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挿話

 まさか泣くとは思わなかったのだ。
 佐伯は、そっと桐谷の丸い頭に触れた。さらさらと柔らかな髪の感触が不思議だった。
 泣くとは思わなかった。むしろ自分の注意不足を怒られるとすら思っていた。
 第一、自分の異変に気付かれることもないだろうと高をくくっていたのだ。電話があったときは驚いた。
 少し前まで桐谷の頭はすぐ目の下にあったのに、今は少しだけ遠く感じた。

 桐谷たちが修学旅行に行っている最中、殆ど話したこともない別のクラスの男子に告白された。
 そんなのは生まれてはじめてのことで、ほんの少し心が浮ついてしまったのも事実である。
 この世に自分のことをそんな目で見てくれる人がいただなんて!
 相手が誰であれ、それは嬉しいことだ。
 友人からはそこそこ気に入られることは多くとも、自分を一番の場所に置いてくれる人はいなかった。喜びと、同時にそれはやはり自分が女性の姿だからだろうと思いだし、虚しさも少し感じた。
 なんにせよ、嬉しいからと言って急に現れた男を恋愛対象としては当然見られなかった。やんわりと傷つけないよう断っていく内に、ふと彼の発言から引っかかるものを感じたのである。
 話を聞いていく内に、彼が桐谷のいう犯人なのだと早合点してしまった。途中から相手が適当にこちらの話に合わせているのだと、普段の佐伯なら察しがついたはずなのに。
 旅行から帰ってきたとき、元の姿で出迎えたらきっと驚くだろうと、そんなことを考えて、また少しでも早く戻りたくて、必死になっていたせいだろう。
 その犯人と思われた男の無茶な要望に最初は強く抵抗を見せたものの、結局は受け入れざるを得なかった。好きでもない相手と、なんていう個人的な理由しか拒否する理由が見つからなかったからだ。
 それしか戻る方法がないのなら、ほんの少しの我慢だと思ったのだ。もし桐谷がそばにいたらどう言っただろうか。しょうがないと言ったんじゃないだろうか。彼の考え方は、佐伯には想像がつかないものだったから、真実はわからないけれど。

 直前で怖くなって、制止しようとしたし怯える気持ちを必死で訴えたが、聞いてなどはくれなかった。
 太刀打ちできない力で体を押しつぶされるように動きを封じられて、口も塞がれて、そこに自分の意思など何一つ存在しなかった。


 桐谷の表情を見た瞬間、この数日自分の姿を後ろから俯瞰で見ているような気持ちでいたのが嘘のように、自分の体と自分の目で見た世界を実感していた。
 帰り際、カラオケに寄ろうと言われたとき、佐伯は逃げ出したいと思ったことを後悔した。それまで自分のことばかりで、桐谷の感情など考えもしなかったからだ。
 自分はすっかりもう大丈夫であるかのように振る舞ってしまって、心配だってされたくなかった。すべては自業自得だからだ。

(勝手に油断して、勝手に傷ついて、勝手に警戒しているなんてバカみたいだ)

 自分のことで、目の前の人が傷ついたのだとようやく実感できた。

ーーー

 数日かけて痛みもすっかり消えて回復したつもりでいたのに、あれ以来、自分の体や気持ちが自分の管轄外に行ってしまったような気がする。コントロールができていないと頻繁に感じていた。
 眠りにつく瞬間、運動をしたわけでもないのに急に呼吸が乱れてしまったり、ゲームをしている最中いつの間にか全くなにも考えていられなくなって、知らない内に涙が出ていたり。今朝久しぶりに家の前でばったり弟と顔を合わせたときなど、なぜか心が焦って落ち着きなく、おかしな反応をしてしまった。
 自分の心でなにが起こっているのか、自分でも把握できないのが怖かった。
 学校で人といるときは普段通り振る舞えているらしいことが救いだった。

「佐伯、次移動だよ」
「あ、うん!」

 気遣ってくれているのか、最近は桐谷が頻繁に声をかけてくれるようになった。
 その度心が踊るような気持ちになるのを必死で隠す。心配してくれているのに、喜ぶのは申し訳なかったからだ。
 他の男子がすぐそばを横切るとき、ふっと自分の体に力がこもっていることに気付く。その度に申し訳なさだとか、情けなさが湧いてきて悲しい気持ちがぶり返した。

(桐谷は、平気みたい。なんでだろ)

 廊下で別のクラスの集団とすれ違うとき、桐谷と腕同士が触れた。

「あ、ごめん」
「いや」

 なんてことのないこんなやりとりにすら、安心した。

---

「意外とパンの種類多いのね」

 河合は目を瞬かせて購買部のケースに並べられたパンを遠目に眺める。
 珍しく弁当を持ってこなかった河合は、今日は購買にいってみたいと佐伯にくっついてきたのである。

「うちの学校、食堂もそうだけど食べ物結構こだわってるみたいだよ。おすすめはねー、お総菜パンかなー。どれも普通にめっちゃおいしい。まだこんなに残ってるなんて珍しいよ」

