5章
和泉は先生の説教をものともせず眠り続け、二時間目授業が終わってからようやくすっきりと目覚めた。
「あー、よく寝た! 友也~小テストあるのって次だっけ?」
「……もー、それは明日って言ってたじゃない。ちゃんと説明聞いてなよー」
底抜けに明るい和泉のテンションが腹立つ。
そもそもはこいつが言い出したことだってのに。
佐伯の声はやや元気がないが、それでも周りからすると違和感はないレベルに取り繕っている。こいつはそういうのがうまいのだ。俺だって当事者じゃなければ気付けないだろう。よく知ってる。
だって、これまで男とセックスしていて、学校では平然と明るく過ごしていたんだもんな。……そういう嫌味な気持ちがどんどん膨れあがっていた。よくないことだとわかっているのに。
ずっと胸の辺りが重たくて、気持ちが悪い。
好きとかじゃない、デートもしない、彼氏じゃない。ならなんで? 佐伯とのやりとりを何度も反芻していた。おかげで授業の内容なんてこれっぽっちも頭に残っていない。
和泉が勘違いするくらいなら、今度は無理矢理っていうわけではないのか? もしかして援交? でも、お金には困ってないみたいだし、それにやっぱりそういうのは嫌いそうだし。……それも俺の思い込みかもしれないけど。
なんで? 意味がわからない。むしろトラウマを負っていて、そういう行為はできないんだろうと思っていた。きっと男には触れられるのは嫌なんだと思っていたのに。
そんなことがずっと頭をぐるぐると回っていた。
そういう経験をして、まったくいつもと変わらない顔で俺と話してたんだと思うと、すごく、……なんだろう。
なんでこんなに気分が悪いんだろう。気持ちが悪い。佐伯のことが気持ち悪いってわけじゃない……と思う。ただ、気持ちが悪かった。やろうと思えば十分今トイレに駆け込んで吐けるだろう。
前、佐伯が襲われたって聞いたときも嫌な気持ちには当然なったが、それは友達が傷つけられたからだ。
今回は多分、状況が違う。
いや、まだわからない。もしかしたら気丈に振る舞っているだけかもしれないじゃないか。弄ばれているのかもしれない。
……佐伯のことを考えるとそうじゃない方が良いに決まっているのに、何故俺は佐伯の不幸な状況を願っているんだろう。
このがっくりくるような気持ちはなんだろう。
失望なんだろうか。
ーーー
授業が終わり、掃除時間となった。
相変わらず佐伯とは顔を合わせられない。振り返る勇気が出なかった。プリントも前を向いたまま渡した。お昼も、どうしようかと戦々恐々としていたが、佐伯が自分から他の女子と食堂に向かったおかげで顔を合わせずに済んだ。河合さんの前で取り繕える自信はなかった。
しかし掃除場所は俺たちは四人で音楽室を担当している。もう逃げようがない。
……でもあの場所は他の生徒はいないし、ある意味チャンスでもある。
掃除に向かう途中、そっと河合さんに話しかけた。
「今日さ、河合さんと佐伯に準備室の掃除お願いしても良い?」
「あら? 二人もいらないと思うけど……」
「ごめん、教室の方はこっちでちゃんとやっとくからさ」
すると河合さんは少し首を傾げるがすぐに、わかったわ、と了承してくれた。
河合さんはいつも、余計なことを言わないし聞かない。ありがたいことだった。
音楽室に着くなり河合さんは佐伯の腕を取り、こちらに宣言する。
「じゃあ、わたしは佐伯に相談があるので、入ってこないでね」
「え、なんだよー。おれにも相談しろよー」
「和泉のことを相談するのよ」
「え」
よろしくーと河合さんは佐伯を引っ張って奥へと消えていった。
「おれの相談だって……? な、なんの相談だと思う?」
「距離が近すぎるとかじゃない?」
「今更!?」
まあ、適当な方便だろう。河合さんには感謝しなくては。
「つーか箒と机拭きどっちするよ」
「……お前選べば」
「じゃ箒ー」
正直、音楽室の掃除というのはそれほどすることがない。広さはあるけど、ゴミが落ちるような授業ではないし。
黒板、棚や机の拭き掃除、掃き掃除ぐらいのものだ。机の移動があるから多少時間はかかるけど。それとついでに準備室。たまにある楽器類の移動なんかは少し骨は折れるけど、総合的にはかなり楽な掃除場所だ。
俺は机を拭いてまわりながら頃合いを見て、和泉に少し真面目な声で話しかけた。
「あのさ、朝言ってた話なんだけどさ」
「朝? わりぃ、なんだっけ。なんか話したか?」
こ、こいつは……!
