6章
母親に肩を揺すられて目が覚めた。
九時。完全に遅刻だ。
ずっと家にいるんだから、もっと早くに起こしてくれれば良かったのに、と文句を言うと、わざわざ部屋に入って起こしに来たのは今ので四回目だそうだ。う、うーむ。全く記憶にない。
「いったあ~……」
「あら、怪我したの?」
牛乳をコップに注いで差し出してくれながら心配げな声で母親に顔を覗き込まれて、思わず目を逸らした。
「いや、まあ……ただの筋肉痛だよ、昨日体育ではしゃいじゃって……」
「あら、体操着洗濯してたのに……」
「…………いやっあの、急遽授業入れ替わったの忘れてて! 友達に借りたから、問題なかったよ!」
昨日のあれやこれやを思い出して、どうも気まずくて母親の顔を直視できなかった。ものすごい悪さをしでかしたあとのような後ろめたさがある。
そして嘘に嘘を重ねてしまうし。
昨夜、確か佐伯の家に着いたのが五時前、そして出たのは九時近くになっていた。
これがドラマだとかだったら朝まで一緒に寝て、鳥の声で目が覚めて幸せそうにおはようなんて言ってたんだろうと思う。
しかし俺たちは未成年で、俺には晩ご飯を作って待っている親がいて、佐伯にも責任もって佐伯を預かっている和泉んちのおばさんがいるのだ。
佐伯を和泉の家に送った後、慌てて家に連絡したところ、ここ数年で一番の雷が落ちた。なんなら、人生で一番だったかもしれない。
普段から外を出歩く子供なら、まあ男だしそれほど心配されるもんじゃないだろう。しかし俺は今までどんなに遅くても六時頃には帰るか、それ以上かかる場合は遅くなる旨とどこにいるのかきちんと連絡していたから、さぞ心配をかけたことだろうと思う。
でもさすがにあの話の最中では連絡なんてとてもできなかったし、そのあとはもっと無理だった。
行きしにはそんなに遅くなるなんて想像もつかなかったし。
その上帰る頃にはもうへとへとで、お腹もぺこぺこに空いていたのにそんなことに構っている間もなく寝てしまった。そうして気づいたらベッドの上で朝を迎えていたというわけだ。
母親にはろくな説明ができていない。する気もないが、せめて心配させないための方便くらいは言いたいのだが、今更蒸し返しても藪蛇になりそうだし、余計なことはしないほうがよさそうだ。
「全く。今日は特別に車で送ってあげるから、ゆっくり食べなさい」
「す、すみません……」
昨日の夕飯の残りをちまちまと食べる。
一周回って空腹を感じなくなっていたのだ。まあ、慌てて食べても胃が驚くしな。
今日は確か二時間目が体育だから、できるだけここで時間を稼ごう。
「ん?」
メールだ。
母親が台所に向かった隙に確認する。
佐伯友也
件名・なし
本文・今日やすみ?
その名前を見るだけで、先ほどまで感じていた背徳感とか申し訳なさが吹っ飛んでしまった。
そうだよな、そりゃ昨日の今日で学校こなかったら心配もするよな。
全身の筋肉痛と遅刻するという内容を返信する。
そうしている間にもニヤアと口角が上がっていくのが押さえきれない。
理性の方ではあれですべて解決したわけではないぞ、と言い聞かせてくるのだが、感情の方が容易にそれを押しのける。
そう、俺は、彼女ができたのだ!! そして、経験済みとなったのだ!!!!
しかも佐伯と!
考えられるか?
