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挿話

 桐谷は異性に対してとてつもない壁のようなものを感じているようだというのは、知り合ってすぐにわかった。
 まるで別の生き物かのように思っていて、理解してもらうことも理解されることも一筋縄ではいかないことなのだと思いこんでいるようだった。そういう男性は決して少ないわけではないと、佐伯も感じていた。
 好奇の目で見ればそれは当然女性側にも伝わるわけで、警戒されるに決まっているのに。
 しかし桐谷は決して女性を敵視しているわけではない。ただどう扱っていいのかわからず、萎縮してしまっているのだ。そしてその分並々ならぬ興味を抱いていることもよくわかっていた。
 女性の体になってしまって、いの一番に桐谷に助けを求めたわけだが、そのときも自分の体に興味を示していたし。しかしそれは今となっては感じさせない。
 他の男子がからかい混じりに見せろとか触らせろとか言ってくるのとは全く違う。得体の知れない対象としてではなく、佐伯の体として尊重してくれているのだと思った。
 それなら、佐伯が自ら触っていいよと言えばどうだろうか。以前見舞いに行ったとき、桐谷に触ってもいいかと聞かれて半ばヤケクソで胸に触れさせてみたが、その反応はぎこちなかった。
 あれは雰囲気がよくなかったと思う。怒っていると思われたかもしれない。怖がられても仕方がない。
 もっと違う、いつもと変わらないような空気でなら……と、考えた。
 お願いしてみようか。佐伯は自分の性格と、桐谷の性格をよく考えてそう行き着いた。
 そんなことを考えると、体の中に花吹雪が舞い上がるような、そんなむずむずするような気持ちになる。
 未だ生活していく間、急に恐ろしくなったり、嫌な感覚が勝手によみがえってくるような、制御しきれない不安定な感覚というものがあった。そういうとき、大丈夫、と自分を落ち着かせようと考えるのだ。自分を気遣ってくれる彼の姿を。

(上書きしてほしいな……嫌なこと全部……)

 そうすれば、どれほど心が楽になるだろう。でもまるで自分の都合のために彼を利用するようで、もしかしたら傷つけるのではないかという不安も出てくる。
 彼が自分のことを好きになってくれたら、そうすればすべて上手く運ぶのだ。しかし人に好かれる方法なんて知るわけがなかった。
 もしかしたら、という希望のようなものを頼りに、自分の家に誘ったのだ。
 もし、女性として見てくれるなら、魅力を感じてくれるなら、その可能性はまだ残されていると思った。そうして、邪魔の入らない場所でお願いすれば、もしかしたら。
 玄関の前で桐谷を待たせて、早足に階段を上る。鞄を下ろし、ハンガーにかけられたままだった服を何枚か取り出し、鏡の前に立つ。
 女友達や裕子や和泉の母なんかがあれが似合うこれが似合うと、何度も服屋に連れ出されては買って貰ったり、もう着なくなったという服を譲ってくれたりしていたため、十分な服が揃っていた。しかしそのどれもが、自分では似合ってるかどうかなどわからずに着られないでいた。
 出かけるわけではないし、あまり派手なものは違うだろう。柔らかく、シンプルなニットを手にする。

「スカート……スカート、変かな。でも……」

 男からしたらズボンよりスカートの方がいいだろう。女性らしさとか、そういうものを感じて貰わなければいけない。黒のミニスカートを選んだ。
 何度も吟味して、組み合わせを考える。人を待たせているのに、こんなに身なりを気にしたことなどなかった。
 服のことは全くわからなかったから、とにかく奇抜でないようにシンプルなものを選ぶ。
 髪を手ぐしで整え、まじまじと自分の姿を見た。

「どうせなら河合さんみたいな美人になれればよかったのにな」

 どうしたってその顔立ちからは、以前の男の自分の面影が抜けなくて、がっかりした。自分の顔は、あまり好きではない。見慣れた自分が好きじゃないのだから、他の人はもっと変な顔だと思うだろう。佐伯はそんな考えを小さな頃から抱いていた。
 今になって、どきどきと高鳴り、緊張する体を押さえ、覚悟を決める。
 これで、どうにか誤魔化されてはくれないだろうか。可愛いだなんて、思いこんではくれないだろうか。
 そう思いながら階段を下りた。



 学校で会うときのような、興味があちこちに行っている様子とは違い、少し緊張しているのが伝わってきた。
 二人っきりだとか、自分がそれっぽい言葉を言ったせいだろう。
 ベッドで仰向けになり、横に小さくなって座る桐谷を見上げる。ほっぺたの丸みが少しだけ赤い気がした。
 触ってもいいよ、と念じる。
 桐谷の真横には自分の太ももが投げ出されていた。短いスカートが少しだけまくれている。普段だったらこんなのすぐ隠すのだから。
 どのように話をすればいいのか、呼吸を整えながら考える。
 緊張して、パニックを起こしそうな冷や冷やとした焦りを無理矢理押し込める。
 すぐ横の腰に抱きついてしまおうかな、そうしてすうっと息を吸えば、落ち着くような気がした。でもきっと急にそんなことをしては、怖がられてしまうだろう。