和泉の一言で俺と佐伯はかなり気まずいことになってしまったのだが、全く自覚はないようだ。
「……佐伯の、彼氏がどうとかって」
「ああ。あれ? そんなこと言ったっけ?」
「え。……適当なこと言ったのか?」
とんでもないことをしでかしてくれたなと目線を送ったら、和泉は慌ててかぶりを振った。
「い、いやいや! 思ってもないこと言ったってわけじゃなくて。学校でそんなこと言うつもりなかったなっつー意味で」
いくらデリカシーがないといっても、さすがに人前でいじるつもりではなかったのか。まあ、そんなことはどうでもいいんだ。っていうか、もう手遅れだし。
「その……彼氏ってどんなやつなのかなって……」
「あー。そりゃ気になるよな。おれもよく知らんけど、モテそうな感じの兄さんだったぜ」
……そ、そうか…。や、やっぱり事実なのか……。
いや、佐伯が行為を認めた時点で覆しようもない事実なんだけどさ……。
どんな男だったら納得したのかってことじゃないんだけどさ……。
「そ、そもそもなんでお前はそんなこと知ってるんだよ……」
「やー……」
言葉に詰まった後、「うーん」と和泉は唸った。
「まあ、なんつーの。先々週くらいかな? おれも実家行ってさー、お母さんから最近友也が帰ってこないこと多いって聞いて、呼びにいったんだよな。ほら、夜だから、電気ついてるから実家の方にいるのはわかったんだよ」
「ま、まさか、真っ最中だった……?」
「は?」
何言ってんだこいつ、という目を向けられた。
数秒置いて、顔をしかめる。
「そんなとこ目撃してイジる度胸ねえよ」
ま、まあそうか。家族同然の相手のそんな場面、見なかったことにするよな、普通。トラウマだよな。普通。
「玄関先ではち合わせたの。見送りの最中だったらしくて」
「……そ、それだけ?」
「なんだよ。妙に親しげだったし、ありえなくはないだろ。友也もなんか媚びてる感じだったしよお」
だ、だって、そんなの何も決定的な瞬間ではないではないか。
実際関係はあったのだから、よかったものの、いやよくはないが! ……ただ見送りしているところを見られただけで彼氏だなんだなんて、言いがかりじゃないか。
「正志くんの友達と夜に二人きりで会ってるなんて怪しいってからかったんだけど、まあ……言われてみりゃそれだけか」
正志くんというのは佐伯の兄の名前だそうだ。
要するに、ただ二人で下校してる男女にカップルだとはやし立てる男子小学生のような真似に過ぎなかったらしい。
とんでもないことをしてくれた。
実際に二人はカップル……ではないとしても、もっと深いことをしていたらしいのだから。
「なに、マジで付き合ってたの?」
「い、いや……本人曰く、そういうことではないらしいけど……」
「なんだ」
和泉はちりとりでゴミを回収しながら、どちらでもよさそうな返事をした。
「でも……、なんか、仲いいのはほんとみたいで……なんか……ちょっと俺はすごく……嫌なんだけど」
「男の嫉妬は見苦しいんだぜ」
「そんなんじゃない」
多分。
この気持ちは、どう説明したらいいんだろう。
「か、河合さんがさ、お前の知らないところで、お前よりも仲いい相手作ってたら、嫌だろ?」
「だからそれ嫉妬だろ?」
「そ、そういうところもあるかもしれないけど……、なんていうのかなあ……」
和泉は箒をしまうと、俺が拭く前の机にどっかりと座り、ふむと口を曲げて偉そうな顔をする。
河合さんがいないと和泉はまったくへらへらしない。へらへらにこにこ明るく楽しそうに振る舞ったりなんかしない。猫被ってるというより本当に河合さんといると嬉しいんだろうと思う。どっちも素で、俺はどっちも和泉らしいと思う。
「お前はそいつと友也がつるむと嫌なわけか」
