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8章

 翌日、朝水を飲んだ以外、ずっと部屋に引きこもっていた。
 普通に過ごそうと思ったのに、やっぱりだめで、母親が起きてくる前に自室に戻った。トイレには行ったけど、暗くなっても部屋に電気をつけるのも忘れたままその日は終わった。
 なにもやる気が出なかったのだ。時折思い出したようにため息が出るしかすることがなかった。
 こんなことは生まれて初めてのことである。本を読む気も起きないなんて。

 二日後、何度も躊躇して佐伯に電話をかけたがすでに携帯は解約されているようだった。
 母親はおにぎりとお茶を持って来てくれたけど一口しか食べられなかった。一昨日は佐伯の分だって食べたのに。
 心配する母にぶっきらぼうに大丈夫だから、と言った。

 三日後、朝起きて鏡を見ると酷い顔だった。元々顔色なんて大してよくないのに、目の下のクマは濃くなっているし、瞼も腫れて一重になっていた。
 眠ったはずなのに頭は疲れていて、ろくにものを考えていないのに、何度も何度もちょっとしたタイミングで勝手に涙が出そうになる。
 のそのそとリビングに出てきてソファに座った。少しだけ気分が紛れるような気がした。
 テレビをつけて、すぐにうるささしか感じなくて消した。
 どの動きも長続きしないと思った。すべてが頭の中に入ってくる前に消えていくようだった。
 お笑いを見ても全部自分の横を通っていくようでひとつも笑えない。ニュースだってどうでもいいし、ドラマなんて見ていられなかった。
 いつの間にかそばにいた母がゆっくり隣に座って、俺の頭を撫でた。子供みたいに扱われるのが嫌だったが、はねのけたりはできず、そっぽを向いているしかできなかった。何故か涙が出てきたからだ。

 一週間経った。
 俺はちゃんと朝起きて、ご飯を食べられるようになっていた。ようやく空腹の感覚を思い出していた。
 それでもやっぱり少し気を緩めると佐伯のことを思い出して、ため息は尽きなかったし、じわじわと涙が滲んでくるのだった。
 春休みでよかった。
 そう思っていると河合さんからメールが入っていた。
 驚いたことに、河合さんからの連絡にも全く心が動かなかった。ああ、なんだ。と思うだけである。昔の俺だったら今の俺を殴りつけていたことだろう。
 内容は課題の進み具合を確認するものだった。そしてまだ終わっていないなら一緒にしないかというものだ。
 もう終わったと嘘をついて返信した。
 本当はまだほぼ手つかずだった。最近泣きすぎて頭が痛くて集中できないのだ。
 泣くと頭痛がするし眠くなるし目が乾く。知らないことだった。

 そこからさらに三日経った。
 さすがに、何も考えていないのに涙があふれるということはなくなっていた。考えればいくらでも可能だったが。
 いつでもすぐに泣けるんだから、俳優になれるんじゃないかな、なんて思うくらいだ。
 課題はこの三日で終わっていた。大した量はなかった。なぜだか河合さんは何度かメールをしてきて、今日はもう返信するのも億劫になって無視していた。
 ずっと素っ気ない返事をしてしまっている自覚はあるし、和泉ならまだしも、河合さんにそんな対応するのはやっぱり心苦しい。だけどちゃんと話をするほど空元気みたいなものすらまだ出せそうにはないのだ。
 ようやく少しずつ冷静にものを考えられるようになっていたが、改めて考えると精神的に落ち込むということは生まれて始めてのことのような気がした。
 父が死んだときも幼くてあまり理解できていなかったらしい。覚えていないが。
 父は俺が生まれた頃には何日も眠っては少しの間だけ目を覚ますという毎日だったから、その延長でいつの間にか受け入れていたらしい。泣いたり寂しがったりというのはなかったそうだ。
 あとは入院したり、折角私立の小学校に合格したのに途中で通えなくなったり、そういったことに落ち込むことはあったけど、それでも自分の体の限界は理解できたし、納得もできた。悔しくはあったが、諦めもついた。
 他人の行動とか、言動なんかでこんなに心が持って行かれることなんてなかった。
 こんなの、明確な解決方法がないじゃないか。自分でどうにかできることではない。失恋のときとか、身内が亡くなったときとか、時間が解決するとはよく聞くが、時間が経つまではしっかり苦しまないといけないわけか。
 こんな気持ちになるのに何度も恋愛して失恋している奴の気が知れない。もう二度と恋なんて…………。
 クソッ! どの時代にもあるようなラブソングみたいなことばかり考えてしまう。全く共感もできなければ意味がわからなかったのに。きっと今まで理解できなかった多くの歌に感情移入してしまうんだろうな。腹が立ってきた。どこにでもあるような歌に共感してしまうなんて、そんな単純な事情ではないと思いたかった。自分はそういう人間じゃないと思っていたのに、人としてなにか重要な感覚が欠如してるんじゃないかとすら思っていたのに、なにも標準的な人間と変わらないじゃないか。


 そうして、春休みはぼんやりしたまま終わった。これまでは新しい教室のことだとか、クラス替えのことなんかを少しは気にしたりしていたのに。まあ、今年はクラス替えないけどさ。
 日にちの感覚がすっかりなくなっていた。前日になってようやく新学期の準備を初めて、ぞうきんが必要なことを知ってちくちくと縫ったら指を刺してしまったし。
 前ならちょっとでも血が出れば大騒ぎしていたのに、どうでもよかった。全くしょうもないことだった。バカなんじゃないのか、と昔の能天気な俺に腹立たしさすら覚える。
 今なら家に俺の苦手な害虫が出てきても心は動かないんだろうな。…………いや、それはさすがに自信ないかもしれない。

 佐伯は今どうしているんだろうか。知らない土地で、誰といるんだろうか。
 新しい学校の登校日を控えて緊張しているんだろうか。佐伯ならきっとうまくやれるだろう。
 俺のことを考えてくれているだろうか。きっと少しは心配してくれていると思う。寂しく思ってくれてたらいいと思う。俺もそう思っているだろうと、佐伯も考えてくれていたらいいと思う。
 ……ああ、でも、俺みたいに苦しんでいたら嫌だな。
 もし佐伯が苦しんでいて、誰かが佐伯のことを助けてあげられるとしたら、優しい人に大事にされていてほしいと思った。
 「誰かと一緒にいて、幸せだったらいいなって」という佐伯の言葉を思い出す。
 そうか、佐伯はこれを言っていたのか。
 俺も言ってあげればよかった。
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