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7章

 さて、クリスマスモードに入る前に、学校は現在テスト期間である。
 元々試験勉強中だからってテスト対策の勉強など改めてしないのだが、しかし全体的な勉強時間が前より減ったので言いようのない不安感というものが芽生えていた。

「だから誘惑とかしないで。今日は勉学に励もう」
「人をサキュバスかなんかみたいに……」

 本日は和泉家の方にお邪魔していた。いくらなんでも俺も佐伯も人の家ではいかがわしいことなんてとてもできないからだ。
 佐伯は人聞きの悪い、と顔をしかめるが、説得力はない。いや、まあ、実際のところ半分くらいは俺が勝手に興奮してるだけなんだけどさ。
 それにしたって佐伯も佐伯だ。
 和泉家の自室に帰ってくるなり、平然と「じゃあ着替えるね~」とその場で制服を脱ぎ始めたのである。そりゃあ脱いだと言っても、下にはキャミソールとかいう下着とか体操ズボンとか履いてて、あんまりお得感ないなとは思った程度だけどさ……。当初の恥じらいはどこへいったのだろうか。
 とにかく、部屋も暖かいし俺も上着を脱いで動きやすい格好でノートのテスト範囲にあたるページを広げた。
 さて、やるぞ、とシャーペンを取り出し、ふと見ると佐伯はぽえーっと口を開けて視線を本棚の方に向けている。

「おい。さっそく集中切れてるじゃないか」
「だってーオレ元々テスト勉強とかあんましないタイプだし」
「一緒にやろうよ」
「桐谷頭いいのになんでまだ勉強するの?」
「どれだけやっても足りないからだよ」

 むうと佐伯は不満げな声をあげながら、そのまま仰向けに倒れた。するとちょうど床に投げるように置かれていた座布団が頭をキャッチする。まさかこいつ、これを計算した上で座布団を変な位置に放置していたのか……?

「佐伯、成績別に悪くないのに勉強嫌いだよね」
「ヤマカンは得意だよ。でもテストっていうボスがいるからだから、桐谷みたいにとりあえず勉強しよっていうのは意味わかんない。レベル上げって嫌いなんだよね」

 ふむ。佐伯はテストや受験のために勉強するタイプのようだ。好成績を収める必要性は理解しているが、勉強内容自体に価値を見いだしていないのだろう。
 まあ、勉強を一切放棄しているわけでもないんだから、十分か。俺にあわせると佐伯にとっては過剰なのだろう。俺だって必要以上に体育の自主練はしたくないしな。

「でも俺は今のうちに勉強をしておきたいんだよな……」
「んー、桐谷が勉強してるときって話しかけない方がいい?」
「……ちょっとした会話くらいなら平気だよ」
「じゃあそうしよっか。オレもちょっとだけなら勉強しよっかな」

 そういって佐伯は再び体を起こし、数学のプリントを出した。
 や、優しい……。
 勉強したいなら帰って一人でやれと言われると思っていたし、自分でもそう思ったのだ……。
 でもさあ、帰ってしまったらその日はもう佐伯に会えないじゃないか。かといって佐伯と遊んだあと帰ったんじゃ、体力的に勉強時間はそれほどとれないのである。
 だから俺は一緒に勉強がしたかったのだ。でもそれは俺のわがままにすぎないわけで、それに付き合わせるのはやっぱり申し訳ないという気持ちもあった。
 だから無理に付き合いはせずとも同じ空間で好きなことをさせてくれるのがなんだか嬉しかった。
 いい距離感だ……。
 ……あれ。でもこれ、佐伯が俺に合わせてくれているおかげだよな……。

「……さ、……佐伯……」
「ん?」

 佐伯は左手を机の下にだらんと下げ、顎を机に乗せるというだらしないポーズで式を書き込んでいた。基本、こいつはいつも机と顔の距離が近い。視力はよくなったそうだが、すぐまた悪くなりそうだ。

「あ、あのさ。その……あの……す……、す……あー…………ありがと……」
「えっなに突然!? 今好きって言おうとしたの?」
「……そ、そうだよ……悪いか!?」
「な、なんでえ……? 突然すぎない……?」
「お、俺の趣味にあわせてくれたから! 嬉しいと思ったんだよ!」