かなり簡単にまとめられてしまったが、概ねその通りだ。
二人が実際、どんな関係なのかまだきちんと聞けていないが、佐伯の説明だけで判断するならいわゆるセフレとかいうやつじゃないか? お見送りまでして、媚び売ってたってことはその一回限りってことはないだろう。
そんなの、嫌に決まっている。
「そ、それでちょっと佐伯とぎこちない感じになっちゃって……」
「はあ? 友也なんてお前が折れてやりゃすぐ向こうも仲直りしてくれんだろ。ごめんねーいいよー、これで仕舞いだろ?」
「そういう単純な喧嘩とは違うんだって。俺だって謝るようなことしたつもりないし」
「ふーん」
腕を組んだ和泉は、頭を斜め上に上げ、あからさまに見下すような目つきになる。
たまにする仕草だ。高圧的で、咄嗟に責められるような気がして身構えてしまうが、大概、本人にそんなつもりはない。
「嫉妬っていうのも、たしかにあるかもしれないけどさ……。なんだろう……、なんで俺じゃないんだろうっていうさ……」
思わず言葉にして、自分が言っている意味を考えて一気に顔が熱くなるのを感じた。
何言ってんだ? 俺。
違う。そういう意味じゃない。ただ、なんだ。本当にそういうことをしなきゃいけなかったのかって話だ。だって、そうだ。普通に恋愛して、お互いのことが好きになってそういうことをするんならなんの文句もないさ。でもそうなるほどの時間があったとは思えないし、佐伯の口ぶりからしてもそんな関係じゃないじゃないか。
これは嫉妬なのか? よくわからなくなってきた。
それよりも身近な相手の貞操観念にショックを受けたとか、そういう理由じゃないだろうか。
「そんなにお前が友也の交友関係に自己主張してくるってのは意外だな。心配しなくても、あいつが一番懐いてるのはお前だと思うけどな」
……和泉がなんと言おうと、でも事実は事実だ。曲げようがない。
そして俺はその事実が受け入れきれないのだ。
しかし佐伯のプライベートな事情を和泉にそのまま伝えるなんてしていいはずもない。適当な理由を言っておいた。
「だってさあ、ほら、ちょっと、どうかと思わない? 一応見た目はれっきとした女なわけだしさ。よくわからない男と二人でいるのは、心配じゃん」
「うーん。まあ……そりゃそうだろうけどよ。まあ、そうか」
和泉はやたらと、まあ、を多用した。頭の中であれこれ考えているんだろうというのが手に取るようにわかった。
「お前がそういう彼氏だー彼女だーの話にうるさいのは昔からか」
なにか勝手に納得されてしまった。
「お前だって河合さんが勝手に彼氏作ってたらやだろ」
「なんでそう河合を引き合いにだす。彼氏なんて勝手に作るもんだろ。作ってもいい? なんて聞かれても困るわ」
「そ、そうだけど、そうじゃなくてさあ~」
和泉は思った以上に器がでかかった。
そりゃあ、いちいち断りを入れろなんてむちゃくちゃだってことはわかっている。
そうじゃなくてさ、こんなことがあって、とかそういう相談みたいな、そういうのがあってもいいんじゃないかっていう。……まあ、相談してどうするって話なんだけどさ……。
「わかったわかった。要するに構ってもらえなくて寂しかったんだろ? おーよちよち」
「や、やめろ撫でるな」
しかし、本当に要点だけではあるが、結局そういうことなんだろうか。
佐伯からの情報が少し刺激的で、正直自分がどこに動揺しているのかわからなくなっていたところはある。もちろん、一番はそういうアレなことをしている部分なのだが。
報告があればよかったのか? 好きな人がいて、って報告だったら、俺はまだ平気だった気がする。その相談の先に、そういう関係になったのだとしたら、多分よかったのだ。
