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6章

「だ、抱きしめても、いい?」

 付き合い始めて、はじめての休日。
 俺はまた佐伯の部屋を訪れていたのである。
 出かけるのもいいが、まずは二人の距離感というものを図るべきだと判断したのである。別にやましいことをしたいってわけではなくて、いまだ実感というものが湧いていなくて、二人きりで過ごしたのがまるで夢心地になってしまっていると思ったのだ。
 それにお互いちゃんと恋愛して付き合うに至ったわけではない。そもそも異性として意識もしていなかったわけだし、相手を「そういう目」で見て接するということにお互い慣れる必要があるだろう。今のままではさすがに不自然すぎるというか、なんだか妙に緊張してしまう。
 そう俺が熱く語っているのを佐伯は聞いてるんだかいないんだか、きょとんとした顔でこちらを見上げるばかりであった。
 そんな顔を見て思わずぽろっと出てしまった俺の本音がさっきのものである。我ながら情けない……!

「服脱ぐ?」
「い、いい! 着てていい!」

 佐伯もこんな調子である。
 俺のことを一体なんだと思ってるんだ?
 部屋に入ったときもすぐに「じゃあ……」といって服を脱ごうとしはじめて慌てて止めたのだ。やっぱりよくない。佐伯の貞操観念はおかしくなっている。正さないと、良くない。俺の青春が乱れに乱れまくりそうだ。
 俺に静止させられた佐伯はぽりぽりと頬を掻いて少しだけ悩んだ。

「えーと、うん。いいよ。ハグだね。どうぞ」

 ほら、というように佐伯は部屋の真ん中に突っ立って腕を少し広げる。
 恥じらいとか、そういうものはないらしい。
 ハグってこう改まってするものだっけ……。なんか、イメージと違う……。
 しかし正しいハグのやり方というものは今まで習ってこなかった。それならまずは形から入るべきだろう。さりげなく、とか流れにあわせて……みたいなのはきっと応用なのだ。俺にはまだ早い。

「し、失礼します……」

 躊躇しながら、おずおずと腕を佐伯の背中に回す。相変わらず腕が余るほど細い。
 そしてなにより柔らかい。痩せているのに、それでもなお柔らかかった。ふにゃっとしている。筋肉がないからかな。

「わ……」

 腕の中で小さく佐伯が声を上げた。

「だ、大丈夫?」
「うん。なんか、服着て抱きしめられるの、初めてかも」

 ……。
 なんだろう。なにか涙腺に来るものがあった。腕に少し力を込める。
 するとちょっとだけ佐伯が抵抗した。

「ね、ねえ、なんだか恥ずかしい。部屋でこんな、突っ立って抱き合うのって、変だもん」
「ご、ごめん」

 拒絶という感じではないものの、緩く体を引いて逃げるようにされたのですぐに解放した。佐伯の顔は赤い。俺も多分赤いと思う。
 ま、まあたしかにな。異様な光景ではあったのかもしれない。
 佐伯は少し所在なさげにしたのち、ベッドに持たれるように床に腰掛けて膝を抱えた。
 それにならって俺も床に座る。

「あ、あのさ、嫌だったら言ってくれていいからね」
「……別に嫌じゃないよ?」

 佐伯は普段人と必要以上に接触はしない。女になって以降は女子同士で手を繋ぐくらいは触れ合ってるけど、でもそのくらいだ。
 家族との触れ合いだってなさそうだし。
 要するに多分こいつは人との接触に免疫がないのだ。
 あるとすればここ数ヶ月での性的接触なのだろう。
 そう考えると、人と触れ合う=そういうこと、という方程式がこいつの中でできてしまっているのもおかしなことではないと思えた。
 俺の勝手な解釈にすぎないが、そういう下心みたいなものを含めずに触れ合おうとした場合、佐伯はこれに一体なんの意味があるのか、というような顔をするのだ。
 普段のころころと変わる表情が嘘のように。こっちの意図を必死に伺おうとしていて、でもわからない、そういう顔をする。
 ふむ。段々読めてきたぞ。
 なんにせよ、無理に取り繕った反応をされるよりずっといい。こういう反応も佐伯の素なのだとわかってからはそう考えることにした。

