかってるよ! わかってるけど、わかってるけど、でもオレだって自分の体のことわかってないのに、それを他人があんな……うわあんもう嫌だよ! 痛かったし! 今も痛いし!』
「そ、そうか……大変だった、ね……」

 俺が気を遣うしかないなんて相当だぞ。
 話を聞くと、病院ではその日できる限りのあらゆる検査をしたんだそうだ。身体測定に、血液検査、MRIなどの画像診断。あと記憶力とか、メンタル系のテストも受けたらしい。何がなにやらわからなかったそうだが。
 そのうち一番堪えたのが婦人科系の検査だったらしい。内容を聞くと、なにもそこまでやらなくとも……と俺ですら思ったのだが、まあ、体が変容したのだとすると痕跡が残りやすい部分でもあるのだろうし……。誤魔化しようがない部分ではあるし……。
 そうして結局、どこをとっても健康な女の子だという結果が出たんだそうだ。

『もうお嫁にもお婿にも行けないよ……』

 たしかにお婿は今ちょっと無理かもしれない。

「で、でもよかったじゃないか。ひとまず病気って線はなくなって……」
『よかった? よかったのかなあ……。だってこれじゃオレがどんなに男です! って言っても誰も信じてくれないじゃない』
「病気だったら治るかどうかはわからないけど、そうじゃないとすれば男が女に変わったように、女が男に変わる可能性だって十分あるだろ」

 そう、体がぐねぐねと形を変えたわけではないのだ。そんなだったらもっとわかりやすい体調の変化とかあっただろうけどさ。

『それじゃあオレの今の体は誰の物で、オレの男の体はどこにあるのさ』
「そ、そんなの俺がわかるわけないだろ」

 そう言われるとちょっと困る。性別が変わったとはいえ佐伯の体はちゃんと佐伯としての特徴を残しているのだ。それはおかしなことのように思えた。
 兄弟というには似すぎている。双子と言われたら納得するかな。一体どんなことができる能力であればこういう結果になるのだろうか。遺伝子を書き換えるとか? でもそれだけでたちまち体の体積が変わるわけはないのではないだろうか。

「お医者さんの見解はなんて?」
『医学じゃわからないって。なんの変哲もない健康体だって。おそらく能力者によるものだろうって言われたけど、オレの体を調べてもその能力についてはわからないんじゃないかって言われたよ。一応検査結果をセンターってとこに送って見てもらうって言ってたけど……』

 ふうーむ。たしかに、能力者本人を調べない限りはわからないことだろう。
 俺が服を着たまま宙に浮いたとして、その服をあとで調べても持ち主が能力者であるかなんてわからないのだから。
 佐伯本人の自覚していない特殊能力によるものであればすぐに結果はわかるだろうけど。
 病院で特殊能力自体に関する検査というのは最低限しかできない。本人の能力がどの程度あるのかというくらいだ。能力のせいで怪我や病気をしたというとき、それが能力の影響であるという診断を下すために専門の人はいるものだけど……。
 佐伯の言うセンターというのは特殊能力専門の研究とか検査とか、能力がうまく扱えずに健康被害が出てる人に対する病院的な位置づけの施設である。
 どちらにせよ、能力者本人がいない今回の場合は役には立たないだろう。

『ほんとにオレ、元に戻れるよね……?』

 佐伯の声は小さく、震えている気がした。こんな風に弱音をこぼすのは佐伯らしくない。裕子さんに関するときくらいなもんだ。
 こういうとき、どういう風に声をかけるべきなのかわからない。確証もないのに、戻れるに決まってるじゃん、というのは誠実じゃない気がして、でもどうだかわからない、なんて言うと落ち込ませるだけだ。
 こういうのは和泉や、佐伯本人の役目なのだ。俺じゃない。でも今は俺しかいないのである。

「……犯人見つけたら……」
『……うん』
「……そしたら俺を女にしてもらって、佐伯におっぱい揉ませてやるから、元気だしなよ」
『…………バカ?』

 す、すいません……。
 やっぱり俺には無理だった。
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