それなら好きな人ではない相手と深い関係になっているからか? そういうことをする奴は正直俺は……軽蔑するかもしれない。でも佐伯のことを軽蔑したくはない。それに現段階では嫌悪感を抱いているというわけでもないような気がした。
じゃあ何がこんなに嫌なのか。
多分これが河合さんだったなら、そりゃめちゃくちゃ落ち込むだろう。多分泣く。凹む。
でもそれほど俺が河合さんに対してどうこう言える筋合いもないと思える、と思う。心の中でどうしてだーって泣くだろうけどさ。
でも俺より先にまず和泉だ。そんな状況になったら和泉が凹んでるんじゃないかと心配になる。
悲しいし寂しいし嫌だけど、一番にそう思う権利は和泉にあると思う。当の和泉が何も気にしなかったとしても。
でも佐伯だと、俺は? なんで? っていう気持ちが一番大きい。
そりゃあ、俺は佐伯と親友だと思ってるけどさ、冷静に考えると和泉の方がずっとつきあいは長いのに、その和泉を差し置いて、自分の納得いかない気持ちが抑えられないなんておかしいのではないだろうか。
「友也はさあ、どうでもいいことはぺらぺら喋るし、普段は察しもいいやつだけどさ。なんてーか、肝心なとこは結構隠そうとするし、変なところで鈍感っつーか、あいつもあいつでネガティブなとこもあんだよ」
励ますように高めのトーンで、和泉は俺の背中をぱしぱしと叩いた。少し痛い。
正直最近、佐伯のやたらに周りに心配かけまいとする振る舞いをひしひしと感じていた。そして苛々ともしていた。
こちらが気遣うと、申し訳なさそうにする。謝罪が欲しいわけはないのに。感謝しろ、なんてつもりももちろんないけど。ただもっと太々しく厚かましくなってほしいとは思う。
だって、俺が落ち込んでたらきっと佐伯は心配してくれる。お互い様というやつなのだ。しかし佐伯が心配するのは当然で、俺が心配するのは申し訳なく思われるようなことなんだろうか。それって全く対等ではない。気分が悪いことだった。納得がいかないことだった。
「じゃあどうすればいいんだよ……」
自分が思った以上にふてくされたような声が出た。
「おれはお前がそこまで友也に友情感じてるとは思ってなかったぜ」
「な、なんだよ失礼な。人を冷血漢みたいに」
「まあ、お前は誰にでもそうだけど、あんまおれみたいに好きアピールしねえじゃん」
「言っておくけどお前のは異常だぞ」
普通の人間は友達にわざわざ好きアピールなんかしないだろうが。
「でも友也はそういうおれら一家と一緒に育ってきたわけじゃん」
「むむ」
和泉と裕子さんのことを思い返す。
日本人のコミュニケーションからすると大袈裟で、身振り手振りも大きく、感情がよく伝わってくる人たちだとは思う。
和泉は結構愛想がないときも多いけど、河合さんへの態度を見ると、自分の感情とか、好意を隠そうともしない。
そういうところは、確かに俺には一切ない。恥ずかしい。
「ただでさえさー、自分って孤独なんじゃないかとか思い悩んじゃう年頃じゃん? おれらって」
自分で言うな。
「伝わってないなーと思ったら、伝えるしかなくね?」
和泉の結論は明快だった。
机の上でふんぞり返るその姿はやたら頼もしく、大人びて見えた。
俺にはないものばかりこいつは持っているのだ。
「あー、よく寝た! 友也~小テストあるのって次だっけ?」
「……もー、それは明日って言ってたじゃない。ちゃんと説明聞いてなよー」
底抜けに明るい和泉のテンションが腹立つ。
そもそもはこいつが言い出したことだってのに。
佐伯の声はやや元気がないが、それでも周りからすると違和感はないレベルに取り繕っている。こいつはそういうのがうまいのだ。俺だって当事者じゃなければ気付けないだろう。よく知ってる。