 文句あります!?
 っていうか俺は途中で言うのやめたのに、勝手に予測するやつがいるだろうか。普通気付かないふりをするもんじゃないのか。
 くそ、恥ずかしくて言えなかったのが余計に恥ずかしいじゃないか。
 佐伯は気まずそうな顔をしてゆっくり体を起こす。くそー、変な空気になってしまった。
 ……今まで、バカップルというものをバカにしつつも、まあ誰だって付き合いたてってこんなもんなのかなあという羨望の気持ちも若干あった。だが、実際あんな真似は相当な勇気がないとできないらしい。
 佐伯もこういうときはノリノリでふざけて返したりとかしないし……。

「オレ桐谷にしてもらってばっかりなのにな……」

 佐伯は消しゴムを指ではじきながらぽつりと言った。

「え。そうかな。逆じゃない……?」
「ええ!? だってさ、オレ桐谷が悩んでること解決したりさ、なんにもしたことないじゃん」
「そもそも別に悩むことないからなあ……」

 悩みの大半は佐伯のことだったしな。
 そういうわかりやすいところではなくて、もっと気付きにくいところで助かってると思うのだが……、どうも言葉で説明するのが難しい。
 佐伯は釈然としない顔をしながらもう一問ささっと答えを書いて、斜め後ろのベッドに飛び込んだ。
 机に向かい合わせで座っていたので、俺の視線の先にいることに代わりはない。

「休憩~!」
「五分も経ってませんけど!?」
「時間より質だよ!」

 果たしてこの短時間で彼女は一体何を収得できたというのだろうか……。
 転がっている佐伯の足をちらちら見ながら、なんとか数式の方に意識を向けた。
 ぼふんぼふんとボリュームのある毛布を蹴る音が響く。
 ……そういえば、本当はこの部屋は和泉のもので、ベッドの枕も和泉が使ってたものなんだよな……。
 話を聞くと、この部屋に泊まるのは別に女になってからという話ではなく、和泉がこの家を出てからは時折借りているらしい。だから女子に部屋を貸すなんて、とか男のベッドを借りるなんてっていうのはお門違いだ。それはわかっているのだが、なんだかなあという気持ちがなくもない。
 多分これは俺が和泉に対してコンプレックスを抱いているのが問題だろう。
 正直テストの成績以外で勝てるところがない男だ。
 頭ではないないとわかりつつも、本能的な危機感みたいなものを抱いてもしょうがないと思う。

「……やっぱりさあ……女子視点だと和泉ってかっこいい……?」
「へっ? なんで?」
「いやあ……あいつ文化祭とかでモテてたじゃん。クラスの女子の反応を見慣れてたから意識してなかったけど、やっぱ、いいのかなあって……」
「えー?」

 佐伯は不思議そうな顔をしている。
 男からすると、別に男が憧れる男だとかそういうわけではないのだが、あー、女子ってこういうのが好きなのかなーと思うタイプなのだ。和泉とか、あと石橋もだ。ちょっと悪そうで男っぽい感じ。顔は、まあ、正直いいんだと思うし。

「別にそんなのないよ。汗くさいし。口うるさいじゃん」

 佐伯の評価は辛口だった。
 女子にそんなこと言われたら俺だったら泣いちゃうな。

「桐谷はほかほかのいい匂いだよ」
「そ、それはどうも……」

 一体なにがほかほかなんだ!? 気になるけどなんだか聞くのが怖い……。
 芋みたいな匂いって言われたらどう受け止めたらいいんだ……。
 そこで会話が途切れたので再びノートに目を落とす。
 なるほど……捗らないな……。話ながらでも多少は進んでいるのだが、頭に入っているかというと微妙だな……。

「佐伯、最近授業でわからないとこない? 教えてあげるよ」

 やはり復習するには人に教えるに限る。そうすると自分の理解の浅さもわかるし、と声をかけたのだが「なーい」と釣れない返事だ。むむ……。
 そこから何分か沈黙が続き、佐伯はこちらを見てみたりまた数問だけ解いてみたりを繰り返した。

「あ」

 佐伯が窓の方を見て声を上げた。
 どうしたの、と聞く前にベッドから降りた佐伯はとことことドアに近づいていく。すると玄関のドアが開く音がした。飼い犬かなにかの反応だな。