「そりゃあね? ドラマとかでさ、こう、ひっついてるの見たことはあるから、そういうもんだってのはわかるんだよ。昭彦と河合さんもやるし。でもそれって自分がやるってなると……なんか、変な感じ。他の人に見られたら、笑われそうで」

 笑う……笑うかなあ……。そりゃあ知らないやつが恋人といちゃついてるところなんて見たくはないけど。別に見られるところでやるわけじゃないし、関係ないと思うのだが。

「俺は今までこういうの、憧れてたんだよ。彼女いるんだ! って実感できるじゃん。他の人にやったら捕まるし。やってみたかったんだよ」
「ふうん……」

 やばい。興味なさそうだ。
 唇を尖らせ、佐伯は鞄からファイルを出して、ぱらぱらと学校から貰ってきたプリントをめくるのをくり返していた。

「……まあ、桐谷が嬉しいなら、いいよ」

 い、いいのか……?

「お尻を舐めろとか言われたらちゃんとオレだって嫌っていうよ。どうしてもっていうなら頑張るけど……」
「が、頑張るなよそんなこと……! ていうか舐められたくないし!」

 ほんとに俺のことどういう目で見てるんだ!?
 ま、まあでも、その言葉は信じよう。ちゃんと嫌ならサインを出してくれる。さすがに佐伯だってなんでもかんでも合わせてくれるわけではないのだ。だから嫌がってないっていうことは、本当に嫌がってない。うん。信じよう。
 ほらな。やっぱりこういう間合いを確認するためにもちゃんと向き合う時間は大事なのだ。
 ともかく、許可も出たのでずりずりと床を移動して佐伯との距離を詰め、ぎこちない動きで横から肩を抱いてみる。
 宣言するのはさすがに無粋だと反省した上での行動だったのだが、どうにも違和感の拭えない。なにか違うんだよな……手順を間違えてるんだろうか。

「桐谷今すっごい、やるぞ、やるぞーって顔してたね」
「う、うるさいな……」

 バレバレじゃないか……。
 そうしてやっぱり佐伯はどこか気まずそうな、居心地悪そうに肩を小さく縮めているのである。

「……あのさ、桐谷ってオレのこと別に好きじゃなかったでしょ? 恋人になったからってこういうこと急にしたがるものなの? 桐谷こそ無理してない?」

 ……痛いところを突かれた。
 もちろん無理なんてしてない。やりたくてやっている。
 でも好きじゃなかっただろ、と言われてそのとおりですとは断言できないところはちゃんとあるのだ。そりゃあ数日前の俺に佐伯のこと好きなのかと聞いたら答えはNOと返ってくるだろうけど、正直俺が自分の感情を正確に把握しているかと言われると、そんなことはないのだと思う。

「う、失ってから気づく存在の大切さみたいなものあるじゃん?」
「え。オレ失われたの?」
「先輩というのとくっついてたら失われてたという認識になると思う」
「……ああ、そういう……?」

 佐伯はやっぱり「ふぅん」というような目をするのである。
 そんな顔をするくせに、ちょっと頭をこちらにもたれさせるように傾けるものだから、なんだか受け入れられたような気がしてしまう。

「ねえ、課題するの?」

 こちらを見上げて佐伯が聞いてくる。ううーん、当然ながら距離が近い。

「ああ……、いいよ、やる?」
「え。やだけど」

 な、何ぃ……?