だって、これまで男とセックスしていて、学校では平然と明るく過ごしていたんだもんな。……そういう嫌味な気持ちがどんどん膨れあがっていた。よくないことだとわかっているのに。
ずっと胸の辺りが重たくて、気持ちが悪い。
好きとかじゃない、デートもしない、彼氏じゃない。ならなんで? 佐伯とのやりとりを何度も反芻していた。おかげで授業の内容なんてこれっぽっちも頭に残っていない。
和泉が勘違いするくらいなら、今度は無理矢理っていうわけではないのか? もしかして援交? でも、お金には困ってないみたいだし、それにやっぱりそういうのは嫌いそうだし。……それも俺の思い込みかもしれないけど。
なんで? 意味がわからない。むしろトラウマを負っていて、そういう行為はできないんだろうと思っていた。きっと男には触れられるのは嫌なんだと思っていたのに。
そんなことがずっと頭をぐるぐると回っていた。
そういう経験をして、まったくいつもと変わらない顔で俺と話してたんだと思うと、すごく、……なんだろう。
なんでこんなに気分が悪いんだろう。気持ちが悪い。佐伯のことが気持ち悪いってわけじゃない……と思う。ただ、気持ちが悪かった。やろうと思えば十分今トイレに駆け込んで吐けるだろう。
前、佐伯が襲われたって聞いたときも嫌な気持ちには当然なったが、それは友達が傷つけられたからだ。
今回は多分、状況が違う。
いや、まだわからない。もしかしたら気丈に振る舞っているだけかもしれないじゃないか。弄ばれているのかもしれない。
……佐伯のことを考えるとそうじゃない方が良いに決まっているのに、何故俺は佐伯の不幸な状況を願っているんだろう。
このがっくりくるような気持ちはなんだろう。
失望なんだろうか。
ーーー
授業が終わり、掃除時間となった。
相変わらず佐伯とは顔を合わせられない。振り返る勇気が出なかった。プリントも前を向いたまま渡した。お昼も、どうしようかと戦々恐々としていたが、佐伯が自分から他の女子と食堂に向かったおかげで顔を合わせずに済んだ。河合さんの前で取り繕える自信はなかった。
しかし掃除場所は俺たちは四人で音楽室を担当している。もう逃げようがない。
……でもあの場所は他の生徒はいないし、ある意味チャンスでもある。
掃除に向かう途中、そっと河合さんに話しかけた。
「今日さ、河合さんと佐伯に準備室の掃除お願いしても良い?」
「あら? 二人もいらないと思うけど……」
「ごめん、教室の方はこっちでちゃんとやっとくからさ」
すると河合さんは少し首を傾げるがすぐに、わかったわ、と了承してくれた。
河合さんはいつも、余計なことを言わないし聞かない。ありがたいことだった。
音楽室に着くなり河合さんは佐伯の腕を取り、こちらに宣言する。
「じゃあ、わたしは佐伯に相談があるので、入ってこないでね」
「え、なんだよー。おれにも相談しろよー」
「和泉のことを相談するのよ」
「え」
よろしくーと河合さんは佐伯を引っ張って奥へと消えていった。
「おれの相談だって……? な、なんの相談だと思う?」
「距離が近すぎるとかじゃない?」
「今更!?」
まあ、適当な方便だろう。河合さんには感謝しなくては。
「つーか箒と机拭きどっちするよ」
「……お前選べば」
「じゃ箒ー」
正直、音楽室の掃除というのはそれほどすることがない。広さはあるけど、ゴミが落ちるような授業ではないし。
黒板、棚や机の拭き掃除、掃き掃除ぐらいのものだ。机の移動があるから多少時間はかかるけど。それとついでに準備室。たまにある楽器類の移動なんかは少し骨は折れるけど、総合的にはかなり楽な掃除場所だ。
俺は机を拭いてまわりながら頃合いを見て、和泉に少し真面目な声で話しかけた。
「あのさ、朝言ってた話なんだけどさ」
「朝? わりぃ、なんだっけ。なんか話したか?」
こ、こいつは……!
