8章
佐伯の戸籍上の性別が正式に女になったそうだ。
学校を休んだ佐伯のお見舞いに訪れた際、その報告を聞いた。
やはり、通常こんなすぐには変更できないらしい。しかし佐伯はどこからどうみても女でしかない。性別を変更したい、とは違って、戸籍の方が間違えているという状況だ。
ただ何かしら病名がつくわけでもなく、前例がないということで書類を用意したりなんなりでごたごたしてこれだけ時間がかかったらしい。
「ついでに戸籍上は名前も変わったんだよ」
「おっ、何? 佐伯何ちゃん?」
「うえ〜恥ずかしい……友也ちゃんでいいじゃん……」
何が恥ずかしいのかまったくわからない。俺が名前変わることになったら真っ先に触れまわるけどな。
「学校ではね、一応進級してからちゃんと変わる予定だからー、それまで内緒」
「えー! 俺だけ特別に教えてよ」
「やだよ~」
佐伯はくすくすと笑って避ける。
もう少し攻めれば教えてくれそうな気もするが……。
佐伯は毛布の中から顔だけだして、うーん、といってこちらを見上げて言った。
「だってオレの中ではまだ友也なんだもん。他の名前なんてオレの名前じゃないよ」
まあ、そりゃそうだろう。生まれてから17年ずっと友也で生きてきたわけだし。
冷静に考えると女の見た目にはまったくそぐわない名前だが、佐伯の名前は佐伯友也だ。俺は下の名前では普段呼ばないけど、そう認識している。
変えたくて変える訳じゃないんだ。なかなか受け入れられないよな。
それはそれとしてどんな名前なのかだけでも知りたいのだが……。
「オレが新しい名前になって、友也って人が忘れられたらやだなあ……」
ぼんやりと佐伯が呟く。
「まあ、和泉はいつまでたってもお前のこと友也ーって呼ぶと思うよ」
「あはは、たしかにね」
佐伯は笑った。
少し久しぶりに見る笑顔だった。この前猫カフェに赴いてから佐伯の体調は悪くなる一方だった。
苦しんでいる、というよりも眠そうだとか怠そうだとか、そういう様子だったのだ。自分の体質の相待って、明確な苦痛がなくとも異常な眠気という症状の扱いづらさはよく知っているし、たかが眠いだけ、と片付けられなくて心配だった。前も生理前は眠くなる、みたいなこと言ってたけどさ。
そんな日々が続き、とうとう今日は休んでしまったわけだが、休んだおかげか少し声に元気が出ているような気がする。安心した。
「いつか女の子の名前で呼ばれて、はーいって返事するようになるのかなあ……」
複雑そうに佐伯は呟いていた。
これでもうなにもかもが佐伯を女として受け入れたということになる。病院だってこれからは気軽に通えるし。
佐伯自身も名前は抵抗があるようだが、女として生きていく覚悟はとっくにできているわけだし。
ふと、思い出す。
「そうだ、俺来月18になるんだ」
「え……あっそっかあ! 3月18日って言ってたもんね。 あれっ、でも三月って早生まれでしょ? 最後に年齢追いつくんじゃないの? 17才じゃん」
「まあ普通はそうなんだけど、俺は高校受験一年遅らせたから、実は元々学年は一個上なんだよね」
「……えっなにそれ!? 聞いてないよ!」
「ご、ごめんわざわざ言うことでもないと思って……」
上体を起こして佐伯は、えーっ、えーっと繰り返し、ショックを受けている。早生まれで一学年上だったから、生まれ年はむしろ一緒だし、大した違いではないと思うのだが、なにやら衝撃的だったようだ。
いや、そんな話をしたいわけじゃない。
「つ、つまり、そしたら結婚……できる年齢になるんだな……って、思って」
「お」
佐伯の動きが固まる。
「おお……そう、だね?」
「は、反応薄いな」
「いや、ほんとだ。できるねえ」
うんうんと佐伯は頷くが、もっと喜ぶなりなんなりしてくれると思ってたのに肩透かしくらった気分だ……。
「まあ、できるけど、できるからってすることじゃないじゃん」
「そ、そうだけどさあ……。できるんだなあって思うくらい別に……。え、何? これじゃ俺が夢見がちみたいじゃないか」
「桐谷乙女〜」
「うるさいなっ」
意外と佐伯は現実的だった。仰るとおりだけどさ! 想いを馳せるくらいいいじゃないか! せっかく相手がいるんだからさ!
