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5章

「それは……だって、俺が心配するようなことがなかったから……」

 俺の弁明は、佐伯の眼差しだけで撃ち落とされてしまいそうなくらい頼りなかった。

「じゃあ、オレが男に戻ったら、またオレのことはどうでもよくなるってこと?」
「ど、どうでもよくなんかないって、元から……」
「そんなのうそだよ。桐谷、前は全然目合わなかったよ」

 佐伯は頑なだった。俺のことなのに、俺よりもはっきりと言っていた。佐伯らしくない。
 でも、俺だってはっきりと否定しきれなかったのだ。全く自分の意識していなかったところを指摘されて、戸惑っていた。

「桐谷……前のオレのこと、覚えてないでしょ」

 言葉に詰まってしまった。
 覚えてるに決まってる。そう言ってしまえばいいのに。
 話した内容とか、出来事なんかはちゃんと覚えている。でも、佐伯の声や顔立ちなんかがだいぶあやふやになっているのは真実だった。髪が短いとか、背が高いとか情報としては覚えていても、細かい部分を思いだそうとすると、今の佐伯で上書きされていることに気付くのだ。
 たった二ヶ月だけなのに。
 その密度は圧倒的に変わっていた。

「ごめんね、意地悪なこと言って。でも、オレの周りで一番反応が変わったのは桐谷だよ。言ったじゃない、オレが男だったら、触ったり、じっと見たりなんかしないって。前、桐谷が言ったんだよ」

 そんなこと、もうすっかり忘れていた。言われて、ようやく思い出す。たしかに、そう言ったのだ。お見舞いに来て貰ったときだったか。

「あ……いや……」

 言い訳がなにも思いつかない。
 すぐ隣に座っているこの距離が居心地悪くて仕方なかった。
 どう取り繕うことも、誤魔化すことも許されない距離だった。
 佐伯は続ける。

「話し方も、オレを見る目も、もっと違った。女になってからは興味持ってくれて、嬉しかったんだよ、でも、やっぱり、そうなるたびに男のオレって、なんだったんだろうって……そう考えちゃうんだよ。おかしいかな……」

 どこにも正解がなかった。
 今の佐伯と昔の佐伯、どちらを肯定してもどちらかが傷つく。どちらも同じ佐伯なのに。
 この前、例の男に、佐伯は男の自分じゃだめなのかと聞いた。その意味が少しわかった。
 俺は、言われてみてはじめてきちんと佐伯への対応を思い出していた。
 佐伯は調子のいい奴で、でも、こっちの気分が良くなるようなことをよく言ってくれた。俺が何かしら文句を付けると大体が素直に従ってくれたと思う。それでもマイペースで、俺があれこれ考えていることをなんでもへらへらと笑いながらこなしてしまうので、たまに腹が立った。恵まれている奴だと思った。
 裕子さんに関するときだけ見ていられなくてあれこれ口出ししたけど、それ以外では、俺なんて全く必要じゃなかったのだ。
 佐伯の人生に。
 ただ、河合さんとお互い仲良くて、席が近くて、それだけでなんとなく一緒に行動していた。
 それだけといえば、それだけだった。

 今の佐伯とは、そして絶対にあり得ないことになってしまったけど、もしも今、男に戻ったとしても、前と同じような関係にはならないだろう。
 きっと席が離れても気になるし、河合さんと仲良くなくても、一緒に話したり、なんなりして、佐伯が楽しくなれることを、俺もしたい。

「お、俺は、俺は……さ、佐伯が好きだよ……」

 佐伯がすぅっと口から息を吸うのがわかった。
 目が少し見開かれている。
 俺がどういう意図を持っているのか、冷たい目で見極めようとしている。
 これ以上自分を傷つけるものに触れさせないように、必死に毛を逆立てて神経を尖らせる猫のようだった。

