5章
相変わらず、佐伯家は寂しさを感じる広さだった。暗くて、静かだ。
ただいまもおかえりもなく、佐伯は洗面所に寄って顔を洗って自室へ向かう。俺はずっと黙って後ろをついてまわった。まるで母親を追いかける子供みたいだと思った。
一人っ子の俺と違って、四人兄弟。親が家にいないといっても、兄弟だけでもうちの家族より多いのに、うんと寂しい家だった。
佐伯は自室に入ると鞄を下ろし、深くため息をつきながらベッドの縁に腰掛ける。
立ち上がる気配はない。
佐伯の部屋は以前遊びに来たときより、どこか空気が淀んでいるように感じた。この部屋で、男とそういうことをしたのだという話を聞いて勝手にそう感じてしまうだけだろうか。
「……い、行かないの? 和泉ん家……」
「……」
佐伯の反応はない。
所在なく、とりあえず床に座った。思わず正座してしまい、まるで叱られているような構図になる。
何分か、そうして黙っていた気がする。
一体どうしたらいいのか。どうしたいのか。
無理にでも何か声をかけた方がいいんだろうかと考えはじめていると、ぽつりと佐伯が呟いた。
「先輩は……優しくしてくれたんだ……」
「……う……うん……」
二人がどう言ったやりとりをしたのかは全くわからない。電話でも向こうの声は聞こえなかったし。
でも、俺や和泉たちは佐伯にとって優しくなかったのかなと思うと、ちくりと胸が痛くなった。
「いっぱい褒めてくれたし……、だから、ちょっとは好きになってくれてたり、したのかなって思ったんだ……」
やはり佐伯は褒められることに弱いようだ。
今までそういう光景をみたことはなかったが、何か褒められたい部分などがあるんだろうか。足が速い、とか褒められても取り立てて嬉しそうにしてはいなかったと思う。
「でも、そう思ってたのはオレだけで、先輩はすごく、どうでもよさそうだった……」
「……佐伯って、男を見る目ないよね」
茶化すように言うと、佐伯もほんのすこしだけ笑った。
「……ほんと、そうだよね……そりゃあ……ヤリ捨てされても、文句言えないよね……」
「あ、いや、ちっ違う! そういう意味じゃない!」
慌てて否定する。そんなことを言いたかったんじゃないのに。
第一、女になって間もないのに見る目も何もないだろうが。
同性同士でいい奴でも異性としてはろくでもない人間なんていくらでもいるだろうし。わかるわけがないのだ。
くそ、どうも暗くて敵わない。ネガティブになってる。
でも少しだけ笑ってくれたし、もうひと押しというつもりで俺はわざと明るい声を出した。
「ま、まあ、こんなこともあるよ。すっぱり忘れてさ、次にいこうよ」
次から次へと男をとっかえひっかえされても困るのだが。俺は何を言っているんだろう。
「……オレを女にしたお兄さんとか?」
「な、なんでわざわざ危なそうなところにつっこんでいくんだよ……」
男なんていくらでもいるのに。
「……でも、あの人はオレのこと好きって言ってたし」
「本人に本当は自分のこと好きじゃないと思うって言ったのはお前だろ」
「あれはそういう風に進めないと困ると思ったから……」
どうだか。
少なくとも俺から見てもあの男の佐伯への感情は純粋な好意とは言い難いと思う。佐伯の人格とかを全く考えていない。
そんな奴についていって、どう考えたら状況がよくなるというのか。
だめだな。自暴自棄になっている。
「大体、そんなに自分を好きな人って必要か? 恋人いなきゃ困るタイプじゃないだろ? 今までいなかったんだし」
「……」
そもそも恋愛体質というか、人に依存するタイプではないはずだ。
裕子さんの影響は大きかったにしろ、でもやっぱりそれに寄りかかっている印象はなかった。
むしろ人間関係に頓着しないというか、さっぱりと広く浅く、っていう人間じゃなかっただろうか。
佐伯の表情はまた辛そうなものに変わっていた。
しまった。
もしかして責めるような言い方をしてしまっただろうか。
俺が元々色恋に傾倒するタイプに拒否感を持っていることは佐伯も知っているし、そんな相手には話しづらいのかもしれない。
今まで周りに隠していただけで、意外と人との繋がりを欲しているタイプだったのかもしれない。
俺の言い方は、多分よくない。
「と、とにかく、まだお前は女子として初心者なんだから、もっと俺たちに相談してよ。……そりゃあ、話しにくいことだとは思うけどさ……知らないところで傷つくよりずっと……あれっ!?」
いつの間にか、佐伯がこちらを睨んでいるのに気づいた。赤い顔で、怒っているような難しい顔だ。
怒ってる? 佐伯が? えっなんで?