「かおちゃん帰ってきたみたい。ちょっといってくるね」
「あ、うん」

 挨拶した方がいいんだろうか……。ちょっと心細い。和泉の妹にはまだ会ったことがないのだ。ギャルみたいな子だったらどうしよう。
 下の階からかすかに声が聞こえてくるが、内容までは聞き取れない。
 一分もしない内に二人分の足音が近づいてくる。

「桐谷、かおちゃんがさ、ご挨拶したいんだって。いい?」
「あ、は、はい!」

 慌てて立ち上がって身なりを正す。
 佐伯が顔だけドアから覗かせていたのをきちんと開いて、後ろを気遣いながら中に入ってきた。
 奥からそろそろと部屋に入ってきたのは和泉と裕子さんによく似た女の子だった。
 裕子さんのにこやかな雰囲気とは違う、少し気が強そう……なのか、もしくは緊張しているのか、仏頂面である。背丈は佐伯と同じくらいだな。
 きっちりとブレザーを着ていて、スカートも特段短いわけでもない、真面目そうな印象だった。和泉とは大違いである。

「あのね、昭彦の妹の香織ちゃんだよ」

 佐伯の紹介でぺこっと頭を下げられる。

「は、はじめまして、おにいたちがお世話になってます!」
「こちらこそご丁寧にどうも……。桐谷です」

 こんな改まった挨拶なんてしたことないぞ……。
 っていうか、おにい!! おにいって言ったか!? 本当に実在する呼び名だったのか!

「かおちゃん男の子あんまり得意くないから、緊張してるんだよ。だからあんまり鉢合わせしないようにって思ってたんだけど、中学もテスト期間だったんだね、ごめんね」
「ああ、そうなんだ……俺も女子得意じゃないから、同じだね」

 同じだね、じゃないが……。咄嗟に言ってしまったが、年上として自分から苦手発言はだめなんじゃないか……?

「男子っていっつもバカなことで騒いで嫌なやつばっかだから……でもお兄ちゃんは優しいから別だからね」
「もうお姉ちゃんだけどねえ」

 香織ちゃんはちらちらと佐伯に目を向けるが、俺とは一切目を合わせない。
 男も雑談も苦手なようだし、挨拶をしたらすぐに引っ込むかと思ったのだがもじもじとしながらも部屋を出ていこうとはしなかった。
 な、なに~……? 佐伯に必死に目線を送るが、佐伯も香織ちゃんを気にしているので伝わらない。

「あの……桐谷……さんって頭がいいって、おにいたちから聞いたんですけど……」
「あー……えっと、頭がいいかはどうだろうな。学校の勉強は確かに好きではあるよ」

 ……和泉たち、俺の話をしてたのか。て、照れる。他にどんな風に聞いているんだろう。気になるな。
 ちらちらと俺の向こうの勉強道具を見ているのに気がついて提案してみる。

「テスト勉強、わからないところとかない? 一緒に勉強する?」
「……い、いいんですか?」

 抑揚のなかった声に少しだけ張りが出た気がする。表情もちょっとだけ明るくなった。
 見た目はともかくとして、中身は裕子さんとは真逆だな、と感じた。

「かおちゃん今勉強どこやってるの? 数学苦手だよね」
「三角形の証明……なんですけど……」
「ああー、回答欄広い奴だ! オレもめんどくて得意じゃないんだよねー。部分点もらえるからお得だけど」

 なるほどな。たしかに河合さんも証明はすぐ諦めてしまうんだよな。間違ってても部分点もらえるのに。

「わかった、それなら教えてあげられるよ、こっちおいで」
「あ、ありがとうございます!」

 香織ちゃんはさかさかとした動きでテーブルの開いたところに座り、素早く鞄から筆記用具を取り出している。
 佐伯はついでのように俺にありがとねーといって席につく。
 ……このニコニコした顔、もしかして俺が人にものを教えたがっていたから生徒を連れてきてくれたんだろうかと邪推してしまう。そういう気の利かせ方をするからな、こいつは。
 俺は自分の勉強のおさらいをするために教えたかっただけなんだけどな……。
 まあいいや、ちゃんとやる気のある相手にものを教えるのは楽しいしな。
 佐伯との二人きりの時間でなくなってしまったのはちょっと残念だけど、今日はいちゃつく予定があったわけでもないし、むしろモチベーションが上がって有益かもしれないよな。
 香織ちゃんの緊張をほぐそうとしているのか、楽しげにちょっかいをかけている佐伯を見て、そう思った。