数ヶ月前の俺が知ったら変な冗談だと笑い飛ばすだろうな。いや、気味悪がって鳥肌でも立てるだろうか。
だって前の佐伯は和泉と同列だった。今の俺からすると和泉とそういう関係になるようなもんだ。……恐ろしい。想像はできる限りしたくない。
「こら、食事中に携帯見ない」
「あ、ご、ごめんなさい……」
「なあに〜? にやにやして。悪巧み?」
「ち、違うよ! 友達から面白いメールが来てただけ!」
母にたしなめられて慌てて画面を伏せる。
少し、気を張った方がいいかな。
まさか自分がと思っていたが、男女交際に熱中して他が疎かになるなんてとんでもない話だ。一番鼻で笑ってきた存在だ。
しかし気を抜くと佐伯は今どうしてるかな、とか考えてしまうのだった。調子のいい話だと思う。
ーーー
「え、隠したい?」
学校へつくなり、佐伯は俺を教室の隅に引っ張りこそこそと相談してきた。
当然話題は俺たちの関係についてだ。
「桐谷と付き合ってるのが恥ずかしいっていうわけじゃないよ? ただちょっと……オレが男子と付き合ってるっていうのが、まだ知られたくなくて……」
「……そりゃあ俺だってクラスのみんなに公表しようなんて思わないけど、それって和泉や河合さんにも?」
佐伯は少し悩む仕草をしたあと、こくこくと頷いた。
「は、恥ずかしいよ……、あんなに男に戻りたがってたのにさ、無理とわかったらすぐ彼氏作ってるなんて……」
まあ、言われてみれば確かにそうか。いくらなんでも切り替えが早すぎるな。
「和泉はお前に元々彼氏がいるって思ってたみたいだけど……」
「そ、それはあいつが勝手に勘違いしたんだもん。違うって言ったし。昭彦なんて一番知られたくないよ、ずっと兄弟みたいに育ってきたのに、女として満喫してるみたいなこと……」
そこは今更なんじゃないだろうか……。
うううーん、でもまあ、たしかに、兄弟同然の相手が友人と付き合ってるっていうのはやっぱり気まずいものかもしれない。
「俺としては、仲間内でこういう隠し事はしたくないんだけどな……されたら嫌だし」
「……ご、ごめん……」
「……いや、いいよ。佐伯が大丈夫だって思うまでは秘密にしておこう」
まあ、元々佐伯はなんでもかんでも人に話すタイプではなかったし、しょうがないか。佐伯がもういいだろうと判断してから折を見て報告するのでも十分だろう。
俺の返答に佐伯は安心したように表情を綻ばせた。
「あ。ねえ、オレのこと友也って呼んでみて」
「えっなんで?」
「試しに。だって恋人って名前で呼んだりするじゃん」
どういう会話の転換だ?
こいつもこいつで意外と初めての彼氏ってものに浮かれてるんだろうか。可愛いところあるじゃないか。
……でもそんなの周りからみたら何かあっただろうことはモロバレなんじゃないか……?
「と、友也……?」
「……うわあ、違和感~」
「ええ……」
「やっぱ佐伯でいーよ」
恋人同士の名前呼びタイムは一瞬で終了してしまった。
「あ、そうだ、ゴム買っとかないとだよね」
思わずむせて喘息の発作が出るかと思った。
あんまりにも平然と日常会話に挟んでくるから。
佐伯は慌てて俺の背中をさする。
「そ、そういうのはそういう雰囲気のときに言って貰わないと……」
「そんな雰囲気になってから買いに行ったんじゃ中断しなきゃいけないじゃない。オレ買っとこうか?」
じんわりと昨日の複雑な記憶が蘇る。
正直、佐伯に初々しさとかたどたどしさとか、そういうものはまったくなかった。しかし、だからといってもノリノリってほどでもなかったのだ。
色々教えてはくれていたけど、無理に先輩ぶってるみたいでもしかしてちょっと背伸びしてるんじゃないかなという感覚があった。