ところで、だが。男女交際は校則で禁止されている。誰も守ってないけど。がしかし、一方で結婚は禁止されていないのだ。法律で許可されていることを校則がはっきりと禁止できることでもないのだが。
結婚は許すけど男女交際をしていたという点で停学になったりするんだろうか? そこのところよくわからない。
しかしそもそも婚約者がいる場合もあるし、宗教上の理由で16になって結婚した生徒もいる。恋愛結婚以外の可能性も十分あるのだ。やっぱり特に処分はなさそうな気もする。
あとなんだったかな、俺は治療してしまったから関係ないけど、病気や体質による短命である証明が病院でできれば、男も16で結婚できるし、それを咎めたり、たとえば退学とかそういう罰則を与えてはいけないという法律もあるらしい。これはここ十数年でできた法律だが。
基本的に、この体質の人間は保護して子孫を残しましょうという流れにはフットワークが軽い国なのだ。
まあ、寿命に合わせた人権が貰えるということだ。まるで絶滅危惧種の保全のようで、それはそれで権利がどうの、それなら一般的な寿命の人間も合わせるべきだ云々、今でも色々と反発があるらしい。が、当人たちは救われていることだろう。
しかし実際に結婚しているやつはいないのか、それとも公言していないだけなのか、俺の知り合いにそういった例はない。ニュースでは見たことがあるというレベルだ。そもそもの絶対数が少ないせいも大きいだろうしな。
まあそんなわけで学生結婚もあり得ないことではない。昔は殆どないことだったらしいけど。……それでも、なんの事情もなくする奴はそうそういないか。
「そういえば、就職の時結婚してたら落とされることあるってほんとかな?」
「え、なんで?」
「なんかあ、ほら、転勤とかさせづらいじゃん。家族いると。そんな理由だったかな? なんか聞いたことある」
なるほど……そんな障害があったとは。まあ俺は転勤とか出張とかある会社員にはならない気がするけど。
でもやっぱり一般人的に結婚するとしたら学校卒業して自立してから、だよなあ。
四年制の大学に行くとして、あと五年学生すれば社会人。でも最初のうちは仕事で手一杯だろうから、二年目……? 式とか披露宴とかやるなら貯金もしないといけないし……。あ、指輪だっているじゃないか。給料何ヶ月分だったっけ……。
「一体いつになったら結婚できるんだ……!?」
途方もないじゃないか。
「桐谷に結婚願望あったなんて意外~」
けらけらと笑っている佐伯を見ているとちょっと恥ずかしくなってきた。俺ばっかり浮ついているみたいだ。
考えるくらいいいじゃないか。今まで相手候補すらいなくて夢のまた夢だったんだからさ。
「い、いいだろ別に。一応これでも将来のこと考えてるんだよ」
「桐谷のあの大きいおうちの主になって、仕事から帰ったら可愛い娘がおかえりなさいパパー! って飛びついてくる妄想とかしてんでしょ」
「悪いか!」
寝る前は絵本を読んであげるし朝起きたら新聞読みながら学校に行く娘を見送るんだ!