「た、たしかに、お前が男だったときは、今みたいに思ってなかった。ふ、普通の、男友達って感じで。だけど女になったからっていうより、それはきっかけに過ぎなくて、だからもし、男に戻っても……やっぱり、好きだよ」

 佐伯の結ばれた唇がわなわなと震える。
 口で言うのは簡単だ。男に戻れないってわかった今言うのは、とてもずるいことだと思う。

「ほんとに……ごめん、もっとちゃんと佐伯のこと、見てれば良かったって、今になって思う。いや、ずっと思ってたんだ……だって、だって……ほ、他の人じゃなくて、俺がよかった。一番最初の時だって、俺がよかった……」

 こんなこと、佐伯に言ったってしょうがない。
 一度口に出すと止まらなかった。言ってはいけないと思っていたことなのに。
 佐伯だって、誰にだって触られたくなかったはずなのに。俺ならマシだなんて、すごく自分勝手な話だった。
 それなのに、佐伯はそんなこと言わなかった。

「……そうだね、桐谷だったらよかったね」

 吐き出すような声で、しかしその表情は穏やかな、泣き笑いのような顔だった。
 諦めたような、息が詰まりそうな目をしていた。
 いつの間にか俺は佐伯の腕を掴んでいて、佐伯は力なく、膝を抱えていた手を下ろす。

「い、今からでも、これから、誰かを選ぶなら、俺にして欲しい……」

 他の誰かを探すくらいなら、俺がよかった。
 こんな風に、人に懇願するなんてはじめてだった。
 佐伯の目はじっと俺を見ている。

「……したいってこと?」
「そ、そういう目的じゃない!」

 慌てて否定する。
 違う、そういうことをしたいからってわけじゃない。
 したくないなら、しなくていい。ただ、するのであれば、それは俺がいいという話だ。
 佐伯は視線を落とし、身を捩った。

「…………桐谷……今までそんな素振り見せたことないじゃない」
「そ、それは、そう、だけど……、それは俺も自分がどう感じているのかわかっていなかったから……」
「……そう……」

 佐伯の心情は、わからない。 
 佐伯は、先輩に好かれたら、好きになれるかもと言っていた。
 俺に対しても、そうなんだろうか。
 俺が好きと言ったから、好きになってくれるんだろうか。
 そんなの、ひとつも嬉しくない。それにきっと、それでは佐伯の気持ちは満たされない。
 ……でも、ここで疑っても、多分答えは出てこないと思う。
 どういう気持ちで人と付き合うかなんて佐伯が決めることだ。そう自分に納得させる。
 佐伯は正面を向いて、抱えていた膝を下ろし、「そっか」と何度か呟いて、言った。

「じゃあ、オレとキスできる?」
「え……あ……してもいいなら……で、できる……よ」

 今度はまたこちらを見る。
 冷たい顔だ。元々、佐伯は性格とは逆で顔立ちが鋭い。
 でもいつも俺を傷つけることはしないのだ。
 そんな目で、俺を見ている。
 これはもしかして今しろ、ということだろうか。
 そりゃあ……行為としてはできる……、けど、恥ずかしさとか、余計な心配が邪魔して…………いや、ここで躊躇してたらだめだろ。嫌がってると思われちゃだめなんだ。
 意を決して肩をつかんでしっかりこちらを向かせる。
 いつ目を瞑ったらいいんだろう。どのくらいの力加減がいいんだろう。顎とか、頬とか触って、角度を調整すべきなんだろうか。
 全く分からない。
 だ、大丈夫だ。万が一俺が間違えてもバカにするようなやつじゃない。
 でも、最後の勇気がなかなか出ず、手を空中でうろうろさせていると痺れを切らしたのか佐伯が動いた。
 腕を俺の首に回して、唇同士が触れた。
 今まで何十回も想像した感触だった。柔らかくて、そしてなにより生きていた。ちゃんと俺の意志とは別に動いていた。