自分の性別を変えた犯人にだってこんな顔しなかったのに。
「な、なに? 俺、変なこと言った……?」
むしろ自分にしては割と優しい台詞が言えたもんだとすら思っていたのに。
佐伯は口をもごもごさせ、肩はぷるぷると震えている。両手で拳を作っていて、殴られるんだろうかと思った。全然痛くなさそうだ。痛くても一発か二発なら我慢できるだろう。それで佐伯の気持ちが落ち着くならいいと思った。
しかし佐伯はゆっくりと息を吐き、気持ちを鎮めようとしている。
俺にはできない。すぐに口に出してしまう。
「ご、ごめん、なにか思うことあるなら言ってほしい……」
「……やだ」
「えっ」
明確な拒否。
そ、そんなことあるか?
むしろ言えたほうがそっちだってすっきりするもんじゃないのか……?
「そ、そんな、それじゃあなんの解決にもならないじゃないか。俺は納得できないし、佐伯だって嫌な気持ちを抱えているなんて嫌でしょ? 言ってもらえなきゃ俺も改善しようがないし、佐伯を怒らせ続けてしまうじゃないか」
「……話してもっと嫌な気持ちになったら、桐谷がすっきりするだけじゃん」
「お、俺? いや……でも、嫌な気持ちになるかどうかなんてわかんないだろ。俺だってそんなに佐伯を怒らせるようなことしたんだったら謝りたいし解消したいよ」
「話したからってなんでも解決できるって思わないでよ!」
面食らって、俺は一瞬言葉を失ってしまった。
佐伯がそうやって大声を出すのは初めてのことだった。いつも楽しそうに笑うときくらいしか聞かないのに。
感情豊かなのに、気持ちを爆発させるようなことは一度も見たことがないのだった。
それになんだろう。今の叫びは日常の鬱憤も込められているような気がする。
佐伯は息が上がっていた。
声を荒らげることなんてないだろうから、興奮しているんだろう。
佐伯もそのことに気付いたのか、視線を落としてそのまま膝を抱えた。
スカートの中が丸見えだ。スパッツだけど。
そして佐伯はやっぱり、すぐに感情を落ち着けるのだ。ひとつ息をついて、それで佐伯の表情からは先程までの苛立ちのようなものは消えていた。
「……先輩とは、たしかに、体だけみたいな、そんな関係だったよ。段々寂しくて、悲しくなったけど、ちゃんとわかってるつもり……」
「……」
まあ、そこは佐伯なりに考えた結果なんだろう。きっと佐伯にはその先輩という男が必要だったのだ。俺がどれだけ考えたって佐伯の立場や気持ちがわかるはずはない。
しかし、この話はどの質問への回答なんだろう。
口を挟まずに聞く。
「でも、でもさ、お兄さんが、い、言ってたでしょ、この女の子の体は、別の世界のオレのものだったんだよ。オレ、勝手に人の体で、なにやってんだろってなってさ、……こんなの、最低だよ。桐谷にだって、昭彦や河合さんにだって言えないようなことして……。ちゃんと、好きな人に大事にされるべきだったのに……」
佐伯の声は震えていた。
そうか。
別の世界だの言われたって、俺はピンとこないし、知りようもない世界の人のことを気にしたってしょうがないと思っていた。
でも佐伯はそんな出会うことも、文句を言われるでもない人の人生を気遣って男に戻ることを諦めたのだ。
体の元の持ち主に罪悪感なんて持ったってしょうがない。けど佐伯はそうは思えない奴なのだ。
「それを言ったらお前の元の体だってさ……」
明言するのは憚られるが、佐伯の体なんてなくなってるのだ。お互い様どころじゃない。事故なのかなんなのかわからないけど、そんなのはこっちには関係ない話だ。
佐伯はゆっくりと首を振った。
「もしかしたら、それがオレの寿命だったのかもしれないじゃない。それを関係ない女の子に押しつけちゃったんじゃないかって、ずっと思ってるんだ……」
寿命というか、運命みたいな話をしたいんだろうか。
俺はそういう考え方があまり好きじゃなかった。
それにもしそんなものがあるとして、それは佐伯の体の運命なんだろうか、元の持ち主の運命だったのかもしれないじゃないか。
そういう、確かめようがないことで悩むのはあまりにも無駄だ。途方がない。結論もない。