和泉の一言で俺と佐伯はかなり気まずいことになってしまったのだが、全く自覚はないようだ。
「……佐伯の、彼氏がどうとかって」
「ああ。あれ? そんなこと言ったっけ?」
「え。……適当なこと言ったのか?」
とんでもないことをしでかしてくれたなと目線を送ったら、和泉は慌ててかぶりを振った。
「い、いやいや! 思ってもないこと言ったってわけじゃなくて。学校でそんなこと言うつもりなかったなっつー意味で」
いくらデリカシーがないといっても、さすがに人前でいじるつもりではなかったのか。まあ、そんなことはどうでもいいんだ。っていうか、もう手遅れだし。
「その……彼氏ってどんなやつなのかなって……」
「あー。そりゃ気になるよな。おれもよく知らんけど、モテそうな感じの兄さんだったぜ」
……そ、そうか…。や、やっぱり事実なのか……。
いや、佐伯が行為を認めた時点で覆しようもない事実なんだけどさ……。
どんな男だったら納得したのかってことじゃないんだけどさ……。
「そ、そもそもなんでお前はそんなこと知ってるんだよ……」
「やー……」
言葉に詰まった後、「うーん」と和泉は唸った。
「まあ、なんつーの。先々週くらいかな? おれも実家行ってさー、お母さんから最近友也が帰ってこないこと多いって聞いて、呼びにいったんだよな。ほら、夜だから、電気ついてるから実家の方にいるのはわかったんだよ」
「ま、まさか、真っ最中だった……?」
「は?」
何言ってんだこいつ、という目を向けられた。
数秒置いて、顔をしかめる。
「そんなとこ目撃してイジる度胸ねえよ」
ま、まあそうか。家族同然の相手のそんな場面、見なかったことにするよな、普通。トラウマだよな。普通。
「玄関先ではち合わせたの。見送りの最中だったらしくて」
「……そ、それだけ?」
「なんだよ。妙に親しげだったし、ありえなくはないだろ。友也もなんか媚びてる感じだったしよお」
だ、だって、そんなの何も決定的な瞬間ではないではないか。
実際関係はあったのだから、よかったものの、いやよくはないが! ……ただ見送りしているところを見られただけで彼氏だなんだなんて、言いがかりじゃないか。
「正志くんの友達と夜に二人きりで会ってるなんて怪しいってからかったんだけど、まあ……言われてみりゃそれだけか」
正志くんというのは佐伯の兄の名前だそうだ。
要するに、ただ二人で下校してる男女にカップルだとはやし立てる男子小学生のような真似に過ぎなかったらしい。
とんでもないことをしてくれた。
実際に二人はカップル……ではないとしても、もっと深いことをしていたらしいのだから。
「なに、マジで付き合ってたの?」
「い、いや……本人曰く、そういうことではないらしいけど……」
「なんだ」
和泉はちりとりでゴミを回収しながら、どちらでもよさそうな返事をした。
「でも……、なんか、仲いいのはほんとみたいで……なんか……ちょっと俺はすごく……嫌なんだけど」
「男の嫉妬は見苦しいんだぜ」
「そんなんじゃない」
多分。
この気持ちは、どう説明したらいいんだろう。
「か、河合さんがさ、お前の知らないところで、お前よりも仲いい相手作ってたら、嫌だろ?」
「だからそれ嫉妬だろ?」
「そ、そういうところもあるかもしれないけど……、なんていうのかなあ……」
和泉は箒をしまうと、俺が拭く前の机にどっかりと座り、ふむと口を曲げて偉そうな顔をする。
河合さんがいないと和泉はまったくへらへらしない。へらへらにこにこ明るく楽しそうに振る舞ったりなんかしない。猫被ってるというより本当に河合さんといると嬉しいんだろうと思う。どっちも素で、俺はどっちも和泉らしいと思う。
