7章
「それなら、頼むよ! みんなの前で誘った手前、デートすらできずじゃ協力してくれたみんなに申し訳ないし……。一回だけでいいから! それで無理だったら振ってくれていいからさあ……」
「い、いや……、そんなこと言われても……」
やっぱりこいつも自分の事情ばっかり押しつけてくる奴だな。佐伯には全く関係のないことで、佐伯の罪悪感を煽るようにして意見を通そうとしている。
なんで貴重な時間を自分に割いてもらえる価値があると思っているんだろう。
佐伯の周りはなんでこんな男ばかりなんだ? そういうフェロモンがでてるのか? やっぱり気の小さい人間を嗅ぎつけるのだろうか。
「……だ、だめ……やっぱり、……ごめん、オレ、もう戻るね」
「えっま、待ってよ!」
「ひっ」
喉がひきつったような声だった。
え。と小さく声が出ていた。俺の声だと気づくのに時間がかかった。
別に渡辺は乱暴な動きをしたわけじゃない、歩きだそうとした佐伯の腕にそっと掴んだだけだ。
それなのに佐伯は、まるでバネが仕掛けられてたようなスピードで腕を引いて、身を縮みこませた。大きな蜘蛛とか、蛇とか、天敵がいたときのような怯え方だった。
渡辺より、佐伯の方が自分の行動に驚愕しているように見える。
「い……あ、いや、ご、ごめん、あうう、違う、ごめん、違うんだよ……び、びっくりしちゃって……」
「え。あ。ごめん、そんなつもりじゃなかったんだけど……」
と、いいつつ、渡辺は納得していない様子だった。
佐伯の呼吸は荒く、目を見開いていた。その顔にはどうみたって怯えのようなものが浮かんでいる。
「え、待って。俺そんな怖がらせるようなことした? ただ一回付き合ってって、それだけじゃん? 酷くね?」
ほんの僅かに苛立ちみたいなものが声から感じ取れた。確かに、暴漢かなにかのような反応をされたら誰だって良い気はしないだろうが……。
「ご、ごめんなさい……そう、そういうんじゃなくて……」
佐伯はいつも機嫌の良さそうに笑っていて、人を拒絶したり否定したりしない。俺だって何度も思ったことがある。何をしたって許してくれるし、受け入れてくれるんじゃないかと。そんなの思い上がりでしかないのに。
そんな風に思っていた相手に否定されたら、認めたくないと思うのだろうか。あるいは逆恨みのような感情を抱くのだろうか。
「そうじゃない、って言ったって、そんな態度って……」
「こ、……来ないで! 待って、お願い……無理なんだ……ほんとに、ごめん、ごめんなさい……!」
渡辺はただ一歩近づこうとしただけなのに、佐伯は張り詰めた声をあげ、視線をきょろきょろと地面と渡辺とを行き来させてから逃げるように去っていった。
立ち尽くす渡辺は、はあ? と小さなため息にも似た声を出し、肩を落として壁に背を預けてしゃがんだ。表情は読み取れない。
好きな相手に振られるどころか、あんな拒絶されたらと思うと、……さすがに渡辺には同情する。
でもそれだけだ。
渡辺を置いて、俺も中庭をあとにした。すぐにでも追いついて様子を確かめたかったが、あの現場を見ていたことは佐伯にバレてはいけない気もした。
あの反応はどう考えたって異常だった。
男に触れられるのを恐怖していた。
確かにそうなってもおかしくない経験をしてはいると思う。でも、俺にはそんな素振り見せてこなかったのだ。先輩と克服したんじゃないのか。……それを考えるとちょっとやさぐれた気持ちになるけど。
いや、でも、元々付き合いのあった俺には心を許してくれている、という面もあるはずだ。思い上がりだと思われても俺はそう思う。
もうすっぱり踏ん切りがついて平気なのだというのが間違いなんだ。
なんで俺はあの光景をただ静観していたんだろう。
わかってる。俺は佐伯が男を振るところを見たかったんだ。
ちゃんと俺のことを考えて、誰でも受け入れてしまいそうな佐伯が、しっかり他の男を拒絶してくれるところを見たかった。そうして優越感に浸りたかったのだ。
でもそれであんなに怖がらせたくなんてなかった。佐伯は自分でも驚いているようだった。自分が未だに男に怯えていることを知らなかったのだ。だったらそのまま、知らないままでいさせるべきだった。
すべて結果論に過ぎないが、少なくとも佐伯は言い寄られて困っていたのだし、手を貸すべきだったことに違いはないのだ。
後悔していた。もしかして、彼氏失格じゃないか? 教室に戻って佐伯が落ち込んでいたら、どう声かけたらいいんだろうか。もし平気な振りをしていたら? 慰める機会すらない。ずっと黙って覗き見してましたって言うのか? そうしたら佐伯はどう思う?
