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8章

 三月になった。卒業式も終わった。
 二年としての仕事はあらかた終わったんじゃないだろうか。
 佐伯の様子はここ数日かなり元気そうだ。もう学年末となり忙しさとは無縁なお陰もあるだろう。
 学校ではかなり授業に穴を空けてしまったため、体育の補習として居残ってバスケのシュートをしたり、休みの日に登校して補習を受けたりしているようだが、和泉に聞いた情報によると、帰ったら家ではずっとごろごろしているらしい。日中元気でも、夕方から熱が出てきたり気分が悪くなるというのは珍しくないことだ。やっぱり心配は消えない。
 病院に行ったのかと言っても、行った行った、と繰り返すばかりだ。……まあ、学校では以前に比べると見違えて元気になったと言えるから、心配しすぎなのかもしれないけど。
 それに佐伯家なら放任されているだろうが、和泉の家族が佐伯の様子を見過ごすはずはない。その点だけは安心できた。

 かなり久しぶりに俺は佐伯の部屋に訪れていた。佐伯の家の方のだ。一月上旬頃以来だ。
 久しぶりに訪れた部屋はかなりすっきりとしていた。すっきり、というか、殆どの家具や物がなくなっていた。

「あ、びっくりしたでしょ。CDとかはむこうに移動させちゃってさ、お手伝いさん呼んで大掃除だよ。オレが一番ごろごろしてたね」
「なんでまた急に?」
「まあ、もういらないしね。ベッドは大きいからそのまんまだけど……」

 もしかして、和泉家の養子になるっていう話が進んでいるんだろうか?
 俺はその話を佐伯から直接聞いたわけではないのでつっこんで質問するのははばかられるな。
 俺が知らないと思っているだろうし。

「へへ、いちゃいちゃできるの、久しぶりだね」
「……お、俺は別にいつもの距離感でも平気だけどね」
「あれ。男子校生の性欲ってそんなもんだっけ?」

 佐伯は口が減らない。ちょっと気分がいいからって、調子に乗るとすぐぶり返すんだからな。
 俺は佐伯がぎゅうっと抱きしめた。こうして人の目を気にせず触れ合うのは久しぶりなことだと言えど、さすがにもう慣れていた。
 うん、生きてる。生きてて、勝手に動いてる。それなのにわざわざ俺といてくれるのだ。それを再確認する。
 それだけで満ち足りた気分だった。これだけで十分だ。少なくとも気持ちの方は。
 佐伯は俺の腕の中で「あ」と声をあげた。

「ごめん、ゴムないんだ」
「え?」
「掃除の時見つからないように隠してたら、そのまま捨てちゃってさ」
「あ。ああー、そっか、いやごめんこっちこそ、預けっぱなしにしてて……」
「ごめんね?」
「いいって、別にそういうことが目的で来てるわけじゃないんだし。激しい運動とか、病み上がりには絶対ダメだろ」
「……もしかして桐谷って、性欲薄い人……?」
「そ、そんなバカな」

 そんなはずは……。
 いや、たしかに男性ホルモンが多いタイプではないし……性に関する好奇心が異常なだけで、もしかして性欲自体はそれほど強くないのか……? いや、もちろんそういう行為ができるならするに越したことはないんだが。淡白ってほどではない……はずなのだ。

「お、俺はほら、病人の気持ちはよくわかるから、こう……体調が万全でない場合、汗をかいたりする動きがいかに体に負担をかけるかということをきちんと把握しているんだよ」
「なるほどお」

 殆どただベッドの中でひっつきあっているような時間を過ごした。当然服は着たままである。それでも、やっぱり幸せだと思う。
 ずっとこうならいいんだ。いつだって、帰ったらこうできるといい。別にさ、とんでもない美人とか、スタイルいい人とか、そんな人に会えるより、うんとこっちの方がいいんだ。エロいことができなくてもいい。そりゃ、できたら嬉しいけど。佐伯がつらいならいいんだ。

 ぽかぽかとする体を抱いて、柔らかい毛布に包まれて音の少ない空間でじっとしていると、俺はうとうととする間もなく気付けば目を閉じて眠り始めてしまっていた。

「あっ」

 腕の中のみじろぎで我に返る。反射的に腕の中にいる佐伯に目を落とすと「あ、起きた」と呟いた。

「あっうわっごめん! どのくらい寝てた?」
「こっからじゃ時計見れないからわかんないよ」
「そ、そうか。えーと……20分くらい経ってる……かな、あーごめん! せっかく二人きりになれたのに」
「ううん、オレもうとうとしてたし」

 ふふと佐伯は微笑む。
 しかし久しぶりの状況だっていうのに寝て過ごすなんて、さすがにもったいなさすぎる。くそ、睡魔は俺にとって天敵なのだ。もう寝ないぞ。
 一人後悔していると、佐伯はぎゅうっと俺の服を握りしめて顔を胸元に擦り付けてくる。どきどきする自分の鼓動がよく伝わっているだろう。

「なんか、ほっとするね」
「……そうだね」
「このまま時間が止まっちゃえばいいのにね」

 佐伯にしてはロマンチックなことを言う。でも俺も本当に、それならいいと思う。

「……あ、あのね……あの……桐谷……」

 たどたどしいような佐伯の口ぶりに胸がざわざわとした。照れて言い淀んでいるわけではないのがわかったからだ。

「オレ、あの……桐谷に……」
「ゼ、ゼリー買ってきたよ! ほら、ホワイトデーの」
「……えっ?」

 言葉を遮られて、佐伯は間の抜けた声を上げた。

「ちょっと早いけどさ、今年のホワイトデーは平日だし、ゆっくりできないだろ。せっかくだから一緒に食べようと思って、買ってきた。食べようよ」

 ね、と言うと、佐伯はぽかんとしたあと、すぐに眉毛をハの字にさせて、頷いた。


 佐伯は先ほどの神妙な雰囲気はもうなくなって、にこにことしながらおいしいおいしいと食べてくれた。やはり、指輪は渡さなくてよかったらしい。

「桐谷の彼女でよかったー」

 何気ない佐伯の呟きにどきりとする。

「……数百円だよ、これ。彼女じゃなくても食べれるし」
「もう、そういう問題じゃないよ」

 佐伯は器に残ったゼリーを飲み干した。
 食べ終わってしまった。少ないものだ。佐伯にはもう一個あるけど。

「ほんと。よかったよ」

 佐伯は満足げに言った。
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