ずっと佐伯は経験済みであることを申し訳なさそうにしていたのだが、そんな振る舞いのおかげで全く気にはならなかったのだ。なんだろう、健気さすら感じた。ううん、俺がこう素直に佐伯を褒めるのはやっぱりまだ変な感じだな……。
しかし、まあ、佐伯のベッドの上には使い差しのコンドームの箱が無造作に放置されていたのだ。それを使えと言われたときは内心ものすごく抵抗があった。しかも残り僅かだったのも心にグサッときた。元々いくつ入りなのか知らないけどさ。
それでもなお萎えはしなかった自分にびっくりだった。
そんなちょっと苦い記憶を思い出す。
「……い、いい、自分で、か、買う」
正直、無事に買える自信は全くない。コンビニにあることは知っているが、いくらするのかもどの棚にあるのかも知らない。しかし女子に買わせるものではないだろう。
さすがに鞄を漁られることなんて普段ないが、親にバレないようにしないと……。いや、買うのは自分でやって、佐伯に持っていて貰った方がいいだろうか……、部屋に置いておいてもらえれば……、いや、というか俺は佐伯の家に通うのか……? さすがに交通費がきついな……。
彼女ができたら、デートコースはどうしよう、とか下校のときはどうしようとか色々脳内シミュレートを繰り返してきたが、こんなことを気にしないといけないとは思ってもみなかった……。
そもそも、もし彼女ができたとしてもまずキスまでどれだけ早く都合よく見積もっても数ヶ月かかると踏んでいたのだ。こんなのもはや異次元だ。心の準備などできているはずがなかった。
「あ、あのー、先輩は佐伯に買わせてたの……?」
「ううん? でも桐谷が買いに行くの恥ずかしかったら別にオレはそこまで嫌じゃないよ。なくて困るのはオレだし。薬局とかにいけばあるんだよね?」
「い、いや、大丈夫」
少しほっとした。なんだろう、ちゃんと佐伯も人と付き合うのは初めてなんだと実感できるからだろうか。別に誰と付き合っててもいいんだけどさ。うん。
「とりあえず、バレたくないならそういう話は学校ではよそう。落ち着いていられないから」
「あ、ご、ごめん、そうだね」
といいつつも急激に佐伯を抱きしめたくなっていた。
だって…だってさ! 避妊具を買おうということは、つまりそういうことをしたいってことじゃないか! 多分そういうことばかり先輩としていたせいなのかなというのは思わなくもないが、それはそれだ。
俺は完全に初めてだったし、とてもじゃないが上手にできたとは言えない。嫌がられても文句は言えない立場だった。
だって、逆の立場で考えても見ろ。男と裸でひっついて寝るんだぞ……!? 地獄だろ。できる限りやりたかないだろ。佐伯の様子を見るにものすごく気持ちいい様子もなかったし……。これは俺の技術の問題なんだろうか。いいや、わからないけど、とにかく、下手くそで嫌な相手とやってやる義理なんてないことなんだ。それを、なんの抵抗もなく受け入れてくれるんだぞ!
それにしてもこういう関係になってみると途端に佐伯のとる行動一つ一つに感動してしまうんだから、現金な話だ……。
ーーー
「なーんかお前ら、妙に距離近くね?」
しかし、思った以上に早く危機はやってきた。
「なっななななにが!?」
「なんか、すげえ楽しそうっつーか……目がよくあってるっつーか……」
和泉がじっとりとした目で俺と佐伯を見比べていた。
鈍感で自分の興味がないことにはとことん関心を持たない和泉が、なんで!? だってこいつは佐伯が裕子さんに惚れてることにすら気付かなかったんだぞ!
