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7章

 俺は初めて入るラブホというものに興奮していた。警察を呼ばれるのではとびくびくしながら入ったが、いかにもラブホという感じの派手派手しい内装で全部吹っ飛んだ。一周まわって笑えてきたのだ。
 とにかくベッドが大きい! 思わず飛び乗ってから、今まで何組ものカップルがこのベッドを使ってきたんだよなと思い至り、神妙な気持ちになった。
 そうしているとベッドが沈んで、横に佐伯もぽすんと横たわる。

「へへへ……」

 むず痒そうに笑っていた。エロい雰囲気はない。こんな表情を見て、まさかここがラブホだとは誰も思うまい。花畑に似合いそうな幼げな笑顔だった。
 さっきまで学校にいて、みんなと同じように今まで通り過ごしていたのに、今はこんな異世界のような場所にいるのがものすごく不思議で変な感覚だった。

「なんでもやりたい放題できるね」

 佐伯は悪戯っぽい顔でそう言った。そんなことを言われても、実感が湧かない。
 ぼけーっと見返していると佐伯は一度ベッドを降り、コートを脱ぐ。まさかもう? そんな早急に? 久しぶりで心の準備が、と思っていると、そのまま佐伯はまたベッドに上がり込んだ。
 枕をだっこして、寝ころんだままの俺を見下ろす。
 こ、これはどうぞということか? もう押し倒していいんだろうか。でもシャワー浴びた方がいいんじゃないだろうか。まだ指先冷たいし。っていうかこんなに明るいところでやるの初めてだな。
 そんなことをもやもや考えて、いやでもムードって大事らしいしな……時間もあるし……そういえばラブホってコスプレ衣装とか置いてあるってほんとかな……と興味があちらこちらに向いているところで、佐伯が「あの……」と口を開いたので、俺は佐伯に集中しなおす。
 それから言った。

「ごめん、最近、桐谷のこと避けてたかも」
「え」

 そうなの?
 いや、昨日は確かにちょっと素っ気なくは感じたけど。佐伯の誘いを断って、河合さんと一緒に出かけちゃったからかなとか思ったけど。最近っていつからいつの話だろう。
 っていうかなんで今そんな話を……? これからってときに……? なんで……?

「うんと……えっと……ごめんね、桐谷が悪いんじゃないからね。そういうのはひとつもないんだ」
「……え、えー……理由を聞かせて貰っていいだろうか」

 俺も座り直す。
 お、思っていた雰囲気と違う……。
 いや、でもこっちの方が重要だ。股間はあまり言うことを聞かないが、無視する。この体の主導権は脳が握っているのだ。お前じゃない。
 佐伯はどういう風に言葉を切り出すか悩んでいるようだった。これは、ありがたいことだ。佐伯はそもそも言いたくないことは言う素振りもみせないことが殆どだからな。わかりやすくこっちの興味を引こうだなんてことしない。

「その……ね、……怖くて」

 ドキッとする。今日の渡辺への態度だ。
 もしかして、俺の気づかないところで怖い思いをさせていたんだろうか……。それで自分の身を守るために距離を置いていたのか? たしかに、ここ最近接触はほぼなかった。

「で、でもそれじゃあなんでラブホなんか……。俺は別に、佐伯がちょっとでも嫌なら、こういうことしなくたって全然平気だよ」

 これは嘘だが。平気なわけはないが。しかしいくらなんでも嫌がられているのにしようなんていうヘキはない。そもそも今まで性的接触どころか彼女なんていなかったんだ。精神的充足感だけで十分お釣りが出る。
 まあ、長引いたらもしかしたらきついものがあるのかもしれないけど、そんなの今はわからないし……。
 と色々考えあぐねていたら、佐伯は途中で「あ、いやいや」と手を振って否定した。

「エッチなことが怖いって話じゃないよ。今更じゃない、そんなの」
「えっ」

 いや。まあ。そうなんだけど。よく考えたら俺より経験豊富だったな。そして初めての時なんか佐伯主導だったしな。うん。そうか。それならいいんだ。安心しました。ありがとうございます。