「なんで聞いた!?」
「桐谷がやりたいのかなって思って」
「言ってないじゃんそんなこと」
「じゃあ何がしたいのさ」
「い、イチャつきたいんですけど……!?」
「だったらもっとわかりやすいことしてよ」

 なんだ!?
 わ、わかりにくいかな!? 丸出しじゃないですか!?
 そりゃあ、佐伯はこういう触れ合い方はぴんときていないようだけど、でも知識としてはわかると言っていたじゃないか!
 何故佐伯がそんな反応するのかがわからない。
 ふんふんと鼻息荒く佐伯は唇を尖らせて目一杯不機嫌そうな顔をしている。でも多分本気で機嫌が悪いわけではないだろう。
 きっとちょっとほっぺとかつっついたりすればすぐ笑ってしまうような、そんなレベルだ。
 やってみようかな。調子乗ってるって思われるかな。
 佐伯はむっすりした顔で正面を向いている。
 ちらちらと様子を伺っていると、佐伯は小さく口を開いた。

「やっぱり、胸ないから……?」
「は?」
「ぬ、脱がせてみたら思ってたより貧相でがっかりしたんでしょ!」
「はあああ!? 言ってないよねそんなこと!」
「だって巨乳好きのくせに!」
「揉めない巨乳より揉める貧乳の方が大事に決まってるじゃん!」
「揉める巨乳がいればそっちに行くってこと……!?」
「あっ! ち、違う! そういう意味じゃない!」

 し、しまった……! 今のは完全に失言だ。
 佐伯の顔は「やっぱり……」というような表情になっている。違うんだ!

「……今女神様に、巨乳の佐伯を連れてこられても、今の佐伯を選ぶ自信あるよ」
「……どうかなあ……」
「そんなこと言われたら証明しようがないだろ!」

 佐伯は納得できないような顔をしながらも、小さく「たしかに」と頷いた。

「だ、抱き合うとかしてるじゃない。それじゃダメってこと? わかりやすくなかった?」

 佐伯は相変わらずむっすりした顔をしている。

「佐伯は……そのー……エッチなことをしたいの……?」
「したくはない……けど……桐谷がしたいって思ったらいいなって思うよ」

 な、何その台詞~~~。
 ……い、いやいや待て待て。佐伯はしたくないんじゃないか。

「し、したくなかったの? したくないことはやらない方がいいよね? 俺も佐伯がしたくないことはやりたくないよ」
「うんと……違くて……、そういうこと自体はそんなにしたくないけど……でもそれで桐谷が喜んだら嬉しいからしたいよ」

 何その台詞~~~!!!
 ……いっいやいや! 流されるな!

「さ、佐伯がしたくなったらでいいよ……。俺はこの間ので十分ま、満足できたから……」

 そうだ、そう思い込むのだ!
 しかし佐伯は心配げな表情を浮かべた。

「……もしかしてトラウマになっちゃった? オレが無理に付き合わせちゃったから……」
「滅相もございません!!!」

 むしろものすごく良い思い出ですから!!
 だめだこいつ! 話が通じないぞ!!
 どうすればきちんと俺の考えが伝わるのか。
 言葉でいくらいっても無駄なような気もするが、だからって諦めてはだめだとも思う。
 ふむ。と横並びに座っていたのを向き合うように座り直し、腕を組む。

「俺は今、佐伯に対して決して体目当てだとか、そういうことをしたいから付き合ってるという誤解をされたくないという気持ちが働いているわけだよ」
「あ。でた。難しい喋り方しようとしてる」
「でたってなんだよ。人を化け物みたいに。……とにかく、愛情表現というのはなにも性的接触のみではないよね? たしかにそういう触れ合い方も大事かもしれないけど、俺たちはまずそれ以外の表現方法をきちんと踏んでいくべきだと思う」
「……それ、オレはよくわかんないんだってば」

 そういう佐伯の表情は拗ねた子供のような顔だった。
 普段あれだけ色んな人と楽しそうに話したり、仲良くなっているというのに。それと何も変わらないと思うのに。
 こいつは恋愛が絡むとどうもひねくれた思考になるらしい。

