5章
「こ、こういうことをしたかったわけでは、ないんだよ」
思った以上に俺の言葉は言い訳がましかった。
恥ずかしくて顔を両手で覆っている分声がくぐもって、それがより一層情けなさを際立たせた気がする。
男女の、主にカップルなんかがするであろうひとしきりの行為をやっておいていえた口ではないのだが。それでも言っておかねばと思ったのだ。
入浴時でもないのに服を脱いで、それも人の家で、人の目の前で、そんなのありえないことじゃないか……。冷静に考えると平気でできる人の神経がわからない。みんなどれだけ自分の体に自信があるんだ? 頭おかしいんじゃないか?
でも、自分もなんだかんだやってしまったわけで……今になって急になんだか怖いような、とんでもないことをしてしまったような気持ちがむくむくと沸いてくる。
これは出すもん出して必要以上に気分が冷静になってしまうせいだろうか……。
隣でごそごそと体を拭いたり服を集めたりしているらしい佐伯のほうはとてもじゃないがしっかり見れない。
つ、疲れてないのかこいつ……泣いてたくせに……目元赤いくせに……!
「わかってるよ。オレが襲ったようなもんだし」
「そ、そんなことない!」
慌てて否定して、佐伯に目を向けるとまだ下着も身につけてなくて、慌ててまた目を逸らす。
今更ではあるが、なんだかじろじろ見てしまいそうで……、この会話にこの格好は適していないと思った。説得力がなくなりそうだ。
「ふ、服を着よう。まずは」
「パンツこっちにあるよ」
「あ、ああ……あああ……ご……ごめん……」
恥ずかしい……やっぱりこれ……は、恥ずかしい……! 無理だこれ……!
何故だろう。多くの人類がやってきた行為のはずなのに、なんでこんな思いをしなきゃいけないんだろう。きちんと男女として仲良くなって、付き合って、少しずつ段階を経てからこういうことをすると、やっぱり違うんだろうか。急にこんなことになったからおかしな感覚になってるんだろうか。
昨日までただの友達だと思ってたのに、突然こんな関係になってしまったせいだろうか。
佐伯が最低限服を着たのを確認して、ようやくそちらに目を向けられるようになった。俺もとりあえず大方の肌を隠す。
佐伯はちらっとこちらを見て、それからまた視線を落とす。今日は下を向いてばかりだ。それから呟くように言った。
「……ごめん、はじめてはやっぱり好きな人がよかったよね」
さっきまでの押しの強さというか、独特の強引な雰囲気はなりを潜め、いつもの佐伯だと俺は思った。
いや、そんなことより今のは聞き捨てならない。
「……す、好きって……言ったよね……?」
「そう……だけど……でも……」
だ、だめだこいつ、全然伝わってない!
かなり勇気を出して言ったのに!
佐伯はまったく信用していない目を向けていた。やることやっておいて……!
……まあ、騙されたり絆されたりしてきたんだし、疑うのはいいよ、いいけどさ、よりによって俺を疑わなくたってよくないか!? 今までの男たちにその警戒心を発揮してくれればいいのに……。
……いいや、俺の行動の遅さも原因のひとつか……。
行動っていうか……そもそも自覚がなかったというか……まあどれも言い訳だ。
体ごと佐伯に向き直る。
「たしかに、今まで恋い焦がれていたかというとそれは違うと思う」
ここを偽っても多分バレているだろう。
佐伯のことをずっと考えてはいたが、河合さんに対して感じるようなドキドキ感とか、格好悪いところを見られたくないとか、そういった華やかな感覚というのはたしかに、佐伯に対して感じたことはほぼない。
「きちんと自分の感じていることを分析なんてしたこともなかったけど、ずっと佐伯が俺の知らないところで傷ついたりしているのは嫌で、頼って貰えないのが嫌だったのは本当だよ。多分俺は佐伯を……ま、……ま、ま……守りたいんだと……お、思う……」
あ、だめだ。恥ずかしい。なにこれ。俺何言ってんだ……? じわじわと頭に熱が上る。
好き、というよりなんだか抵抗があった。歯が浮くというか。
しかし佐伯はバカにするでも笑うでもなく、眉毛は情けなく下げてこちらを見ていた。
……こいつ、ガードが緩くなってるな。そうやってすぐ気の弱いところを出すのは本当によくない。
かといって俺に対して警戒心むき出しにされても困るわけだが。しかし、やっぱりよろしくない。佐伯に折れてもらうという形自体を取るべきではない気がする。
むしろ俺がもっと下から行くべきか?