「……気持ち悪い?」

 ほんの少しだけ口を離して、息がかかる距離で、囁くような佐伯の声が、嘘みたいに頭に響く。
 気持ち悪いわけがなかった。じわじわと体があったかくなって、多分感動しているんだと思う。
 言葉にするとそれこそ気持ちの悪いことしか言えない気がしてぶんぶんと頭を振る。
 するとしなだれかかるように重心をこちらに乗せてきて、上半身を引くと俺の膝に乗ってきてまた唇を押しつけてくる。
 どぎまぎしながら、されるがままになるしかない。
 こんなことしていていいのか?
 だってまだ何も解決してないじゃないか。
 佐伯が俺に怒っていた理由とか、本当に俺でいいのかとか……。

「ん!?」

 思わず肩がびくりと跳ねた。
 気付けば舌が口の中に入っていた。気付けばっていうか、俺が口を開けなきゃ入るわけはないんだが!
 最初のキスで? いきなり? と訴えたかったが、どれだけ目線を送っても佐伯は目を閉じていて何も伝わらない。抵抗するわけにもいかないが、なにをどうしていいのかわかなくて情けなかった。下手な動きをして邪魔をするのはもっと嫌だったし……。
 背筋がぞわぞわする。気持ち悪いわけじゃない。なんて言う気持ちなのか、よくわからない。知らない感覚だった。
 少し、腰をすり付けてきているような気がするのは気のせいだろうか……。
 それもこれも、先輩というやつに教え込まれたんだろうと、さすがに察しが付いた。たった半月とか、ひと月とか、そのくらいしかなかったはずなのに。どれほどのことをやったんだろう。考えたくないのに、ぼんやりとした頭は止まらなかった。

「……淫乱だと思うでしょ」

 佐伯が唇を離して申し訳なさそうな顔で言った。消えそうな声だった。
 そんなの、佐伯から一番遠い言葉だと思っていた。

「エ、エロくはある……」
「引いてる」
「ひ、引いてない、よ」
「気持ち悪いって、言っていいよ」
「言わないよ……思ってないし……」

 佐伯は、どちらかというと人との接触には潔癖気味で、下ネタも嫌いだったんだ。
 俺が知ってる佐伯は、そんなだったのに。
 今の佐伯は全然、そんな面影はない。
 いや、表情は佐伯じゃないか。泣きそうな顔の、いつもの佐伯だ。
 どれだけ変わっても、知らなかったことを知っても、佐伯は佐伯なのだ。
 俺だって昔の俺とはたくさん違うところがある。でもずっと俺だ。だから佐伯も、ずっと佐伯だ。
 力一杯佐伯を抱きしめた。腕が余るくらい細い。
 他人とこんなに密着するのは生まれて初めてだった。やっぱり、なんだかぞわぞわした。
 子供の頃母親に抱きしめられたときとはまったく違う。自分より小さくて弱いのに、自分とは全く別の意思で動いていて、それなのに俺が触れても逃げようとしないのが、なんだか、不思議な気持ちだった。言葉にうまくできないそんな気持ちを佐伯に向けるなんて、考えてもなかったくせに、ずっとそうしたかったようにも思えた。
 俺より一回り体が大きくて、ずっとしっかりしていて、スポーツなんかは何をやったってきっと勝てやしなかったのに。
 俺の首もとに顔を埋めて、ふふ、と声を出して笑っていた。少し泣きそうな声だったけど、でも笑っていた。

 ずっと、なんでも素直に表に感情を出しているようで、肝心なところは絶対見せてくれないような、そんな距離を保っていた佐伯が、大事な鍵を俺に押しつけて、自由にしていいよと言っているようだった。
 何をしても、怒らずに受け入れてくれそうな、そんな錯覚をした。
 良いんだろうか、本当に。本当に、佐伯は怒らないんだろうか。傷つかないんだろうか。これ以上触っても。
 悲しませずに、壊れないように、触れられるんだろうか。
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