っていうか、和泉が気付くほどだということは、クラス全員が察しがつくレベルなんじゃないだろうか……。
「喧嘩したと思ったら、なんなんだよその変わり身の早さは」
「喧嘩して仲直りして、もっと仲良くなったんだよ。いいでしょー」
佐伯はまったく動揺する素振りもなくいつも通りに返答する。
それに対して和泉は据わった目でふうんと言うだけだ。
俺ばっかり慌てふためいている。
「ま、いいけどさ。友也はまじで、もっと早く家帰れよ。何かあったらうちのお母さん心配で死んじまうから」
「あっうん、それはごめん」
たしかに、部活もないのに九時に帰ってくるなんてさすがに心配になるよな……。
しかしこれからは俺と佐伯で気をつければ問題ないだろう。
不純異性交遊はよくない。夜遅くまで出歩かない。当然だ。学生はそういったことに耽るべきではないのだ。
まあ、機会があれば積極的にやっていきたい所存ではあるのだが。
そもそも、うちの学校は一応男女交際自体禁止なんだけどな……。
俺もとうとう校則を破ってしまったな。へへへ。
九時。完全に遅刻だ。
ずっと家にいるんだから、もっと早くに起こしてくれれば良かったのに、と文句を言うと、わざわざ部屋に入って起こしに来たのは今ので四回目だそうだ。う、うーむ。全く記憶にない。
「いったあ~……」
「あら、怪我したの?」
牛乳をコップに注いで差し出してくれながら心配げな声で母親に顔を覗き込まれて、思わず目を逸らした。
「いや、まあ……ただの筋肉痛だよ、昨日体育ではしゃいじゃって……」
「あら、体操着洗濯してたのに……」
「…………いやっあの、急遽授業入れ替わったの忘れてて! 友達に借りたから、問題なかったよ!」
昨日のあれやこれやを思い出して、どうも気まずくて母親の顔を直視できなかった。ものすごい悪さをしでかしたあとのような後ろめたさがある。
そして嘘に嘘を重ねてしまうし。
昨夜、確か佐伯の家に着いたのが五時前、そして出たのは九時近くになっていた。
これがドラマだとかだったら朝まで一緒に寝て、鳥の声で目が覚めて幸せそうにおはようなんて言ってたんだろうと思う。
しかし俺たちは未成年で、俺には晩ご飯を作って待っている親がいて、佐伯にも責任もって佐伯を預かっている和泉んちのおばさんがいるのだ。
佐伯を和泉の家に送った後、慌てて家に連絡したところ、ここ数年で一番の雷が落ちた。なんなら、人生で一番だったかもしれない。
普段から外を出歩く子供なら、まあ男だしそれほど心配されるもんじゃないだろう。しかし俺は今までどんなに遅くても六時頃には帰るか、それ以上かかる場合は遅くなる旨とどこにいるのかきちんと連絡していたから、さぞ心配をかけたことだろうと思う。
でもさすがにあの話の最中では連絡なんてとてもできなかったし、そのあとはもっと無理だった。
行きしにはそんなに遅くなるなんて想像もつかなかったし。
その上帰る頃にはもうへとへとで、お腹もぺこぺこに空いていたのにそんなことに構っている間もなく寝てしまった。そうして気づいたらベッドの上で朝を迎えていたというわけだ。
母親にはろくな説明ができていない。する気もないが、せめて心配させないための方便くらいは言いたいのだが、今更蒸し返しても藪蛇になりそうだし、余計なことはしないほうがよさそうだ。
「全く。今日は特別に車で送ってあげるから、ゆっくり食べなさい」
「す、すみません……」
昨日の夕飯の残りをちまちまと食べる。
一周回って空腹を感じなくなっていたのだ。まあ、慌てて食べても胃が驚くしな。
今日は確か二時間目が体育だから、できるだけここで時間を稼ごう。
「ん?」
メールだ。
母親が台所に向かった隙に確認する。
佐伯友也
件名・なし
本文・今日やすみ?
その名前を見るだけで、先ほどまで感じていた背徳感とか申し訳なさが吹っ飛んでしまった。
そうだよな、そりゃ昨日の今日で学校こなかったら心配もするよな。
全身の筋肉痛と遅刻するという内容を返信する。
そうしている間にもニヤアと口角が上がっていくのが押さえきれない。
理性の方ではあれですべて解決したわけではないぞ、と言い聞かせてくるのだが、感情の方が容易にそれを押しのける。
そう、俺は、彼女ができたのだ!! そして、経験済みとなったのだ!!!!
しかも佐伯と!
考えられるか?