「あれ。桐谷?」
正面から、さっき聞いたばかりの声が廊下に響いた。
「どうしたの? 教室帰ってなかったの?」
佐伯だった。少しだけ元気がない気もするが、先程の怯えきった様子は全く感じさせない。
……ああそうだ、俺が下駄箱に靴を戻しに行けば、先に靴を戻して引き返してきた佐伯とはち合わせになるのは当然のことじゃないか。
全く考えてなかった……。
「いや。その、佐伯に用があって、ゴミ捨て場まで追いかけたんだけど……見つけられなくて諦めて戻ろうとしてたとこ」
「えっ……あ、そうなんだ。ごめ~ん、ちょっと寄り道してた」
佐伯は一瞬動揺してみせたが、すぐにいつも通りの柔らかい表情になる。さっきの残滓はまったく残っていない。……いや、目の辺りが若干色づいているようにも見えなくもなかった。
俺がゆっくり歩き出して下駄箱に向かうと、当然のようにその横をついてきた。
大きな身長差があるわけではないが、それでも小さいし細い。……冷静に考えれば、こんな子が男に怯えるなんて仕方ないことじゃないか。絶対太刀打ちできない相手が迫ってくるのだから。それをずっと眺めてるだけだったなんて、何をしてたんだろう……。
「それで、わざわざ追いかけてきた用って何?」
「あ、ああー……ええーっと、耳貸して」
「? なあに?」
よく考えたら、俺のあとに渡辺もこのルートを通るのだ。万が一自分が振られたのに俺の誘いを受ける佐伯を目撃されたら、面倒なことになりそうだ。
佐伯は髪を耳にかける。いつも隠れているからなんだか新鮮だ。そっと口を寄せる。
「今日、放課後デートしよう」
佐伯は驚いた顔でぱっと顔をこちらに向けて、しかしそれは怯えたものではなく、すぐに笑顔になった。取り繕ったり、誤魔化したりするものでないことは一目で分かった。
「どう? だめ? 忙しい?」
靴を下駄箱に戻しながら聞く。予定がないことは知っているのだが、喜んでいるのはこれでもかと伝わってくるのだが、わざとそうやって聞いてしまう。
俺はどうしてもこういうとき優しく悟ってやることができない。
「だめじゃない! 忙しくない!」
しかしこういう時に限って佐伯は素直なのだ。変なところでひねくれてるくせに。
ぶんぶんと首を振ったあと、手を体の後ろに回してはにかんだ。
「ほんとはあとでオレが誘おうと思ってたんだ」
「なんだ、焦って追いかける必要なかったな」
「……でも誘って貰えたの嬉しいよ」
そうか、俺から誘わなければ今の喜びようは見れなかったんだよな。うん、ならこっちの方がよかった。
見るからに佐伯はご機嫌だ。
さっきの怯えなんてまったく片鱗もない。
誰とでも楽しげに話していたけど、でも、ちゃんと俺にしか見せない顔というのがこんなにあるのだと感じた。
「あっ、ねえ、こっちの廊下じゃなくて、反対側の階段から上がろ?」
佐伯に服の裾を引かれ、進行方向を変える。
そうだ。さすがに今渡辺に鉢合わせにはなりたくないもんな。
すまんな渡辺。成仏してくれ。
「い、いや……、そんなこと言われても……」
やっぱりこいつも自分の事情ばっかり押しつけてくる奴だな。佐伯には全く関係のないことで、佐伯の罪悪感を煽るようにして意見を通そうとしている。
なんで貴重な時間を自分に割いてもらえる価値があると思っているんだろう。
佐伯の周りはなんでこんな男ばかりなんだ? そういうフェロモンがでてるのか? やっぱり気の小さい人間を嗅ぎつけるのだろうか。
「……だ、だめ……やっぱり、……ごめん、オレ、もう戻るね」
「えっま、待ってよ!」
「ひっ」
喉がひきつったような声だった。
え。と小さく声が出ていた。俺の声だと気づくのに時間がかかった。