「そうじゃなくてね、なんか、すごく、自分にはもったいないっていうか……、なんていうんだろう……」

 佐伯は枕を撫でたり抱きしめたりしながら考えをまとめているようだった。
 伏せられた目を見つめる。時折ラメできらきらしていた。
 俺はじっと佐伯の言葉が見つかるのを待った。

「うん。あのね、今さ、和泉の家族とかも、オレの居場所作ってくれて、桐谷も、受け入れてくれて、すごく、嬉しいんだ。でも、嬉しいけど、なんだかたまに怖くなっちゃって……、ほんとにいいのかな、とか。いつかぱっとなくなっちゃうんじゃないかな、とか、そういう気持ちがどんどん増えてきて、ざわざわした気持ちになるんだ。頭がいっぱいになってないと、すぐそういうことを考えちゃって……」

 その感覚は俺にはわからないが、幸せすぎて怖いくらい。なんていう言葉はある。佐伯はいつも明るくて、ちょっと言い過ぎたかなってときもけろっとしている。思い悩む素振りなんて見せないけど、裏ではそんなことないっていうのはここ最近でよくわかった。
 誰だって、見えないところで悩んだりしているんだろう。
 佐伯は続ける。

「それでね、あのね、一昨日、桐谷が河合さんと予定あるって言ったとき、ちょっと残念だったんだけど、でもほっとしちゃったんだ。桐谷、ずっと河合さんのこと好きだったし、そうだよね、って。やっぱり、河合さんの方が似合うしなあ……って」
「…………はっ? いやいやいや……」

 待て待て。そりゃ、ちょっと申し訳ないことしたとは思ってたけど。なんでそうなる?
 なんの突拍子もない。そりゃ河合さんは可愛いけど、それとこれとは別だ。

「な、何を勝手なことを……」
「うん。ごめん……。実際に桐谷が誰を好きだとかは置いといてね? でも、桐谷が他の人を選んだらオレ、ほっとするなあって思ったら、すごくおかしいでしょ? 正しいことじゃないって、オレでもわかるんだ。だって……桐谷は好きって、言ってくれたもん……ね?」

 不安そうに、同意を求めるように佐伯は俺の表情を伺う。
 佐伯は二人きりでいると、時折俺の気持ちを確認してくることがあった。

「不幸ぶりたいのかな。なんだろう。わかんないんだけど、失礼なことを考えてる気はするんだ。でも、気持ちがついてこなくて……オレの考え方が、オレを嫌な気持ちにさせるんだと思ったんだ」

 たしかに、正直勝手に何言ってくれてんだという話だ。
 俺はなにより佐伯のプレゼントを買うために河合さんと出かけたわけだし。これで、ほんとは河合さんが好きなんでしょ! と怒られるなら、理屈はわかる。そう勘違いされる謂われはある。
 だが勝手に、この人の方がお似合いよね……とか言われるのはあまりに余計なお世話だ。
 知らねえし。河合さんだってそんな気ねえし。
 いや、でも、本人が自分の考えに違和感を持っているならまだいいのか。

 佐伯が先輩に振られて泣いていたあの日を思い出す。
 あのとき佐伯の考え方はすごく偏っていて、自分を追いつめるのに必死なようだった。そしてそれに佐伯自身が気づいていなかった。どれだけ言葉を尽くしても、それがまっすぐ届かない気がした。あれから、そういった話はしていない。口で言ってもきっとうまく伝わらないし、うまく受け取られないと思ったからだ。佐伯も言っていた。全部話したからってそれで解決するわけではない。
 でもそういう頑なさがすこしは緩和されているからこそ、こんな話をしてくれているような気がする。
 俺はこういった分野に詳しくないからわからないけど、本人が自分の思考のよくない部分に自覚を持つということは大きいのではないだろうか。他人が容易になんとかできる領分ではないと思う。だから、多分、悪い傾向ではない、よな?
 うん。自分の違和感を話してくれてる。これは大きい。

「……たしかに、みんな佐伯には幸せになってほしいと思っているのに、当の佐伯が自分を貶めていたら全て無駄だよね」
「うん。だよね。そう思う」

 こくこくと佐伯は頷く。

「でも……でも……その……しっくりこないかもしれないけど……でも……困ったとき、ね? 桐谷にいてほしいって、思ったよ。桐谷の顔みたら、ほっとして、嬉しいんだって、思ったよ」