数ヶ月前の俺が知ったら変な冗談だと笑い飛ばすだろうな。いや、気味悪がって鳥肌でも立てるだろうか。
だって前の佐伯は和泉と同列だった。今の俺からすると和泉とそういう関係になるようなもんだ。……恐ろしい。想像はできる限りしたくない。
「こら、食事中に携帯見ない」
「あ、ご、ごめんなさい……」
「なあに〜? にやにやして。悪巧み?」
「ち、違うよ! 友達から面白いメールが来てただけ!」
母にたしなめられて慌てて画面を伏せる。
少し、気を張った方がいいかな。
まさか自分がと思っていたが、男女交際に熱中して他が疎かになるなんてとんでもない話だ。一番鼻で笑ってきた存在だ。
しかし気を抜くと佐伯は今どうしてるかな、とか考えてしまうのだった。調子のいい話だと思う。
ーーー
「え、隠したい?」
学校へつくなり、佐伯は俺を教室の隅に引っ張りこそこそと相談してきた。
当然話題は俺たちの関係についてだ。
「桐谷と付き合ってるのが恥ずかしいっていうわけじゃないよ? ただちょっと……オレが男子と付き合ってるっていうのが、まだ知られたくなくて……」
「……そりゃあ俺だってクラスのみんなに公表しようなんて思わないけど、それって和泉や河合さんにも?」
佐伯は少し悩む仕草をしたあと、こくこくと頷いた。
「は、恥ずかしいよ……、あんなに男に戻りたがってたのにさ、無理とわかったらすぐ彼氏作ってるなんて……」
まあ、言われてみれば確かにそうか。いくらなんでも切り替えが早すぎるな。
「和泉はお前に元々彼氏がいるって思ってたみたいだけど……」
「そ、それはあいつが勝手に勘違いしたんだもん。違うって言ったし。昭彦なんて一番知られたくないよ、ずっと兄弟みたいに育ってきたのに、女として満喫してるみたいなこと……」
そこは今更なんじゃないだろうか……。
うううーん、でもまあ、たしかに、兄弟同然の相手が友人と付き合ってるっていうのはやっぱり気まずいものかもしれない。
「俺としては、仲間内でこういう隠し事はしたくないんだけどな……されたら嫌だし」
「……ご、ごめん……」
「……いや、いいよ。佐伯が大丈夫だって思うまでは秘密にしておこう」
まあ、元々佐伯はなんでもかんでも人に話すタイプではなかったし、しょうがないか。佐伯がもういいだろうと判断してから折を見て報告するのでも十分だろう。
俺の返答に佐伯は安心したように表情を綻ばせた。
「あ。ねえ、オレのこと友也って呼んでみて」
「えっなんで?」
「試しに。だって恋人って名前で呼んだりするじゃん」
どういう会話の転換だ?
こいつもこいつで意外と初めての彼氏ってものに浮かれてるんだろうか。可愛いところあるじゃないか。
……でもそんなの周りからみたら何かあっただろうことはモロバレなんじゃないか……?
「と、友也……?」
「……うわあ、違和感~」
「ええ……」
「やっぱ佐伯でいーよ」
恋人同士の名前呼びタイムは一瞬で終了してしまった。
「あ、そうだ、ゴム買っとかないとだよね」
思わずむせて喘息の発作が出るかと思った。
あんまりにも平然と日常会話に挟んでくるから。
佐伯は慌てて俺の背中をさする。
「そ、そういうのはそういう雰囲気のときに言って貰わないと……」
「そんな雰囲気になってから買いに行ったんじゃ中断しなきゃいけないじゃない。オレ買っとこうか?」
じんわりと昨日の複雑な記憶が蘇る。
正直、佐伯に初々しさとかたどたどしさとか、そういうものはまったくなかった。しかし、だからといってもノリノリってほどでもなかったのだ。
色々教えてはくれていたけど、無理に先輩ぶってるみたいでもしかしてちょっと背伸びしてるんじゃないかなという感覚があった。
ずっと佐伯は経験済みであることを申し訳なさそうにしていたのだが、そんな振る舞いのおかげで全く気にはならなかったのだ。なんだろう、健気さすら感じた。ううん、俺がこう素直に佐伯を褒めるのはやっぱりまだ変な感じだな……。
しかし、まあ、佐伯のベッドの上には使い差しのコンドームの箱が無造作に放置されていたのだ。それを使えと言われたときは内心ものすごく抵抗があった。しかも残り僅かだったのも心にグサッときた。元々いくつ入りなのか知らないけどさ。