……と俺が切り捨てたって佐伯はそうはいかないんだから、俺の主張には何の意味もないわけだが。
それに佐伯はあまりにも自罰的すぎる。自分に原因があるとか、問題があるとか、自分がなにかしなければいけないと思っているらしい。
佐伯が頭を悩ませていることの殆どが佐伯は被害者でしかないはずなのに。
犯罪被害者の心理なんかを調べれば少しはメカニズムがわかるのだろうか。確かに、どれほど被害者本人に非がなかったとしても、自分があのときああしていれば、と後悔に苛まれるというのは聞いたことがある。どういう風に声をかければいいのか、ちゃんと勉強しておけばよかったな。
俺の今まで必死にため込んだ知識は、肝心なときなんの役にも立っていない。無駄なことばかりだ。
……そして、この話はどこへ繋がるのか。
俺の発言に怒っていたが、その返答としてはズレているような気がする。その前の話題。恋愛がどうのって話だったか。
「……つまり、佐伯は自分の体に申し訳がないから、大事にしてくれる人を求めてるってこと?」
佐伯は頷くようななんとも微妙な動きをした。
好きではない先輩だが、もしかしたら自分のことを本当に好きでいてくれているかもしれなくて、それなら自分の体が救われるように思っていたのだろうか。
それにしては今の佐伯は自棄になっているように映る。例の犯人の男でもいいかもーなんて、冗談でもありえないだろ。
多分、推測だけど、いま佐伯は自分の感情と体の持ち主への気持ちの境界が曖昧になっているんじゃないだろうかと思う。あまり主張に一貫性が感じられないような気がする。俺が真意をわかっていないだけだろうか。
でもだって、そうだ。体の持ち主という相手への罪悪感と、自分を責める気持ちがどうしても矛盾してしまうのだ。なぜならどちらも佐伯だからだ。
しかし、それをどう伝えれば正しく佐伯に伝わるのだろう。
佐伯は何度かため息のような深い息をついて、呼吸を落ち着かせて、ゆっくりと口を開く。
「女の子になってから……みんな、優しくなってさ、好きって言ってくれたり、親父も気にかけてくれるようになって、嬉しかったんだ……。ずっと、そうなったらいいなって思ってたから……」
佐伯は元からみんなに好かれているように見えていたけどな。
しかし扱いが変わったことは確かだ。
「でもそれは全部、オレじゃなくてこの体の女の子が貰うべきだったんだ。それをオレが横取りして、舞い上がって、結局誰もオレのことなんて、好きなわけなくて、……ほんと馬鹿みたいだよ……」
佐伯は膝に顔を埋めて、震えた声を漏らしていた。
その考えだと、この先どれだけ好かれても大事にされても、体の持ち主の子への罪悪感は募るばかりだろう。
佐伯に何も落ち度はないのに。
どうにか否定したい。
でもどうすればいいんだろう。和泉ならなんて声をかけるんだろう。
佐伯の隣に腰掛ける。向かい合ったままだと、佐伯が顔を上げると泣いている表情が見えてしまって、悪いような気がしたからだ。
「お、俺はさ、そんなつもり、ないよ。今こうして気にしてるのも、佐伯だからだし……。それは女の子の佐伯だからじゃなくて、女になった佐伯だから、ずっと気になってたんだ、よ」
言葉を選びながら、それでもちぐはぐな言い方で、どうにかうまく伝えられないかと考える。
うん、そうだ、体の形なんて問題ではなくて、そんなのははじめのうちだけだったんだ。
「桐谷、ごめんね」
「え?」
佐伯はこちらを見ていた。泣いてはいない。泣いた後のじっとりした顔をしてはいるが。
少しだけ顔をあげて、猫のような目をこちらに向けていた。
「桐谷は、良い人だから、前から優しかったけど……、でも、前の桐谷はオレのことこんなに見てくれなかったよ」
佐伯の目は、射抜くように俺を見ていた。
ただいまもおかえりもなく、佐伯は洗面所に寄って顔を洗って自室へ向かう。俺はずっと黙って後ろをついてまわった。まるで母親を追いかける子供みたいだと思った。
一人っ子の俺と違って、四人兄弟。親が家にいないといっても、兄弟だけでもうちの家族より多いのに、うんと寂しい家だった。
佐伯は自室に入ると鞄を下ろし、深くため息をつきながらベッドの縁に腰掛ける。