 この学校のパンは種類が豊富で人気が高いため、殺到しないように強制的に列を作らせられる。並べられたパンを取っていって最後に会計という普通のパン屋のようなシステムだ。

「じゃあピザパン買ってみようかしら。それとクロワッサンね」
「え! 少なくない? ほんとに足りる?」
「結構ボリュームあるみたいだし、腹八分目には十分よ」

 可愛い子はご飯の量すら可愛らしいものなのか、と佐伯は少し納得した。
 河合がお金を取り出している間にぱっぱと悩みもせず自分の食べたいパンを選びとる。しかしふと途中で手が止まった。
 チョコチップパンがふたつ残っていた。これは桐谷が気に入って、たまに自分へのご褒美だといって購入しているのを覚えている。
 気付いたら手に取り、会計に出していた。

「これ、桐谷食べるかな?」
「あら、自分で食べるつもりじゃなかったの?」
「なんとなく、食べるかなって思って……」

 はあ、と河合は気のない返事をして、佐伯の顔と、抱えられたパンを見た。
 かつてはもっと見上げる姿勢にならなければ目が合わなかったというのに、女性の体になって以降非常に河合の首の動きは楽になった。

「……もしかして、これもう飽きちゃってたりするかな?」

 佐伯は自分の行動が徐々に不安になってきていた。突然勝手にものを買って渡すなんて、恩着せがましくはないだろうか。押しつけがましくはないだろうか。

「飽きるほど買ってないわよ」
「そう? でもさ、オレのチョコパンより河合さんのピザパンの方が桐谷は喜びそうじゃない?」
「なんでわたしもあげなきゃいけないのよ。これはわたしのお昼ご飯なんだからね」

 河合の言い分はさっぱりとしていた。
 そうなると佐伯は自分のうじうじとした思考を自覚せざるを得ない。あまり自分らしくないと思った。ここ数ヶ月、ずっと自分らしくなどなかったが。

「じゃあ桐谷に直接聞きましょ。どっちを選ぶか」
「ええ? そんなことしてピザパン選ばれたらオレ、さすがにショック受けちゃうなあ」
「そうなったら慰めてあげるわよ」

 なんのフォローにもならないことをいいつつ、河合が少しおもしろそうに笑うので佐伯はやっぱりやめよう、などとは言えなかった。

「ううん、絶対桐谷はチョコを選ぶ! オレが信じなきゃ誰が信じるんだ!」
「たかがパンじゃない」

 調子の良いことを言ってみせると河合は呆れ気味に肩を竦めた。
 たかがパン。どちらを食べたいかなんて桐谷の気分次第だろうし、どっちを選んだとしてもそれほど深い意味もないだろう。しかし佐伯は、もし河合の差し出すパンが選ばれたのなら、少し残念にも思うだろうが納得もすると思ったのだ。


「じゃあチョコチップパンを貰おうかな」

 一瞬呆気にとられそうになって、河合の「おお」という声に我に返って取り繕いながら桐谷にパンを手渡す。

「ほらあ~、言ったでしょ。絶対桐谷はこっちを選ぶって」

 冗談めかして偉そうに振る舞いつつ、内心どきどきしていた。
 頬から耳にかけてかあっと熱くなるような、そんな感覚がした。誰も指摘しないのだから、赤面してはいないはずだ。
 嬉しかったのだ。
 まるで自分の気持ちを手にとって、受け取ってくれたような気がして。
 ただの妄想にすぎないと思いつつも、そんな風に喜ぶ自分の心を自覚して思った。

 多分、自分は彼のことが好きなのだ。
 それはかつて裕子に抱いていた感覚とは少し違うような気がした。立場が変わったからなのか、それはわからない。
 しかし、ふわふわとした気持ちと、それを悟られたくない気持ちは同じだった。
 彼のことを知りたいと思ったし、知ってほしいとも思った。受け入れたいと思ったし、受け入れてほしいと思った。
 でもなにより、嫌われたくないと思った。
 今まで、誰に嫌われようとそれほど気にはならなかったのに。それははじめから、自分がそれほど好かれるとも思っていなかったからだ。しかたがない、と思えた。
 それなのに、もっと近づきたいのに嫌われたくないなんて、それを実行するのはとてつもなく難しいことだ。
 距離を詰めて、嫌われないという自信は持てなかった。
 頭の冷静な部分ではそう考えられるし、実際の立ち振る舞いというのも取り立てて変化したわけではないと思う。けれど頭の中のどこかがそんなわがままを言って仕方がないのだ。
 彼に好いて貰ったら、自分の地に足が着かない不安定な部分が、救われるような予感がすると、なんの根拠もなく考えてしまうのだった。
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