「ゆ、裕子さんとはうまくやれてる?」
「え?」

 突然の桐谷の言葉に、どうしてそんなことを聞くのか不思議に思った。
 そうしてしばらくしてから、ああ、と思い出す。彼はまだ佐伯が裕子を意識していると思っているのかもしれない。
 うまくはやれているし、現状で満足できているという説明をする。
 桐谷はあまり納得していないようで、不安になった。
 彼の中では佐伯はもっと男として、裕子のことを思い続けているべきであるようだった。自分は彼の中にある佐伯とは別の存在になっているのかもしれないと、怖くなった。
 それでも、と、勇気を出して切り出してみる。

「あ、あのね」

 頭の中ではどのように言おうかと何度も練習していたのに、実際に言葉にしてみると大変だった。たどたどしく、呼吸がしづらい。
 桐谷は途中で遮ったりせず、じっと聞いてくれた。だから頑張れた。

「あのね、その……違う記憶で薄めるっていうか……う、上書きできたら、思い出さなくなるかなって、思ったんだよ」

 震えた声が情けない。
 自分が言おうとしていることが、信じられなかった。
 じっと桐谷は座って、まっすぐ見下ろしている。その目が嫌悪に変わったらと思うと恐ろしくてたまらないのに、それ以上に受け入れてほしいという欲求が勝った。

「そ、それで……、その……もし、嫌じゃなければ……すっごく、嫌だったら別にいいんだけど……大丈夫だったら、その……桐谷に……付き合って、欲しくて……」

 ばくばくと心臓がうるさくなっていた。なぜだか涙すら出そうで、ぐっと我慢する。自分の本音を打ち明けるのはそのくらい恐ろしく、大変なことだった。

「そんなの、全然いいよ」

 さらりとした桐谷の返答にびっくりして足が跳ねた。

「ほ、ほんと……!?」
「うん、楽しいこといっぱいすれば、嫌なことなんてすぐ過去のことになるよ。例えば……遊園地とか、そういう非日常的なとこに行ったり、目新しいことにどんどん挑戦していけば、きっと大丈夫。いくらでも付き合うよ」
「……えっ?」

 桐谷の反応は、全くもっておかしかった。
 想定していたものとは全然違った。
 一体何を言っているのか理解するのに時間がかかり、段々とその表情や台詞から察する。
 何一つ、自分の意図は伝わっていないのだ。
 自分が期待しているようなことを、桐谷は考えもしないのだ。
 途端に佐伯は、自分が酷く浅ましくて汚らわしい思考でいっぱいなのだと気付かされて、恥ずかしくて消えてなくなりたくなった。
 こんなこと、知られては気味悪がられるに決まっていたのに、自分は脳天気におかしなことを考えていた。
 体ごとそっぽを向いて、うんうんと唸って後悔した。
 桐谷が慌てた声で心配しているのが少し遠くに聞こえた気がした。

 冷静に考えれば、わかっていたことなのだ。いや、前からわかっていたのに、すっかり考えの外にいっていた。
 桐谷の話にはすぐに河合が現れていた。
 そうだ。好きな相手がいるっていうのに、別の相手に迫られたって、はっきり好きだとでも言わなければ考えつきもしないだろう。
 全く自分は視界の外にいたのだ。何を思い上がっていたのかと自分を責める。

 なんだか、胸が痛いようで苦しかった。

「あれ、和泉家に戻んないの?」
「ああ、うん。おばさんたちが帰るまではこっちでごろごろしてよっかなって思って」
「そっか」

 玄関で、桐谷を見送った。どこかぼんやりしたような気持ちだった。
 本当はもう和泉の家族が帰宅している時間だったのだが、一人になりたかった。あそこの人たちは色々と世話を焼いてくれるのだが、うまく返すことができなくて、心配をかけてしまうのが嫌で、距離を置きたいときがあるのだ。
 桐谷が角を曲がったのを見送って自分の部屋に戻る。
 ベッドに仰向けで寝ころんで、ため息をついた。
 誰に見られているわけでもないのに顔を覆う。情けなくて、恥ずかしい。バレなくてよかったと安心した。
 じわじわと視界が歪んでいくのがわかって、鼻がつんと痛くなる。
 文句などはない。ただ残念だった。嫌われなかっただけマシなのに。
 自分の個人的な事情に巻き込みそうになっていたのだから、変にこちらの意図が伝わって気を遣われたり困らせたりせずにすんで良かったのだと自分に言い聞かせる。それなのに、どうしてだか悲しい気持ちが消えることはなかった。
 相手の立場を思えば当然なのだ。向こうからすれば男友達で、一時的に女の体になっているだけ。そんな相手に変な気なんて起こす訳ないのに。それに、今まで何一つだって相手によい行いなんてしてこなかった。心配かけるばかりだ。
 落胆していた。自分のことが一層嫌いになった。
 そうして静かに泣いて、いつの間にかそのまま眠ってしまった。どうせ、和泉家の住人と顔を会わせてしまえば、きっと泣き顔なんて敏感に察してしまうのだ。部屋の電気がついているから、こっちの家にいるのだということはすぐにわかるだろうし、いいやと思った。投げやりな気持ちだった。