「いいねえ、理想的だねえ」
「バカにしてない?」
「してないしてない。桐谷、結構似合いそうだもん」
佐伯はゆっくりまたベッドに横たわった。ため息とはニュアンスの違う、深い息を吐いた。
「あ、ごめん。しんどいよね。長居しすぎた」
「んーん。やめてよー、病人じゃないんだからさ。ちょっと疲れやすいだけ」
そうは言うが、いつの間にか佐伯の顔は青白くなっていた。しまったな、はしゃぎすぎたかもしれない。
その気持ちはなんとなくわかる。友達がくると興奮して気が紛れるのだ。でもよくなったわけではないんだから、あとで一気に疲れが出てくる。
「ごめん、そろそろ帰るね。楽になったら電話でもメールでもしてよ」
「うん……ごめんね、ありがと」
申し訳なさそうに佐伯は少しだけ笑う。
謝るのはやめろといっても言うことを聞かないので、仕方なく佐伯の頭を撫でてみた。
「おやすみなさいパパー」
「はは……おやすみ」
部屋を出て、和泉のお母さんに挨拶をして家を出る。また明日も来よう。
家までの距離がやたらと長く感じた。
なんでもっと近くに住んでなかったんだろう。
学校を休んだ佐伯のお見舞いに訪れた際、その報告を聞いた。
やはり、通常こんなすぐには変更できないらしい。しかし佐伯はどこからどうみても女でしかない。性別を変更したい、とは違って、戸籍の方が間違えているという状況だ。
ただ何かしら病名がつくわけでもなく、前例がないということで書類を用意したりなんなりでごたごたしてこれだけ時間がかかったらしい。
「ついでに戸籍上は名前も変わったんだよ」
「おっ、何? 佐伯何ちゃん?」
「うえ〜恥ずかしい……友也ちゃんでいいじゃん……」
何が恥ずかしいのかまったくわからない。俺が名前変わることになったら真っ先に触れまわるけどな。
「学校ではね、一応進級してからちゃんと変わる予定だからー、それまで内緒」
「えー! 俺だけ特別に教えてよ」
「やだよ~」
佐伯はくすくすと笑って避ける。
もう少し攻めれば教えてくれそうな気もするが……。
佐伯は毛布の中から顔だけだして、うーん、といってこちらを見上げて言った。
「だってオレの中ではまだ友也なんだもん。他の名前なんてオレの名前じゃないよ」
まあ、そりゃそうだろう。生まれてから17年ずっと友也で生きてきたわけだし。
冷静に考えると女の見た目にはまったくそぐわない名前だが、佐伯の名前は佐伯友也だ。俺は下の名前では普段呼ばないけど、そう認識している。
変えたくて変える訳じゃないんだ。なかなか受け入れられないよな。
それはそれとしてどんな名前なのかだけでも知りたいのだが……。
「オレが新しい名前になって、友也って人が忘れられたらやだなあ……」
ぼんやりと佐伯が呟く。
「まあ、和泉はいつまでたってもお前のこと友也ーって呼ぶと思うよ」
「あはは、たしかにね」
佐伯は笑った。
少し久しぶりに見る笑顔だった。この前猫カフェに赴いてから佐伯の体調は悪くなる一方だった。
苦しんでいる、というよりも眠そうだとか怠そうだとか、そういう様子だったのだ。自分の体質の相待って、明確な苦痛がなくとも異常な眠気という症状の扱いづらさはよく知っているし、たかが眠いだけ、と片付けられなくて心配だった。前も生理前は眠くなる、みたいなこと言ってたけどさ。
そんな日々が続き、とうとう今日は休んでしまったわけだが、休んだおかげか少し声に元気が出ているような気がする。安心した。
「いつか女の子の名前で呼ばれて、はーいって返事するようになるのかなあ……」
複雑そうに佐伯は呟いていた。
これでもうなにもかもが佐伯を女として受け入れたということになる。病院だってこれからは気軽に通えるし。
佐伯自身も名前は抵抗があるようだが、女として生きていく覚悟はとっくにできているわけだし。
ふと、思い出す。
「そうだ、俺来月18になるんだ」
「え……あっそっかあ! 3月18日って言ってたもんね。 あれっ、でも三月って早生まれでしょ? 最後に年齢追いつくんじゃないの? 17才じゃん」
「まあ普通はそうなんだけど、俺は高校受験一年遅らせたから、実は元々学年は一個上なんだよね」
「……えっなにそれ!? 聞いてないよ!」
「ご、ごめんわざわざ言うことでもないと思って……」
上体を起こして佐伯は、えーっ、えーっと繰り返し、ショックを受けている。早生まれで一学年上だったから、生まれ年はむしろ一緒だし、大した違いではないと思うのだが、なにやら衝撃的だったようだ。
いや、そんな話をしたいわけじゃない。
「つ、つまり、そしたら結婚……できる年齢になるんだな……って、思って」
「お」
佐伯の動きが固まる。
「おお……そう、だね?」
「は、反応薄いな」
「いや、ほんとだ。できるねえ」
うんうんと佐伯は頷くが、もっと喜ぶなりなんなりしてくれると思ってたのに肩透かしくらった気分だ……。
「まあ、できるけど、できるからってすることじゃないじゃん」
「そ、そうだけどさあ……。できるんだなあって思うくらい別に……。え、何? これじゃ俺が夢見がちみたいじゃないか」
「桐谷乙女〜」
「うるさいなっ」
意外と佐伯は現実的だった。仰るとおりだけどさ! 想いを馳せるくらいいいじゃないか! せっかく相手がいるんだからさ!