俺の願望は佐伯と付き合いたいとかじゃなくて、もっと居心地よく過ごして欲しいのだ。それを俺に気を遣って、我慢して合わせてくれるとしたらそんなもの願い下げなのだ。佐伯はそういうことを平気でする気がする。
しかしだからって別に付き合わなくてもいいというと、大して好きじゃないみたいな、そんな風に受け取られかねない。それじゃ逆効果だ。
難しい。俺の立ち回りだけで全てをカバーできるとは思えなかった。だとしたら、優先順位を決めるべきだ。あまり人に気を回すのは俺には向いていない。一番優先すべきは、そうだ。佐伯がこれ以上傷つくことがないようにすることだ。
「男に傷つけられるところは、もう見たくないんだ。せ、先輩の代わりがほしいなら、俺がなるから……。あっ、そ、そういうことをしたいって意味じゃなくて、他の人とやらないでほしいって言う意味で……、えーと……」
……ど、どうしよう。普通に体の相性が悪かったので嫌ですとか言われたら。いや、佐伯がそんなこと言う訳ないけど、思ってたら、どうしよう。自信だって全然ないし。
佐伯は俺の話を聞いて、ぼんやりした顔をしていた。考えているのか、疲れたのか。若干焦点が合わない。
話を聞いているのか不安になってきた頃、ぽつりと呟いた。
「……オレ、どうしたらいいの?」
迷子の子供のような声だった。
へとへとに泣き疲れたあとみたいな、……実際にたくさん泣いたあとではあるけど。
果たして、こんな相手に判断を迫るようなことを言っていいのか。
しかし、俺が様子を見ている間にまた佐伯が傷つくようなことがあってはいけないとも思った。そりゃあ、俺といれば絶対傷つけたりしないなんて保証はないけど、もしそういうことがあるとすれば、それは俺がよかった。
「つ、付き合おう……」
どうも格好のつかない俺の台詞に、ゆるく顔を上げて佐伯が俺の目を見る。
何か言いたげに口を動かそうとして、それからすぐまた目を伏せた。
その顔を見て、俺は焦って付け加える。
「も、もちろん、嫌なら、気にせず断ってくれて全然いいんだけど……」
「でも……オレ、元男だよ?」
「言われなくたってそんなこと、知ってるに決まってるだろ」
「…………」
正直、一応好きだなんだのやりとりをして、キスだってして、それ以上のこともして、ここであえて口にする必要なんてあるのかと思っていた。
でも、佐伯のこの表情を見て、口に出してよかったと思う。断られたとしても。
あんなことをしておいて今更なのに、佐伯は見るからに戸惑っていた。俺の人との接触と、関係性への結びつきとは違う価値観が佐伯の中に構成されているのだと実感した。
……だとしたらどういうつもりで事に及んだのだろう……。ものすごく気になるが、今聞いてもろくなことにならなそうだ。
佐伯はしばらくじっと膝の上で、いじいじと指をなぞっていたが、ちらりとこちらを見て呟いた。
「散々出したあとにわざわざそんなこと言うなら、少しは信用できるのかな」
「え、ええ!? そんなこと言うの!? 下ネタ嫌いなくせに!」
「う、うるさいな……」
そ、そりゃあまあ、言ってることはよくわかるけどさ!
佐伯のくせに、なんてこと言うんだ……。
俺の言う下ネタよりよっぽど生々しいからたちが悪い。女子の下ネタはえげつないというのは本当だったのか。
しかし佐伯の顔はぼんやりしたものから、段々と笑みに変わっていた。いつも見る、面白いものを見るような表情だ。
いつもへらへら笑ってたのに、見慣れた顔なのに、それが嬉しいと感じるなんて、思っても見なかった。
「桐谷が彼氏なんて、変なの」
「わ、笑うなよ……」
「ふふふ」
笑うなっていうのは嘘だ。
ずっとこうして、楽しそうに笑っていてほしいと思っていたんだと、俺はようやく実感した。
安心感からか、感極まったのか、泣きそうなのをなんとかこらえて、俺もちゃんと笑えていたと思う。
こうして人と笑い合うのは、生まれてはじめてなような気がした。