「裕子さんのことを好きだったとき、エロいことしたいなーってことばっかり考えてたの?」
「ち、違うよ! バカ!」

 ほ、ほらあ〜!
 バカ呼ばわりは見逃してやる。

「ゆ、裕子さんとは、家族みたいになりたかったんだよ。だから多分、桐谷の言う恋人とはまた違うと思う」

 ……なるほど。
 佐伯の家族像にもよるが、裕子さんに対して感じていた感情と一般的な恋人像とはズレがあるのかもしれない。
 こいつ、変わってたもんなあ……あんなに毎日女の子に囲まれて平然としてるなんて。友達は友達と割り切れるなんて、いくら好きな人がいるからって考えられない話だ。
 ……ううむ。恋人だなんだと考え過ぎて俺もよくわからなくなってきた。そもそも、きちんと自分が理解しているとも言い難い。
 長年こじらせ続けた実績があるじゃないか。俺だって初心者なのだ。

「ふむ。俺の恋人という概念への憧れが邪魔をしている可能性があるな」
「え。何? めんどくさい話やだよ」
「う、うるさいな! 思考停止はお前の悪い癖だぞ」

 あ。思わず以前のノリでちょっと厳しい言葉が出てしまった。しかし佐伯は頬を膨らませて不機嫌そうな顔をするだけだ。
 文句は出なさそうなので続けることにする。

「俺の恋人へのイメージは、すでに関係性が確立されていてそこに至るまでの道筋とか前段階というものが省略されていたんだよ。だって身近な存在ではなかったし。告白をしたらすぐ思い描いた恋人同士というものになるような認識でいた。もちろんそれが誤っていることは冷静に考えればわかるんだけどさ」

 宣言したからといって関係性がついてくるわけではない。距離感や空気感といったものは自分たちで作らなければいけないし、人によって形は違うのだ。当たり前である。
 しかし俺はあまりに非現実的なことだと思っていたから、それっぽく振る舞わなければ恋人になれないような感覚すらしたのだ。
 そして俺と佐伯はおおよそ一般的で問題のない男女の関係からはかけ離れている。当然だ。イレギュラーな事情があまりに多いのだから。
 俺の幻想に当て嵌めようとしたらそりゃ無理が出てくる。

「ごめん、俺の固定観念で振り回していたかもしれない」
「……えっ、な、なに? なんの話!?」
「恋人らしく振る舞うということに固執していたと今認識した」
「……? 別に恋人とやりたいことあったんだったらやればいいじゃない。とんでもない変態みたいなことじゃないんだったら付き合うよ」

 や、やばい。こいつすごい誘惑してくるぞ。
 俺がせっかく冷静になってきたというのに! 甘やかそうとするな!

「エ、エロいこと以外にも……やりたいことはいっぱいあるから……!」
「あ、そうなんだ」

 なんとか煩悩を振り切った。
 佐伯も、俺が別にスケベなことをしたくないわけではないとわかったのか、それ以上不満げな顔はしなかった。
 エロいことをしないといったら不満げになるって、どんな状況だよ。エロ漫画か?
 くそう、これは思ったよりも強敵だぞ。
 俺は彼女ができたらエロいことばっかりしようとして引かれたりしないよう気をつけないとな、ということを今まで考えていたが、これではまるであべこべだ。
 俺の恋愛経験値が小学生レベルだとすると、佐伯は赤ちゃんなのだ。高校生レベルのお付き合いはまだ早いのだ。

 多分佐伯の言うまま誘惑に負けていたら、俺の気持ちとかは正しく伝わらないだろうと、俺は根拠もなく思った。
 今まで佐伯を傷つけた男たちと同類になるようで嫌だったのだ。
 だからいくら興味があったって、魅惑的だからってそう安々と流されてはいけないのだ。

「せっかくゴム買ってきたのにね」

 …………が、我慢だ!! 
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