立ち上がる気配はない。
佐伯の部屋は以前遊びに来たときより、どこか空気が淀んでいるように感じた。この部屋で、男とそういうことをしたのだという話を聞いて勝手にそう感じてしまうだけだろうか。
「……い、行かないの? 和泉ん家……」
「……」
佐伯の反応はない。
所在なく、とりあえず床に座った。思わず正座してしまい、まるで叱られているような構図になる。
何分か、そうして黙っていた気がする。
一体どうしたらいいのか。どうしたいのか。
無理にでも何か声をかけた方がいいんだろうかと考えはじめていると、ぽつりと佐伯が呟いた。
「先輩は……優しくしてくれたんだ……」
「……う……うん……」
二人がどう言ったやりとりをしたのかは全くわからない。電話でも向こうの声は聞こえなかったし。
でも、俺や和泉たちは佐伯にとって優しくなかったのかなと思うと、ちくりと胸が痛くなった。
「いっぱい褒めてくれたし……、だから、ちょっとは好きになってくれてたり、したのかなって思ったんだ……」
やはり佐伯は褒められることに弱いようだ。
今までそういう光景をみたことはなかったが、何か褒められたい部分などがあるんだろうか。足が速い、とか褒められても取り立てて嬉しそうにしてはいなかったと思う。
「でも、そう思ってたのはオレだけで、先輩はすごく、どうでもよさそうだった……」
「……佐伯って、男を見る目ないよね」
茶化すように言うと、佐伯もほんのすこしだけ笑った。
「……ほんと、そうだよね……そりゃあ……ヤリ捨てされても、文句言えないよね……」
「あ、いや、ちっ違う! そういう意味じゃない!」
慌てて否定する。そんなことを言いたかったんじゃないのに。
第一、女になって間もないのに見る目も何もないだろうが。
同性同士でいい奴でも異性としてはろくでもない人間なんていくらでもいるだろうし。わかるわけがないのだ。
くそ、どうも暗くて敵わない。ネガティブになってる。
でも少しだけ笑ってくれたし、もうひと押しというつもりで俺はわざと明るい声を出した。
「ま、まあ、こんなこともあるよ。すっぱり忘れてさ、次にいこうよ」
次から次へと男をとっかえひっかえされても困るのだが。俺は何を言っているんだろう。
「……オレを女にしたお兄さんとか?」
「な、なんでわざわざ危なそうなところにつっこんでいくんだよ……」
男なんていくらでもいるのに。
「……でも、あの人はオレのこと好きって言ってたし」
「本人に本当は自分のこと好きじゃないと思うって言ったのはお前だろ」
「あれはそういう風に進めないと困ると思ったから……」
どうだか。
少なくとも俺から見てもあの男の佐伯への感情は純粋な好意とは言い難いと思う。佐伯の人格とかを全く考えていない。
そんな奴についていって、どう考えたら状況がよくなるというのか。
だめだな。自暴自棄になっている。
「大体、そんなに自分を好きな人って必要か? 恋人いなきゃ困るタイプじゃないだろ? 今までいなかったんだし」
「……」
そもそも恋愛体質というか、人に依存するタイプではないはずだ。
裕子さんの影響は大きかったにしろ、でもやっぱりそれに寄りかかっている印象はなかった。
むしろ人間関係に頓着しないというか、さっぱりと広く浅く、っていう人間じゃなかっただろうか。
佐伯の表情はまた辛そうなものに変わっていた。
しまった。
もしかして責めるような言い方をしてしまっただろうか。
俺が元々色恋に傾倒するタイプに拒否感を持っていることは佐伯も知っているし、そんな相手には話しづらいのかもしれない。
今まで周りに隠していただけで、意外と人との繋がりを欲しているタイプだったのかもしれない。
俺の言い方は、多分よくない。
「と、とにかく、まだお前は女子として初心者なんだから、もっと俺たちに相談してよ。……そりゃあ、話しにくいことだとは思うけどさ……知らないところで傷つくよりずっと……あれっ!?」
いつの間にか、佐伯がこちらを睨んでいるのに気づいた。赤い顔で、怒っているような難しい顔だ。
怒ってる? 佐伯が? えっなんで?