 ぼんやりする頭で何かの感触を感じて、ゆっくりと頭が覚醒していった。次第に誰かに触られているのだと理解して、それが優しい触り方だったから、佐伯は桐谷だったらいいな、と思った。そしてそう思った瞬間、これが夢ではないことに気付いて目が覚めた。
 明るい部屋の中、慌てて状態を確認しようと体を起こそうとすると、ぐっと強い力で阻まれる。ベッドの上で、横から男に抱きしめられていることにようやく気がついた。

「……えっ? あ、な、なに……」

 寝起きのため、声がはっきりとでない。
 自分よりうんと太い腕が上半身に回されていて、僅かに身じろぐことしかできない。服が少しまくれあがっていて、そこに触れた男の手が熱かった。
 その顔には覚えがあった。兄の友人のうちの一人だ。

「あ、起きたんだ」

 状況に似合わない、穏やかなまったりしたような声だった。そうだ、兄の友人の中では優しそうだと思ったのだった。他の友人は、うるさく騒いだり、佐伯のことをからかってわざと困らせたりするので嫌いだったが、この人はそういったことには加わっていなかったのが印象的で覚えていた。
 むわっとアルコールの匂いがして、佐伯は顔をしかめる。

「よ、酔っぱらってるんですか……あの……こ、困ります……離れて……」
「まあ、いいじゃない……向こうみんな寝ちゃったからさ……」

 彼の言い分はよくわからなかった。頭が混乱している。服の上から体をそっと撫でられて、身が竦む。

「ま、待って! やだ! こ、怖い。離して……」
「大丈夫大丈夫、上手いってよく言われるし、痛いことはしないよ」

 ああそうだ、と思い出す。こんなとき、男はこちらの意思など聞いてはくれないのだ。全部聞き流されて、意味のある言葉だと理解してくれないのだ。
 身を固くさせて、できる限り身を縮こませる。
 暴れて、果たして逃げられるだろうか。この体格差では難しいような気がした。大声をあげたり、騒いで、兄弟に見られるのも嫌だった。男だったはずの自分がか弱い女性のように振る舞ったら、きっと笑い物にされるだけだろう。
 隙を見つけて逃げ出せるだろうか。佐伯はその可能性だけに縋った。

「どうしたの? 怖がらないで大丈夫だよ、ほら、ここ、くすぐったいでしょ」

 男の触り方は本当に優しかった。体が緊張しているせいか、くすぐったいともなんとも感じなかったが、こちらの嫌がる言葉は聞き入れてくれないのに良い反応を引きだそうと努力を惜しまないような、そんな触れ方だった。

「スカート、珍しいよね。いつもズボンだったでしょ、せっかく女の子になったのに。いいじゃん、可愛い」

 低く穏やかな声で耳元で囁かれて、泣きそうになった。
 それは佐伯が桐谷に言って欲しかった言葉だったのだと、ようやく自覚したからだ。

「ほ、ほんと……? か、かわ、いい?」
「ほんと、超可愛い」

 それが上っ面の言葉だとしても、佐伯が欲しいのはそれだった。

「でも、でも、オレ、男だよ、可愛くなんかないよ」
「だけど可愛いって言われたくてオシャレしたんでしょ? いいじゃん、似合ってるし」

 ああ、この人には自分が言って欲しい言葉がすべてお見通しなのだ。悔しいような気持ちが僅かに残っていたが、でもそれ以上に心が喜ぶのを感じた。
 少なくとも、痛めつけられはしない。あのときとは違う。それなら、十分じゃないか。相手にこだわるような権利が自分にあるだろうか。第一、はじめから純粋な女ではないのだ。好きな人と、なんて贅沢を言える身分じゃない。こんな体、気味悪がる男が大半なのではないか。
 数時間前までの自分を窘めるように、自分を説得するように佐伯は考えていた。
 その感情の変化に気付いたのだろうか、男は佐伯の頭を撫でるように支え、顔を寄せて口付けた。

(前の時は、こんなことしなかったな)

 だとすれば、やはり多少は好意を持ってくれているのだろうか。ぼんやりと都合のいいことを考えながら、アルコールとたばこの苦い味を感じていた。
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