「お前はそいつと友也がつるむと嫌なわけか」
かなり簡単にまとめられてしまったが、概ねその通りだ。
二人が実際、どんな関係なのかまだきちんと聞けていないが、佐伯の説明だけで判断するならいわゆるセフレとかいうやつじゃないか? お見送りまでして、媚び売ってたってことはその一回限りってことはないだろう。
そんなの、嫌に決まっている。
「そ、それでちょっと佐伯とぎこちない感じになっちゃって……」
「はあ? 友也なんてお前が折れてやりゃすぐ向こうも仲直りしてくれんだろ。ごめんねーいいよー、これで仕舞いだろ?」
「そういう単純な喧嘩とは違うんだって。俺だって謝るようなことしたつもりないし」
「ふーん」
腕を組んだ和泉は、頭を斜め上に上げ、あからさまに見下すような目つきになる。
たまにする仕草だ。高圧的で、咄嗟に責められるような気がして身構えてしまうが、大概、本人にそんなつもりはない。
「嫉妬っていうのも、たしかにあるかもしれないけどさ……。なんだろう……、なんで俺じゃないんだろうっていうさ……」
思わず言葉にして、自分が言っている意味を考えて一気に顔が熱くなるのを感じた。
何言ってんだ? 俺。
違う。そういう意味じゃない。ただ、なんだ。本当にそういうことをしなきゃいけなかったのかって話だ。だって、そうだ。普通に恋愛して、お互いのことが好きになってそういうことをするんならなんの文句もないさ。でもそうなるほどの時間があったとは思えないし、佐伯の口ぶりからしてもそんな関係じゃないじゃないか。
これは嫉妬なのか? よくわからなくなってきた。
それよりも身近な相手の貞操観念にショックを受けたとか、そういう理由じゃないだろうか。
「そんなにお前が友也の交友関係に自己主張してくるってのは意外だな。心配しなくても、あいつが一番懐いてるのはお前だと思うけどな」
……和泉がなんと言おうと、でも事実は事実だ。曲げようがない。
そして俺はその事実が受け入れきれないのだ。
しかし佐伯のプライベートな事情を和泉にそのまま伝えるなんてしていいはずもない。適当な理由を言っておいた。
「だってさあ、ほら、ちょっと、どうかと思わない? 一応見た目はれっきとした女なわけだしさ。よくわからない男と二人でいるのは、心配じゃん」
「うーん。まあ……そりゃそうだろうけどよ。まあ、そうか」
和泉はやたらと、まあ、を多用した。頭の中であれこれ考えているんだろうというのが手に取るようにわかった。
「お前がそういう彼氏だー彼女だーの話にうるさいのは昔からか」
なにか勝手に納得されてしまった。
「お前だって河合さんが勝手に彼氏作ってたらやだろ」
「なんでそう河合を引き合いにだす。彼氏なんて勝手に作るもんだろ。作ってもいい? なんて聞かれても困るわ」
「そ、そうだけど、そうじゃなくてさあ~」
和泉は思った以上に器がでかかった。
そりゃあ、いちいち断りを入れろなんてむちゃくちゃだってことはわかっている。
そうじゃなくてさ、こんなことがあって、とかそういう相談みたいな、そういうのがあってもいいんじゃないかっていう。……まあ、相談してどうするって話なんだけどさ……。
「わかったわかった。要するに構ってもらえなくて寂しかったんだろ? おーよちよち」
「や、やめろ撫でるな」
しかし、本当に要点だけではあるが、結局そういうことなんだろうか。