自分の性別を変えた犯人にだってこんな顔しなかったのに。
「な、なに? 俺、変なこと言った……?」
むしろ自分にしては割と優しい台詞が言えたもんだとすら思っていたのに。
佐伯は口をもごもごさせ、肩はぷるぷると震えている。両手で拳を作っていて、殴られるんだろうかと思った。全然痛くなさそうだ。痛くても一発か二発なら我慢できるだろう。それで佐伯の気持ちが落ち着くならいいと思った。
しかし佐伯はゆっくりと息を吐き、気持ちを鎮めようとしている。
俺にはできない。すぐに口に出してしまう。
「ご、ごめん、なにか思うことあるなら言ってほしい……」
「……やだ」
「えっ」
明確な拒否。
そ、そんなことあるか?
むしろ言えたほうがそっちだってすっきりするもんじゃないのか……?
「そ、そんな、それじゃあなんの解決にもならないじゃないか。俺は納得できないし、佐伯だって嫌な気持ちを抱えているなんて嫌でしょ? 言ってもらえなきゃ俺も改善しようがないし、佐伯を怒らせ続けてしまうじゃないか」
「……話してもっと嫌な気持ちになったら、桐谷がすっきりするだけじゃん」
「お、俺? いや……でも、嫌な気持ちになるかどうかなんてわかんないだろ。俺だってそんなに佐伯を怒らせるようなことしたんだったら謝りたいし解消したいよ」
「話したからってなんでも解決できるって思わないでよ!」
面食らって、俺は一瞬言葉を失ってしまった。
佐伯がそうやって大声を出すのは初めてのことだった。いつも楽しそうに笑うときくらいしか聞かないのに。
感情豊かなのに、気持ちを爆発させるようなことは一度も見たことがないのだった。
それになんだろう。今の叫びは日常の鬱憤も込められているような気がする。
佐伯は息が上がっていた。
声を荒らげることなんてないだろうから、興奮しているんだろう。
佐伯もそのことに気付いたのか、視線を落としてそのまま膝を抱えた。
スカートの中が丸見えだ。スパッツだけど。
そして佐伯はやっぱり、すぐに感情を落ち着けるのだ。ひとつ息をついて、それで佐伯の表情からは先程までの苛立ちのようなものは消えていた。
「……先輩とは、たしかに、体だけみたいな、そんな関係だったよ。段々寂しくて、悲しくなったけど、ちゃんとわかってるつもり……」
「……」
まあ、そこは佐伯なりに考えた結果なんだろう。きっと佐伯にはその先輩という男が必要だったのだ。俺がどれだけ考えたって佐伯の立場や気持ちがわかるはずはない。
しかし、この話はどの質問への回答なんだろう。
口を挟まずに聞く。
「でも、でもさ、お兄さんが、い、言ってたでしょ、この女の子の体は、別の世界のオレのものだったんだよ。オレ、勝手に人の体で、なにやってんだろってなってさ、……こんなの、最低だよ。桐谷にだって、昭彦や河合さんにだって言えないようなことして……。ちゃんと、好きな人に大事にされるべきだったのに……」
佐伯の声は震えていた。
そうか。
別の世界だの言われたって、俺はピンとこないし、知りようもない世界の人のことを気にしたってしょうがないと思っていた。
でも佐伯はそんな出会うことも、文句を言われるでもない人の人生を気遣って男に戻ることを諦めたのだ。
体の元の持ち主に罪悪感なんて持ったってしょうがない。けど佐伯はそうは思えない奴なのだ。
「それを言ったらお前の元の体だってさ……」
明言するのは憚られるが、佐伯の体なんてなくなってるのだ。お互い様どころじゃない。事故なのかなんなのかわからないけど、そんなのはこっちには関係ない話だ。
佐伯はゆっくりと首を振った。
「もしかしたら、それがオレの寿命だったのかもしれないじゃない。それを関係ない女の子に押しつけちゃったんじゃないかって、ずっと思ってるんだ……」
寿命というか、運命みたいな話をしたいんだろうか。
俺はそういう考え方があまり好きじゃなかった。