別に渡辺は乱暴な動きをしたわけじゃない、歩きだそうとした佐伯の腕にそっと掴んだだけだ。
それなのに佐伯は、まるでバネが仕掛けられてたようなスピードで腕を引いて、身を縮みこませた。大きな蜘蛛とか、蛇とか、天敵がいたときのような怯え方だった。
渡辺より、佐伯の方が自分の行動に驚愕しているように見える。
「い……あ、いや、ご、ごめん、あうう、違う、ごめん、違うんだよ……び、びっくりしちゃって……」
「え。あ。ごめん、そんなつもりじゃなかったんだけど……」
と、いいつつ、渡辺は納得していない様子だった。
佐伯の呼吸は荒く、目を見開いていた。その顔にはどうみたって怯えのようなものが浮かんでいる。
「え、待って。俺そんな怖がらせるようなことした? ただ一回付き合ってって、それだけじゃん? 酷くね?」
ほんの僅かに苛立ちみたいなものが声から感じ取れた。確かに、暴漢かなにかのような反応をされたら誰だって良い気はしないだろうが……。
「ご、ごめんなさい……そう、そういうんじゃなくて……」
佐伯はいつも機嫌の良さそうに笑っていて、人を拒絶したり否定したりしない。俺だって何度も思ったことがある。何をしたって許してくれるし、受け入れてくれるんじゃないかと。そんなの思い上がりでしかないのに。
そんな風に思っていた相手に否定されたら、認めたくないと思うのだろうか。あるいは逆恨みのような感情を抱くのだろうか。
「そうじゃない、って言ったって、そんな態度って……」
「こ、……来ないで! 待って、お願い……無理なんだ……ほんとに、ごめん、ごめんなさい……!」
渡辺はただ一歩近づこうとしただけなのに、佐伯は張り詰めた声をあげ、視線をきょろきょろと地面と渡辺とを行き来させてから逃げるように去っていった。
立ち尽くす渡辺は、はあ? と小さなため息にも似た声を出し、肩を落として壁に背を預けてしゃがんだ。表情は読み取れない。
好きな相手に振られるどころか、あんな拒絶されたらと思うと、……さすがに渡辺には同情する。
でもそれだけだ。
渡辺を置いて、俺も中庭をあとにした。すぐにでも追いついて様子を確かめたかったが、あの現場を見ていたことは佐伯にバレてはいけない気もした。
あの反応はどう考えたって異常だった。
男に触れられるのを恐怖していた。
確かにそうなってもおかしくない経験をしてはいると思う。でも、俺にはそんな素振り見せてこなかったのだ。先輩と克服したんじゃないのか。……それを考えるとちょっとやさぐれた気持ちになるけど。
いや、でも、元々付き合いのあった俺には心を許してくれている、という面もあるはずだ。思い上がりだと思われても俺はそう思う。
もうすっぱり踏ん切りがついて平気なのだというのが間違いなんだ。
なんで俺はあの光景をただ静観していたんだろう。
わかってる。俺は佐伯が男を振るところを見たかったんだ。
ちゃんと俺のことを考えて、誰でも受け入れてしまいそうな佐伯が、しっかり他の男を拒絶してくれるところを見たかった。そうして優越感に浸りたかったのだ。
でもそれであんなに怖がらせたくなんてなかった。佐伯は自分でも驚いているようだった。自分が未だに男に怯えていることを知らなかったのだ。だったらそのまま、知らないままでいさせるべきだった。
すべて結果論に過ぎないが、少なくとも佐伯は言い寄られて困っていたのだし、手を貸すべきだったことに違いはないのだ。
後悔していた。もしかして、彼氏失格じゃないか? 教室に戻って佐伯が落ち込んでいたら、どう声かけたらいいんだろうか。もし平気な振りをしていたら? 慰める機会すらない。ずっと黙って覗き見してましたって言うのか? そうしたら佐伯はどう思う?