 まるで正解がわからない問題を解かされている時のように、佐伯は心細そうに、視線を下げながら途切れ途切れに話した。
 いつもは流暢に話すのに、こうして自分の心の内を明かすのがこいつは相当苦手なようだ。
 俺は前髪の乱れを整えるように、指先で佐伯の頭に触れた。

「……お前、難しいことで悩むね」
「えっご、ごめん」
「責めてるわけじゃないけど。普段ああだこうだ考えてるはずなのに、俺は自分がすごく脳天気みたいに思えてくるよ」
「ええっ? 桐谷が? それはないよ、いくらなんでも」

 けらけらと佐伯は笑った。
 思い詰めた顔じゃない。ほっとした。

「でもそこからラブホに誘おうっていうのはなかなか大胆だよね。嬉しいけど」
「……ずっと誘おうとは思ってたんだ。二人だけの世界になってみたかったから」

 何とも言えない夢のような響きにどきっとする。たしかに、なにも邪魔されないし見られる心配もない、完全な二人きりの場所だ。

「それに、桐谷も喜んでくれるかなって思ったんだ。プレゼント、これしかないって思った」
「俺そんな邪念丸出しのイメージある!?」
「ふふ、そんなことないよ? 喜んでくれるはずって思ったけどね。自分から避けておいて、その分を取り返すにはこのくらいしなきゃかなあって思ったのもあるよ」

 とりあえず一回、俺へのイメージを改めてほしい。そりゃ嬉しいけどさ! めちゃくちゃ嬉しいけど!
 ……い、いや、でも今の供述があった上でなお佐伯と一緒にいることを俺が喜ぶ、と認識してくれているのは、今の佐伯からすると重要なことではないか。そうだ。河合さんとのデートより佐伯だぞ。もちろん河合さんは目の保養だけどさ!
 ……、なんで俺は河合さんをフォローしているんだ?
 色々とつっこみたかったが、佐伯はまだ言葉を考えているようだったのでぐっと我慢する。

「あと、そう、オレのわがまま」
「ん?」
「オレ、みんなのこと好きだと思ってた。っていうか、好きなんだよ、みんなのこと。意地悪な人も、優しい人もみんな好き。前は裕子さんだけ特別好きで、あとはみんな同じ好きだったんだ。でも今は……。……うわっ」

 佐伯が言葉に詰まらせたタイミングで、思わず正面から抱きしめていた。何を言おうとしているかわかったからだ。佐伯はベッドに手をついて体を支えてバランスを整えたあと、緩く俺の背中に手を回す。

「か、可愛いこと言うね……」
「ああー……、そ、それはよかった……」

 何を言っているんだろうな。
 でもだってそうじゃないか? さっきまで自分なんか……みたいな考えしてた佐伯が俺を求めてるんだぞ!

「あっあのっ、ね? オ、オレ、喋ると適当なことばっかり言っちゃう、でしょ? もし相手は同じ気持ちじゃなかったらって思うと、怖くて。だけど、触ったりすると、すごく安心する、から……それだったらオレもちゃんとできるから……し、したかった、んだ、よ」

 俺の腕の中で佐伯はあわあわとしどろもどろに言い訳みたいなことを言っていた。
 よ、よかった……やったーラブホだーと持ち上げておいて別れ話にでも急降下するのかと心配してしまった……。
 多分佐伯の中では全て解決してうまくまわっているとはとても言えないと思う。でもその上で佐伯は逃げたり隠したりしなかったのだ。
 多幸感みたいなものを感じていた。佐伯が自分のことも俺のこともちゃんと考えているのが伝わってくるから。
 なんだか、ずっと佐伯が弱っているところにつけこんだような罪悪感が常にあったんだ。佐伯は佐伯で、優しさにつけこむようなことしてごめんね、とか言っていたこともあった。少なくとも、お互いが惹かれあってくっついたというのとはちょっとなりゆきは違うし。でも、もうここまできたら関係ないと確信できた。
 そして無意識のうちに佐伯の太股をさすっていた。ちょうどいい位置にあったから。思わず。