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「ありがとね、ほんとに桐谷、横で見ててもちょーいい先生だったよー」

 和泉家の玄関口、佐伯は見送りに出てきてくれていた。

「香織ちゃんが頭よかったからだよ。飲み込み早いし」
「かおちゃんは和泉家の星だからね!」

 どうやら裕子さんも和泉同様、あまり学校の勉強は得意ではないらしい。なるほどな。たしかにどちらかというと感覚派の芸術肌っぽいしな。
 その中で唯一香織ちゃんは学業をがんばっているらしいのだ。偉い……。
 勉強をやれば偉いというわけではないが、勉強をそれほど優先しない教育方針の家庭で、自発的に勉学に努力を向けるというのは結構難易度が高いことだと思う。
 現に、家族にわからない部分について聞いてもあまり当てにならないんだそうだ。佐伯もわかる部分は人よりもすんなりと理解してしまうタイプだし、わからないところはそのまま放置するタイプだから、教えるのがうまいとは言えない。
 おまけに部活に委員会と忙しく、人見知りするタイプなのもあって塾や家庭教師も親に頼めなかったんだそうだ。

「でもごめんね、自分の勉強全然進まなかったよね」
「ああ、それはまあいいよ。このくらいで点数変わるほど普段適当な勉強してないしね」
「お、かっこいーじゃーん」

 なんだか茶化されている気がする……。
 まあいいや。ドアに手をかける。

「じゃあまた明日ね」
「えっ、あ。うん」
「ん? なに?」

 何か用でもあったのだろうかと手を止め、佐伯の表情を伺う。
 佐伯は框の上に立っていたので、普段よりも目線が高い位置にいる。その表情は、こっちが質問しているっていうのにきょとんとしたような、そんな感情のよくわからない顔だ。

「いや、なんでもないよ?」
「ええ? 今の反応はなにかあるでしょ。何かしたいとかあった?」

 佐伯はぷるぷると首を振った。
 ええ~? なんか引っかかるな。何か期待外れとか、そういう反応だったじゃないか。

「あのさ、すごく申し訳ないと思うんだけどね、佐伯が俺の気持ちを察して動いてくれるように俺もやりたいけど、うまくできないんだよ。だから手間をかけて悪いけど言葉で教えてもらいたい」
「え……っと、うん、ほんとになんでもないよ? ただ、もう帰る時間なんだーって思っただけ。思わせぶりなこと言っちゃってごめんね?」

 むむ。そうなのか。
 佐伯は戸惑った顔をしていた。こういう顔、付き合い初めてから頻繁に見るようになったな。
 その台詞が本音なのか、取り繕っているのかは俺に判断はつかない。よく考えれば、佐伯自身自分の感情を言語化できるほど自覚しているのかもわからなかった。
 正直、自分の感情に敏感なタイプだとは思えないし……。
 もしかしたら俺は無理難題をつきつけているのかもしれないな。
 本当に何も考えてないのに俺が勘違いして大騒ぎしてるだけってこともあるしな……。やっぱりあんまり気を遣いすぎない方がいいんだろうか。難しい。

「……まあ、何かあったら遠慮なく口に出してよ」

 それだけ伝えておいて一歩引き返し、俺より高い位置にある頭を撫でた。一回やってみたかったんだよな。普段の身長差だと、見下ろす形になるのがなんだかいい男ぶってるみたいで抵抗あったが、自分より高い位置に頭があると動物園の生き物と触れあってるみたいな気持ちになる。おーよしよし、とわさわさ色気のない触り方をする。
 佐伯はくすぐったそうにけらけらと声を出して笑った。

「今日はじめて触ったね」

 若干乱れた髪を揺らし、ふふふ、と首を竦めて佐伯が言うので、俺はなんだか途端に気恥ずかしくなった。
 佐伯は決して口にしなかったが、なんとなくそうやって笑う姿を見ると、この子は俺のこと好きなんだろうなと感じたからだ。
 こんなこともし間違えてたら恥ずかしくて死んでしまうけど、でも、多分勘違いじゃないと思う。そのくらい俺は佐伯の喋り方や笑い方の違いを感じ取れるようになっていたのだと実感した。
 口に出せというのは、やっぱり無粋なことだったかな……。
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