佐伯からの情報が少し刺激的で、正直自分がどこに動揺しているのかわからなくなっていたところはある。もちろん、一番はそういうアレなことをしている部分なのだが。
報告があればよかったのか? 好きな人がいて、って報告だったら、俺はまだ平気だった気がする。その相談の先に、そういう関係になったのだとしたら、多分よかったのだ。
それなら好きな人ではない相手と深い関係になっているからか? そういうことをする奴は正直俺は……軽蔑するかもしれない。でも佐伯のことを軽蔑したくはない。それに現段階では嫌悪感を抱いているというわけでもないような気がした。
じゃあ何がこんなに嫌なのか。
多分これが河合さんだったなら、そりゃめちゃくちゃ落ち込むだろう。多分泣く。凹む。
でもそれほど俺が河合さんに対してどうこう言える筋合いもないと思える、と思う。心の中でどうしてだーって泣くだろうけどさ。
でも俺より先にまず和泉だ。そんな状況になったら和泉が凹んでるんじゃないかと心配になる。
悲しいし寂しいし嫌だけど、一番にそう思う権利は和泉にあると思う。当の和泉が何も気にしなかったとしても。
でも佐伯だと、俺は? なんで? っていう気持ちが一番大きい。
そりゃあ、俺は佐伯と親友だと思ってるけどさ、冷静に考えると和泉の方がずっとつきあいは長いのに、その和泉を差し置いて、自分の納得いかない気持ちが抑えられないなんておかしいのではないだろうか。
「友也はさあ、どうでもいいことはぺらぺら喋るし、普段は察しもいいやつだけどさ。なんてーか、肝心なとこは結構隠そうとするし、変なところで鈍感っつーか、あいつもあいつでネガティブなとこもあんだよ」
励ますように高めのトーンで、和泉は俺の背中をぱしぱしと叩いた。少し痛い。
正直最近、佐伯のやたらに周りに心配かけまいとする振る舞いをひしひしと感じていた。そして苛々ともしていた。
こちらが気遣うと、申し訳なさそうにする。謝罪が欲しいわけはないのに。感謝しろ、なんてつもりももちろんないけど。ただもっと太々しく厚かましくなってほしいとは思う。
だって、俺が落ち込んでたらきっと佐伯は心配してくれる。お互い様というやつなのだ。しかし佐伯が心配するのは当然で、俺が心配するのは申し訳なく思われるようなことなんだろうか。それって全く対等ではない。気分が悪いことだった。納得がいかないことだった。
「じゃあどうすればいいんだよ……」
自分が思った以上にふてくされたような声が出た。
「おれはお前がそこまで友也に友情感じてるとは思ってなかったぜ」
「な、なんだよ失礼な。人を冷血漢みたいに」
「まあ、お前は誰にでもそうだけど、あんまおれみたいに好きアピールしねえじゃん」
「言っておくけどお前のは異常だぞ」
普通の人間は友達にわざわざ好きアピールなんかしないだろうが。
「でも友也はそういうおれら一家と一緒に育ってきたわけじゃん」
「むむ」
和泉と裕子さんのことを思い返す。
日本人のコミュニケーションからすると大袈裟で、身振り手振りも大きく、感情がよく伝わってくる人たちだとは思う。
和泉は結構愛想がないときも多いけど、河合さんへの態度を見ると、自分の感情とか、好意を隠そうともしない。
そういうところは、確かに俺には一切ない。恥ずかしい。
「ただでさえさー、自分って孤独なんじゃないかとか思い悩んじゃう年頃じゃん? おれらって」
自分で言うな。
「伝わってないなーと思ったら、伝えるしかなくね?」
和泉の結論は明快だった。
机の上でふんぞり返るその姿はやたら頼もしく、大人びて見えた。
俺にはないものばかりこいつは持っているのだ。