ところで、だが。男女交際は校則で禁止されている。誰も守ってないけど。がしかし、一方で結婚は禁止されていないのだ。法律で許可されていることを校則がはっきりと禁止できることでもないのだが。
結婚は許すけど男女交際をしていたという点で停学になったりするんだろうか? そこのところよくわからない。
しかしそもそも婚約者がいる場合もあるし、宗教上の理由で16になって結婚した生徒もいる。恋愛結婚以外の可能性も十分あるのだ。やっぱり特に処分はなさそうな気もする。
あとなんだったかな、俺は治療してしまったから関係ないけど、病気や体質による短命である証明が病院でできれば、男も16で結婚できるし、それを咎めたり、たとえば退学とかそういう罰則を与えてはいけないという法律もあるらしい。これはここ十数年でできた法律だが。
基本的に、この体質の人間は保護して子孫を残しましょうという流れにはフットワークが軽い国なのだ。
まあ、寿命に合わせた人権が貰えるということだ。まるで絶滅危惧種の保全のようで、それはそれで権利がどうの、それなら一般的な寿命の人間も合わせるべきだ云々、今でも色々と反発があるらしい。が、当人たちは救われていることだろう。
しかし実際に結婚しているやつはいないのか、それとも公言していないだけなのか、俺の知り合いにそういった例はない。ニュースでは見たことがあるというレベルだ。そもそもの絶対数が少ないせいも大きいだろうしな。
まあそんなわけで学生結婚もあり得ないことではない。昔は殆どないことだったらしいけど。……それでも、なんの事情もなくする奴はそうそういないか。
「そういえば、就職の時結婚してたら落とされることあるってほんとかな?」
「え、なんで?」
「なんかあ、ほら、転勤とかさせづらいじゃん。家族いると。そんな理由だったかな? なんか聞いたことある」
なるほど……そんな障害があったとは。まあ俺は転勤とか出張とかある会社員にはならない気がするけど。
でもやっぱり一般人的に結婚するとしたら学校卒業して自立してから、だよなあ。
四年制の大学に行くとして、あと五年学生すれば社会人。でも最初のうちは仕事で手一杯だろうから、二年目……? 式とか披露宴とかやるなら貯金もしないといけないし……。あ、指輪だっているじゃないか。給料何ヶ月分だったっけ……。
「一体いつになったら結婚できるんだ……!?」
途方もないじゃないか。
「桐谷に結婚願望あったなんて意外~」
けらけらと笑っている佐伯を見ているとちょっと恥ずかしくなってきた。俺ばっかり浮ついているみたいだ。
考えるくらいいいじゃないか。今まで相手候補すらいなくて夢のまた夢だったんだからさ。
「い、いいだろ別に。一応これでも将来のこと考えてるんだよ」
「桐谷のあの大きいおうちの主になって、仕事から帰ったら可愛い娘がおかえりなさいパパー! って飛びついてくる妄想とかしてんでしょ」
「悪いか!」
寝る前は絵本を読んであげるし朝起きたら新聞読みながら学校に行く娘を見送るんだ!
「いいねえ、理想的だねえ」
「バカにしてない?」
「してないしてない。桐谷、結構似合いそうだもん」
佐伯はゆっくりまたベッドに横たわった。ため息とはニュアンスの違う、深い息を吐いた。
「あ、ごめん。しんどいよね。長居しすぎた」
「んーん。やめてよー、病人じゃないんだからさ。ちょっと疲れやすいだけ」
そうは言うが、いつの間にか佐伯の顔は青白くなっていた。しまったな、はしゃぎすぎたかもしれない。
その気持ちはなんとなくわかる。友達がくると興奮して気が紛れるのだ。でもよくなったわけではないんだから、あとで一気に疲れが出てくる。
「ごめん、そろそろ帰るね。楽になったら電話でもメールでもしてよ」
「うん……ごめんね、ありがと」
申し訳なさそうに佐伯は少しだけ笑う。
謝るのはやめろといっても言うことを聞かないので、仕方なく佐伯の頭を撫でてみた。
「おやすみなさいパパー」
「はは……おやすみ」
部屋を出て、和泉のお母さんに挨拶をして家を出る。また明日も来よう。
家までの距離がやたらと長く感じた。
なんでもっと近くに住んでなかったんだろう。