「あれ。桐谷?」
正面から、さっき聞いたばかりの声が廊下に響いた。
「どうしたの? 教室帰ってなかったの?」
佐伯だった。少しだけ元気がない気もするが、先程の怯えきった様子は全く感じさせない。
……ああそうだ、俺が下駄箱に靴を戻しに行けば、先に靴を戻して引き返してきた佐伯とはち合わせになるのは当然のことじゃないか。
全く考えてなかった……。
「いや。その、佐伯に用があって、ゴミ捨て場まで追いかけたんだけど……見つけられなくて諦めて戻ろうとしてたとこ」
「えっ……あ、そうなんだ。ごめ~ん、ちょっと寄り道してた」
佐伯は一瞬動揺してみせたが、すぐにいつも通りの柔らかい表情になる。さっきの残滓はまったく残っていない。……いや、目の辺りが若干色づいているようにも見えなくもなかった。
俺がゆっくり歩き出して下駄箱に向かうと、当然のようにその横をついてきた。
大きな身長差があるわけではないが、それでも小さいし細い。……冷静に考えれば、こんな子が男に怯えるなんて仕方ないことじゃないか。絶対太刀打ちできない相手が迫ってくるのだから。それをずっと眺めてるだけだったなんて、何をしてたんだろう……。
「それで、わざわざ追いかけてきた用って何?」
「あ、ああー……ええーっと、耳貸して」
「? なあに?」
よく考えたら、俺のあとに渡辺もこのルートを通るのだ。万が一自分が振られたのに俺の誘いを受ける佐伯を目撃されたら、面倒なことになりそうだ。
佐伯は髪を耳にかける。いつも隠れているからなんだか新鮮だ。そっと口を寄せる。
「今日、放課後デートしよう」
佐伯は驚いた顔でぱっと顔をこちらに向けて、しかしそれは怯えたものではなく、すぐに笑顔になった。取り繕ったり、誤魔化したりするものでないことは一目で分かった。
「どう? だめ? 忙しい?」
靴を下駄箱に戻しながら聞く。予定がないことは知っているのだが、喜んでいるのはこれでもかと伝わってくるのだが、わざとそうやって聞いてしまう。
俺はどうしてもこういうとき優しく悟ってやることができない。
「だめじゃない! 忙しくない!」
しかしこういう時に限って佐伯は素直なのだ。変なところでひねくれてるくせに。
ぶんぶんと首を振ったあと、手を体の後ろに回してはにかんだ。
「ほんとはあとでオレが誘おうと思ってたんだ」
「なんだ、焦って追いかける必要なかったな」
「……でも誘って貰えたの嬉しいよ」
そうか、俺から誘わなければ今の喜びようは見れなかったんだよな。うん、ならこっちの方がよかった。
見るからに佐伯はご機嫌だ。
さっきの怯えなんてまったく片鱗もない。
誰とでも楽しげに話していたけど、でも、ちゃんと俺にしか見せない顔というのがこんなにあるのだと感じた。
「あっ、ねえ、こっちの廊下じゃなくて、反対側の階段から上がろ?」
佐伯に服の裾を引かれ、進行方向を変える。
そうだ。さすがに今渡辺に鉢合わせにはなりたくないもんな。
すまんな渡辺。成仏してくれ。