それにもしそんなものがあるとして、それは佐伯の体の運命なんだろうか、元の持ち主の運命だったのかもしれないじゃないか。
そういう、確かめようがないことで悩むのはあまりにも無駄だ。途方がない。結論もない。
……と俺が切り捨てたって佐伯はそうはいかないんだから、俺の主張には何の意味もないわけだが。
それに佐伯はあまりにも自罰的すぎる。自分に原因があるとか、問題があるとか、自分がなにかしなければいけないと思っているらしい。
佐伯が頭を悩ませていることの殆どが佐伯は被害者でしかないはずなのに。
犯罪被害者の心理なんかを調べれば少しはメカニズムがわかるのだろうか。確かに、どれほど被害者本人に非がなかったとしても、自分があのときああしていれば、と後悔に苛まれるというのは聞いたことがある。どういう風に声をかければいいのか、ちゃんと勉強しておけばよかったな。
俺の今まで必死にため込んだ知識は、肝心なときなんの役にも立っていない。無駄なことばかりだ。
……そして、この話はどこへ繋がるのか。
俺の発言に怒っていたが、その返答としてはズレているような気がする。その前の話題。恋愛がどうのって話だったか。
「……つまり、佐伯は自分の体に申し訳がないから、大事にしてくれる人を求めてるってこと?」
佐伯は頷くようななんとも微妙な動きをした。
好きではない先輩だが、もしかしたら自分のことを本当に好きでいてくれているかもしれなくて、それなら自分の体が救われるように思っていたのだろうか。
それにしては今の佐伯は自棄になっているように映る。例の犯人の男でもいいかもーなんて、冗談でもありえないだろ。
多分、推測だけど、いま佐伯は自分の感情と体の持ち主への気持ちの境界が曖昧になっているんじゃないだろうかと思う。あまり主張に一貫性が感じられないような気がする。俺が真意をわかっていないだけだろうか。
でもだって、そうだ。体の持ち主という相手への罪悪感と、自分を責める気持ちがどうしても矛盾してしまうのだ。なぜならどちらも佐伯だからだ。
しかし、それをどう伝えれば正しく佐伯に伝わるのだろう。
佐伯は何度かため息のような深い息をついて、呼吸を落ち着かせて、ゆっくりと口を開く。
「女の子になってから……みんな、優しくなってさ、好きって言ってくれたり、親父も気にかけてくれるようになって、嬉しかったんだ……。ずっと、そうなったらいいなって思ってたから……」
佐伯は元からみんなに好かれているように見えていたけどな。
しかし扱いが変わったことは確かだ。
「でもそれは全部、オレじゃなくてこの体の女の子が貰うべきだったんだ。それをオレが横取りして、舞い上がって、結局誰もオレのことなんて、好きなわけなくて、……ほんと馬鹿みたいだよ……」
佐伯は膝に顔を埋めて、震えた声を漏らしていた。
その考えだと、この先どれだけ好かれても大事にされても、体の持ち主の子への罪悪感は募るばかりだろう。
佐伯に何も落ち度はないのに。
どうにか否定したい。
でもどうすればいいんだろう。和泉ならなんて声をかけるんだろう。
佐伯の隣に腰掛ける。向かい合ったままだと、佐伯が顔を上げると泣いている表情が見えてしまって、悪いような気がしたからだ。
「お、俺はさ、そんなつもり、ないよ。今こうして気にしてるのも、佐伯だからだし……。それは女の子の佐伯だからじゃなくて、女になった佐伯だから、ずっと気になってたんだ、よ」
言葉を選びながら、それでもちぐはぐな言い方で、どうにかうまく伝えられないかと考える。
うん、そうだ、体の形なんて問題ではなくて、そんなのははじめのうちだけだったんだ。
「桐谷、ごめんね」
「え?」
佐伯はこちらを見ていた。泣いてはいない。泣いた後のじっとりした顔をしてはいるが。
少しだけ顔をあげて、猫のような目をこちらに向けていた。
「桐谷は、良い人だから、前から優しかったけど……、でも、前の桐谷はオレのことこんなに見てくれなかったよ」
佐伯の目は、射抜くように俺を見ていた。