それでもなお萎えはしなかった自分にびっくりだった。
そんなちょっと苦い記憶を思い出す。
「……い、いい、自分で、か、買う」
正直、無事に買える自信は全くない。コンビニにあることは知っているが、いくらするのかもどの棚にあるのかも知らない。しかし女子に買わせるものではないだろう。
さすがに鞄を漁られることなんて普段ないが、親にバレないようにしないと……。いや、買うのは自分でやって、佐伯に持っていて貰った方がいいだろうか……、部屋に置いておいてもらえれば……、いや、というか俺は佐伯の家に通うのか……? さすがに交通費がきついな……。
彼女ができたら、デートコースはどうしよう、とか下校のときはどうしようとか色々脳内シミュレートを繰り返してきたが、こんなことを気にしないといけないとは思ってもみなかった……。
そもそも、もし彼女ができたとしてもまずキスまでどれだけ早く都合よく見積もっても数ヶ月かかると踏んでいたのだ。こんなのもはや異次元だ。心の準備などできているはずがなかった。
「あ、あのー、先輩は佐伯に買わせてたの……?」
「ううん? でも桐谷が買いに行くの恥ずかしかったら別にオレはそこまで嫌じゃないよ。なくて困るのはオレだし。薬局とかにいけばあるんだよね?」
「い、いや、大丈夫」
少しほっとした。なんだろう、ちゃんと佐伯も人と付き合うのは初めてなんだと実感できるからだろうか。別に誰と付き合っててもいいんだけどさ。うん。
「とりあえず、バレたくないならそういう話は学校ではよそう。落ち着いていられないから」
「あ、ご、ごめん、そうだね」
といいつつも急激に佐伯を抱きしめたくなっていた。
だって…だってさ! 避妊具を買おうということは、つまりそういうことをしたいってことじゃないか! 多分そういうことばかり先輩としていたせいなのかなというのは思わなくもないが、それはそれだ。
俺は完全に初めてだったし、とてもじゃないが上手にできたとは言えない。嫌がられても文句は言えない立場だった。
だって、逆の立場で考えても見ろ。男と裸でひっついて寝るんだぞ……!? 地獄だろ。できる限りやりたかないだろ。佐伯の様子を見るにものすごく気持ちいい様子もなかったし……。これは俺の技術の問題なんだろうか。いいや、わからないけど、とにかく、下手くそで嫌な相手とやってやる義理なんてないことなんだ。それを、なんの抵抗もなく受け入れてくれるんだぞ!
それにしてもこういう関係になってみると途端に佐伯のとる行動一つ一つに感動してしまうんだから、現金な話だ……。
ーーー
「なーんかお前ら、妙に距離近くね?」
しかし、思った以上に早く危機はやってきた。
「なっななななにが!?」
「なんか、すげえ楽しそうっつーか……目がよくあってるっつーか……」
和泉がじっとりとした目で俺と佐伯を見比べていた。
鈍感で自分の興味がないことにはとことん関心を持たない和泉が、なんで!? だってこいつは佐伯が裕子さんに惚れてることにすら気付かなかったんだぞ!
っていうか、和泉が気付くほどだということは、クラス全員が察しがつくレベルなんじゃないだろうか……。
「喧嘩したと思ったら、なんなんだよその変わり身の早さは」
「喧嘩して仲直りして、もっと仲良くなったんだよ。いいでしょー」
佐伯はまったく動揺する素振りもなくいつも通りに返答する。
それに対して和泉は据わった目でふうんと言うだけだ。
俺ばっかり慌てふためいている。
「ま、いいけどさ。友也はまじで、もっと早く家帰れよ。何かあったらうちのお母さん心配で死んじまうから」
「あっうん、それはごめん」
たしかに、部活もないのに九時に帰ってくるなんてさすがに心配になるよな……。
しかしこれからは俺と佐伯で気をつければ問題ないだろう。
不純異性交遊はよくない。夜遅くまで出歩かない。当然だ。学生はそういったことに耽るべきではないのだ。
まあ、機会があれば積極的にやっていきたい所存ではあるのだが。
そもそも、うちの学校は一応男女交際自体禁止なんだけどな……。
俺もとうとう校則を破ってしまったな。へへへ。