「ねえ、スカート、変じゃない?」
「な、なんで? いいと思うけど」
「エロい?」
「えっ、ま、まあ……?」

 スカート単体ではエロいもクソもないけど、シチュエーションも相待って今は確かに……いや何着てても今はそうだろ。
 いつもは丈の短いパンツとか、キュロットとかいう紛らわしいやつを履いていた。どっちにしろ寒いのに足を出すならスカートを履けばいいのに、と思っていたのだ。ズボンは下ろさなきゃいけないし、スカートめくるのはロマンがある。

「う、うーん……」

 なぜか佐伯は難しい顔をする。やっぱりスカートは抵抗あるのか? 何か大きな隔たりがあるんだろうか。学校ではすっかりスカート履きこなしていると思うけど。

「これ言っていいのかなあ……」
「えっなに。気になる」

 思わせぶりなことを言って佐伯は一旦俺から離れ、スカートの裾をちみちみと指でいじる。

「前さあ、スカート履いて見せたことあるの、覚えてる?」
「えーっと……」
「学校帰りにうちに来て貰ったときね」
「あ、ああー……」

 覚えているような……。いちいち相手の服装まではさすがに記憶してない。

「あ、あのとき……桐谷、スカートはそんなだったかなって……あんまりオレ似合ってないのかなって……」
「ええっ!? なんで!?」

 細かく覚えてはないけど、似合ってないなんてことはさすがにないはずだ。うん。初めてセーラー服着てきたときからこいつ着こなしてるなとは思ったし。
 佐伯は気まずそうな難しい顔をした。

「あのとき……実は桐谷に……その……」
「え? ん?」

 じっ、とこちらを佐伯の目が見つめる。そしてふるふるとかぶりを振った。

「か、可愛いとか、言ってほしかったの!」

 何故か側に転がっていた枕で殴られた。

「……あれっ? 言ってなかったっけ……」
「言ってないよ! ていうか、いつも全然言わないじゃん!」
「ご、ごめん、口に出すの忘れてたんだと思う……」
「なんだよそれ~!」

 ぽふんぽふんと枕で殴られ続ける。柔らかいし力もないので全然痛くない。
 言われてみれば、佐伯はたまに素直じゃないが、ひねくれたところも表情が読み取れないこともあるが、それでも態度で色々表現してくれていることが多い。わからないときはわからないと言うし。それに引き替え俺はどうだろう……?
 リアクションを返すのが下手な自覚はあるから、普段できる限り言葉で表現しようとは思っているけど……、好きだとか可愛いとか、そういう照れくさいことは全然言えていないような……。さっきだって、かなり感極まっていたから言えたものの、この場所の影響もあると思う。普段はなかなか口にできない。
 俺としては一度でも言えてたら上等なもんだと思うのだが、言われる側からすると関係ないよな……。

「あ、あのう……俺が思ってることってどのくらい佐伯に伝わってますかね……?」
「どんなことを思ってるのかわからないのに、わかるわけないじゃん」

 で、ですよね……!
 でもこういうのって口に出すと嘘っぽくなるしさあ……恥ずかしいし……。

「……よ、よければスカートは積極的に履いて頂けるとありがたいです……」
「もお~、しょうがないなあ……」

 言葉は呆れているようだったが、佐伯の顔はにやにやしていた。
 うん……反省しよう……。佐伯ばっかり色々本心とか隠してるように思っていたけど、俺だって人に言えないレベルらしい……。
 今日だってデートに誘った気になってたのも、こういう自分の頭の中で勝手に納得しちゃうところが原因だろうし。
 自己完結はやめよう。うん。

「あ!」

 佐伯は突然声を上げて、急いでベッドから降りる。

「お風呂入りたかったの! お湯入れるの忘れてた!」

 な、なるほど。そうか。お湯は自分で入れなきゃいけないのか。そりゃそうか。温泉じゃないんだもんな。

「シャワーでよくない? そんなにゆっくりできないし……」
「えー? 折角だから一緒に入ろうよ。こんな機会ないじゃん」

 う、うおお……まじか……。そんな、そんなドスケベなことをしていいのか……おい……どうなってんだ……。
 思わず生まれて初めて十字を切っていた。神に祈らないと……。
 神様……俺はものすごいスピードで大人への階段を駆け上がってます……ありがとうございます……頑張ります……!
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